ジャックは、大学卒業を目前にしています。"エル・ランチョ"という家で4人の仲間と共同生活する彼は、卒業後の生活に戸惑いを感じていました。卒業を1年先延ばしにし、かつてやっていたバンドも復活させ楽しい日々を続けようとしますが...。

 

"エル・ランチョ"の住人は以下の通り

ジャック:彼女にふられても諦めきれずにいる。

ミッキー:地方紙にアニメを投稿していて、そこそこファンもいる漫画家。卒業は1年先。

ロブ:卒業後は恋人のジョアニーとロスへ行く予定

スロッシュ:退学した元パソコンおたくの飲んだくれ。来期はミッキーと暮らす予定。

デニス:卒業後はミシガン大学へ編入しビジネス学を学ぶ予定。

 

モラトリアムから抜け出したくない男子たちです。社会に出る前に、こんな思いを抱えていた人は少なくないかもしれません。かつて、最終学歴となる学校の卒業を控えて、本作に登場する男子たちのような気持になった人にとっては、懐かしさが呼び起こされる作品だと思います。

 

それなりに大人になっていることを期待される年齢で、けれど、大人として扱われるようになることに対する不安があり、大人になれる自信もなく、まだまだ子どもでいたい気持ちがあり、巧く行けば子どもでいられるのではないかという期待と社会への甘えもあり...。何かと微妙なお年頃。そんな時期の青年たちの心情がリアルに表現されていると思います。

 

オハナシとして面白いかというと、正直、それ程でもないし、映画としては青臭い感じは否めませんが、そこも含めて、青春な映画。明るく輝く夢ばかりでもない、けれど、胸に棘刺すことばかりでもないごく普通の青春。子どもから大人への転換というのは、大人になった多くの人々が経験していること。私たちは、青春を失ったと感じる時、初めて、二度と取り戻せない時の大切さに気付くのかもしれません。青春物語は、そんな私たちにとって、永遠のファンタジーなのかもしれません。

 

ジャック役のベン・アフレック、"エル・ランチョ"を追い出されたエドガー役のマット・デイモン、レンタルトラック店の怪しい店員役のマシュー・マコノヒー...。映画としてはB級、C級かもしれませんが、Aクラスの出演陣は見応えありです。

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マーガレット

テーマ:

 

ニューヨークの私立校に通う17歳のリサは、ある日、車外からバスの運転手に話しかけます。そのために運転手がよそ見をしてしまい、信号が赤に変わったことに気付かず、女性を轢いてしまいます。リサは、女性の元に駆け寄り、介抱しようとしますが、その女性は亡くなります。警察に事情を聴かれたリサは、自分がバスの運転手に話しかけたことについては何も言わず、信号は青だったと証言します。けれど、亡くなったマーガレットのことが気になり、親友だったエミリーの元を訪ねます。やがて、本当は信号が赤だったことを告白し、運転手の責任を追及するために訴訟を起こすことになりますが...。

 

リサの心の動きが丁寧に描かれます。思春期真っただ中の高校生らしいと言えば言えますが、基本、頭が良く活動的なリサは、それ故に、周囲と軋轢を起こし、様々に周囲を巻き込んでいきます。

 

凄惨な事故を目撃したのですから、当然な気もしますが、リサは、かなり不安定に、感情的になります。このリサの自己正当化がなかなかのもの。まぁ、確かに運転手は悪いのですが、事故のきっかけを作ったのは、明らかにリサです。けれど、彼女は、そのことには蓋をしたまま。エミリーにも"事故の現場に居合わせた"としか説明しません。自らの過失を隠したまま、運転手を激しく非難し、挙句の果てには、運転手の解雇を求めて訴訟を起こすのですから、ほとんど、記憶を塗り替えてしまっているのかもしれません。

 

リサがしつこく運転手に話しかけなければ事故は起こらなかったはず。もちろん、リサを無視しきれず事故を起こしてしまった運転手に責任があるのは間違いありませんが、リサのしつこさは天下一品。運転手もそれを無視し切るのは難しいでしょう。

 

学校の授業でのエピソード、エミリーとの衝突、母との軋轢...。ところどころで、彼女の"正義感の強さ"と"何も譲ろうとしない頑迷さ"が描かれますが、何故、そこまで、自分の中に正義があると確信できるのか、自らの罪を無視できるのか、そして、何故、それ程までに自身を客観視できないのか...。

 

まぁ、多かれ少なかれ、人は自身を正当化したいもので、自分が大きく傷つかないよう自身を騙すこともあるものです。そして、自分が傷つくのを避けるために、他人に責任を転嫁したりもします。けれど、リサの運転手を責める姿勢には、病的なものさえ感じます。運転手を罰することで自身の罪を覆い隠そうとしているようにも思えます。

 

というより、リサには、アメリカの姿が投影されているのかもしれません。"9.11"やISのテロなどは、アメリカにもその責任の一端はあるワケですが、そこには言及せず、自らを正義と見做し、徹底的に悪を叩き潰そうと躍起になる姿は、まさにアメリカ。明らかに世界で一番、大量破壊兵器を抱えているにもかかわらず、それを隠し持っていると決めつけ、それを理由にイラクを攻撃し、街を破壊したアメリカ。その身勝手さ、横暴さにもリサの姿が重なります。

 

正義というものの怪しさ、危うさ、正義のための戦いの理不尽さ...。本当は、悪をなそうとする時に慎重になる以上に、正義をなす場合は、より慎重で慎み深くあるべきなのかもしれません。時として、正義は悪よりも人々を傷つけてしまうのかもしれません。アメリカの姿を表現し、その問題点を炙り出した物語と観ると、なかなか面白いものがあります。

 

150分と結構長いのですが、リサの疾風怒濤の感情の波が物語のテンポを作り、その勢いに引き込まれました。

 

ただ、ラストの纏め方が、中途半端だったのは残念。結局、リサは、自身を被害者と認識したまま終わってしまい、それはそれでアリだと思うのですが、リサが訴訟まで起こす以上、バス会社側は、リサの行為を取り上げて自分たちの責任を軽減しようとするのではないかと...。運転手もリサのしたことを証言するでしょうし...。運転手やバス会社側からの"反撃"が見えてこなかったことには違和感がありました。

 

リサは、これからも、自身の正義を押し通し、その弊害を指摘されても耳を傾けることはなく、問題は人に責任を擦り付け、その相手を罰するために精力を傾けることになるのでしょうか。リサに能力も行動力もあるだけに周囲に与える迷惑は只者ではないような...。お近づきにはなりたくないものです。

 

そんなリサに好かれてしまったアーロン先生の"被害"にもう少し視点が当てられていたら、リサの抱える問題点がより明確に感じられたような気がします。

 

単に女子高生の自己欺瞞の物語というよりも、アメリカという国の一面を描いた物語として観ると面白かったりします。

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ミスティック・ピザ

テーマ:

 

コネチカットの海辺の田舎町、ミスティック。エール大学入学を控えているキットは、ベビーシッターとして雇われますが、世話をしている女の子の父親に惹かれていきます。キットの姉、デイジーは、イイ男を捕まえようと必死になっていましたが、ついに、金持ちのボンボンと知り合います。ジョジョは、ビルとの結婚式の最中、迷いや緊張で気を失ってしまい、結婚は無期延期になっています。3人は、"ミスティック・ピザ"のアルバイト仲間で...。

 

何てことのない青春物語かなぁ...。特別に悪くもないけれど、特別に印象に残るという感じでもなく、そこそこ観られて、そこそこ楽しめて、でも、あまり記憶に残らないかもしれない。そんな作品。

 

恋愛物というのは、その社会や時代の恋愛観、結婚観の影響を受けるワケで、そうした点で、1988年の本作は、やはり、古い感じはしてしまいます。それでも、人が誰かを好きになったり、好きになられたり、恋が実ったり、擦れ違ったり、破局したり、嫉妬したり...。それが、子孫を残し、種が存続するための手段に大きくかかわるということもあるのでしょうけれど、色恋の問題は、私たちにとって永遠のテーマであることは確か。定番のスタイルを踏襲しながら、或いは、少しずつ形を変えながら、繰り返し愛と恋が語られるのも当然のことかもしれません。

 

で、本作で語られているのは、マリッジ・ブルーであれこれしでかしながらもそれを乗り越えて落ち着くべきところに落ち着いていくジョジョ、努力を重ね、よくある紆余曲折を乗り越えて望んだものを手に入れるデイジー、そして、好みの男性に心ときめかす体験を経て、初心に戻っていくキャット。絵に描いたような青春でロマンスといったところです。

 

デイジーを演じるジュリア・ロバーツの初主演作で、彼女の初々しい姿を観ること、ちょっとだけ姿を見せるまだ10代のマット・デイモンを探す楽しみが本作の魅力といったところでしょうか。

 

ちなみに、マット・デイモンは、デイジーが、お金持ちの彼氏の家の夕食に招待され、ロブスターが食卓に並ぶシーンに登場。彼氏の親戚として登場し、ロブスターの中から出てきた緑色の物体について「この緑色の中身は何?」と質問しています。

 

"ミスティック・ピザ"の秘密のスパイスは気になりましたが...。

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夏休みのレモネード

テーマ:

 

1976年、シカゴ。敬虔なカトリックの家庭に育つ8歳のピートは消防士の父、優しい母、7人の兄弟に囲まれて元気に暮らしていました。2年生の終わり、夏休みの前にシスターから"悪魔の道を選ぶか神の道を行くかは今年の夏の行ないで決まる"と言われて、そのことが気になります。そんな時、兄のシェイマスから、異教徒をカトリックに改宗させれば聖人になって天国に行ける、と聞き、早速ユダヤ教の会堂に行くようになります。やがて、ユダヤ教の聖職者、ラビと顔馴染みになったピートは、ある出来事をきっかけにラビの息子、ダニーとも仲良くなりますが...。

 

子どもの素直さ、懸命さは、その純粋さ故に、時に残酷ですが、それでも、その純真さが何かを救うこともあります。

 

ダニーの病気の種類によっては、ピートの"善意"が病状を悪化させてしまったかもしれません。そして、生きられる時間を縮めてしまったかもしれません。けれど、ピートの真っ直ぐな想いは、ダニーに確かに届いたでしょうし、大人たちに囲まれ"病気の子ども"として扱われてきたダニーにとって、ピートとの時間は生きる喜びを実感できる輝かしいひと時だったことでしょう。

 

異宗教間の葛藤を扱いながらも、ドロドロとした暗く重い雰囲気にならなかったのは、やはり、子どもを主人公にしたからでしょう。

 

素朴な宗教間の"衝突"を繰り返しながらも、徐々に互いを理解するようになり、相手を変えることでもなく、自分が変わることでもなく、それぞれがそのままで共存する形を受け入れるまでの過程も主人公が子どもだからこそ、観る側も素直に受け止めることができたのかもしれません。

 

邦題に入れられた"レモネード"は、ホンのちょっと登場するだけで、物語上も左程大きな意味を持つわけでもないのですが、スッキリと観終えることができる清涼感のある作品になっていると思います。多少は、キリスト教とユダヤ教の違いなど、宗教に関する知識がないと分かりにくい部分もあるかもしれませんが、なかなか見応えのある作品でした。

永い言い訳

テーマ:

作家の津村啓こと衣笠幸夫(きぬがささちお)は、不倫相手を自宅に連れ込んでいた時、親友と旅に出た妻の夏子がバス事故で亡くなったとの知らせを受けます。妻の死に対してもあまり悲しさを感じてはいなかった幸夫は、悲劇の主人公を装うことしかできませんでした。そんなある日、妻の親友の遺族、トラック運転手の夫、陽一とその子どもたちに出会います。幸夫は、ふとしたことから子どもたちの世話を買って出ます。保育園に通う灯(あかり)と、妹の世話のため中学受験を諦めようとしていた兄の真平。幸夫は子どもたちを世話する日々に幸せを感じるようになるのですが...。

 

ありふれたツマラナイ日常は、案外、発見と驚きに満ちていて、代わり映えのしない人間関係も、思いの外、愛情に包まれていたりするのでしょう。けれど、日常を丁寧に生き、細やかに感じ取らないと、すぐそこにある輝きに気付けないものなのだと思います。昨日も今日もあったものは、明日もあるのだと思いがちですし、繰り返される日常に甘えてしまったりもするのでしょう。けれど、本当は、もっと大切に愛おしんでいかねばならないものなのだと思います。

 

身近な人間の突然の死は、日常を受け止める感覚に大きな変化をもたらし、時には、日々の生活を根幹から覆すものです。特に、小さな子どもなど、亡くなった者に大きく依存していた存在があればなおのこと。

 

幼い子どもは、遺された者にとって、大きな重荷であり、慰めであり、生きる理由ともなります。2人の父、陽一は、子どもたちが生きて働く理由となり、幸夫は、子どもたちによって、恐らくは、妻の事故死以前から失っていた日々の輝きを取り戻すことができます。

 

不幸も幸せもそう単純ではないということなのかもしれません。不幸の中に幸せを見つけることも、幸福の中に辛さを感じてしまうこともあり、"禍福は糾える縄の如し"で、幸せは次の不幸を呼び、不幸は次の幸せを生み出すことがあります。

 

幸夫も夏子を失うことで、陽一たちとの本当の家族のような交流を持つことができ、夏子も生前より身近に感じることができました。陽一は、子どもたちと新しい関係を築き、新しい出会いも得て、自身の世界を広げることもでき...。

 

そして、幸夫は、この経験によって、"きぬがささちお"という名の呪縛と津村啓という名で本名に対するコンプレックスを覆い隠したことへの負い目から抜け出すことができたのかもしれません。陽一や子どもたちから、"さちおくん"と呼ばれた時の嬉しそうな表情が、夏子に編集者の前で"さちおくん"と呼ばれることへの嫌悪感を語った彼の心情の変化を感じさせます。

 

映像表現やエピソードを上手く重ねながら、個々の人物像や登場人物たちの関係性が描かれ、映画作品として巧みな構成になっていると思います。

 

幸夫を演じた本木雅弘はじめ、陽一を演じた竹原ピストル、真平を演じた藤田健心と灯を演じた白鳥玉季の2人の子役...。皆、ごくごく自然な感じで、個々の役柄を物語の中に存在させていて、それぞれの心情がリアルに感じることができました。

 

タイトルは"永い言い訳"。この先も、永遠に言い訳が続いていくということなのでしょうか。起きてしまった過去を思い出すということは、何をどう言っても、結局、言い訳でしかないのかもしれません。それでも、過去の積み重ねの中で生きて行かざるを得ないのです。言い訳をしながら、時には言い訳を反省しながら、私たちは人生を紡いでいくものなのかもしれません。

 

そして、どんなしょ~~~もない人生も、何かを周囲に与え、何らかの足跡をこの世の中のどこかに残しているのでしょう。

 

装うばかりでは自分自身を生き辛くさせてしまいますし、何も飾らぬ生の姿では安定した人間関係を築くことは難しいでしょう。一人の人間の中にその両方をバランス良く共存させることが大切なのだと思います。自分自身を保ちながら、周囲と良い関係を維持していくには、自分と他人の中にある、単純に善とも悪とも、品行方正とも奔放とも言い切れない複雑さに耐える力が必要なのかもしれません。

 

いろいろと考えさせられる見応えのある作品でした。静かでありながら、濃さ、重厚さも感じられる印象的な作品に仕上がっています。お勧めです。

 

 

公式サイト

http://nagai-iiwake.com/

Bunkamura ル・シネマ

テーマ:

東急本店の隣、オーチャードホール、シアターコクーンなどが入る建物、Bunkamuraの6階にあるミニシアターです。1989年にオープンしています。

 

渋谷にはこうした映画館が、ここを含めて結構あるのですが、都内での上映館が一館しかない作品も上映されていて、定期的に行っている映画館の一つとなっています。(もっとも、本館ができた頃は、そんな映画館がもっとあって、今では随分、少なくなってしまいましたが...。)

 

これまで、観た作品は、

人間の値打ち (2016年10月)

山河ノスタルジア (2016年5月)

パリ3区の遺産相続人 (2015年12月)

あの日のように抱きしめて (2015年9月)

パリよ永遠に (2015年3月)

バックコーラスのディーバ(歌姫)たち (2013年12月)

カルテット!人生のオペラハウス (2013年5月)

東ベルリンから来た女 (2013年2月)

マリーゴールド・ホテルで会いましょう (2013年2月)

屋根裏部屋のマリアたち (2012年8月)

愛する人 (2011年1月)

など。

 

当初は、フランス映画中心だったようですが、現在は、ヨーロッパの他の国や最近ではアジアの作品も上映されています。

 

スクリーンは2つ。どちらも、前後の高低差は少なめで、後ろの方の座席はあまり観やすくないと思います。前から5、6列目位が一番観やすいかもしれません。そして、椅子の背もたれが低いので、座り心地は今一つ。

 

日曜日の最終回と火曜日、毎月1日は、料金が1100円になります。チケットはネットでの購入もできます。座席指定制。

 

ロビーでは、チケット売り場でパンフレットなどの販売が行われています。また、上映室は飲食禁止で持ち込めずロビーで飲み食いする(すわれる場所はほとんどないので、基本、立っての飲食)ことになりますが、奥のカウンターで、ちょっとお高めのジュースやグラスワインなどを買うこともできます。(まぁ、お値段が張る分、美味しいし、ちゃんとしたグラスに入れられていたりしますが...。)

 

前後に東急本店やBunkamura館内のカフェやレストランで食事やお茶というのも、なかなか優雅な気分を味わえたりします。(館内のカフェやレストランは映画の半券で特典があるので、1階のカフェ利用なら鑑賞後がお勧め。)

 

上映作品の雰囲気とも関係するのでしょうけれど、比較的、観客の年齢層は高めで、全体に落ち着いた雰囲気の映画館です。

 

興味を惹かれる上映作品が結構あるので、時々は行くのですが、他で上映されていれば、他の映画館を選んでしまうかもなのは、椅子の問題や座席の配置の問題が大きいです。ロビーにもう少し椅子があればよいと思いますし、上映室内での食事の禁止はともかく、飲み物はOKしてもらいたいもの。あまり混雑していなければ、座席の配置の問題は左程気にならないのですが、ここでしか上映されていない作品など、結構、満席になることもあり、それだけに、心地悪さは気になります。その点が、ちょっと残念な映画館です。

 

 

公式サイト

http://www.bunkamura.co.jp/cinema/

 

マイケル・ムーアはある相談のためにアメリカ国防総省に呼ばれます。"アメリカの軍隊は第二次大戦以来負け続けているが、どうすればいいだろうか"というのが相談の内容。ムーアは、自分で侵略戦争をすることを考えます。何の兵器も持たないたった一人の"軍隊"、ムーアは、他国に行ってその国の良いところを学び、それをアメリカに持ち帰ろうとヨーロッパの各国に出かけ...。

 

何故、本作で描かれているマイケル・ムーアの行為が"侵略"なのかというと、"他国の資源や富を奪うことが侵略ならば、他国の良い点を持ち帰ることも侵略の一種"ということのようです。その是非はともかく、なかなか面白い発想だと思います。

 

イタリアの労働者が得られる手厚い福利厚生

フランスの子どもたちが学校で食べられる美味しく栄養バランスも考えられた給食

フィンランドのどこの学校でも同レベルの教育を得られ、子どもの幸福を大切に考える教育

スロヴェニアの学費無料の制度

ドイツの労働者の意見が経営に反映されやすい企業体制、マイナスの歴史をもきちんと伝える歴史教育

ポルトガルの麻薬を使用率を減らした麻薬の合法化

ノルウェーの世界的に見ても低い再犯率(16%、日本は40%)を実現させた囚人に温かく快適な刑務所

チュニジアで進んでいる女性の権利確立

アイスランドの進んだ男女平等と国の経済に大打撃を与えた銀行の破たんを引き起こした経営陣に対する対処

 

けれど、マイケル・ムーアはほとんど学費を負担することなく大学教育を受けられたし、初めてメーデーが行われたのも労働組合ができたのも、ウーマンリブの発祥も、残酷な刑罰をなくすことにしたのも、アメリカ。アイスランドで大手銀行の破たんの原因を作った経営陣を訴追した検事は、アメリカの検事に助言を求めてさえいるとのこと。アメリカは、多くの"善きもの"を生み出しているのにそれを活かせず、むしろ、他の国でそれが花開いているようです。

 

まぁ、実際には、イタリアでは失業率の高さが問題になっていて、仕事を得られた人は良いけれど、仕事にありつけなかった多くの人はどうなるのよとか、ドイツもネオナチの問題があったりとか、まぁ、いろいろあるワケですが...。どんな問題も、一面だけを見て良し悪しを言うことはできないワケで、その辺りをばっさり切り捨ててしまった点で、消化不良な感じが残ります。

 

映画というよりは、TVのバラエティ番組で十分な内容かなぁとも思いますし、基本的には、アメリカ人が、自分たちが本来生み出していながら活かせていない幸福のための手段に気付き、それを取り戻す意欲を持てるようにするための作品なような気もします。取り上げられている問題自体も、目新しさはあまりなく、既視感がありました。それでも、アメリカ社会の問題点が分かりやすく纏められていたし、世界各国の人々の幸福を実現させるための努力も描かれていて、興味深く観ることはできました。

 

マイケル・ムーアが"侵略"目的で日本に来たら、何を持っていこうとするのでしょうか。憲法9条だったりして...。まぁ、もっとも、憲法9条は風前の灯火。アメリカ生まれのものを発展させた本作の事例とは違うということになるのかもしれません。

奇蹟がくれた数式

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"インドの魔術師"と称された天才的数学者、シュリニヴァーサ・ラマヌジャンの半生を描いた作品。ロバート・カニーゲルの「無限の天才 夭折の数学者・ラマヌジャン」を原作としています。原作は未読です。

 

敬虔なヒンドゥー教徒でカーストの最上位であるバラモン階級の極貧家庭に生まれたラマヌジャンは、独学で数学の研究をしながら職を探していましたが、学位がないために専門的な仕事に就くことができず、港湾事務所の事務員として働き始めます。上司の理解を得て、仕事をしながら数学の研究も継続していましたが、やがて、周囲の勧めもあり、1913年、イギリスのヒル教授、ベイカー教授、ボブソン教授に研究成果を記した手紙を出しますが黙殺されます。けれど、ケンブリッジ大学のハーディ教授は、ラマヌジャンの才能に驚き、1914年、彼を招聘します。ハーディは、ラマヌジャンの業績を発表するために彼の発見した公式の証明をさせようとしますが、ラマヌジャンは、証明することの重要性を実感できません。宗教的な理由から厳格な菜食主義を貫くラマヌジャンは第一次世界大戦の始まりにより十分な食事ができなくなり、また、学歴もないインド人であることから偏見や差別にさらされ、重い病に罹ってしまい...。

 

天才は、時としてその時代に理解されず不遇のまま人生を過ごすことを余儀なくされたりします。同時代の人間が理解し得ないレベルにあるからこそ天才と言えるのかもしれません。天才が天才と認められるためには、その才能を理解し、その凄さを凡人に分かりやすく伝える解説者が必要なのでしょう。

 

ラマヌジャンの業績が世界の片隅に埋もれることなく、技術の進歩に貢献できる形で世に出されたのは、ハーディ教授の力が必要でした。そして、ハーディは、ラマヌジャンの発見が、世に出すために自身が力を尽くすに値するものであることを理解していたのでしょう。

 

彼が26歳までに発見した定理に関して、彼の死後、多くの数学者が協力し証明を行ったそうですが、その作業が完了したのは1997年とのこと。そこには、既に知られていたものも少なくなかったそうですが、いくつかの新発見もあったそうです。その事実だけからでも、彼の天才が分かります。

 

ラマヌジャンの業績は確かに奇蹟的ですが、数学に没頭するあまり数学以外の必修科目に出席せず中退せざるを得なかったものの奨学金を得て大学教育は受けているワケで、全然教育を受けていなかったわけではありませんし、何といっても"ゼロ"を発見した実績を持つ国の人なのですから、もの凄く不思議なことではないのかもしれません。

 

ハーディ教授の人間関係の不器用さも可愛らしかったのですが、相手がたった一人全く文化風習の違うインドから家族とも切り離されて一人やってきたラマヌジャンとなれば、大きな不幸を生む原因となってしまうワケです。その辺り、リトルウッド、または、ハーディ教授の秘書さん(?)が、もうちょっとフォローしてあげても良かったのではないかという気もするのですが...。

 

それでも、ハーディ教授が、ラマヌジャンを王立協会の会員にするために熱弁をふるう場面は感動的でした。

 

本作は、ラマヌジャンの物語であると同時に、ラマヌジャンの"発見者"であるハーディの変化の物語にもなっています。全く違うバックボーンにある者たちが歩み寄り、互いへの理解を深めていく過程も描かれ、数学的な知識が全くなくても十分楽しめる人間ドラマになっています。

 

物語の描き方としては、ある意味、あまりに王道で面白味に欠ける面もあったり、ラマヌジャンの境遇の描き方がドラマチックになり過ぎている嫌いもありますが、それでも、十分に楽しめる作品になっていました。

 

お勧めです。

 

 

公式サイト

http://kiseki-sushiki.jp/

江戸時代からあった日本橋魚河岸などの市場が、1923年の関東大震災で壊滅し、築地の海軍省所有地を借り受けて臨時の東京市設魚市場を開設したことから始まった築地市場。約23ヘクタールの面積に卸売業者7社、仲卸約1000社(うち、水産関係約820社)が1日約2000トンの海産物をさばいています。卸売業者から小売業者へ海産物を仲介する仲卸の人々の役割や存在意義、仕事振りを中心に。築地市場を描いたドキュメンタリー。

 

今年(2016年)の11月に豊洲に移転するはずだった築地市場。ここへきて豊洲新市場や移転に関する様々な問題が明らかになってきて、今、その移転の行先は不透明になっていますが、いずれにしても、現状のままといのも難しいのでしょうから、築地が役割を終える、或いは、大掛かりな改修をするということになるのでしょう。

 

都内には11カ所の東京都中央卸売市場があって、そのうちの一つということになるのだそうです。そして、世界的に見ても最大規模の魚市場だそうです。東京都の市場ではありますが、世界各地から海産物が届けられ、世界各地に出荷されているようで、思っていた以上の取引先の範囲の広さに驚かされました。

 

築地市場のユニークさ、築地市場の性格を決定づける仲卸の仕事振りについては、分かりやすく纏められ、その魅力を実感させられます。ただ、ドキュメンタリー作品としては凡庸な印象を受けました。まぁ、築地市場が持つユニークさは、下手な演出などしない方がストレートに伝わるということなのかもしれませんが...。

 

海産物だけでなく、野菜などの様々な食品、包丁などの調理用具、様々な日用品も扱う場外市場など、本作では触れられていない魅力的な面も残されていますが、上映時間に制限のある映画という形態では、仲卸に焦点を当てたのは良かったと思います。

 

品物を見極め、それが最も活かされるであろう買い手に引き渡す。高度な商品知識を持ち、買い手の料理を食べに行き、日々の研究を怠らない、まさにプロフェッショナルな彼らの存在こそが、世界で最も三ツ星の多い東京のグルメを成り立たせているのかもしれません。

 

美味しい魚料理が食べたくなります。折角ですから、季節を感じさせる秋刀魚の塩焼きなどいいですね。

 

今、騒がれている移転問題を考えるためにも、観ておきたい作品だと思います。

 

 

公式サイト

http://tsukiji-wonderland.jp/

ラウンダーズ

テーマ:

 

ニューヨーク。ロースクールに通うマイクはポーカーの天才で、学費も生活費もポーカーで稼いでいましたが、ある日、ロシアマフィア、"KGB"に勝負を挑んで敗北。全財産を奪われてしまいます。カードゲームから足を洗う覚悟を決めたマークは、友人の紹介で配達のアルバイトを始め、地道に稼いでいました。ところが、そんな時、旧友でギャンブラーのワームが出所。彼に引き摺り込まれるように再びポーカーに手を出してしまいます。しかも、ワームの借金の保証人にされてしまい、多額の借金を肩代わりするはめになり...。

 

手を出してはならないと思っても、そう簡単に抜けられないのがギャンブルということでしょうか。それも、マイクが天性のギャンブラーだからということでしょうか。ユダヤ人で聖職者になれなかったという教授の言葉にもありますが、人はそれぞれの天性に従って生きるしかないということなのでしょうか。

 

負ければ一瞬にして大金を失うこともあるけれど、勝てば一生かかっても稼げない程の大金を手に入れることができる。ギャンブルである以上、運よく勝てることもあるワケで、勝てた時の興奮を忘れるのは難しく、負けても負けても、勝った時の興奮を追いかけてしまうのかもしれません。例えその可能性がほとんどゼロに近いと知っていても、一発大逆転を夢見てしまうのは人の弱さなのでしょうか。賭博...とまではいかなくても、ほとんどの人が損をするとしっていても、本当は貯金した方がお得なのを知っていても、宝くじを買ってしまう人は結構多いわけで、ギャンブルにハマるのは、決して一部の人間にだけ見られる特性ではないのでしょう。

 

そして、負けが込んで追い詰められれば、ギャンブルのために、その資金を得るために、約束も破る、嘘もつく、人を騙しもする...。マイクを振り回すだけの存在になってしまっていますが、ギャンブルにハマって抜け出せない者のどうしようもなさ、情けなさ、愚かさ、哀しさをワームを演じたエドワード・ノートンが見事に表現しています。まぁ、折角なら、ただマイクの足を引っ張るだけでなく、何かちょっとマイクのためになるような役割があっても良かったような気はしますが...。

 

一方、マイクに借金を頼まれたながら断るキネッシュ。情に流されず分をわきまえたうえで一線を守る彼には、本物の"プロ"が感じられます。キネッシュはプロで、マイクは勝負師で、ワームは敗残者ということなのかもしれません。ラストのKGBとの勝負の時でも、キネッシュなら、KGBに何と言われようと挑発に乗ることはなかったでしょう。

 

キネッシュを演じたジョン・タトゥーロが、決して登場シーンが多くないキネッシュの存在感を出しています。

 

KGBを演じたジョン・マルコヴィッチも印象的です。単なる悪ではなく、ギャンブラーとしての矜持を保っています。「イカサマなしで勝った。金をやれ。」のセリフが実にカッコよかったです。彼も勝負師なのでしょう。

 

結局、人には向き不向きや好き嫌いがあって、好きなことでしか生きがいを感じられないし、向いたことでしか力を発揮できないのかもしれません。教授が聖職者になれなかったように、マイクが弁護士になれなかったように、ギャンブルにハマってしまったワームがギャンブラーになれなかったように。

 

今まで誰にも見破られなかったというイカサマが警官に見破られてしまうのはどうかとも思いますが、勝負のドキドキ感や人を虜にするギャンブルの危ない魅力が描かれ、興味深く観ることができました。

 

ただ、ポーカーについての解説はされていないので、ポーカーの基本的なルール、どういう手が強いかということ位は知らないと話についていけないかもしれません。