あん

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ドリアン助川の同名小説を映画化した作品。原作は未読です。

どらやき屋"どら春"の雇われ店長として、常連の中学生たちを相手に単調な日々を過ごしていた千太郎。アルバイト募集の広告を見たという徳江がやってきます。76歳になるという彼女は店で働きたいと言いますが、千太郎は相手にしません。けれど、徳江が作ってきた粒あんを食べた千太郎はそのあんの美味しさに驚き、徳江を雇うことにします。徳江の作るあんが評判を呼び、店は繁盛するようになりますが...。

自身には何の非もないにも拘らず重い運命を背負わされてきた徳江。彼女を人生を狭い空間に押し込めたのは、世間の偏見とそこから生み出された法律と制度でした。そして、徳江たちに対する処置が根拠のないものだということが明らかになった後もずっと、徳江たちは、その"檻"の中から解き放たれることはなかったのです。そんな過酷な道のりを辿ってきた徳江ですが、不思議なほど軽やかです。

徳江がハンセン氏病だったということを知ったオーナーの言動はあまりに偏見に満ちているような感じもします。多分、"本作の今=私たちの今"の設定になっているのだと思うのですが、それなら、お客を含め、もう少し、冷静な対処をする人が多い方が自然だったのではないかと...。オーナーもハンセン病に対してそんなに強く偏見を抱くほど古い年代の人ではないような...。

それに、千太郎がオーナーに縛られる理由も弱い感じがします。"どら春"も特に儲かっている風な店ではないですし、もっと他に実入りの良い仕事に就ける可能性だってあるのではないかと...。彼の"前歴"が邪魔する部分はあるにしても、そんなに年を取ってはいない健康な男性ですから...。

少々、気になる部分がないわけではありませんでしたが、全体としてはとても印象的な作品でした。

コミカルな場面が散りばめられ、思わず声を出して笑ってしまう場面も多かったのですが、全体としては、辛い過去を背負いながらも、その中で受けた傷を強さに変えてきた徳江のしなやかな逞しさが感じられました。自身が辛酸を舐めてきたからこそ他人の痛みや悩みを理解できるし、周囲への気遣いや思いやりも持てたのかもしれません。過酷な体験が、徳江という人物を磨き上げたのかもしれません。全身全霊をかけて小豆と向き合う徳江の姿に、全てをかける対象を持てた者ならではの熱意とやっと外の世界で活躍できる場を得た喜びが感じられました。人には、苦悩に押し潰されず幸せに向かえる力があることを実感させられます。

死の匂いが濃厚に感じられる作品ですが、不思議と明るさが感じられるのは、徳江が人生で初めての体験に感じている幸せが伝わってくるからでしょう。その身に刻まれた苦労を感じさせながら同時に幸せを味わっていることを表現する樹木希林の演技が光ります。本作の味わいは、このキャスティングにより決定されていると言って良いのではないかと思います。

肝心な部分で手紙での説明で処理されてしまった部分が多かったこと、月や木々の映像に逃げてしまう場面が目についたことは、残念でしたが、徳江の人生そのものが優しさとなって私たちの心に染みてくる心地よい作品でした。変に説教臭くなかったことも、本作のメッセージが真っすぐ心に届いてくる理由の一つとなっているのでしょう。こんなにも優しく自然に観る者の気持ちを包み込むようにして、人が生きることの意味を伝えてくれる作品はなかなかないのではないかと思います。

丁寧に丁寧に小豆を扱い、あんを作っていく徳江。彼女の手によって生み出されていく美味しそうなあんを観ていて、どらやきが食べたくなりました。大事に作られたあんがどんと表面に出るのではなく、けれど完全に皮に覆い隠されるのでもなく、微妙にその顔を覗かせるどらやき。何だかそんなところも本作の雰囲気にぴったりでした。

お勧めです。一度は観ておきたい作品です。DVDになったら買いたくなるだろうと思います。


公式サイト
http://an-movie.com/



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わたしの、終わらない旅

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わたしの、終わらない旅 [DVD]/出演者不明
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2011年3月。福島第一原発の事故の深刻さが明らかになる中、映画監督、坂田雅子は亡き母、静子が遺した一冊の本を手に取ります。「聞いてください」と題されたそれは、母が1977年から続けていた原発を問うミニコミ紙をまとめたものでした。ごく普通の主婦だった静子は、フランスの再処理工場近くに暮らす娘(雅子の姉、悠子)からの1通の手紙をきっかけに反原発運動を始め...。

フランスの核燃料再処理工場ラ・アーグや1946年からの米国の水爆実験を前に、マーシャル諸島のビキニ島民が移り住んだキリ島、旧ソ連の核実験場だったカザフスタン・セメイなど、各国で核の被害に遭った人びとの暮らしや証言が記録されています。

人間は、次々に新しい技術を求めずにはいられず、利便性や進歩を追わずにはいられず、そこで手にしたものを捨てられず、その結果として、環境が破壊され、時として、"人間が安全に生活できる場所"を失ってしまいます。けれど、それでもなお、人は技術革新を辞めることはできなさそうです。

ジョゼフ・スワンが初めて白熱電球を発光させたのが1860年より前、エジソンが本格的に商用化したのが1880年頃。百数十年前までは、普通の人々のの中に電気はほとんど関与していませんでした。けれど、今、ある程度以上発展した国の人間にとって、電気のない生活なんて考えられないでしょう。こんなふうにPCを使うことにも電気は必要。そして、次々に"電気を使ってできること"が増えています。

身体的な状況などにより、電気がないと基本的な生活が成り立たない人も、中には、命を維持するために電気が必須な人もいるわけで、その需要はまだまだ増えて行く可能性があります。となると、その電気をどのようにして供給するかが大きな課題となり、原発の"必要性"もでてきます。事故の危険性が理解できないわけではない、放射能の害が理解できないわけではない、けれど、今の自分の生活の中にない危険のために目の前にある利便性を犠牲にするというのは、そう簡単なことではありません。

電気の問題だけではありません。原子力に頼りたくないからレントゲン検査は廃止するというわけにもいかないでしょう。いろいろな現場で安全確保のため行われているX線検査もなくせないでしょう。

そして、原子力は、その危険性ゆえに、兵器として重宝されてもいます。その危険性が理解できているからこそ、兵器としての重要性は増すのでしょう。
アメリカ政府も、その危険性を理解していたからこそ、実験を本土ではなくビキニ環礁で行ったわけで...。

そもそも、人間が生きていこうとすれば、何らかの形で環境に負荷を与えることになります。人間の数が少なかった時代は、環境がその負荷を回復することができましたが、人間が増え、環境の回復力を人間の破壊力が上回ってしまったということなのでしょう。

単に原子力で得ているエネルギーを他のより環境に負荷をかけない方法に転嫁すればよいという問題ではありません。けれど、一方で、放置しておける問題でもありません。所謂"核のゴミ"の問題。原子力発電所、核燃料製造施設、核兵器関連施設といった核関連施設、放射性同位体 (RI) を使用する実験施設や病院の検査部門から出るガンマ線源の廃棄物などの"放射性廃棄物"。日本では地層処分の候補地の目途すら立っていません。こんなに地震が多い国で、数万年以上、廃棄物を安全に保管できる場所を探すなんて、不可能に近いのではないかと...。福島の原発事故で、1000年に1回もの頻度で起きる津波への対策さえできていかなったことが露呈してしまったわけで...。

今の便利さを支えているものが何なのか、その先に来る未来にどう影響を及ぼすのか、今ここに見えないところまで想像力を及ぼすことが大切なのだと思います。難しいことですが...。いろいろ言われていましたが、私たちも、それなりの期間、原発なしで生活をしているのですよね...。

原子力の問題は、情緒に訴えるだけでは解決できない問題だと思います。「それでも原子力なしではやっていけない」という考え方も根強い中でこの問題を解決して行くためには、「原子力なしでどうやっていくのか」という具体的な方法を提示して行かなければならないでしょう。その辺りを示せると説得力を持てるのではないかと思うのですが...。(それでも、原子力に関係するところで生活の糧を得ている人も少なくない以上、原子力を捨てることは簡単ではないのでしょうけれど...。)


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読書する女

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読書する女 HDリマスター版 [DVD]/ミュウ=ミュウ,マリア・カザレス,ピエール・デュクス
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レイモン・ジャンの同名小説を映画化した作品。原作は未読です。

読書好きのコンスタンス(ミュウ・ミュウ)は、いつも「読書する女」という本を読んでいます。いつしか小説の主人公、マリー(ミュウ・ミュウ=二役)に同化していきます。マリーは大の読書好き。自分の美声を生かし、出張朗読を職業にしようと思い立ちます。新聞広告を出したマリーに依頼をしてきたのは、一癖も二癖もある人ばかり。半身不随のまま思春期を迎えつつあるエリックという青年にはモーパッサンの官能的な小説を読み、トルストイの「戦争と平和」が好きな自称100歳というデュメニル将軍の未亡人と彼女の女中で一風変わった女性ベラの引き起こす騒動に巻き込まれ、離婚歴のある中年社長にはデュラスの「愛人」を読みますが肉体関係を迫られたり...。

コンスタンスが読む小説の内容が映像になっています。

読んでいる本の世界に嵌り込むということは、妄想の世界に身を委ねるということに繋がるのでしょう。映画を観ていても同じようなことは起こるのでしょうけれど、映像なしで文字のみで表現された世界においては、美男美女の俳優が演じる映像の物語よりも、登場人物をより自分に引きつけて想像することができます。コンスタンスも、自分にそっくりな人物が主人公として動き回る物語を描くことで本を読む醍醐味を味わっているのでしょう。まぁ、それにしても、ラストのオチはありきたりな感じもしましたが...。

"美しい声"を生かそうと思ったマリーですが、多くの場合、求められたのは"若さ"であり"美しさ"であり"性的な魅力"だった様子。少なくとも、何人かのお客と接した段階で、マリーもそのことを意識したはずだし、むしろ、そうした部分への期待に応えることも厭わなかった様子。この辺り、マリーが何を考えているのか、よく分かりませんでした。そこまでやるかってところまで踏み込んでいる割には、最後の辞め方はあっけないものだし...。

朗読者として様々な"客"の元を訪問することで、いろいろな人の生活に触れることになります。で、お金を払って朗読する人を雇うだけのことはあって、どこか奇妙な人ばかり。ちょっと"家政婦は見た"的な要素が含まれているのですが、全体にそれぞれの内面への踏み込みが足らず、その辺りの面白さは今一つです。

マリーのお客たちには、個々の"テーマカラー"があり、色遣いに楽しさが感じられるお洒落な映像が印象的です。そのおフランスな映像に、何故か、ドイツなベートーヴェンの音楽が重ねられます。過剰でドラマチックな雰囲気のあるベートーヴェンではミスマッチかと思いきや、意外に馴染んでいるのが不思議。もっとおフランスなドビュッシーの音楽とかだったらどうなっていたのか、興味があります。

設定自体は面白かったと思うのですが、それを十分に生かせていなくて残念。


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パラダイス:希望

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パラダイス:トリロジー DVD-BOX +1/マルガレーテ・ディーゼル,マリア・ホーフステッター,メラニー・レンツ
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パラダイス3部作の最終作。第1作""のテレサの娘であり、第2作""のアンナマリアの姪であるメラニーが主人公となっています。

13歳のメラニーはチャーミングですが、かなり太めの女の子。夏休み、母親のケニア旅行の間、ダイエットのためのキャンプに参加します。そこで、ハンサムな施設の男性医師に興味を持つようになります。普段は怖そうな顔をしていますが、診察室で2人きりになるととぼけた表情で笑わせてくれる面白い人。やがて、メラニーは、父親ほども年の離れた彼に恋をするようになりますが...。

ほかの子どもたちもそうですが、メラニーは、ダイエットのためにキャンプに参加しているはずが、どうも真剣に取り組もうという姿勢は見られません。隠れてお菓子は食べるし、施設を抜け出してバーには行くし...。彼女が、そこまで太ってしまった背景には、彼女の"不幸"が隠れていたりもする気配は感じられるのですが、それにしても、やる気なさ過ぎです。食べてしまったことへの罪悪感のようなものも見られないし...。

まぁ、この辺り、メラニーたちの問題でもありますが、それ以上に、施設側のセキュリティ甘過ぎです。食べることを制限されている肥満の子どもたちが、隠れて食べることも、施設を抜け出して飲み食いすることも、簡単に予測できるはず。それに対して何の対策もしていないのだとしたら、それは、施設側の問題が大きいと言わざるを得ません。これでは、効果も上がらないでしょうし、そんなことでは、集客も難しくなってしまうことでしょう。というより、運動も大して汗をかくような運動はしていないし、これで、本当にやせるとは思えないのですが...。(単に、子どもの世話が煩わしくなった親から一定期間、子どもを預かるだけで需要ありってことなのでしょうか...。)

メラニーの憧れの対象となる医師も、やる気なさ過ぎ。まぁ、こうした施設で健康診断をするような仕事というのは、医師として魅力的な仕事ではないのかもしれません。やりたい仕事ができているワケではないことは想像に難くなく、モチベーションを持てないのも分かるような気はしますが...。退屈だから、ちょっとばかりメラニーの相手をしてしまい、彼女の恋心に火をつけてしまったということなのでしょうか...。

食欲は、人間の欲望の中でも特に強いものの一つ。多少、制限を加えられたからと言って、そう簡単に制御できるものではありません。だから、様々なダイエット法が語られ、痩せるために大金を注ぎ込む人がいるわけで...。

親たちは、多分、それなりの対価を払って子どもたちをキャンプに参加させているはず。けれど、一向に痩せる気配はありません。キャンプから戻った子どもたちを見る親たちの表情が浮かんできます。効果は表れませんが、しかし、子どもたちは実に楽しそう。その姿を見ていると、「もう、君たちは痩せなくていい」って言いたくなってしまうのは、私だけではないような...。

傷ついたであろうメラニーですが、彼女のキャンプでの言動などを見ていると、結構、逞しい。きっと立ち直っていくのでしょう。メラニーの姿を淡々と描きながら、その視線には、どこか慈しみも感じられました。

いろいろな背景を追っているであろう子どもたちの明るい姿。やはり、鬱屈しているのものがあるだろう中年医師の、それでも、最後の一線で踏みとどまる誠意(臆病、なのかもしれませんが...)。それぞれ、いろいろなものを抱えながら、それぞれの枠の中で何とか生きている感じは悪くなかったと思います。

映画として面白い作品かどうかという点になると微妙です。前2作に比べ、良くも悪くも強烈な感じは薄れていますし...。変だけれど大人しめなテイストになっています。


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パラダイス:神

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パラダイス:トリロジー DVD-BOX +1/マルガレーテ・ディーゼル,マリア・ホーフステッター,メラニー・レンツ
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パラダイス3部作の第1作""に続く第2作。本作の後が第3作"希望"です。

ウィーンの病院でレントゲン技師として働くアンナ・マリアは信仰心が強く、夏の休暇も布教活動に費やします。大きな聖母マリア像を携え、移民が多く住む地域のアパートを回り、熱心にキリストの教えを説いて回ります。そんなある日、2年間、離れて暮らしていたエジプト人でイスラム教徒の夫、ナビルが帰宅し...。

信仰篤いという以上に狂信的という言葉がぴったりの状態になっています。本気で人々を救いの道へ導こうとしているアンナ・マリアは、その熱心さのあまりかなり強引に人々に働きかけ、そのために周囲はドン引き。そして、更に熱さを増していくアンナ・マリアの信仰は、本人の意思とは裏腹に、本来のキリスト教の教えからどんどんズレていきます。第三者が冷静に見れば明らかなその事実に、渦中にいるアンナ・マリアが気付くことはなさそうです。自分の信仰に絶対的な自信を持っていたから、自らを反省することもなかったのでしょう。"正義"というものの傍若無人な一面が描かれています。

帰宅した夫の「前とは全然違う。」という言葉から、アンナ・マリアの"変質"は、夫の不在から始まったことが分かります。持て余した性欲を抑えたくて、キリスト教に縋ったということなのでしょうか。けれど、そう簡単に抑えられるものでもなく、抑えようとすればする程、膨らんでしまったのかもしれません。そして、ナビルの代わりとしてキリストを求めたのでしょう。けれど、神もキリストも、そう簡単に人間を救ってはくれません。アンナ・マリアは信仰が篤かった故に神にキリストに期待するものが大きかったでしょうし、彼女の切なる願いを叶えてくれないと知った時の失望は大きいのでしょう。

そして、ナビルの代わりとしてのキリストと向き合っていた彼女にとっては、もう、ナビルの存在は不要になってしまったのでしょう。まして、ナビルは異教徒。彼女の"信仰"にとって邪魔な存在でしかなく、"愛"の対象とはなり得ないということなのかもしれません。幸せに暮らしていたはずのキリスト教徒とイスラム教徒が対立するようになり...って、今、世界のいろいろなところで同じようなことが起きているような...。アンナ・マリアとナビルの夫婦に世界の縮図が見えるようでもあります。

アンナ・マリアの言動は、時に滑稽ですが、自分の中にある抑え難い感情や欲求を制御するために何かに縋るという行為自体は決して特異なものではありません。醜悪にも見える彼女の姿を見ずにはいられないのは、そこに、人の心の中に普遍的に存在するものが投影されているからなのでしょう。

観ていて気持ちのいい作品ではありませんが、変に癖になりそうな怪しげな魅力を放つ作品でもあります。


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マダム・マロリーと魔法のスパイス [DVD]/ヘレン・ミレン,オム・プリ,マニッシュ・ダヤル
¥3,456
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リチャード・C・もライスの同名小説を映画化した作品。原作は未読です。

インドのムンバイでレストランを営むカダム家の次男として生まれたハッサンは、名料理人の母から絶対味覚を受け継ぎます。ある晩、彼らの店は選挙絡みの暴動により全焼。母親も亡くなってしまいます。失意の父は子供たちを連れてヨーロッパに移住し、南フランスにある自然豊かな山間の小さな町に辿り着きます。そこで、良い食材と出会った彼らは、インド料理店を開くことになりますが、その向かいには、マダム・マロリーが取り仕切るミシュラン常連の老舗フレンチ・レストランがあり...。

異文化が出会い、衝突し、火花を散らし、徐々に歩み寄り、やがて認め合うというよくあるパターンの物語が、見事に美しく描かれます。そして、そこに、これまたこれまで繰り返し語られてきた"ロミオとジュリエット"的ロマンスが絡みます。ありきたりのストーリーが、かなり都合よくトントン拍子に予定調和の結末に向かって真っすぐ進んでいくのですが、不思議と嫌味な感じがしないのは、出演陣の力量ゆえでしょうか。

ぶつかり合う2人を大御所のマダム・マロリー役のヘレン・ミレンと、お父さん役のオム・プリが、如何にもそれらしく演じ切り、"大人の喧嘩"を面白く見せてくれています。ヘレン・ミレンは、一つ一つの表情や仕草、所作、動作が、その心情を雄弁に語っていて、存在感たっぷり。女優としての迫力を感じさせてくれます。オム・プリも実に味わい深い存在になっています。2人のダンスのシーンは心に沁みました。

頑固で意地っ張りで負けず嫌いなジジ、ババではありますが、2人とも認めるべきものをきちんと認めようとする柔軟さを持ち合わせていて、決して悪人ではありません。そんなところも、本作の暖かな雰囲気を作り上げる大きな要素となっているのでしょう。

ハッサンを演じるマニッシュ・ダヤルは、純朴で真面目な努力家の青年の味をしっかり出しているし、マルグリット役のシャルロット・ルボンもとってもキュートで印象的でした。ハッサンがマダム・マロリーの下で働くことになったという話を聞いた時のマルグリットの複雑な表情。ハッサンの才能を理解していただけに彼が彼女にとって脅威となることを知っていたからこその反応だったのでしょう。一方、それに気付かないハッサン。こんなありがちなすれ違いも可愛らしく描かれています。

そして、物語の中に織り込まれる様々な"対立"。

伝統と新興
フランス料理とインド料理
高級で静かで落ち着いた雰囲気のレストランと賑やかで派手な庶民的な食堂
フランス人と移民
ベテランと若手
家族と孤独

"移民問題"といったイマドキな問題も含まれていますが、それを含めて人間の社会における古典的な問題。何かとぶつかり合わずにいられないのが私たち人間なのかもしれません。まぁ、だからこそ、そこに物語や芸術が生まれるのかもしれませんが...。で...、ハッサンが"インド料理の名手"として成功するのではなく、"インド料理のエッセンスを加えた新しいフランス料理の作り手"として成功するというストーリーは、移民は出自からくる特性を生かしながらも基本的には同化して行くことでこそ成功できるということを言いたいのでしょうか?

"星2つ"以降の流れは、少々、間延びしてしまった感じもあり、そこで集結させてもよかったのではないかとも思いました。そこまでの良い感じのテンポが、そこで、失速してしまった感じがして、ちょっと残念でした。

で、折角の"レストラン物"な割には、"美味しそうな料理"があまり魅力的に取り入れられていない感じがします。撮り方や見せ方の問題なのでしょうか...。それでも、冒頭の料理とカダム一家がマルグリットに助けられ、彼女の家で出された料理は、結構、美味しそうだったのですが...。

良くも悪くも安心感いっぱいの作品です。心地よく観終えることができる軽く爽やかな作品。あまり考え込んだりせず、ホッコリできる物語を軽く楽しみたい時にぴったりの作品だと思います。


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追憶と、踊りながら

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ロンドンの介護ホームで生活しているカンボジア系中国人ジュン(チェン・ペイペイ)の元に息子カイ(アンドリュー・レオン)が訪れます。カイの父親はカンボジア系中国人とフランス人のハーフで、カイは、白人の血が混じった細身でハンサムな青年。2人はしばらく話をしていましたが、ホームの職員が入ってきて中断した後、ふと見るとカイの姿は消えています。その後、イギリス人の青年、リチャードがジュンを訪ねてくるようになります。彼は、ジュンが付き合い始めていた同じホームで生活するイギリス人のアランとの仲を取り持つため通訳を雇います。リチャードは、カイの恋人で、カイと同棲していました。カイは、ジュンに自分がゲイであること、リチャードが恋人であることをカミングアウトしてから3人で生活しようと考えていたのですが...。

カンボジア系中国人のジュンは英語ができません。ずっと中国系のコミュニティの中で生活していたのでしょうか。あるいは、常に夫か息子を頼りにしていたのか...。ロンドンならチャイナタウンもあるはず。何も英語を基本とする介護ホームに入れなくても、ジュン位の自立度なら、中華街のアパートで独り暮らしとかの方が自然な気がするのですが、違うのでしょうか...。まぁ、この辺りの事情については全く詳しくないので、私が無知なだけかもしれませんので、それはともかく...。

言葉の分からない異国で頑張ってきたのは確かなのでしょう。もしかしたら、彼女の頑なさや引きこもり傾向も、長い年月にわたって溜めてきた疲れゆえなのかもしれません。夫に尽くし、子どもを育て上げ、その上、更に自分を抑えて努力するなどもう耐えられないということなのかもしれません。それでも、言葉の通じないアランとの"ロマンス"は可愛らしく微笑ましかったです。今一つ噛み合わない会話もユーモラスでした。この2人の間に通訳が入るわけですが、果たして、通訳が入ることにより、2人の相互理解は深まったのかどうか...。松田聖子が神田正輝と離婚した際に「ゆっくり話し合ったら離婚になった」というような発言をしたのを覚えていますが、言葉の遣り取りをすることで、相手との溝の大きさや違いが明らかになってしまうということもあるのでしょう。

ジュンとリチャードも、別の言語の持ち主。そして、2人の間には言語だけでなく大きな壁があります。カイがジュンに対し抱えていた秘密をリチャードに受け継がれ、それを隠し通すべきか、明かすべきか、明かすならどのタイミングでどのようにカミングアウトすべきか、リチャードは悩みます。その秘密を知らないジュンは、リチャードの真意を測りかね、どこか素直にリチャードを受け入れられません。そして、ジュンにとって唯一無二の存在であったカイとともに生活していたリチャードに対する嫉妬もあります。ジュンは、リチャードの存在ゆえにカイは自分を見捨てたと考えていたのですから、なおさらです。けれど、一方で、カイの想い出を一番共有できる相手はリチャードなのです。

カイとリチャードの住まいを訪ねてジュンは、実はリチャードこそが今の自分にとって一番近しい相手であることを悟ります。カイの"匂い"を共有する相手。通訳を介してもすれ違い、衝突する2人を結びつけたのは、匂いと想い出。ジュンがアランと衝突する場面で、アランがジュンの"ニンニク臭さ"を、ジュンがアランの"オシッコ臭さ"を非難する場面と対照的です。

深い孤独に沈むジュンを演じるチェン・ペイペイの佇まいも良かったのですが、リチャードを演じるベン・ウィショーの感情を雄弁に語る眼差しが作品全体の雰囲気を作っていて印象的でした。

ジュンが結構、我儘で辛辣な感じで、最初、受け入れにくかったのと、通訳を介する設定なので仕方ないとは思うのですが、ジュンとアラン、ジュンとリチャードの会話については、中国語と英語で同じことを2回ずつ表現されるまどろっこしさが少々気になりました。まぁ、このまどろっこしさはジュンの気持ちに寄り添うためには必要な要素だったとも思うのですが、何も全部、2つの言語で表現しなくても良かったのではないかと...。

希望が感じられるラストながら、簡単にメデタシメデタシとはならないであろうことも想像される2人。ジュンがリチャードと暮らし始めるにしても、リチャードに新たな恋人ができる可能性もありますし...。けれど、それでも、それぞれが抱える大きな喪失感を共有できる相手がいるという事実は、2人にとって大きな支えなのだろうと思います。

心に染みる作品です。


公式サイト
http://www.moviola.jp/tsuioku/



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真夜中のゆりかご

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敏腕の刑事、アンドレアス(ニコライ・=ワルドー)は、妻アナ(マリア・ボネヴィー)と乳児の息子、アレクサンダーとともに、湖畔の瀟洒な家で幸せに暮らしていました。そんなある日、通報を受けて同僚シモン(ウルリッヒ・トムセン)と駆けつけた一室で、薬物依存の男女と目を覆うような育児放棄の現場を目にします。一方、夫婦交代で真夜中に夜泣きする息子を寝かしつける日々は大変ではありましたが、愛に満ちた幸せな日々でもありました。けれど、ある朝、アナは、アレクサンダーが息をしていないことに気付き...。

幸せに溢れ、愛し合い、互いに深く理解しあっているように見えるアンドレアスとアナ。薬物に依存し、まだまだ多くの保護の手を必要とする幼い息子を酷い環境に放置し、息子の母であるサネにも暴力を振るうトリスタンと、そんなトリスタンに怯えながらも離れられないサネ。善と悪、明と暗に分かれているように思われた2組の男女が、徐々に、最初の印象とは違って見えるようになります。作品全体がサスペンスタッチの緊張感に包まれ、物語の展開に迫力が感じられます。

終盤まで隠されていた真相が明らかになったところで、前半部分でのアナの言動が最初に観た時とは全く別のものに感じられるようになるのですが、その辺りの伏線の張り方も見事です。

トリスタンは、息子を殺されひどく動揺する位には父親らしい面も持ち合わせているにしても、基本かなりワルな感じですが、少なくとも、それ以外の登場人物たちは根っからのワルではありません。それぞれに苦しみや傷を抱えてはいても、何とか折り合いをつけていっている感じがします。孤独に育児をしている様子のアナが慣れない子どもの生活に疲れ疲弊しているであろうことも、容赦ない子どもの泣き声に苛立つであろうことも理解できます。トリスタンに捨てられることが不安でソーフスへの仕打ちに目を瞑りたくなるサネの気持ちも全く理解できないではありません。危機にあって唯一相談できる相手であったシモンと連絡が取れずアンドレアスが精神的に追い詰められていたであろうことも十分想像できます。特別にワルでなく、私たちの日常にも当然のように存在するであろう人々ばかりです。それでも、これだけの悲劇が起きてしまう哀しさが胸に刺さります。必要な場面で支えを得ることができなかったというのも大きかったでしょう。それぞれの抱える孤独が事態を悪化させた面もあるのでしょう。

ただ、どうにも理解し難い点が1つ。アンドレアスが、息子の遺体をソーフスがいた場所に置いていくところ。例え、もう生きてはいないとしても、ソーフスを連れ去るために"身代わり"が必要だったとしても、アンドレアスが相当に追い詰められていて精神的に危ない状態だったとしても、愛おしい我が子の遺体をあの中に置いていけるというのは違和感ありました。

ソーフスに出会い同情を寄せるようになったが故の行動と考えても、普通はそのためにそこまでできないだろうと思います。そして、アナのためというのも違和感あります。お腹を痛めた実の子どもの代わりに他人の子どもでOKとはならないですよね、普通。むしろ、我が子を失った苦しみを深める可能性も高いわけで...。この辺り、アレクサンダーの考えていることはよく分かりません。

サネも、途中から急に"良い母"に変身して、変な感じがしました。最初に登場する場面で、ユーフスが置かれている状況についてあまり問題を感じていない風でしたし、その後のトリスタンと遣り合う場面についても、ソーフスよりトリスタン優先な感じがしましたし..。それが、急に愛情にあふれる母になった感じがして...。トリスタンと離されて目が覚めたってことなのかもしれませんが、変化のきっかけが分かりにくかったです。

シモンの変化も唐突な感じがしました。まぁ、物語全体のバランスを考えれば、シモンに時間を割いている余裕はなかったのかもしれませんし、この部分はアッサリ流しても物語全体に対する影響は少ないって判断なのかもしれませんが...。

と、結構、あり得ない展開があって、テーマも重苦しいのですが、不思議と作品の世界に惹きこまれました。いくら何でも...と思いながらも、妙にリアリティーを感じてしまいます。

アンドレアスは、かなり馬鹿げたことをしてしまいましたし、それは間違いなく"罪"です。けれど、アンドレアスの行為がなければ、ソーフスが死んでいた可能性も低くありません。アンドレアスの行動があったから、サネはトリスタンから離れることができたのだし、ソーフスへの愛情も呼び覚まされたのでしょう。2人の今は、アンドレスのお陰とも言えるでしょう。

相当に悲惨な物語であるにも拘わらず、ラストに希望が見えるのは、アンドレアスの行為があったからこそのソーフスの姿が描かれるからなのでしょう。

人は簡単に善と悪に分けることができず、世の中は簡単に割り切れるほど単純ではなく、思いのほか理不尽だけれど、(もしかしたら、それだからこそ、)人は小さなことに光を見出し、希望を感じ取ることができるのかもしれません。

本当は、こんな強引で方に触れるようなことをしなくても子どもを救える社会的なシステムが必要なのです。特に人口の減少が加速している少子化日本においては。折角生まれてきた数少ない子どもの命が虐待で奪われていくのは、かなりな社会的損失となるワケですし...。


公式サイト
http://www.yurikago-movie.com/


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インポート、エクスポート

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ウクライナ人のオルガは、幼い子と母親との3人暮らし。看護師として働いていますが、病院の一方的な給与カットが続き、生活は困窮していました。他の仕事も探しますが、結局はオーストリアへ単身で出稼ぎに行くことになります。一方、オーストリア人のポールは肉体を鍛えることに熱心ですが、仏頂面で無口、いささか引きこもり系。仕事をしても続かず、結局、義父の仕事を手伝うことになります。ポールと義父はウクライナの各地を車で巡ることになり...。

オルガはウクライナからオーストリアへ。ポールはオーストリアからウクライナへ。"仕事をして稼ぐ"という同じ目的を持ちながら逆に移動します。2つの物語が交わったり、触れ合ったりすることはなく、それぞれがそれぞれに淡々と進行していきます。

ウクライナとオーストリア2つの国を舞台に、それぞれの国の貧しい労働者たちの厳しい生活が描かれます。オルガもポールも、それぞれに生活を何とかしようとしながら、なかなか思うようになりません。分不相応な贅沢な夢を描いているのではありません。ささやかな幸せを得たいと願っているだけです。けれど、厳しい現実に囲まれ、努力は成果に繋がりません。

2人に近付き過ぎることもなく、突き放すこともなく、淡々とそれぞれの日常が、厳しい経済環境、荒れた住宅、寂れた感じの酒場...といった彼らを取り巻く状況とともに描かれます。何かを声高に訴えるではなく、抑制の効いた描写ですが、それが、却って、経済格差や差別といった2人の生活を厳しいものにしている背景を浮かび上がらせています。

社会を相手にしても、ちっぽけな存在でしかない2人が勝てるわけもありません。思うようにならない現実に打ちひしがれ、プライドを砕かれ傷つく2人。けれど、けれど、2人とも絶望はしていないし、人生を諦めてはいません。何とか新しい一歩を踏み出そうとする姿が見られます。

厳しさが丁寧に描かれ、その分、そこから立ち上がろうとする2人の姿に光が感じられました。人生なんて思うようにならないもの。けれど、そこから立ち上がり続けることが大切なのかもしれません。かなり難しいことではありますが...。



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物語る私たち

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物語る私たち [DVD]/マイケル・ポーリー
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サラ・ポーリーが自らの出生と亡き母の恋を綴るドキュメンタリー。サラが11歳の時、夫と5人の子どもを残して亡くなった母、ダイアン。自分だけが父に似ていないことに不安を覚えた彼女は、母の人生を探り始め...。

両親がいて、その2人の間にできた子どもたちがいるというのが、私たちが普通にイメージする"家族"の姿ではあるのですが、現実には、そうでない"家族"も結構あるワケです。3組に1組が離婚しているといわれる今の時代です。離婚、再婚が増えれば、当然、ステップファミリーも増えるでしょうし、結婚と出産が結びつかないことが多くなれば、父か母がシングルで子どもと生活というパターンも増えます。普通に結婚して、普通に子どもをもうけても、夫婦の両方がずっと死なずにいられるとも限らず、ある日突然、シングルの親と子どもという形態になることもあるでしょう。そして、本作でも、ちょっと"イレギュラー"な家族が描かれます。

そこには、サラの父親がダイアンの夫ではなかったこと、サラはダイアンにとって望んだ子どもではなかったこと、堕すつもりでいたこと。サラにとって哀しい事実も多く語られています。随分、正直と言うか、率直と言うか、あからさまな感じもしましたが、そこまでの話題が出るのも、その事実にサラが耐えられると語り手が信じているからなのでしょう。所謂"ノーマル"な家族が温かい家庭を築くことも築けないこともあるワケですが、当然のことながら、イレギュラーな家族が温かい家庭を築くこともあるのです。

形はどうあれ、そこには確かな"愛"があったということなのだと思います。いろいろと物足りなさや不満や失望はあったとしても、それでも、理解しあい、受け入れあっていたのでしょう。愛とか幸福というものは、形によって生まれるのではないということ。どのような形の中にも、愛や幸せがはぐくまれる可能性があり、憎しみや不幸が顔を覗かせる可能性もあるのでしょう。意外な程、楽し気に語る人々の表情に愛が感じられ、その点が、本作の心地よさに繋がっているのだと思います。

そして、印象的なのは、自分に酔った感情的な"自分語り"に陥らない落ち着いた語り口。ダイアンも、マイケルも、サラも、俳優として活躍した"芸能一家"だという背景も大きいのかもしれません。サラが自分自身のルーツを探る作品となっていますが、決して、内輪話的な内容にはなっていないところに好感を持てました。マイケルも、サラの実父も、サラ自身も、真実を映画で語ることに対する覚悟のようなものを持っているのでしょう。

語られる内容もかなり率直というか赤裸々というか...。表現することを生業としてきた彼らだからこそ、自分の痛みを晒してまで表現することの意味を理解してもいたし、それでも表現することの魅力には抗えなかったのだと思います。

もちろん、サラが、しっかりと一人前の大人になっているから、ということもあるのだと思います。もっと子どもの頃にこの事実を知っていたら、冷静に受け止めることはできなかったかもしれません。

事実は一つなのでしょうけれど、その受け止め方は人それぞれ。個々の中にある"真実"が重ねられていくことで、一つ一つのエピソードに深みが加えられ、私たちは、その"真実"をより立体的に受け止めることができます。

サラの母、ダイアンについて多くのことが語られていますが、彼女が何を考えていたか、どうしてそのような行動をとったのかについては、あまり踏み込もうとしていません。他人があれこれ思いを巡らせたとしても、本当のところにはなかなかいきつけないということで、踏みとどまったのかもしれません。けれど、過去の8ミリ映像をフェイクで作り上げて挿入するところまでするのであれば、もう少し、ダイアンの内面に迫ろうとしてもよかったような気もします。

マイケルにも指摘されていますが、サラ自身は母について語ろうとしません。サラはあくまで"監督"。撮る側であって、語る側ではないということのなのでしょう。そして、その製作者としての姿勢こそ、父と母、育ての父から受け継いだものなのだということなのかもしれません。

かなり個人的な出来事について描かれているにも関わらず、本作で取り上げられている出来事と直接関係のない者にとっても興味深く観られる内容になっているのは、本作に、不幸な出来事から幸せな物語を紡ぎだす可能性を見ることができるからなのかもしれません。

こうしたある種、ゴシップ的な内容を第三者が観て楽しめる作品として仕上げるその力量は見事だと思います。お勧めです。


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