2006-01-29 21:12:04

縦から横へ、機械から身体へ

テーマ:知識政治
glocomの試みは、InterCommunicationの特集「情報社会の変貌:その可能性と不可能性」でも知っていたのだが、ほとんど読まずにほっぽっていたが、昨日、ウェブ上にも膨大な資料がアップされていることを知った。
ised@glocom

今日は、久しぶりにスカイプで話した友人と、民だの官だのという話もしたりしていたのもあって、経産省の村上さんのお話 をささっと読んでみた。(雪かきの筋肉痛をかかえつつ・・・)

もともと小難しい話をする人たちの集まりだから、しょうがないのではあるが、村上さんのお話も斜め読みではよくわからない。でも、無理やり感想を書いてみる。

まずは、内容のクオリティはともかく、官僚のスーパーマンさを思いしった。村上さんがそこまで考えることなのかな?とも思った。それこそ、彼自身が主張するように、縦割りではなく、もっと横のつながりをもって設計していれば、もっとわかりやすいモデルが作れたのではないかと思った。それでも、前にどこかの学会で聞いたOO省の発表よりは、面白かった。

一番面白かったのは、村上さんだけではなく、討論に加わっている人たちが、横につながる「企業」のあり方から、社会における個人のあり方まで、その新しい像をなんとか描こうと苦心しているところであった。

よく引用されるのが、飛ぶ鳥を落とす勢いの「Google」や「はてな」(はてなの近藤さんは議論にも参加)。

これらに関連して面白かった例が「情報財の再生産のコストが低くなった」ということ。東さんがたとえていたのは、昔は大金持ちしか全巻買うことができなかったブリタニカ百科事典は年間6千円くらいで手にはいるということ。当たり前のことなのだけど、「情報財」という言葉に置き換えてもらっただけですっきりする。

自分なりに言い換えてみると、智へのアクセスへの垣根が低くなった。ということだろうか。
智を独占することでパワーを持っていた企業や個人のパワーが相対的に小さくなったり、独占しない形で智を提供できる(サービス化と呼ばれたりしていた)企業やグループが影響力を持ちはじめているし、その傾向は進むのではないか、ということで話が進んでいたと思う。

たしかに、いろんな技術や商売(広告の話もあった)の傾向は、オープンでより良い社会の実現へ向かっていくような雰囲気で語られることが多い。しかし、そうした傾向が実現化していくとして、その中で市場が指し示すだけではない「目的」(「欲望」という言葉もつかっていたと思う)は何なのか?どこにあるのか?ということを考えるべきではないか、という東さんの指摘は刺激的であった。(その後、あまりこの問いには進んでいかず)

討議の中ではプラットフォームという言葉が使われていたけれど、コミュニティでもなく企業でもない、拠り所みたいなものをうまく創造することがポイントだと思った。と、書いてみて、東さんが「固有名」にこだわって議論していたのがなんとなくわかってきた。

情報社会のなかに「リアル」さ(固有名、ブランド、・・・)をどう演出するか。情報社会の問題は、かつての機械的な問題ではなく、とても生々しい身体的なレベルの問題になっているのかもしれないと思った。逆に、そうだからこそ、身体的な感度の高いサービスがもとめられるようになっていくのかもしれない。でも、それって何だろう?(ブログはそうかも)


この設計研のシリーズは、これをネタにいろいろ話し合ったらもっと面白いかもしれない。設計研プチ研に興味のある方はご一報を。
2005-08-06 23:54:18

コンテントからコンテクストに向う社会認識論

テーマ:知識政治

ひさびさに論文をとりあげてみる(三回目くらいかな)。久々に社会科学とは何か?系の分厚い本をめくっていたらこの論文がでてきました。こういうことをたまにしているのは、難しい(というか読みにくい)といわれることの多い彼のテクストを自分なりに消化しようとすることによって、「わかる」ことと「わからない」ことを確認したいがためである。こないだのサマースクールで、社会科学の哲学が専門のYさんのおかげで、フラーの位置づけがやっと見えてきたくらいなのだし。


Fuller, S. 2003. From Content to Context: A Social Epistemology of the Structure-Agency Craze. In: Alan Cica (ed.) What is Social Theory?: The Philosophical Dabates. London:Blackwell Publishers.

ある現象を分析するときに、個人の心とか行動とかの「作用」を分析する方法と、文化とか制度とかの「構造」の影響を分析するという方法の二つがある。これは、社会理論でも昔から議論される問題であり、これをフラーは、"構造-作用論の熱狂(Structure-Agency Craze)"とよんでいる。


おそらく、どんな問題やプロセスにも、StructureとAgencyの二つの観点から見ることができると思う。社会理論でなくても、私達は物事をそうやってとらえようとすることが多い。言い換えるならば、物事を大きな枠組みから見るか、小さな枠組みからみるかという違いのことである。


ギデンスの「構造化」理論は、そうした二つの観点をつなげる理論だということになっている。これは一見、有用そうな理論だし、私の知る限りでは、フレデリック・エリクソンの近著「Talk and Social Theory」とかイアン・ハッキングのフーコーとゴフマンをつなごうとしている論文などにそうした傾向がみられる(ハッキングの論文は、そんなに単純ではなさそうだが)。エスノメソドロジストといわれるような、今では社会科学の大きな派閥になっている研究群も大体はこの二つの枠組みをつなげるような努力をしているようにみえる。


実際、私が科学カフェや科学コミュニケーションなどに興味を持っているのも、人と人のミクロなつながりやコミュニケーションが何らかの形でコミュニティなり社会に影響を与えていくという単純なモデルをある程度信じているからでもある。そして、その逆もあると思っている。だから単純化していってしまうならば、、社会理論を援用しながら対人コミュニケーションの機微を読み解くという作業を通して、私達が影響下にある(あるいは想像している)社会構造なりが明らかになってくるのではないかと考えてしまう。また、本棚に並んでいる学術本や学部の先生達の本とかでも(例えば、Agency理論で有名なマーガレット・アーチャー先生とか)、基本的にはそういう方向の研究が多いような気もする。


しかし、フラーによるとこれらはほとんど物事を「記述」しているだけに過ぎないらしい。ただ、そういうことになっていますというだけで、なにも新しいことを言っていないということだ。つまり、私の意訳で表現すれば、「近頃の社会理論は、オルタナティブな道すじ(可能性?)を論じずに、一つの道すじについてオルタナティブな解釈を積み重ねているだけ(p.113)」という。社会理論は何をいっても現状と変わらない路線の議論に終始してしまっているという批判である。これは、科学哲学にも当てはまるらしい。


ここからの主張の理解度が低くなっていくのだが、私が理解した限りによると、最後に「歴史」をどう扱っていくのかということを考えているらしい。というのも、ミクロをみる理論もマクロをみる理論も、それぞれの主張の違いは、それぞれの考え方が違うというよりも(同じ文化資源を共有しているので)、どう未来を定義するのかという争い(Structureは「過去」と「ルール」を重視し、Agencyは「未来」と「変化」を重視する)のなかでの違いと考えることによって、それらの理論とは違う「第三の道」を選び取ることによって、歴史が不動のものではなくなり、今の「コンテクスト」をもっと考えていくことができるのではないかと提案しているのだと思う。つまり(注:ここからはさらなる曲解を含む可能性あり)、StructureでもAgencyでも、そういう社会理論は社会という「コンテント」を前提としてしまい、歴史を硬直化したものと捉えてしまうからよくないのだということだ。だから、つねに、特定の「コンテクスト」に当てはめて考えて、歴史を再解釈し続け、社会をどう捉えるかという可能性を探っていく(オルタナティブな社会観を示していくこと?)ことが大切だといっているのだと思う。


社会理論の哲学として考えるとどうしても小難しくなってしまうが、「コンテクスト」重視の社会認識論は、なにも学問の世界だけの話ではないはずだ。ビジネスをする時も、社会活動する時も、もしかしたら私達は「歴史」や「社会」というものを知らず知らずのうちにある種の前提としてしまうことで、新しい道すじ(未来)を考えられなくなっていってしまうことが多々あると思う。社会認識論者だろうと社会科学者だろうとビジネスマンだろうと市民活動家だろうと、あるいは科学者や科学コミュニケーターだろうと、常に「コンテクスト」を考え、柔軟性を持った仕事を様々な考え方と関わりあいながらやっていける人たちが、その罠を逃れることができるのかもしれない。しかし、そんなの可能なのだろうか。哲学者すらも(だからこそ?)、その罠にはまってしまう時代に。

2005-07-22 01:00:27

知識人論②:サルトルに学ぶ

テーマ:知識政治

存続が危ぶまれた、知識人論②。③はないかもです。


"The Intellectual"の中の知識人の例としてでてくるのがサルトルである。同級のアロンと並び、最後の章でも詳しく取り上げられている。その章とほぼ同じ内容はネットでも読める(英語です)。

http://www.project-syndicate.org/print_commentary/fuller3/English


 サルトルの実存主義ぐらいは、高校の倫理の授業で習ったと思うのだが、私は正直なところ「実存」→「なんか響が根源的そう→「難しそう」→(飛躍)→「暗い」という単純な思考回路をめぐり、その著作に触れる機会はなかった。 The Intellectualで語られているのは、サルトルが哲学だけでなく、小説も雑誌も新聞にも書いてたことや活動に熱心だったことである。 ちなみに、今年はサルトル生誕100年なのだそうだ。フランスではどんな振り返られ方をしたのだろうか。日本ではたしか、岩波新書がでてたと思う。これを機にサルトルについてネット上で読めるもの(日本語)で少し探してみた。


松岡正剛の千夜千冊 ジャン・ポール・サルトル

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0860.html


松岡正剛さんのサルトル論というかサルトルを読んできた回想は、かなり良いエッセーだった。松岡さんのサルトル体験とやはり同時代を生きていたというところに説得力がある。それにしても、彼らの世代はみんなマルクス・レーニン主義の経験があるんだなぁということ(インテリ学生だけかもしれないけど、数にしてみたらかなり膨大だろう)をまた感じてしまった。松岡さんは編集術なんて本(おもしろい本です)を書いているからといって、マルクスと無縁だったわけではないのだ。社会学者の大澤真幸さんも、昔はマルクスが共通の土台にあったからどんな人とでも議論ができたけれど(大澤さんの時は、まだかすかに残っていた)、今の若い文系学生はそういうものがないから大変だ、なんてことを書いていたけれど、確かに当たっている気がする。いまの学生達の共通経験はなんだろうか・・・「ポストモダン」かな。これは、つらい!


 サルトル論(菅野盾樹)

http://www33.ocn.ne.jp/~homosignificans/sartre.htm


そして阪大の菅野盾樹さんのサルトル論は、よりアカデミックな書き方。でも、「サルトルは、人間の意識が・・・」なんてくだりのところなんかは、松岡さんの文章とのつながりを感じる。サルトルが伝記を3つも書いているところも、何でも屋のインテレクチャルの属性になるのだろうか。

2005-06-29 06:07:05

知識人論① 知識人って・・・

テーマ:知識政治
<友人からの指摘で誤記を改めました(6/29)>

知識人論①とあるが、今後どれだけ続くかわからない。コレっきりで終わる可能性もある。


Fuller, S. 2005. The Intellectual. Cambridge: Icon Bookd Ltd.


フラーの本の中では、例外的に読みやすい本なのだが、正直、私はこの知識人論をもてあましている。本は読んだし、サマースクールで話は聴いてきたし、準備は万全で、かついろいろと重要な点を取り上げて勝手に議論してみたい気にもなっているはずなのだが・・・。


まず、果たして自分は「知識人」という属性についてどんなスタンスをとるのか?というところからして未だ定まらない身分であることがある。サマースクールの参加者の若い学生達もそのへんでとまどっていた様子であった。彼らの多くは、社会学とか哲学とか心理学とかを大学院レベルまでやってきてしまった人たちであり、彼らにとって学問とは「専門知識」なるものを身につけて、知識の「蓄積」に貢献するぞ、という意気込みを持っていると思う。しかし、フラーはどうやらそういうアカデミックは、浮世離れしてしまって役に立たないのだから、知識の「蓄積」ではなくを「流通」させることのできる知識人が必要である、という主張のようだから、「これから修行だ」と構えている若きアカデミックたちにとっては少し拍子抜けしてしまうのかもしれない。


彼によると、知識人は、さまざまなメディアを使い、さまざまなオーディエンスを相手に自分のアイデアを流通させていかなければいけないという。例えば、サルトルはただ哲学をしていただけではなく、雑誌を立ち上げたり、小説を書いたりしてたよね、というのが証拠として挙げられたりする。また、仲間内の評価や大学のポスト(テニュア)にこだわるアカデミックが多いみたいだけど、歴代の思想家でアカデミズムと折り合いが悪かった人たちはたくさんいるじゃないか、といったりもする(例えば、マルクス)。


だから、フラーの知識人論を聞いていると、現在のフレームワークでこれから競おうと思っている若きアカデミック志望者にとっては、「そうかもしれないなぁ」という同意と、「じゃあ、どうすればいいのよ」という疑問がないまぜになって、落としどころがわからなくなってしまうということになってしまう。

しかし、まわりを見回してみると、学位がなくたって、大学の外にだって、社会に大きなインパクトを与えている知識人はたくさんいることがわかってくる。というのも、フラーの主張の一つである。そうして、知識人になるための戦略を学ぶことによって、知識人の裾野を広くしていこうということなのだろうか?

フラーのいう知識人は、なにもテレビによくでてくる評論家だけではなく、政治家やジャーナリストやライターやテレビ番組制作者・・・などなどいろんな人たちを含んでいる。いま注目をあびつつある(?)科学コミュニケーターならぬ、知識コミュニケーターなんて言い方のほうがしっくりくるのではないか。実際、いまだ何者なのかよくわからない科学コミュニケーターもこの知識人論に照らし合わせて考えてみると結構しっくりくるのではないかと思っている。特に、これから大学院で教育される予定の未来の科学コミュニケーターたちにとって、科学技術コミュニケーターになるのだというよりも、新しい時代の知識人になるのだ、といわれたほうがモチベーションも誇りも高くなるような気がする(その分、薄給でも働くようになるかもしれないという問題もある)。もしかすると、科学技術コミュニケーターの隠れバイブルとして、この本を位置づけられるかもしれない。

つづく(予定)。

2005-05-17 08:00:30

知識人は絶滅種なのか?

テーマ:知識政治

私の所属する社会学部が、Annual Sociology Debateなるものを開催した。そんなものやってたのかと思っていたら、今年が第一回目だという。そして、第一回目のテーマは、"Is the Intellectual an Endangered Species(インテレクチャルは絶滅種なのか?)"。討論者は、最近それぞれが「インテレクチャル」についての本を書いた、我らがスティーブ・フラー社会学部教授と、ケント大学社会学部教授のフランク・フレディ。


Steve Fuller. 2005. The Intellectual: the positive power of negative thinking...
Frank Fredi. 2004. Where Have All the Intellectuals Gone?: Confrinting 21st Century Philistinism.


討論会は、二人がそれぞれ20分~25分ぐらいずつしゃべり、その後に会場からの質問に二人が答えるという形式だった。ぱっと聞くと(とくにインテリというすこし皮肉のこもったカタカナ用語を使用する国からやってきた私にとっては)、インテリによる、インテリのための、インテリ話という完全に自己完結した会なのかと思ってしまいがちだが、かならずしもそういうことではなく、「知識社会」といわれる現代において、知識人の存在にはどんな意味があるのか、あるいはもっと広い意味での知識って何なのか、という問題とつながってくるのである。だから、インテレクチャルといっても大学に勤める人や科学者、テレビや雑誌にでてくるひとだけでなく、もっと広い意味で考えたほうがいいようだ(フラーの本では、より理念型として扱われているようだが)。けれど、やっぱり大学の人たちばかりが集まっており、当事者性がたかいので、討論も「(大学人である)我々は~(We...)」という話し方が増えていったのも確かなのではあるが。。。


私自身にとっても、暗い未来が予見されている(最近の内田先生のブログでも日本のインテレクチャルの悲惨な現状についての一事例が報告されていた。またまたTBさせていただく。)大学や知識人社会とどう付き合っていくのか(大学人になるとしても、大学外にいくとしても)という差し迫った問題でもあるので、耳をダンボにして聞き入った。会場も満員で200人以上いたかもしれない。


フランク・フレディの話しは、インテレクチャルの世界が、いかに"culture of flattery(お世辞の文化)"であり、"conformism(体制順応)"にまみれており、現世的であるかということであった。よくいわれる大学の市場化もしかり、人々を小バカにしたような選挙活動やマスメディアもしかり、子供だましの科学館(ボタンを押しているだけ)もしかり・・・、ということだそうだ。つまり、本の副題にもあるように、ここまではびこった"philistinism(俗物根性)"とどう立ち向かっていくのかということを問題としているようだった。私の感想としては、フレディは、どうやら大いなるインテレクチャルの復旧(復活とはいわないでおく)を呼びかけているようなのだけど、それにしてはインテレクチャル社会の負の側面を強調しすぎだと思った。それは現実なのだろうけど、インテレクチャル悲観論だけであって、ビジョンに欠けるといったところ。でも、さすがに頭の回転と受け答えはすごいと思った。


それをうけた、スティーブ・フラーの話しは、「インテレクチャルの未来は明るいのではないか。でも、アカデミアの中では逆だけどね。」という一言からはじまり、プロタゴラスだって、ボルテールだって、・・・・サルトルだって、マルクスだって、歴史上に名を成して、社会に影響をあたえてきたインテレクチャルはみんなアカデミアとは折り合いが悪かったじゃないかい!という話しや、20世紀の後半になっていままでにないくらい多くの人々が大学を卒業して、アカデミアの外で活躍しているじゃないか!という話を出してきて、アカデミズム悲観論を一蹴する(シニシズムは湛えたままだが)。その上で、インテレクチャルの重要性とは何かという核心に進んでいく。特に以下の二点のことについていっていたと思う。


まず、一点は、インテレクチャルは、自分の領域だけの学術雑誌や大学の授業だけにとらわれずに、さまざまな言葉をつかって、さまざまなメディアを通して、さまざまなテキストで、さまざまな長さで、さまざまな理由のために発言をしていかなくてはならないという主張をしていた。「scholatism(スコラ学的な内向きのメンタリティのことだと思う)」に陥ったり、ギルド(組合)を作ったりしないで、できるだけ多くの人達に自分が生産した知識をとどける。つまり、(今回はこの言葉を使っていなかったが)パブリック・グッド(公益)のために仕事をしていかなくてはならないということであった。


そして二つ目は、アカデミアのテニュア(終身ポストのこと)の意味について。フラーいわく、アカデミズムの歴史をひもとけば「テニュア」ができたのは、"taken-for-granted(当然だと思われている)"な事柄を、インテレクチャルが不断に批判していくことを保証するためにできたのだという。つまり、インテレクチャルがテニュアにまもられながら、硬直した保守的な考え方やシステムを常に批判していく、そういう機能が期待されていたというのだ。大学は権力の手先と考えている人にはちょっとおかしく思えるかもしれないが、フラーがいうには、大学は、批判精神(クリティシズム)を担保する場所として歴史上存在してきたというのだ。残念ながら、今のテニュア制度はそういう風には、働いていないことが多いのだという。


これだけではなんだかよく解らないが、私なりにまとめると、フラーが言いたかったのは、インテレクチャルは、パブリックのために(そういう意味では市場化には賛成していると思う)働き、そして批判精神の義務の遂行を矜持としなくてはならないという事だったのだと思う。


後半の、質疑応答では、フロアーからインテレクチャルの「市場化」(大学の学部が企業にスポンサーされていることとか)について、学術誌に論文を載せること(パブリッシュ)について、「犠牲」について、「マスマディア」との関係について、などの質問がでて、面白いやりとりが展開された。しかし、あまり覚えていない(聞き取れないところもあった)ので、ここもフラーが応答として述べた二点だけを記憶と本に頼りながらまとめてみる。


一つは、インテレクチャルのアカデミック・フリーダムを考えるときに、"freedom of teach(教育の自由)"だけでなく学生の"freedom of learn(勉学の自由)"もセットで考えなければならないという主張。これは、フラーが「大学」をインテレクチャルの牙城として一押しにする理由でもあるらしいのだが、「研究」だけでなく「教育」にも重点をおいていかなければ、パブリック・グッドにつながっていかないということらしい。つまり、(私の勝手な解釈になってしまうかもしれないが)インテレクチャルにもとめられているのは、「知識の生産」だけではなく、「知識の分配」であり、それが「教育」の重要性につながってくる。具体的には、大学院生には知識の生産の仕方だけでなく、つまり教育方法(つまり知識の分配の技術)も教えていかなくてはならないのではないか、というコメントをしていた。


少し話しがずれてしまうが、この線で考えてみると、日本の科学界・教育界がやろうとしているらしい「科学コミュニケーター」の育成というのが少し的をはずしたプロジェクトなんじゃないかと思えてくる。もちろん、科学ジャーナリストや科学コミュニケーションを専門とする仕事はもとめられるようになってきているのかもしれない。しかし、だからといって科学コミュニケーションという専門を学ばせるのではなく(そもそも科学コミュニケーションの専門なんて無いし)、もとからあるそれぞれの領域のなかで教育の仕方なりコミュニケーションの仕方なりという、知識の分配の方法を教えていくのが本当なんじゃないかということだ。だからこそ、自然科学でいえば、技術のスピンオフばかりを考えてないで、教育面も加味したカリキュラムを制定すべきだというのがフラーの主張だったはず。人文系だって、教職をもっと取りやすくしたり、教える機会をもっとあたえたりすればいい(これは私見)。そうすることで、大学や研究職にありつけたひとも、そうでないひとも、知識の分配をしていく。それが、知識社会の良好な循環をもたらすのではないか(governance of science)、というのがフラーの主張の私なりのまとめである。


話しをもとに戻して、もう一つ印象に残ったのは、インテレクチャルの仕事が楽になるはずがないということ(フラーは、「リスキーな仕事だ」という言い方をしていた)。そうだとは思っていたけれど、まともに言われると「それじゃ、ほとんど修行僧に成れと言うことなのか・・・」と思った。しかし、少なくとも必要とされ存在を認められていれば、修行僧としても幸せなのだから、そのための戦略と信条を持ってやっていかなければならない、といいたいのだろう。おお、なんてロックンロールな仕事なんだ!!


でもね・・・。・・・は想像にお任せいたします。

2005-04-19 00:06:56

アカデミズム内アクティビズム?(メモ)

テーマ:知識政治

六月初旬,バーミンガム大学でこの本のCary Nelsonが講演をするらしい.

 

 Office Hours: Activism And Change In The Academy (Paperback) by Cary Nelson, Stephen Watt http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/0415971861/qid=1113836535/sr=1-1/ref=sr_1_1/103-4574824-1115810?v=glance&s=books

 

ネグリの「マルチチュード」と一緒に薦められているけど...

とりあえずメモ.

2005-03-30 08:16:15

大学の資金集めと大学の価値

テーマ:知識政治
The Guardianなどの新聞は,新聞本体とは別にG2とかT2(Timesの)とかの読み物中心の新聞がついている.とりたてて面白そうなニュースがない場合は,そちらの方をまず手にとることになる.

●First, find your millionaire :Universities are taking lessons from America on raising money from former students. By Harriet Swain
http://education.guardian.co.uk/egweekly/story/0,,1446887,00.html

今日も,一面の写真になっていたインドネシアの地震に驚かなかったわけではないが,なんとなくG2をパラパラめくっていた.すると,なにやら見慣れた風景が目に飛び込んできた.うちの大学のキャンパスの写真であった.記事の要旨は,イギリスの各大学が資金集めに力を入れ始めたことを伝える記事.国庫からの資金が細りつつあるなか,卒業生からの資金援助が重要視され始めているのだ.そこで何故うちの大学かというと,ここWarwick大学はアメリカナイズされた大学のさきがけであり(学長もアメリカ人らしい),資金集めのプロとしてアメリカのトップ大学で活躍してきた人を雇っていることがフューチャーされていたのである.その担当者の弁で興味深かったのは,「お金はあるところにはある」ということ.「でもねぇ,おいそれとこんな中途半端に田舎な大学に寄付なんて」と思って読み進めていると,イギリスの資産の半分をを5パーセントの人が持っているという数字にでくわす.たしかにあるところにはあるのかもしれなんなぁという気がしてくる.LSEとかOxbridgeとかの有名どころにはは,かなりの額の寄付があるみたいだ.

しかし,そうしたお金持ちの人たちからどうやってお金をひきだしているんだろうか.彼らは,大学の価値をどうプレゼンしているのだろうか.この大学の研究と教育の評価は低くはないのだが,対外的にはアーツセンターとかカンファレンス施設とかビジネススクールとかサイエンス・パークとかが「売り」になっているような気がしてならない.実際,ビジネススクールは立派な建物だったりするし...

タイトルにしたものの,ここでは大学の価値についての議論には立ち入らないことにして,資金集めということで思い出したニューヨーク市立図書館について触れるにとどめる.この巨大な図書館コンプレックスの一つには,わたしも昔潜入したことがあるのだが(そのときはユダヤ系文書のところにはいりこんで,黒ずくめにあごひげというジューイッシュのかたたちの一群に出くわすという貴重な経験をした),その本当の凄さを知ったのは,この岩波新書を読んでからである.

菅谷明子著「未来をつくる図書館 -ニューヨークからの報告-」

この本で報告されているニューヨークの公立図書館(4つの専門図書館と85の分館の複合体をさす)は,数字だけをみても年間予算2億8000万ドル,スタッフ3700人,来館者年間約1500万人といった具合だ.とくに驚いたのは,その集金能力.円にすると億単位で寄付が集まるのは,図書館側のマーケティング能力や企画力,メディアのたくみな利用もさることながら,図書館が地域の文化や経済にとって重要な存在であるという理解が社会に浸透しているからなのだと思い至る.しかし,こんな図書館の近くに住んでみたいと切に思う.そして,万が一お金持ちになったなら,多くの寄付をしてみたいと思う.

そんな,幸福のサイクルに大学もはいれたらいいのだけど,そのためには,おそらく,このニューヨークの例はあんまり役にたたなくて(あそこは,もともとモノと金に溢れているところ),地道にひとを育て,地域にアピールしていくことが肝要な気がする.うちの大学はなんか見失っている気がする.すくなくとも自分が,宝くじとかが当たってお金持ちになったとしても寄付したいなんて思わないなぁ.
2005-03-15 05:45:31

ウィーンから,知識論的市民権

テーマ:知識政治
ICUの大先輩でもある平川さんのブログ(いつも拝見させていただいています)に初トラックバック.

ここで言われている,知識論的市民権(epistemic citizenship)は,まさに,前回エントリーのスモール・トークの実践なんかが想定する市民の理念型なのかもしれない.しかも,おなじような意味で使われている科学的市民権(scientific citizenship)よりも,知識論的市民権の方がなんだかよくわからない分,広い解釈が可能だから,いいネーミングな気がする.

「公共的問題に関わる科学(public science)」についての公衆の議論や意見が政策にどうつながっていくのかということは,ここ数年来の「科学と社会の研究コミュニティ」の一番の関心だと思うが,いろいろと意欲的な試みがなされているものの,残されている問題もまだ多い.だから,ここまではっきり断言してるとちょっとカッコいい.でも,これを実現させていくとなると...

なんて思ったところで,少し思い当たる節があった.去年の今頃,ECSITE-UKというイギリスの科学館ネットワークが主催する小さなワークショップで聞いたウィーンにできる予定の新しい科学館だ.ひょっとすると,フェルト氏の自信の裏には,この科学館があったりするのかもしれない.しかし,科学館の名前を忘れてしまって,思い当たるキーワードで検索してもでてこなかった(パンフレットが少なくて,もらってこれなかったのが悔やまれる).それとも,たんなる記憶違いなのだろうか...
2005-03-11 01:31:44

「オーラ」から大学について考える

テーマ:知識政治
都立大のニュースは,やるせなさを感じてしまうが,こういうときは抽象論に逃げ込んでみるのも手かもしれない(学生の特権ともいえる).以下,ウチダ先生とフラー先生を下敷きにして大学について考たことを記す.ウチダ先生とT先生にTBさせていだだきます.

ウチダ先生いわく,

・・・大学というのは「ごちゃごちゃしたところ」である。
複数の価値観が混在して、それが対話し対立し和解し妥協する「コミュニケーション・プラットホーム」である。
そのコミュニケーションの運動性だけが大学のアクティヴィティを支えることができる。

その点において高等教育は、初等中等教育と差別化される。
初等中等教育までは、同一の価値観をもち、同一の制服を身につけた、同一の家庭環境の子供たちが、同一のカリキュラムで、全級一斉になされる授業によって、できるだけ同じタイプの進路を選択することが理想とされる。
少なくとも親たちや教師たちはそれを望んでいる。
でも、大学は違う。
大学で行われている教育の質についての汎通的・外形的な査定基準というものは存在しない。
大学の価値は大学自身が基礎づけなければならない。
大学の価値は「おのれ自身の価値をみずから基礎づけようとしている努力の総量」によって計測されるしかない。
それを私は「強度」とか「オーラ」というわかりにくい言葉で表現しているのである。・・・


ウチダ先生の卓見はいつもながらなのであるが,ここではあえて先生のいう「オーラ」についての議論をひきのばしてみようと思う.ネタは,わたしの指導教官のスティーブ・フラーの「大学論」の講義録である.

フラーは,大学について,ひとことみこと言いたい人らしく,その著書のThe Governance of Scienceをはじめ,その後もいたるところで書きちらし,しゃべりたおしているようだ.わたしは常々,この類稀なインテレクチャル(アメリカ出身イギリス在住)の「勢い」を肌で感じていただきたいと思っていたのだが(彼の著書はとてもわかりにくく書かれているため,とっつきにくい),どうやら本人もそう感じているらしく,ホームページにいくつか講義・講演の録音を公開していることを最近発見した.
http://www2.warwick.ac.uk/fac/soc/sociology/staff/academic/fullers/fullers_index/audio/

大学に関しての講演録が三つも!これらを部分的に聞いて,わたしが理解したところによると,フラーの主張は以下のように要約(かつ意訳)されると思う.

▼大学の理想は,「研究」と「教育」の統一である(という古典的理想を擁護している)
▼大学をは「知識生産」の場と化してしまってきている('multi service providers'である.science parks, diploma mills)
▼こういった傾向は冷戦後に特徴的(relevance重視のモード論も的をはずしている)
▼大学は公共の利益(public good)に奉仕するべき→教育の意義
▼先端研究プログラム(=研究)よりもカリキュラム委員会(=教育)が重要(←誰が得をするのかを考えれば一目瞭然.前者は少数,後者は多数)
▼知識の生産と知識の配分ができる場所は大学ぐらい
▼大学は創造的社会資本破壊(creative destruction of social capital)をすべし(ここは,イマイチ理解してないが,おそらく,資本の分配とか福祉経済が念頭にあると思われる)
▼研究と教育の測定(measuring)が,我々自身の中にある敵である

これだけではなんのことか余計わからなくなってしまうが,そのまま先にすすんでしまう.
ウチダ先生とフラー先生のすり合わせに試みてみたい.

まず,フラーは,ウチダ先生のおっしゃている,「大学で行われている教育の質についての汎通的・外形的な査定基準というものは存在しない。」と,ほぼ同じようなことをいっており,それが,「研究」と「教育」のアンバランスさにつながっていることを指摘している.フラーが,「昨今,COEだとか公募採択数だとか,研究を基準とした計り方で大学の価値を判断しようとしている動きがあるが,それでは教育という大学のもう一つの機能がおろそかになってしまうぞよ」といったようなことを為政者や大学関係者に向けてしゃべているのに対し,ウチダ先生は,研究の話は望んでいない,教育こそに関心がある親御さんや受験生に向かってしゃべっているというスタンスの違いだけであると思われる.

また,ウチダ先生の「大学の価値は大学自身が基礎づけなければならない」というところも,フラーの「カリキュラム委員会」重視とつながっているといえなくもない.つまり,カリキュラムには大学の理念なり方向性なりがおのずとあらわれるものであり,それが大学による「どんな人間を育てていくか」ということのマニフェストになり,すなわちそれが大学の「強度」とか「オーラ」につながっていく,というつながりを見出すことができるのだ.

そして,少し大げさで大上段なフラーは(少し大げさで大上段にしないと為政者は耳を傾けないから?),それから,大学の「オーラ」っていうのは,実は「公共の利益(public good)」にあるのですよ,という主張にまで踏み込んでいると思う.この「公共の利益」が日本語にしろ英語にしろ,扱いづらい概念で,ほとんど「オーラ」と同義になってしまう感じはあるのだが,要は,「(この)大学は,世のため人のためになるような人を育てていくんですよ」ということを,社会に納得させることにあるのだと思う.言い換えれば,

では,社会に納得させるとは,どういうことか.それは,大学だけの問題なのであろうか.もしも「オーラ」=「公共の利益」と仮定ができるならば,大学の「オーラ」の位置づけは,大学だけの(そして予備校の)自助努力にまけせておくだけではいけないような気がする.大学はどういうところなのか,社会はどういう大学を必要としているのか,という議論は,大学内だけではなく,大学の外でも,なされるべきことなのだと思う.こうした主張は正論として存在していたとは思うが,「エコノミズム」の席巻する世情をかんがみると,政府も政策立案者も国民も,大学についてちょっと考えてみる時期に来ているのではないかと思われる.大学こそ,「100年の計」に値する課題かもしれない.それこそ,ポリシーメーカーなりインテレクチャルなりにとって,大学については,イギリスの高等教育改革や日本のCOEなどとは一線を画す仕事が必要とされているのだと思う.(余談だが,そういう時代だからこそ,領域間,サブ領域間のギャップを埋める人たち,すなわち「社会認識論者」が必要だ,というのが,フラーの常套句)

大学で学んだエリート(と今やいえるかどうかは別として)が「儲ける」のがみえみえなら,大学は社会から見放されるし,彼ら彼女らが役に立つという(「役に立つ」は全く逆の意味でも使われてしまうから使い方が難しい)「オーラ=パブリック・グッド」が納得できれば,社会は大学に喜んでお金(授業料なり税金なり)をつぎ込むのではないか.そんな夢物語かもしれないシナリオについて考えてみることが,現在,必要なのだと思う.それは,大学だけの問題ではなく,我々がどういう社会を作っていくか(フラーにいわせれば「規範性の問題(normative question)」)という大きすぎるかもしれない問題につながってくる,ゾッとするような緊急事態なのである.
2005-02-12 18:50:26

知識の「集約」から「再分配」へ

テーマ:知識政治
お手伝いしているメルマガの編集後記に載せてもらったメモを補足してブログにアップします(メルマガ発行人に了解済み).先週のニュースなので,今週も関連ニュースがありますが,すこしだけ追加しています.(◆意見●ニュース▼ニュースの一部or要約)

>>本文<<
◆イギリスで,学術情報の公開について,政府・議会で議論がなされているニュースがありました.イギリスは,オープンソース化に向かっている雰囲気です.一部の大学では,教員の研究成果に無料でアクセスできるようにシステムを整えているようです.また,生命医療研究では世界最大級の研究助成財団であるイギリスのウェルカム財団もオープンパブリッシングについて積極的です.

●Open access moves a step closer
http://education.guardian.co.uk/higher/research/story/0,9865,1403747,00.html

◆EU・アメリカでも同様の議論がなされています.(先日,NIHがオープンソース・パブリッシングをすすめることを表明したそうです@The Economist) 欧州委員会は,学術情報の公開についてのレポートをまとめているところだといいます.Elsevierなど,学術情報の出版を生業としているところには痛い話なのでしょうが,社会にとって研究とはなにか,特に大学も含めた公共機関における研究は,どういうものであるべきなのかということを再考する機会でもあると思います.ちなみに,コンピューターの世界での「オープンソース」とは何かというまとめとして,下のようなブログも発見(内田先生の親友).

●オープンソースの現在(ヒラカワ・カフェ店主軽薄)
http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/?ctgy=1

◆研究情報の公開において,ホットな話題は生物学的な情報の公開についてです.なぜなら,現在のところ,生物学的な情報は薬や作物の開発に直接つながりやすく,莫大な富を生み出す可能性があるものと思われているからです.そんななかで,オーストラリアからのムーブメントで,「オープンソース・バイオロジー」が始まるというニュースがありました.巨大製薬会社のあるアメリカやイギリスからではないムーブメントではないところが意味深です.

●「オープンソース・バイオロジー」まもなく始動
http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20050131305.html
▼生物学研究に関してオープンソースの方法論を提唱するオーストラリアの組織『バイオロジカル・イノベーション・フォー・オープン・ソサエティー』(BIOS)が、知的所有権を侵害することなく、生物学上のデータの取り扱いに関する制約を撤廃することを目指している

◆こうした問題は,知識の「集約」と「再分配」の問題とみることができます.これまで,研究活動とは,すなわち知識の「集約」のことだったと思います.特に近代型の大学や企業研究所においては,知識がどれだけ「集約」できるかが鍵となっていたと思われます.しかし,科学コミュニケーションの観点から考えるならば,集められた知識をどう社会に還元していくかという「再分配」の問題の方が重要になってきます.なぜなら,研究活動や経済活動が公的な側面を少しでも持つのならば(e.g.利益重視の企業も社会の損失になることをしていいわけではありません),知識を一部に「集約」するだけでなく「再分配」し,より広く使えるようにすることも望まれるべきだからです.また,社会へ知識を「再分配」していくことは,より健全な行為だと思われますし,結果的に社会の信頼やサポートを得ることにつながってくると思います.

◆世の中は,善人だけではないのだから,知識を無用に公開・再分配してしまうと,それを悪用しはじめる輩がでてくるのではないかという指摘もあります.とても重要な点ですし,そういう事が起きないような対策も必要になってくると思われます.しかし,それだけで知識を「集約」させるか「再分配」させるかという大筋の議論の本質を見失うわけにはいきません.また,一方で「集約」が悪しき独占で,「再分配」が麗しき共生だというステレオタイプも避けなければならないでしょう.

◆情報の「再分配」の問題とそう遠くはないニュースとしては,マイクロソフトが新しい検索エンジンを開始しました(MSN Search).全検索の42パーセントを占めるGoogleの対抗馬を目指すようです.ネットや検索エンジンの発達によって,研究のスタイルやそれを受け止める側との関係も大きく変わってきました.ブログもそうです.自分自身も,「ブログ的不安(郵便的不安のパロディー)」を感じながらも,なんとか情報の「消費者」で終わりたくないという思いがブログへ向かわせているのかなぁと思ったりもします.

◆生物情報や検索エンジンという各論からまた知識情報という総論にもどしますと,情報公開という問題と同時に早急に考えなくてはならないのは,「大学」の存在です.イギリスでは,すでに大学からスピンオフする企業の数も増えつつあり,新聞の株価欄やビジネス欄の話題になることも増えてきました.

●University skin venture sold for £5m
http://education.guardian.co.uk/businessofresearch/story/0,9860,1403832,00.html

▼話題の多いビジネスマン(controversial bussinessman)の新しいベンチャー会社York Pharmaが,シェフィールド大学からスピンアウトした皮膚病の薬の開発をする会社Melecular Skincareを買収.

●Uncle Sam's out in front, but we're hot on his heels:UK technology transfer is a late starter that shows every sign of being a great success
http://www.thes.co.uk/current_edition/(要購読)

▼イギリスの大学の研究費はアメリカの39%にすぎない|カリフォルニア大学のレポートによると,ロイヤルティーの半分は70年代の発明.過去十年のものは10%にみたない|マラソンランナーを短距離に転向させてメダルをとりにいけというようなものか|それでも,昨年は25を越える会社が設立され,10社が上場した.良い兆しが見えてきているのではないだろうかという結語.

◆ニュースだけを見ていると,ますますお金を生む大学がもとめられるようになってきているのだと感じます.そして,それは知識のさらなる「集約」を意味すると思います.しかし,大学には研究だけではなく,教育という機能もあったはずです.思えば,大学における一番優れた知識の「再分配」は教育にあるのです.昨今,各方面で引用回数がふえてきた科学コミュニケーションとは,知識の「集約」という流れに異議を唱え,知識の「再分配」という視点を忘れてはならないのではないかという思いや危機感の表れなのかもしれません.

◆もちろん,知識の「集約」と「再分配」は二者択一の問題ではありません.バランスのとれた地点・方法は,どこにあるのか,粘り強く考えていかなければならない問題です.日本でも,もっと議論をしていかなくてはならないでしょう.なぜなら,この問題は少しずつ世界的なルール作り(明らかな欧米主導ですが)がはじまっているところで,日本も主体的に関わっていくべきだと思われます(してるのかな?).国際競争力というクリシェーで表現することもできますが,オープン・パブリッシングをはじめとした知識の「再分配」の問題は,それよりももっと大きな理念みたいなものを生み出すかもしれないからです.上記のオープンソース・バイオロジーもオーストラリアの発祥です.日本は,科学技術立国を標榜する国なのですから,今起きつつある情報の「再分配」という問題に対してユーロセントリックな意見ではない,もっとバランスの取れた行動を示していくチャンスのではないかなどと思うのです.
http://scicom.jp/mailmag/

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