2005-10-30 12:46:41

アカジャー

テーマ:ブログ

高校生ぐらいの時、ある評論家がいっていたアカジャーという言葉に魅了されていたことがある。アカジャーとは、アカデミシャン+ジャーナリストでアカジャーだ。しかし、それは単なる憧れとかイメージの域をでていないまま私の記憶の片隅に残されたままだった。


今日のCoSTEPの授業に登場してくれた粥川さんのお話しを聞いていて、ふとその言葉を思い起こした。粥川さんはアカジャーだ。


五号館のつぶやきさんも言及されているが、粥川さんのお話のなかで、興味深かったのが、ジャーナリストがどのような哲学(倫理?)をもって活動しているかというところが垣間見られたところである。特に、個人の利益(取材者も取材対象者も含めた)と公共の利益の間で、どこまで言っていいのか、という問題は生々しく、大変なマネジメント能力が要求されるのだろうと感じた。


アカデミズムの中にも、たとえば科学技術者倫理のような議論がある。もちろん、社会科学の研究でも倫理は(ethical considerationといわれる)、研究手法を学ぶときに口すっぱくいわれることだ。たぶん、意識としては研究全体の二割くらいをethical considerationに割くべきだという感じだ。いくら研究内容がよくても、ethical considerationが弱いものははじかれる。イギリス社会学会とかだと、研究許可をもらうために(たとえば刑務所とか病院の社会学)、書類やら申請やらで半年ぐらいを費やしたという話も聞いたことがある。


それぐらい、倫理で失敗したときの社会的損失(あるいは学問的損失)が大きいということなのかもしれない。たとえば、個人情報の保護に対する意識が高まっているが、そんな時にある研究者が研究目的で閲覧した情報の扱いを誤ったりしたらとんでもないことになる。たとえしっかりとした手続きをとって調査をしても、理解を得られないことも多いのだし。


 しかし、だからといって波風が立たないものだけを世の中に出していくだけでいいのか?いや、それでは意味がないだろう。ということが粥川さんの言いたかったことの一つだったと思う。


言い換えれば、クリティシズム=批判性とは何かという問題になってくる。「批判する人」というと、どうしても「うるさいひと」「なんでも反対するひと」「こまかいところにこだわるひと」というレッテルを貼られがちだが、私は、批判する人が絶対に世の中に必要だと思う。ジャーナリストなり学者なりの役割は、「批判性」をもって、過去を振り返ったり、横道を観察したり、未来を想像したり、モノを眺めたりすることで、日常的には見逃してしまうような社会のなかの「素晴らしさや可能性」と「ひずみや亀裂」の両側面を、見つけていくことなのだから。それが公共性を持っているということなのだろう。


科学技術の場合は、それが正の側面だろうと、負の側面だろうと、カッコにくくられて日常とはかけ離れた場所に置かれてしまうことが多いので、がんばって議論の場に戻していく作業が一層必要になってくるのかもしれない。


懇親会で粥川さんと一致したまとめをすると、物書きは「ロックンローラーだ!」。私は、まだまだ歌いかたも心得ていないので、まずは歌えるようにならねば。


<<追加情報>>

●調査とインタビュー関連のオススメ本

インタビュー術!(永江朗)

フィールドワークの技法(佐藤郁哉)

2005-10-27 23:56:34

活字復権

テーマ:ブログ

もう終わりそうな今日、
10月27日は「文字・活字の日」らしい。あ、そういえば、弟の誕生日でもあったな。

>弟よ、誕生日おめでとう!


今日から11月9日まで読書週間。ということもあって、新聞には書評関連の記事が勢ぞろいしていた。いちばん読んで嬉しかったのは、読売で小泉今日子と角田光代が対談しながら本について語っている記事だ。Switchかなにかの特集で小泉今日子の偉大さを思い知ったことがあるが、本についてこんなに楽しそうに語れる人だとは思わなかった。さすがに、あの函館出身の作家さんの奥さんだけはある。


そして、朝日の対談では阪大の鷲田清一氏がシカゴ大の日本文学・日本文化論の研究者であるノーマ・フィールド氏と対談していた。「2005年の新・教養主義」と銘うった二枚ぶち抜きの記事である。ノーマ・フィールド氏はこの一年間、北海道・小樽で生活していたらしい。世の中に対する彼女の強い危機感を鷲田氏がうまく受けて、なにがいま大切なのかということについて語り合っている。


なかでも、鷲田氏が、「誰が科学技術について考えるのか コンセンサス会議という実験(小林傳司著)」を選書にあげ、「対話のレッスン(平田オリザ著)」をあげ、そして自らがかかわっている「哲学カフェ」について多く語っているのが印象的だった。なんでも、哲学カフェのルールは、


・・・哲学の知識は使わない。十数人で、何について話すかを決める。偉い思想家の考えを繰り返さない。具体的な経験を引くことから始める。人の話は最後まで聞く。手を挙げて、指名されてから話す。


だけだという。こうしたルールのもとで話しはじめると、みんなが「自分を開いていく」のだという。これは、鷲田氏の長年のテーマ(専門の現象学ともつながるのかな?)でもある、他者とどうかかわっていくのかという問題にもつながってくる。私は、サイエンス・カフェも、同じような可能性を持っていると思っている。哲学カフェだろうと科学カフェだろうと、その場にいる人たちが、普段はあまり考えないようなことについて、普通のことを考えていない人たち=専門家をまじえて語りあうことでうまれる化学反応が、その「場」にいるひとたちにとっての勇気の種みたいになっていくのだと。


しかし、それと「本を読むこと」がどうつながっているのかについてはあまり考えたこがなかった。

鷲田氏は、哲学カフェのような他者同士が交流する場に触れつつ、


その場を成り立たせるためには本を読んでいないと。こう考えたらこうなるという思考の筋道をきちんと示している本。そして学問の外で起こっていることを当事者の声のままに記述している本。その両方です。一つの問題にこんな窓口や思考の回路があると知っていると、交通整理も少しは余裕が出る。


と言い切ってくれている。(まあ、活字賞賛の場なのであたりまえだが)

最近私は、コミュニケーションの活動や実践ばかりやって、活字を読むことをおろそかにしてもいいのだろうか?と考えていたところだったから、ストンと腑に落ちる説明だった。


これで、少なくとも鷲田氏の言う論理で活字を礼賛していくことができる。


今日は、きょんきょんと鷲田氏の言葉に勇気づけられた。まるで、2人が私のとなりで語りかけてくれているかのように。これも活字のおかげだ。


この秋は、活字復権といこう!

2005-10-26 22:41:42

インテリジェント・デザインは学校で教えられるべきか

テーマ:科学技術と社会

インテリジェント・デザインは、生命の起源をなんらかの知性(インテリジェント)をもったものが創ったと主張する考え方らしい。一般に進化論は通説のように考えられているが、アメリカではインテリジェント・デザインを学校で教えてもいいのか、ということで大激論になっている。もちろん、宗教的な背景もある。


現在、その連邦裁判が行われている真っ只中に、フラーが召喚された。科学史・科学哲学で学位をとった彼が、どちらを弁護したのかというと・・・インテリジェント・デザインの方だ。


英米の各紙でも取り上げられている。

http://www.guardian.co.uk/usa/story/0,12271,1599852,00.html

http://www.msnbc.msn.com/id/9805776

http://ap.washingtontimes.com/dynamic/stories/E/EVOLUTION_DEBATE?SITE=DCTMS&SECTION=HOME


フラーの主張は、インテリジェント・デザインもひとつの科学的学説と認められるので、学校でも教えられるべきだ。というもの。日頃から、進化論的思考に慣らされている身としては、なじみにくい考え方であるが、フラーがインテリジェント・デザインを擁護している理由は、新聞の記事に書かれていることだけではあまり見えてこない。


おそらく、彼が言いたいのは、科学の営みのなかでもマイノリティ(この場合、インテリジェント・デザイン)を迫害してはならない、ということ。


科学の歴史は誤りの歴史であったといった科学史家もいたが、いつ、なんどき、今、まさに真実だと思われていることに誤りが見つかるともしれない。その可能性を残してきたことが、科学の良さではないのかと。


つまり、ここでフラーはインテリジェント・デザインが正しいから、それを擁護しているのではなく、むしろ、進化論もインテリジェント・デザインも「誤りうる」可能性がある科学的学説のひとつとして考えるべきだといっているのだと思う。その方が、議論が生まれ、新しい考え方や学説が生まれる可能性があるのではないかというワケだ(と思う)。


インテリジェント・デザインを擁護するなんて、その道の(進化論というパラダイム下にいる)人にとっては、受け入れがたい考え方なのかもしれないが、科学って何だろうということを広い視野で真摯に考えてみると、意外としっくりくる主張なのかもしれない。あるいは、進化論の最前線で研究している人には、すでに進化論はそれほど確かなパラダイムでもないのかもしれない。


フラーなりの喧嘩両成敗をしているつもりなのだろう。サイエンス・ウォーズでも似たようなことをやっていたが、調停の仕方がよくわからない。どちらかについているようでいて、どちらも倒す!ってそれはとってもかっちょいいのだけど。。。


さてさて、来週の判決がどうでるのでしょうか。

2005-10-24 23:08:16

ランディさん、めっけ

テーマ:ブログ

アメーバで書いているほとんど唯一の理由である、ランディさんのブログが更新されなくなって久しい。


と思っていたら、exblogではじめているではないか!

http://bluecoyote.exblog.jp/

2005-10-20 00:38:39

タッキィの由来

テーマ:CoSTEP

科学技術コミュニケーター養成ユニット(略称 CoSTEP)のエントリーをする。


CoSTEPにかかわる前からのブログなので、なんだか気恥ずかしいし、あたらしいブログをつくろうかなとも考えていたのだが、実名を出しているわけで、前々から丸裸ということもあり、このままで行くことにする。


五号館のつぶやきさんの集合の合図にも遅ればせながらお答えして、トラックバックを打つ!


さて、本題はCoSTEPのラジオで私が持たせていただいている「Tackyのやさしいイングリッシュ」の話題だ。「いくら名前がTakeshiだからって、Tackyはないだろう」というラジオの聴取者からの声が聞こえてきそうなので、少しだけその由来を話してみたい。


私も、実はTackyと名乗るのには少し抵抗がある。いくら芸能界にうとい私といえどもあのTくんぐらい知っている。しかし、イギリスで生活していた時に、毎日のように顔をあわせる大家さんにどうしてもTakeshiを発音していただけなくて、しかたなくTakiでいいですよといったときからの私のイギリスでのニックネームだったのだ。そういうこともあり、この名前で通させていただいている。あやしいTackyという演出もおもしろいかなと。でも、Tackyの発音はタッキーではなく、むしろタキィなので、よろしくどうぞ。みなさん、そう呼んでいただいてもかまいませんよ。ちなみに中・高時代のあだ名はオカッキーだったなぁ。

2005-10-20 00:22:15

金融と地域社会

テーマ:ブログ

久しぶりに中・高同期&親戚のAさんとメールのやりとりをした。札幌にいる友人の相談というのがはじまりだった。


中・高の時は、どんな会話したのかもわからないくらいなのだが、いろいろと同じようなことを考えていることが解ってなんだかうれしかった。変わらないところと新しいところ。こういう再会ができるから人間って面白い。もっと勉強してこうって思う瞬間でもある。


私は科学技術とか、知識とか、大学とかと社会の関係について関心があって、もっと良い関係ってどんなもんだろってことを考えているのだけれど(最近は、とりあえず動いているという感じだが)、Aさんは、ずばり金融と地域社会が関心のようだ。金融もある意味、専門知識を要する技術だから、「科学技術と社会」という考え方の枠組みとあまり遠くない。というか、彼女の中では、かなりはっきりとしたビジョンがあるみたいだ。


彼女は、憧れの(笑)シンクタンクで働いているのだが、来春から政策大学院大学に行くのだという(北大じゃないよ)。なんか、おもしろいことやってくれそうだ!









2005-10-17 23:36:52

物語るということがテーマの本

テーマ:文化

先週末は、翻訳合宿だった。

ずっと前に下訳をやったまま、遠距離と忙しさを理由に、まわりに迷惑をかけ続けた案件である。


とても申し訳なくて、むしろ行かない方がいいのではないかと思っていたくらいのだが、みなさんが暖かく迎えてくれて、出来る限りでの仕事もやれたし、本の内容や解釈についていろいろと議論ができて楽しかった。


その本は、結構古いし、超有名人が書いたものというわけでもない。ある植物園のスタッフが頑張って書いた学位論文をさらっとまとめたもの、といった具合のものだ。


それでも、時が経つにつれて、私を含め訳者陣は、その魅力にひきこまれていっている感じがするのである。まるでスルメのように味がでてくるとでも言えばいいのだろうか。ミュージアムの性格や展示物の性質もその魅力だと思うけれど、ミュージアム(植物園)という現場で働く著者とその仲間たちが、ミュージアムの役割について真面目に考えたからこそなのだと思う。ミュージアムを訪れる人たちに伝えるためには「こうすればいいのではないか」ということが解ったようでいて、よく解らない。その「謎」になんとか迫ろうとしている。


ちなみに、その本のキーワードはnarrativeという。つまり、極単純にいってしまうと展示とか解釈に伴う様々な「物語」を意識しようということである。時代背景的にはいわゆる「大きな物語」が崩れ、科学の非神聖化がすすみ、多文化主義がもてはやされていたポストモダンの頃である。いろいろと評価ができる作品なのだろうけれど、この頃の問いや議論は、今でもまだ解決されていないものばかりなのかもしれない。

2005-10-10 11:06:48

ようやく一息

テーマ:ブログ

ここ数日は怒涛の日々だったけど、ようやく一息つけたという感じ。

こうして振り返ると、忙しさで頭と身体が混乱していたことがよくわかる。


自宅のネットも本日開通。

これでブログ更新ももっとできるようになる(はず)。


この十日間だけでも、ほんとーにたくさんの人たちと出会うことができた。

みなさん魅力的な方々ばかりでもっともっと話したいのだけれど、なにしろ時間が足りない!

ほんの数ヶ月前までは半ひきこもり生活をしていたわけだから、ものすごい変化だ。


こうした出会いも活かすも殺すも自分次第。

気を引き締めていきますよ。

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