アカジャー
テーマ:ブログ高校生ぐらいの時、ある評論家がいっていたアカジャーという言葉に魅了されていたことがある。アカジャーとは、アカデミシャン+ジャーナリストでアカジャーだ。しかし、それは単なる憧れとかイメージの域をでていないまま私の記憶の片隅に残されたままだった。
今日のCoSTEPの授業に登場してくれた粥川さんのお話しを聞いていて、ふとその言葉を思い起こした。粥川さんはアカジャーだ。
五号館のつぶやきさんも言及されているが、粥川さんのお話のなかで、興味深かったのが、ジャーナリストがどのような哲学(倫理?)をもって活動しているかというところが垣間見られたところである。特に、個人の利益(取材者も取材対象者も含めた)と公共の利益の間で、どこまで言っていいのか、という問題は生々しく、大変なマネジメント能力が要求されるのだろうと感じた。
アカデミズムの中にも、たとえば科学技術者倫理のような議論がある。もちろん、社会科学の研究でも倫理は(ethical considerationといわれる)、研究手法を学ぶときに口すっぱくいわれることだ。たぶん、意識としては研究全体の二割くらいをethical considerationに割くべきだという感じだ。いくら研究内容がよくても、ethical considerationが弱いものははじかれる。イギリス社会学会とかだと、研究許可をもらうために(たとえば刑務所とか病院の社会学)、書類やら申請やらで半年ぐらいを費やしたという話も聞いたことがある。
それぐらい、倫理で失敗したときの社会的損失(あるいは学問的損失)が大きいということなのかもしれない。たとえば、個人情報の保護に対する意識が高まっているが、そんな時にある研究者が研究目的で閲覧した情報の扱いを誤ったりしたらとんでもないことになる。たとえしっかりとした手続きをとって調査をしても、理解を得られないことも多いのだし。
しかし、だからといって波風が立たないものだけを世の中に出していくだけでいいのか?いや、それでは意味がないだろう。ということが粥川さんの言いたかったことの一つだったと思う。
言い換えれば、クリティシズム=批判性とは何かという問題になってくる。「批判する人」というと、どうしても「うるさいひと」「なんでも反対するひと」「こまかいところにこだわるひと」というレッテルを貼られがちだが、私は、批判する人が絶対に世の中に必要だと思う。ジャーナリストなり学者なりの役割は、「批判性」をもって、過去を振り返ったり、横道を観察したり、未来を想像したり、モノを眺めたりすることで、日常的には見逃してしまうような社会のなかの「素晴らしさや可能性」と「ひずみや亀裂」の両側面を、見つけていくことなのだから。それが公共性を持っているということなのだろう。
科学技術の場合は、それが正の側面だろうと、負の側面だろうと、カッコにくくられて日常とはかけ離れた場所に置かれてしまうことが多いので、がんばって議論の場に戻していく作業が一層必要になってくるのかもしれない。
懇親会で粥川さんと一致したまとめをすると、物書きは「ロックンローラーだ!」。私は、まだまだ歌いかたも心得ていないので、まずは歌えるようにならねば。
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