モロッコ旅の達人

モロッコ旅の達人
モロッコ専門ツアーオペレーターHikali Safariがモロッコの地域情報をご案内いたします。


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魅惑の国モロッコ専門ツアーオペレーターの岩間ひかるです。
旅人たちを魅了して止まないモロッコを巡る「フルカスタマイズのツアー」を提供しています。





私は青森県の津軽地方に生まれ育ちました。
津軽富士と呼ばれる岩木山を毎日見ながら、毎日元気に育ちました。
記憶は無いですが、一歳の誕生日に一升の餅を斜めがけして歩いたという話。
1升のお米でも大変なのに、水分を含んだお餅。当時から足腰が丈夫だったようです。
私のほっぺがチーク無しでも赤いのは、祖父母のりんご畑にいつも連れて行かれたからだとか。





天真爛漫と思いきや、実は引っ込み思案のところもありました。
知らない大人たちの前で自己紹介を促されたときには、
緊張のあまり泣き出してしまい、
妹が代わりに私の自己紹介をしてくれたこともありました。

強がるくせに、本当は泣き虫。



そんな私は大きな病気ひとつせず、すくすく大きくなりました。

幼かった私の心が最も弾んだのは、年に一度くらい行く家族旅行。
車で出かけるのが好きだった両親に連れられ、いろんなところへ行きました。
見知らぬ土地に足を踏み入れ、見たことの無い景色を目の辺りにしました。
感じたことが無い感覚を得られる体験は、とても刺激に満ちていました。



私の保育園時代からのコンプレックスは、夢が無いことでした。
お花屋さん?違う。
スチュワーデス?違う。
ケーキ屋さん?どれも違う。
保育園のお誕生日月に、カードに記入するために聞かれる度に
不本意な回答をしていたのを覚えています。


でも、小学校4年生のときに、生まれて初めてなりたいものができました。
それは宇宙飛行士でした。





ちょうど、アナウンサーの秋山さんがソユーズに乗って宇宙へ旅立った時でした。
「宇宙から見える地球って、どんなんなんだろう!」
「宇宙から地球を見てみたい!」と思いました。
毎日毎日、頭上を秋山さんが通るのではないかと、上を向いて通学していたものです。




小学校4年生のときに、父の一声で始まった夏休みのキャンプ。
蜩の無く森を背に、西海岸に沈む夕陽を眺めながら作るご飯。
新鮮な海の幸をいただきながら、キャンプファイヤーでの火遊びに心躍った瞬間。
強烈に記憶に刺さる体験をキャンプをとおして得ました。




次に両親のとったアクションは、ハワイへの海外家族旅行
我が家は決して裕福ではありませんでしたが、やりくり上手な母がコツコツお金を貯めて
私が中学2年生の冬休みに、初めて家族でハワイへ行きました。

街全体に漂う嗅いだことの無い南国のにおい。
浴びたことが無いくらい強い陽射し。
見たことの無いくらい美しいグラデーションの海。
ハワイで見るもの、触れるものすべてが強烈なインパクトでした。






すっかり海外に魅せられた私は、初のハワイから数ヶ月後、
故郷の町の姉妹都市先のオレゴン州のHood River cityでホームステイを経験しました。

他のみんなは日本人2人組だったのですが、
男女比の関係で私は1人で母子家庭へホームステイしました。

とても気遣い上手なお母さんと、
同じ歳には思えないほど大人びてサバサバしたテリーと
女3人の生活が始まりました。

なかなかうまく言いたいことが伝えられず、
英語で伝えることができないからと、話す言葉も少なくなっていきました。
すごく楽しいのに楽しみきれない日々が、はじめの数日間続きました。

でも、ダンスパーティーに行ってはっちゃけたり、
ゲームセンターで体を動かして遊んでいるうちに、
すっかり打ち解けて話せるようになりました。
日本の何かをプレゼントがしたいと思っていた私は、
キッチンを使わせてもらって肉じゃがを作りました。

初めてのIHヒーターで、思うようにうまく調理できず、
完全に火は通っていなかったと思います。
それでも家族は「おいしい!」と言って食べてくれました。

別れの時、泣くんだろうと予想はついていましたが、やっぱり泣きました。
これまで津軽弁の人としか話したことがなかった私が、
言葉の異なる人たちとハグをしている。
心の距離は近づいていました。

日本に帰っても、何度も何度も手紙を書きました。
青森の田舎町に居ながら、何度もアメリカで過ごした時間を思い出しました。

少し悲しくなる時もありました。
だけど、空を見上げると、東の空をずーっと見ていったその先に
彼女たちが暮らしているのだと思うと、なんだか気持ちが穏やかになりました。


その経験から、英語の勉強が楽しくてたまりませんでした。
りんご畑でアメリカのPOPSをラジオで聴きました。
夜更かししてビバリーヒルズ高校白書を見ました。
ハリウッド映画のビデオをたくさん観ました。

テスト勉強や受験勉強のお供は、ラジオから流れる「ジェットストリーム」。
深夜の雲海の遥か上空を飛んでいる気分に浸っていました。
青森の小さな田舎町で、私の心はいつでも海の向こうへ向かっていました。


時期を同じくして
「海の向こうで暮らしてみれば」というテレビ番組が放送されていました。

ジョンレノンのWOMANに載せて、海外で働く女性を追ったドキュメンタリーでした。
見知らぬ土地で、働きながら生きてる日本人が居る!
画面の中の女性たちに、強烈に憧れました。


高校入学



小さな町の優等生だった私は、自宅から1時間ほどかかる進学校へと進学しました。
そこは太宰治が先輩でもある、歴史ある進学校でした。
そこら中の優秀な人や個性あふれる人が集まってきました。

それまで挫折を味わったことがない私は、そこで初めて人生の挫折を経験しました。
要領が良くない私は、全然授業についていけないのです。
逃げるように、小学校からずっと続けてきたバスケットボールに時間を費やしました。






特に遊んだという記憶も無かったけど、高校生活はふんわり楽しく、
これといった捕らえ所が無いまま、あっという間に過ぎました。
そうしていても、選択のタイミングはやってきます。

私はあまり深く考えず、大学進学を選択しました。
選考したのは、唯一勉強していて楽しかった地理でした。
世界地図を見て、そこに暮らす人々の生活慣習を知ると
頭の中で想像が始まって楽しくなるのでした。
だから、地理の勉強だけはほとんど何の苦労も無くできたのです。


大学入学



東京にある大学での学生生活は、慣れ親しんだ親元を離れ、
東京都の西のはじっこの街での、一人暮らしから始まりました。

生活+学校という日々は、はじめこそ大変でしたが、
ホームシックを感じること無く送っていました。

友達もできて、体育会の部活もして、アルバイトもしてと、
徐々に自分の行動範囲を広げていました。

地理学科の授業では、
教授たちのフィールドワークの体験やスライドを見せていただく機会が多くありました。

当時は特にアフリカをフィールドにされている教授が多かったことから、
徐々にアフリカの地への好奇心が育まれていました。

そんなある時、新聞に出ていた本の広告がふと目につきました。

『この地球(ほし)を受け継ぐ君へ』





というタイトルの本でした。

各大陸から集まってきた若者たちと生活を共にしながら、
北極から南極までアメリカ大陸づたいに人力で移動するPole 2 Pole というプロジェクト。

そのプロジェクトに参加した
若手冒険家の石川直樹氏の日々の日記が1冊の本になったものでした。


私は夢中で読みました。

人力だからこそ見えてくるゆっくりと移り行くアメリカ大陸の広大な風景。
四六時中行動を共にすることでギクシャクしたり、仲良くなったりするクルーの人間模様。
パタゴニアの風、中米の蚊の多さ、北極の寒さ。
体験したことが無いのに、まるで自分がそこに居るかのように、夢中になって読みました。
読み終わった後






「旅に出よう。世界には、私が見たこと無いものがまだまだたくさんある」


この時芽生えた気持ちは初めて出会った気がせず、むしろ懐かしい気持ちでした。

でも、ビビりました。
いきなり海外1人はムチャよ、そういうもう1人の自分がいました。
砂漠をこの目で見てみたいと思ったのですが、海外でしか砂漠は見られません。

ある授業のあと、エレベーターの中で教授に質問しました。
「私、砂漠を見てみたいので、鳥取砂丘に行こうと思います!」
これに対して、教授の答えはこうでした。


「いや、ホンモノ見た方がいいよ」


そう言って教授はエレベーターを後にし、
私はイキナリのサハラ砂漠行きを決めたのでした。

折しもこの決断をして2ヶ月後、9・11が起きました。
その一方で、私は初めての海外一人旅の行き先を、
サハラ砂漠が見られるエジプトにと決めていました。

多くの人に反対されたけど、
日本の旅行会社で自分1人の個人旅行を手配してもらいました。
バックパックを背負って、初めて1人で海外へと飛び立ちました。





カイロに降り立つと、埃っぽく、生臭いにおいと
エジプト人のガッツを肌で感じました。

2次元でしか見たことの無いピラミッドは、
エジプトの人々の生活の間近に圧倒的な重量感でそびえていました。

古い型式のベンツと並行して、ロバが道を走る混沌とした街は
”うざったいけど、憎めないやつ”みたいでした。



イスラム文化に飛び込んだのは初めての体験でした。
多くの人と言葉を交わすほど、
「家族想いで、なんて素朴な人たちなんだろう。」と思いました。

テレビでクローズアップされる過激な振る舞いには
一度も出会うことはありませんでした。

この一人旅をとおして世界各地からやってきた人と言葉を交わし、







「スマイルは世界共通なんだ」と思いました。

帰国の日、ダブルブッキングであやうく飛行機に乗れなそうになりましたが、
「飛べなくてもいい。ここに残りたい!」と心から思っていました。
だけど、結局どさくさにまぎれて飛べてしまいました。
それほどに旅に魅了されてしまいました。

次の目標が決まった瞬間です。
今度は個人旅行ではなくて往復の航空券しか買わない、
本当のバックパッカーでエジプトにリベンジしよう!
これが、次の生き甲斐になりました。

1年後、再び渡航先に(バックパッカーとして旅する)エジプトを選び、
エジプトのついでにどこかもう1カ国、と思って選んだのがモロッコでした。

なぜモロッコが浮上したか?

その理由は、エジプト空港で出会った人の女友達が
一人でモロッコに行ったことを聞いたからでした。

「だから私もモロッコにしよう」という理由にならないような理由でした。

薄っぺらいガイドブックは買ったけど、予備知識ゼロ。
降り立ったモロッコで、初日から度肝を抜かれます。

ちょうどその日は、イスラム教の大々的なお祭りである犠牲祭の日でした。
最大の都市カサブランカでさえ店はほぼ閉まり、
街角のあらゆるところで煙が上がっています。

家庭で屠った羊の肉を、軒先で炭焼きしている煙でした。
招かれるがまま一般家庭の食卓に上げてもらい、ご馳走をいただきました。

そんなスタートだったモロッコの旅。
次に向かったマラケシュは、
ピンク色の壁がそびえ立つ迷路のような旧市街を有する熱気溢れる街でした。





この街から、サハラ砂漠へ行って戻ってくる2泊3日のツアーに参加しました。

勝手に、モロッコは南国だと思い込んでいました。
しかし、道中アトラス山脈を超えるときに
積雪で車が2時間立ち往生というハプニングに見舞われました。
そして、なんとかサハラ砂漠へ向かっていきました。

夕暮れ迫る中、多国籍のお客を乗せたワゴン車は、
1泊目の宿へとダデス峡谷のがたつく道を急いでいました。

そこで目に飛び込んできた光景は、
夕暮れを映して赤い光を強烈に放つ山肌。
谷を流れる川のおかげでそこだけ強烈に植物が生い茂る谷の緑。
刻々とやってくる東の空の闇のどれもが、120%コントラストを強烈に放つ光景でした。

その光景は、期待値ゼロだった私のモロッコに対する心をさらっていきました。

モロッコ旅のギアがトップギアに入った翌日、向かったのがトドラ峡谷です。



ここで人生の伴侶となる人物に出会います。
アリ(ALI)との出会いです。





「日本のどこからキタンデスカ?」
へんてこりんな日本語を話す彼の第一印象は、”おかしな人”でした。

独立してモロッコの観光ガイドをしていた彼は、
自分のお客さんを連れてたまたまトドラ峡谷を訪れていました。

するとそこへ私が通りがかり、
きっといつものように観光客にちゃちゃを入れたのでしょう。


モロッコ旅トップギアに入っている私は、
徐々に何かが取り払われていくように快活になっていました。

見るもの触れるものすべてが刺激になり、好奇心の渦中にいるところでした。

彼と少し話をしたなかで、とても私にひっかかる言葉がありました。

「ボクの家、国境近くなんだよね」

私はその”国境地帯”というミステリアスな響きに心躍り、
念のため彼から連絡先をもらったのでした。

彼とはそこで別れ、
多国籍グループのツアーはクライマックスであるメルズーガの砂丘へと向かいます。

幹線道路をひた走り、未舗装の砂利だらけの荒野に入り始めて1時間もしようかという時
遠くの方にオレンジ色に連なる砂丘群が見えてきました。
徐々にその砂丘は近くなり、車を止めたのは砂丘の畔にある宿でした。
次はらくだに乗って、砂丘の奥へキャンプです。






らくだのデックデックというゆっくりした振動に揺られながら、
砂丘を登ったり降りたりを繰り返しました。





そのうち、生き物の気配を感じさせないところに辿り着きました。
そこに、今夜の宿泊先になるキャンプサイトがありました。

到着するなり、みんながみんな向かった先は、大きな砂丘のてっぺん。
ゼーゼー肩で息をしながら、脚がもつれまくりながら上へ上へと登りました。

そこから見えた風景は、今でもしっかりと焼き付いています。

砂丘が途切れたその先は、黒い砂利がごろごろしていて、
その遥か先に真っ平らな地平線が見えます。






太陽は一日の務めを終えて、地球のどこかの土地の朝日になろうとしています。

その日没間際のトワイライトタイム。
赤い光はオレンジ色の砂粒の一粒一粒を、さらに赤く照らし出しました。
それによって陽と陰のコントラストが生まれました。
連と連なる砂丘の情景に深みを加えました。

太陽が沈まんとする西の地平線から、
闇に包まれようとしている東の地平線にかけて、空全体が虹色に染まっていたのでした。

自分の足下で風に吹かれてコロコロと動く砂粒が無ければ
「時が止まってしまったのではないか」と錯覚するほど、
その光景は、地球が刻む時間はゆったりと流れているのを教えてくれました。

この時、涙が出ました。
あまりにも美しいのです。
完全にモロッコに降参です。



砂漠から街に戻った私には、あと2週間のノープランフリータイムが残っていました。
そのときに浮上してきたのは、例の”国境地帯”です。

国境地帯に行ってみたいという目的で、
そのときにもらった電話番号に電話をしてみました。

その時彼は自分のお客様のご案内を終えて、再び砂漠方面へと帰ったところでした。
が、驚いたことに、彼はそこから1日かけて、私のいる街へ迎えに来ました。

そして再び、砂漠へと向かいます。
特に共通の話題も無い私たちは、アラビア語を教えてもらったり、
日本度を教えたりして移動時間を過ごしました。

でも、よくよく考えてみると「良く知りもしない人」。
言葉もろくに通じなくて、きつきつのタクシーに乗りながら、
ずっと時間を共有するのは、徐々にストレスになってきました。

しまいには「変な奴に引っかかっちゃったかなぁ、私」と、
自分の人を見る目の無さを哀れみました。


ともに旅を始めて2日目の夜、彼の実家がある町に到着しました。
もうとっくに夜が更けていたので、彼の実家に案内してくれました。
客間をあてがってくれ、私はベッドで眠りにつきました。

翌朝目を覚ますと、足元の方にあるドアから、彼の兄弟たちが


「横たわっているこの異国の人は誰だ!?」

ばりに、興味津々で覗かれていました。

それが彼の家族との初めての対面でした。




気分はウルルン滞在記。

彼のホームタウンのその町を散策しました。
彼の友達に出会いました。
その友達との振る舞いを間近で見ました。




そうしていくうちに、

「あれ?この人いい人かも?」

と思えるようになってきました。


その後再び訪れたメルズーガの砂丘。
ターバンを巻き、伝統衣装であるジェラバをまとい
テクテクと砂の上を歩く彼の姿を後ろから眺めていました。




その時、何となく以外の何ものでもないけれども、
「なんか、人生楽しくなりそう」と思えて来たのでした。

もしかしたら、”ゲレンデ・マジック”ならぬ、
”サハラ・マジック”だったのかもしれません。






出会ったその時が2002年。
トレンディドラマ顔負けの、空港での涙の別れを繰り返しながら、
私は大学を卒業、社会に出て、あっという間に4年の時間が過ぎました。

その間のやり取りは、国際電話、手紙(!?)、MSNメッセンジャー、Eメール。

こっち朝で向こう夜、こっち夜で向こう朝。
9時間の時差の中でのやり取りは、けっこう温度差がありました。
それでも、週に一度のコンタクトなどでお互い連絡を取っていました。

2人が同じ時間を共有するのは、年に1~2回というごく限られた時間の中で
魂は毎日”記憶の貯蔵庫”を見に行くような、フワフワした日々を過ごしていたものです。


よく「4年も遠距離恋愛が続いたよね」と言われることがありますが、
「私が知らないところで彼が何をしてるのかしら、モンモン!」
みたいな気持ちにはなりませんでした。
それだけ、信頼できる人だったのはラッキーです。

ただ、つねに”記憶の貯蔵庫”の中で多くの時間を過ごしている
自分自身には不安がありました。

あまり今をしっかり生きている感じがしなかったからです。


付き合い始めて4年が経った時、いつものように電話で話していました。
すると何かの拍子に、結婚の話題になりました。

「そういえばさ、結婚するするって言ってるけど、いったいいつ結婚すんのさ?」
と、にわかケンカ腰な感じの会話になりました。

唐突に詰められた私は即答を避け、「1週間待って」と答えました。

その1週間考えました。
結婚を考えると、とても重く、失敗するのが怖くなりました。

そんなときに、突き抜けたのは
「もしダメだったら、別れればいいだけよ」という
先輩のひとこえでした。

その一言で吹っ切れた私は、次にモロッコへ長期で飛び立てる日を探しました。
ターゲットをそこから約1年後の2006年ゴールデンウィークに定めました。

1週間待ってもらった彼にもそのことを告げ、
2人は次のミッションである結婚へと舵を取ったのでした。

後で振り返ってみても、
「もしかして、これがプロポーズだったのか?」
という出来事です。







無事に結婚の手続きを終え、
次は彼を日本に招き入れての日本でも新婚生活の開始です。

彼にとっては生まれて初めての国外生活。
しかも日本で、周りはほぼ日本人のみという環境で生きていくのは、
本当に大変なことだったと思います。

ひらがなを教えました。
日本語学校の宿題を一緒にこなしました。
電車の乗り方を教えました。

私は妻になったはずなのに、母になったかのような日々を送っていました。


欧米人ではない彼を雇ってくれる仕事は肉体労働や単純作業ばかりでした。
職人気質の人が多い環境ではそりが合わずに、せっかく見つけた仕事もすぐ辞める。

私のテンションも下がり、先が見えない不安がただよいました。
「こんなはずじゃなかったんだけどな。」と何度も思いました。

日本で暮らし始めて、自信をなくしていく彼の姿は
ターバンを巻いて、砂の上で生き生きとしていた彼とはまるで別の人でした。

「彼をこんなふうにさせてしまって申し訳ない。でももっとがんばってよ!」


そんな思いで毎日過ごしていました。

私自身が何か新しいことにチャレンジすることに臆病になり、
初めてモロッコへ飛び込んだときとは比べものにならないくらい
自分の勇気レベルが落ちていることを感じました。

「いつかモロッコに住む」


これだけはずっとあたためていました。

でも、勇気レベル低空飛行のまま毎日を過ごしていたら、
気がつくと結婚5年。

私の年齢も30代に入っていました。

そうだ、ホームページを作ろう!
と思い立って、勉強し始めてちょこちょこ作り出すも、途中で頓挫。
それを彼に指摘されて喧嘩。

友達から譲り受けたモロッコ雑貨をフリーマーケットで売ってみるも
その1回きり。

30代になって、自分が過ごした20代を振り返ってみたら
何にも残っていないように見えました。
むしろ、20代前半のときよりも何かを失ったように感じました。

「やるやる」言って、結局何もしていない自分が嫌だったし、すごく焦りも感じました。

今度こそと、モロッコへ行くためにしっかりお金や経営の勉強をしようと決意し、
動き始めた矢先に、3・11がありました。

地震があった時間、品川の会社に居た私は、
彼がどこで何をしているのか全く見当もつかずとてつもない不安に襲われました。

何も状況が分からず、困ってるかもしれない。
ひょっとして外出先で言葉も分からず、家に帰れずにいるかもしれない。

夜になってようやく電話が通じて、無事が確認できたときはほっとしました。

明くる日帰宅した私は、原発の報道を見ながら
ヤバそうだけど、何が本当の情報か皆目検討つかないことを感じました。

そして、調べても埒が明かないから、この土地から離れようと思い立ち
2人で荷物をまとめて、とりあえず西の京都へと向かいました。

騒然とした東京を離れ、京都に降り立つと
そこにはごくごく普通の毎日が送られていました。

食べ物もあり、余震も無い。地震速報に怯えることもない中で
今後どうすべきかを考えました。

何の瞬間に決めたのか、覚えていませんが
アリを1人でモロッコへ帰して、私は後追いでモロッコへ行こう。
これが私が出した結論でした。

彼には、なぜ私も行かないのかと反対されましたが、
その1週間後には、私は彼を1人モロッコへ見送りました。


そこから、モロッコ旅行を扱う会社を立ち上げるために
勇気レベルが下がった自分に足りていなかったピース集めをしました。

今、私の周りに居る人たちの多くは、
それ以降出会った人が圧倒的に多いです。

モロッコと出会ってから12年。

ずいぶん長い時間がかかったものの、
今度こそ本当にモロッコ移住へ向けた行動が始まり、今に至ります。


「好きなときに、好きな人と、どこへでも旅に出られる。」

これが私の理想です。
自分の見たことの無い景色に自分の身を置いたときに、自分は何を感じるのか?
自分の常識に無いことを考える人に出会ったときに、自分は何を思うのか?

両親が私に授けてくれたこの好奇心という財産を
一生磨き続けたいと思っています。

そのために、私は”生み出す力”を身につけたいと思いました。
生み出す力と、生み出せる自信があれば、どこでだって生きていけると思いました。

ここに気付くのに多くの時間を要してしまいました。

だけど、これまで無責任に過ぎ去らせてしまった自分の時間を取り戻すために、
これからは迷うこと無く、ありたい自分に向かっていきます。

私にとってモロッコは、本来の私を取り戻せた場所です。






美しい自然の営みの中に自分の身を置き、
エネルギッシュに生きる人たちにもまれるなかで、
私はずっと前に忘れていたありのままの自分を取り戻すことができました。

厳しい自然が織りなす豊かな色彩は、見る人の心にダイレクトにインパクトを与え、
アフリカとアラブとヨーロッパが混じり合う、
どこにも似ていない独特の文化は、知れば知るほど緻密で、
触れた人の心に奥深い豊かさをもたらします。




居るほど、歩くほど、触れるほどにドラマチックになる
それが私を魅了して止まないモロッコです。

私のミッションは、


モロッコでの旅をとおして、お客さま一人ひとりにとって、
人生で忘れられない彩り豊かな1ページのプロデュースをお手伝いすることです。




ある日、友人が私に聞きました。
「ひかるさんて、何のために生きてますか?私生きる目的無いんですよ。」
これを問われた私は涙が出ました。

私の身近なところに、生きる目的も見いだせずに、人生に悲嘆して暮らしている人が居る。
その言葉を発させた彼女の人生を想うと、切なくて涙が止まりませんでした。

私自身の人生を変えたきっかけは「旅」と「モロッコ」でした。

幼い頃、海の向こうを夢見ていた気持ちは、いつしか忘れ去られていました。
そんな時、一冊の本をきっかけに旅に出たことで、
言葉を介さずとも、笑顔があれば世界中の人と通じ合えると悟りました。

そしてモロッコの美しさに触れることで、好奇心旺盛で、とても我が強い、
ありのままの自分を取り戻すことができました。

だからきっと今ある自分は、
田舎町で海の向こうに想いを馳せていたときの
ワクワクした気持ちで毎日を過ごしているのだと思います。





だからこそ、この美しい自然の中に身を置き、自分を見つめる時間を取ることで、
その人にとって小さなきっかけをご提供できたら良いなと思っています。


あなたの人生に、溢れんばかりに彩り

モロッコの美しい自然と豊かな歴史を知り、
文化や日常生活、地域のコミュニティに触れることで、
ゲストの方々の人生が、彩り豊かで実りあるものになることを願います。

お客様のご要望に耳を傾け、ここでしか味わえない一瞬をご提案させていただきます。



お読みいただきまして、ありがとうございました。



岩間ひかる




(左:主人のALIです^^)

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