2011-01-11 08:47:28
夜汽車の客車たち(その35-1)
テーマ:夜汽車シリーズ今回は波乱の運命をたどった珍車マロネフ38形10番台について書いてみる。
不可分の存在であるマヤ38や、マイフ29。また、類似の設備であるマロネフ58についても軽くふれることにする。
1.マロネフ38形10番台の概要
マロネフ38形は区分室と開放式の寝台を持つ二等C寝台緩急車である。
この形式自体が生まれたのは昭和29年の事であるが、車両自体は昭和5年生まれの戦前派である。
車体構造は当時標準であった車端部に絞りのあるもので、屋根は明かり採り窓の付いた二重屋根構造である。
溶接技術が未発達であるためリベットが多用されており、柱部分と車体裾、窓上下の補強帯にリベットがズラリと並び、鎧武者を思わせる厳つい外観となっている。
窓の天地サイズは735mm。幅は700mmの小窓である。
台車は当時の優等車標準のペンシルバニア型軸バネ式三軸ボギー台車のTR73を履く。
以上から、趣味的分類上はスハ32系にカテゴリされている。
さて、室内レイアウトは車体前後にデッキがあり、前からトイレ・洗面所。ツーリスト式の開放寝台が左右に3区画ずつ。給仕室と喫煙所、二人用区分室寝台が4室、洗面所、トイレ、車掌室となっている。
このような設備のため窓配置はバラバラであるのだが、特筆すべきは開放寝台部分の窓配置だ。
ツーリスト式の寝台車に見られるような二枚組の窓が並んでいるのではなく、まるで転換クロスシートの二等座席車の様に小窓が一枚ずつ等間隔に六つ並んでいるのだ。
ここで寝台車としては変わった窓配置の謎を解き明かすべく、この車両の歴史を追って行くことにしよう。
さて、この客車が誕生した昭和5年。
北海道の旭川には帝国陸軍の鎮守府が置かれていた。
鎮守府の司令官は親任官待遇のいわゆるVIPであるが、当時は航空機は一般的ではなく、所謂貴賓層は急行列車で移動していたのである。
そのため、セキュリティを考慮して主要な急行列車には区分室式の一等寝台車が連結されていた。
一方で、北海道の函館から旭川の間には大都市がほとんどないため、高価な一等寝台を利用する客が旭川の鎮守府の将校位しかおらず、1両でも供給過剰となることから、車両の半分だけ一等寝台とする客車が使用されたが、当時とある事故で在来の木造客車の安全性が疑問視され、優等車から鋼製化を進めており、函館と旭川を結ぶ急行列車にも鋼製の一等寝台車が製造されることになった。
そこで誕生したのが後にマロネフ38形10番台となるマイネロ37260である。
ここで注目すべきはマイロネではなく、マイネロ、つまり、一等寝台と二等座席の合造車という、珍しい組み合わせの設備を持つことであろう。等級の違う寝台同士や、逆に等級の同じ寝台と座席の組み合わせはそれほど珍しいものではなかったが、この組み合わせは当時としても異例であり、後にも同様の組み合わせは発生していない。
このため大変珍しい窓配置となったのである。
つまり、マロネフ38形10番台の開放寝台部分には元々二等座席が配置されていたのだ。
二等座席部分は当時スロ32と同様の転換クロスシートであった。
さて、誕生後のマイネロ37260は総勢4両が製造され、目的どおり函館~旭川の急行列車に使用されたが、昭和9年に利用の低迷していた一等寝台を、原則的に東海道・山陽本線以外は不連結とすることになった。そこで旭川鎮守府の高官向けに二等ながら区分室を設けて特別室としたマロネ37480(→マロネ38)が登場し、これに置き換えられてマイネロ37260は運用を離脱したのだった。
運用を離れたマイネロ37260は4両中3両が本州へ転属し、緩急設備を取り付けてマイネロフ37260となる。
たった4両の仲間は離ればなれとなり、団体・臨時用として車庫の片隅で休んでいることが多かった。
昭和10年に特別急行「不定期燕」が運転開始となった。「不定期燕」は昼間の列車であるが、特別急行には要人を運ぶため区分室を付ける事になっていた。
しかし、当時区分室付きの一等展望車が足りず、その代打としてマイネロフ37260が起用されることになった。
これに際して散らばっていたマイネロフ37260は名門品川客車区に集められ、天下の東海道本線の特別急行列車の殿を務めた訳である。
「不定期燕」は昭和15年に定期に格上げされ「鴎」となり、マイネロフ37260も定期特別急行の運用をこなすという栄誉を与えられたが、やがて区分室付きの一等展望車スイテ37050が登場するとお役御免となった。
そして再び車庫の片隅でのんびり過ごす毎日へ逆戻りとなったのである。
昭和16年の称号改正でマイネロ及びマイネロフ37260はマイネロ及びマイネロフ37となった。
余談だが国際航路連絡用として製造された一二等寝台車にマイロネフ37(元は37280)という形式があり、この称号改正によって混同しやすくなった。
さて、第二次対戦が始まるもマイネロフ37260には大きな動きはなかったが、終戦と共にたった4両の小世帯には波乱の運命が訪れる事となった。
マイネロフ、マイネロ37は進駐軍に接収され、車両の半分が区分室寝台という特徴を生かして、主に高級将校の巡察用に使用されることとなる。
転換クロスシートの二等室部分はラウンジ等に改造された。
唯一緩急設備のなかったマイネロ37はデッキを片方潰して密閉式の展望室とされ、昭和25年の返還時にも特別職用車マヤ57となった。
国鉄幹部の巡察用や外国人団体用として利用されたが、貧しい国内事情に配慮してか、試験車両マヤ37となった。後に称号改正でマヤ38 51となり、特別職用車の面影を残しつつ昭和45年に廃車となった。
一方で、他の3両はサンフランシスコ条約締結により優等車両の返還が行われるなか引き続き駐留軍貸渡し車両として使用され、そのまま昭和28年の称号改正を迎えてマイネロフ29となったが、昭和29年に2両、昭和30年に1両がようやく返還された。
このうちマイネロフ29 3は昭和30年7月の一等寝台廃止に伴い、二等室がラウンジに改造されたままであるこから一等車扱いとなってマイフ29になった。昭和30年11月になってようやく返還されるが、設備を復旧することも改造することもなくそのまま外国団体貸し切り用となるがほとんど使われる事もなく、昭和31年には台枠や機器の一部を新型の食堂車オシ17に提供して車生を閉じることとなった。
さて、残りは今回の主役となる2両である。
昭和29年に駐留軍より返還されるが、ラウンジとなっていた元二等室はツーリスト式の寝台を設けて二等寝室とし、既に利用の低迷していた一等寝台は室内の洗面台を撤去して折り畳み式テーブルを設置、二等寝室特別室として格下げ改造された。また、元給仕室を車掌室とし、代わりに車体中央に給仕室を新設。これに伴い唯一の四人用区分室は半分の二人用に変更され、更に喫煙所も設置した。
この結果、先に元マイロネフ37を格下げしたマロネフ38と類似の設備となったため、マロネフ38形に編入されてマロネフ38形10番台となった。
なお、マロネフ38形の基本番台である元マイロネフ37は二人用区分室を2つ、4人用区分室を一つもち、車両半分は元からツーリスト式の二等寝室で、戦前のマイロネフ37280時代は国際航路連絡列車として東京~敦賀港で使用された。
形式名も設備も似ているが、生い立ちは全くの別物で、同じマロネフ38になってからも同一運用とはならなかった。
また、こちらは格下げ時に洗面台を撤去せずそのままの設備となっていて、一等寝台廃止時には旧一等寝台扱いの二等A寝室とされ、形式もマロネフ58に変更された。
さて、格下げ改造を行ったためマロネフ38のまま残った10番台だが、設備が特殊であるためか団体臨時用となり、再び車庫の片隅で居眠りをする日々を送る事になる。
昭和31年にはマロネフ38 11は品川に、38 12は宮原に配置され、まさしく一族離散の状態となった。
なお、この期間に国際使節団の輸送列車に起用されている記録があり、さすがは元一等寝台というところだろうか。
さて、昭和32年から昭和34年にかけて旧一等寝台車が相次いで第一線を離脱し、団体臨時用になって隠居していくなか、昭和34年9月改正で突如としてマロネフ38にスポットが当たる事になる。
経緯は不明だが、東京から東海道線を通り、米原経由で金沢に向かう新設の急行「能登」に起用される事になったのである。
このため宮原にいたマロネフ38 12は品川に戻り、予備なしのフル稼働で定期運用に就くことになった。
特別急行「鴎」以来18年ぶり、マロネフ38となって以来最初にして最後の定期運用である。
なお、急行「能登」は「伊勢」「那智」と名古屋まで連結する珍しい三層建て列車で、編成の三ヵ所に優等車が散らばり、珍車マロネロ38も連結されるなどユニークな編成だった。また、マロネフ38が検査等で運用を離脱した場合は予備が無いことから全室ツーリスト式寝台のマロネフ29が代走したようだ。
なお、昭和35年6月に三等級制度が廃止となり、旧一等を廃止して等級を繰り上げたため、形式、設備そのままに名目上は一等寝台車となった。
さて、奇跡的な定期列車復帰を果たしたマロネフ38だが、既に軽量客車の10系が登場した後となっては二世代以上前の車体構造や設備ではさすがに古さは否めず、昭和36年10月改正でいよいよ後身に道を譲る事になった。後釜は走るホテルで名高い20系客車並みの設備を誇るオロネ10である。しかしながら実際にはオロネ10の製造が間に合わず、置き換わったのは昭和37年1月23日の事であった。
その後は再び団体臨時用として隠居生活となるが、他の旧一等寝台車が相次いで鬼籍入りするも生き延び続け、戦後うまれのマロネ40の半分以上が廃車になった昭和42年に2両とも廃車となり、波乱に満ちた歴史と共に戦前製の旧一等寝台車として最後の現役生活に終止符を打ったのだった。
予備の期間が長かったものの、北海道用として生まれながら天下の東海道で長く使用され、その歴史は栄華のあるものだったと言えるのではないだろうか。
続きます。
写真1枚目:開放寝室側のマロネフ38 11。
均等に並ぶ小窓は元二等室の名残であり、この車両の大きな特徴となっている。
二枚おきに見える室内の仕切りが寝台車である事を物語っている。
写真2枚目:区分室側。疎らに並ぶ小窓は区分室寝台の証し。一等寝台として生まれながら格下げ改造された珍しい存在である。
貫通路の蓋は急行「能登」時代のみに取り付けられていたものだが、戦後唯一の定期運用での姿を特徴付けるものとなっている。
写真3枚目:区分室の通路側の窓配置も旧形寝台車を楽しむポイントの一つ。
三連窓と二連窓が並ぶ姿はマロネ38やマロネ40にも通じる部分がある。
ドア横には一等車である事を示す大きな1の文字。昭和35年以降はC寝台ながら一等寝台として復帰という形になった。









