高校再編についての説明会を前に、
自分自身の、学校教育についての基本的な考え方をまとめておく。
 

人間は「何もできない」状態で生まれてくる。

家庭教育・学校教育・社会教育を通じて、「能力」を高め、

家庭や学校や社会を、力を合わせて「運営」して、

種としての繁栄を成し遂げたと思っている。

 

教育基本法では、前文で

「たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願う」
「個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す」
「我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図る」 

とうたいあげ、教育の目的は

「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」

だという。
さらに目標として、

 

  幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。

  個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。

  正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

  生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。

  伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 

と、かなり具体的である。

 

 

 

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(写真は城端のお寺にて、イベントを楽しむ子供たち)
 

 

 

しかし、これらの目的・目標は、

現実に、学校教育に埋め込まれているか。

 

お題目であり、姿勢であり、背景であり、
まあ当然のこと、として、そのままが掲げられているだけで、

 

なぜこういう目的・目標が明記されているのか、

指導要綱が、その目標・目的に沿ったものであるのかさえ、

現場のだれも、考えていないのではないか。

 

そして、たとえば「創造性を培う」などということが、

具体的なカリキュラムとしては、きれいに抜け落ちているのではないか。
 

現実の学校教育では、主に記憶力と応用力が訓練され、

上級学校に進むための受験勉強ばかりが重視されているように思う。

 

社会や企業からの要請とは別に、

「教育界」の中の論理と、

硬直した「教育システム」が厳然としてあって、
立派に試験を勝ち抜いてきたものだけが、社会的な影響力を行使できる、

教育システムを変えようとすれば、システムに仕込まれた競争を勝ち抜かねばならぬ、

それが現実なのではないか。

 

私の実感として、

人間の「向き・不向き」は、

やってみなければわからない。

さまざま支離滅裂にみえる経歴が、一点で結実することもある。

往々にして、素人が、専門家の生き詰まりに対する「ブレイクスルー」を発想する。

 

いわゆる学業の振るわない生徒が、

そんなでは生きていけないと脅され、

言われた作業を黙々とまじめにこなすことばかり訓練しても、

本人の才能をそぎ、低い地位に安住させ、

最後にはその場所さえも、ロボットに追われることになりはしないか。

 

私の危機感は深い。

 

 ◇ ◇ ◇

 

その一方で、

教育の「目的」など、本来は単純なものだ、とも思っている。

国や集団・家族の「生き残り」のために、

個人に課せられた「役割」を果たすこと、

その役割を「仮定」し、「知識を学習」し、「技能を訓練」し、実地に「応用」し、

その過程をまた、学習し応用することの繰り返しである。

 

それを、各成長過程に落とし込み、

各人の個性に当てはめればいいことだが、

集団で、決まられた時間内で、教育をする「学校」では、

どうしても「平均水準」を意識せざるを得ない。

 

そして現実に、同じ場所・同じ時間で、

できる子を伸ばすことと、

できない子をできるようにすることには、

大きな乖離がある。

 

つまり、「学校教育」には、根本的な矛盾があるのだ。

初等教育機関には、初等教育機関の矛盾が、

中等教育機関には、中等教育機関の矛盾が、

高等教育機関には、高等教育機関の矛盾が、

大きく横たわっていて、

 

それでも、理想を求め、あるいは現実と妥協せざるを得なくなって、

そういう姿を見せることもまた、(もしくはそういう姿を見せることこそ)

学校という「教育現場」の意味かもしれないと思ったりする。

 

 ◇ ◇ ◇

 

ここでやっと、私の話は「高等学校」に入る。

 

1.高校教育とは何か。〈概念〉
国際的には、初等教育と高等教育とをつなぐ、中等教育の後半、ということだろう。
もちろん、中等教育までで「社会に出る」者の方が世界では大多数だろう。

2.高校とは何をする学校か。〈目的〉
現実として普通科高・進学校とよばれるようなところは、高校入試で区切られた者たちが、さらに上位校に進むための素養を身につけるところになっている。

それと別に、企業からは現場の即戦力として社会性や基礎的な教養が期待されてもいるし、「高校生活」を楽しむということ自体が高校生や親の目的になっている面もある。


3.地域にとって高校のある意味は。〈役割〉

地域のイメージ、ブランド、町としての「完結性」に関わる、重大な機能。

山村や離島、過疎などのため「高校のない地区」で、進学のため親元を離れる子供たちの「十五の旅立ち」を思えば、

(良し悪しではなく)

そこにあった「高校」がなくなることへの、地域の人たちの心理的な痛みには、配慮があるべきだろう。

 

4.子どもたちにとっての選択肢とは。〈当事者〉

子どもというのは、大人が思うより子どもで、またリアリストなものである。

親しい大人の論を、そのまま自信たっぷりに繰り返したりもする。

「通ってる子供たちが再編に賛成するはずがない」から話も聞かないという教育委員長の「びびり」っぷりは、分からなくもない。
だが、子どもの多くは、将来も固まらず、そうかといって、多くをあきらめているというわけでもない。

ただ、夢の芽生えをこっそり抱えたまま、とりあえず、「普通の高校生」になりたいだけである。

さもありなん、という選択肢が、いくつかあれば、まあ、それでいいのである。

 

 ◇ ◇ ◇

 

では、選択肢は何のためにあるか。
 

人は、人生の岐路にあたって、
自分の努力、選択、家族や周囲の理解など、

物語がほしいものである。

部活の活発な大規模校に行きたいというのも、

専門的な学科で得意を伸ばしたいというのも、
物語であり、

半分は「言い訳」みたいなものである。

 

そして、ただ「近くの高校だった」というのも、

立派な言い訳であり、物語の背景である。

 

わざわざ聞くこともない。
この高校が近くにちゃんとある、ということが、

子どもたちの選択肢として大事なのだ。

仕方なくではなく、この道を選んだ、という物語が、

子どもたちの人生を膨らませていくのである。