ゆるさ社会
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約3年前、ある新聞社のインタヴューに対して、僕は以上のような内容のことを回答した。
その時、その発言の「談合は必要悪だった・・・・・」「指名イコール悪だとは思わない・・・・・」等を抽出され、報道され、大変な批判を浴びた。そして、臨時の記者会見を開き、釈明と謝罪をする羽目になった。
最近の記者会見や各方面からの要望等に対して「指名がイコール悪だとは思っていない・・・・・・県民の信頼を得、不正や恣意の排除は勿論、公平・公正・透明な競争を確保し・・・・・・・・」等と答える度に、あの時のことを思い出す。
今、「指名がイコール悪だとは思っていない・・・・・・」と発言してもこれと言って批判は無い。
時代というものは、変われば変わるものだ。
郵政なんて、どうみても民から官への動きである。その是非は別にして、ほんの4年前、郵政民営化で日本はあれ程ヒートアップした。
あの時、亀井大臣は、相当な辛酸をなめ、筆舌に尽くしがたい悔しい思いをしたのだろう。気持ちは痛いほど分かる。今になって、亀井大臣の怨念・禍根がひしひしと伝わってくる。もうああなると、政策や政治というより、執念のような気がする。執念は人をあそこまで、良く言えば強く、悪く言えばしつこくするものだな~と思う。しかし、人は良い意味で執念を持つべきなのかも知れない。信念を持って執念を貫き通すべきなのかも知れない。
今、この国はまたいつかの国に戻ろうとしているのかも知れない。いつかのというのは一体どこなのだろう? 先祖帰り、回帰現象・・・・・・・・・・今の政権の政策を見ているとどうもそういう感じがする。別にそれを否定している訳ではない。国民がそれを望むなら、そうなって行かざるを得ない。
結局、新政権の厚労省は日本年金機構の発足を容認、財務省は日本政策投資銀行の民営化を中止した。これは、まぁ、天下り先確保であろう。日本郵政新社長も明らかに天下りである。結局、国会答弁書の作成や質問取りも官僚がするようだし、脱官僚、天下り全廃がいかに難題かが分かる。
それより、優秀な人材は政治主導で登用して行くと最初から方針決定していた方が現実的だっただろう。
時代には勿論波がある。しかし、世界同時不況を始め、グローバル化の波はちょっと異常のような気がする。
この国は必要以上の競争には向いていない。これまで、自由競争といえど、民も官も護送船団方式・中央集権・自己完結型の村社会システム、いわゆる組織団体保護主義でやって来た。日本型社会主義である。その是非は別にして、自由な中でも、年功序列、終身雇用、共助、公助、仕事の分け合いが労働者・企業・社会を保護して来た。しかし、個人主義、市場原理主義、自由競争主義、科学至上主義、進歩主義、消費主義、文化生活の西欧化主義などのグローバル化がそれらをあっけなく崩した。その波に飲まれるのは避けられなかった。世界は多文化主義を提唱しながらも、産業・価値観・社会のシステムは一律化した。
ところで、文化・歴史・文明・価値観・システムの一律化は、何を招くか?
熾烈な国際競争の中で今後この国はどう生きて行くのだろう? グローバル化の中で殊更保護主義というのも難しいし、自由競争の中で平等分配というのも難しい。自由競争を維持したままセーフティネットの設置という相矛盾した政策を模索せざるを得ない。
時代には波がある。バイオリズムがある。アップダウンがある。振り子の原理がある。揺り戻しは必ず来る。今の揺り戻しは必ず来る。振り幅が大きければ大きいほど、揺り戻しも大きい。政治の揺り戻しは、いつも必ず国民に跳ね返ってくる。当然といえば当然である。その振り幅は、国民が選択しているからである。
このまま行けば、いつか、非成長を覚悟し、競争から共生にシフトしなければならないのかも知れない。やり方を間違えると、どちらも国力の喪失に繋がる。
むやみやたらな給付・支援・助成・配分は自立と自助を阻害する。日本の近代化の礎は自助・自立だったし、それらを支える制度構築だった。問題はその制度に目配りや細かな配慮が足りなかった点にある。
公的支援は日本型社会の復活・先祖帰りである。それが悪いとは言わない。全て、国民の意思が決定することである。
しかし、政治行政頼り・頼みを当たり前という風潮が醸成してしまうことに、行政側としては一抹の不安を覚える。経済成長後の豊かさの中で、人々や企業の自助・自立・競争・努力・失敗や挫折からの復活精神が希薄化になった。何でもかんでも政治行政が施すと国力は落ち国家は確実に衰退する。財源はやがて底をつく。人類は既にその経験をしている。人は、働ける人が働かずして食べて行けると働かなくなる。しかし、その人は必ず朽ちる。勿論、働きたいが働ける場所がないのも事実である。
世界的大競争時代。
競争に晒されるのは辛いし、しんどい。しかし、その切磋琢磨から我々は多くを学び、多くの果実を得る喜びを知る。そして社会の活力を生む。
勿論、日本の身の丈に合わない過度な競争が貧困・失業・失望・失意を生んだことは事実であるし、それらの人々に救いの手を差し伸べるのは個人・企業・行政政治・社会の責務である。そこには、平等・公平・公正が前提とならなければならない。
新政権は、競争や闘争の中で自らを鼓舞し研磨し精進し、政権を勝ち得た。その自らの頑張りや諦めないチャレンジ精神こそを国民にまず示すべきである。
行政の過度な直接給付・援助は、高度経済成長を経て裕福になった大人達が、その子供達に経済的・心身的苦労や努力をさせない構図(ある種の過保護)がこの国の衰退の一因となっていることと、どうしても重なって見える。
何となく「ゆとり教育のような・・・・・ゆるい時代。格差社会からゆるさ社会へ・・・・」
成績の優劣はある。しかし、勝ち負けは別の価値軸であると思う。マラソンでも、タイム的に誰彼より早い遅いは厳然としてあるが、それが誰彼に「勝ったか負けたか」は別問題である。
「天ハ自ラ助クルモノヲ助ク」 この国の新たなる座標軸ではないだろうか。
給付や援助は一度受けたら止められない。まぁ、そこが狙いなのだろうけど、保護を受けるべきでない人が受ける・・・・・・所謂、モラルハザードとも背中合わせである。
入札契約改革・公共事業の話である。公共調達において、「競争と共生」、首相が所信表明で言うところの「自立と共生」、そして公共財の品質管理等のバランスをどう保つのか? 健全な競争の中にワークシェアという概念を採用出来ないか? 現場は、公共事業削減の中であれこれ思考錯誤を続けている。
所信表明で、「地方が主役、現場が主役」というなら、是非、こういう実態を把握して頂きたい。
新政権が無駄な公共事業は削減と言っておられる。それは、そこに従事していた企業・労働者・関係者やそこから派生した経済的価値も無駄だったということか?
今後、公共事業削減に伴う社会資本整備の戦略、産業構造の変革ビジョン、業者や雇用者の全体の適正数の明示、公契約・公共調達に関する的確・厳正なルール、公共事業削減による失業者や中山間地域の雇用支援、業者の異業種転換策について明快で適切、現実的で実効性のある指針等が求められよう。それが、「コンクリートから人へ」ということでもあろうから。








