警察たちの警鐘ー村井事件の発端は土地絡みだったー | 村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)

警視庁取調官 落としの金七事件簿



オウム事件から3年が経った98年5月15日。
ある人物が取材者と面会するため、新橋前のホテルの日本料理店に現れた。

小山金七。
95年当時、彼は捜査一課のオウム捜査の中心的な役割を果たしていた。

小山は1942年7月5日、宮城県石巻市に生まれた。 宮城県立飯野川高等学校定時制(現宮城県石巻北高等学校飯野川校)卒業。
1962年警視庁巡査。1963年上野警察署警邏係、1967年同署刑事課捜査係。1973年警視庁巡査部長、尾久警察署刑事課捜査係。1976年刑事部捜査第一課。
以後、丸の内警察署刑事課捜査係長、刑事部捜査第一課主任、小松川警察署刑事課長代理、刑事部捜査第一課係長、八王子警察署刑事課長、刑事部捜査第一課管理官を歴任。
巡査部長、警部補、警部、警視の各階級で通算17年間にわたり刑事部捜査第一課に所属し、ロス疑惑、坂本弁護士一家殺人事件、トリカブト殺人事件、地下鉄サリン事件、警察庁長官狙撃事件などを担当する。

98年、金七は八王子署刑事課長に就任したが、顔は青白く、頬がこけやつれ果てていた。

「俺な、胃を切っているからさ。あまり飲めないし、食えないから…そっちは自由にしてよ」
金七は好きな日本酒ではなく、グラスワインを注文した。
「去年十一月にも胃も膵臓も全部、取っちゃったんだよ。医者は大丈夫だと言うけど、びくびく生きてもしょうがない。そりゃ、人生でやり残したってことはあるさ。この仕事やっていればなあ。でも俺は満足だよ。生きているうちに精一杯やれば、それでいいんじゃないのかなって。そう思わないと、やり切れないよ」

金七の顔は暗い訳ではない。事件の話になると、金七の目は輝き始めた。

金七は村井秀夫刺殺事件について口を開いた。

村井秀夫。オウム真理教最高幹部で「科学技術省大臣」、ホーリーネームは「マンジュシュリー・ミトラ」。平成七年四月二十三日、東京・南青山の教団東京総本部に入ろうとしていたところを指定暴力団山口組系羽根組の徐裕行に刺殺された。

救急車で運送中、村井は「ユダにやられた」と言い残している。村井はテレビ番組で「第七サティアンで発生した異臭騒ぎはオウムが開発した農薬が漏れた」と発言していた。麻原はこの異臭騒ぎはオウムではない」を主張していたので、村井刺殺は「その処刑ではないか」という説があった。

「村井は麻原の右腕で、全てを知らされていたと思うんだ。しかし、”欠点”があった。生真面目なんだ。だから警察に追求されると耐えきれないという見方があったんだ」
そう言うと金七は「奇妙なことに、捨て切れないことがあるんだ……」と言葉をつないで語り始めた。

「静岡県富士宮市の土地の購入に関しての世話役は村井なんだ。さらに、上九には、富士の後で物色に入っている。つまり、ここで後藤組なり山口組が関与しているのではないかということなんだ」

暴力団と銃とオウム

後藤組は静岡県富士宮市に拠点を置く山口組系暴力団である。

「村井を殺したのは徐だよな。一課が調べようとしたが、幹部から『四課に渡せ』と指示が出た。俺たちはやれなかった。悔しかったよ。結果的には、実行犯の徐に指示したとされる山口組系羽根組の元幹部(上峯憲司)を捕まえたものの、結果は無罪さ。オウムの土地購入問題をめぐって後藤組の捜査も四課がやった。ここが大事だったんだよーー」

金七は辛そうに足を組み答えた。


(「ジョブチューン」2016年11月19日より)







「村井事件が起きる前から、教団と暴力団との関係のシグナルは出ていたんだよ。それは林が言った供述書だ。改造銃の入手の部分だよ。調べ官は、この部分を頭に入れておかないとだめだ。徐やその関係者周辺を調べるときにな」

「林」とは林泰男のことで、教団の科学技術省次官。平成八年に沖縄の石垣島で逮捕された。金七が指摘した「頭の中に入れておかなければならない部分」とは、林のこの供述だと思われる。

《長官事件当日は川越のマンションにいました。事件に私が関与したように言われていますが、関係していません。銃は入手しましたが、それは改造したコルトパイソンです。捨てましたので、使っていません。それに既に調べ官に言ってあります。拳銃のことは、大阪の暴力団に話したこともありました。事実です》

モデルガンのコルトパイソンは供述通りの場所で警視庁が押収した。その時、試射したが発射ができず、事件と無関係と判明している。
長官事件で使用されたとされる銃もコルトパイソンである。林との供述との”一致”は、偶然なのだろうか。モデルガンの入手目的は何だったのか。多くの疑問が解決されていないままなのである。金七はそこにこだわっている。

「コルトパイソンのモデルガンを入手した目的は何だったのか。村井事件とは別だが、『パイソン』と『山口組』と『後藤組』と『オウム』の関係……。全てを関連づけないと。それが村井事件の背景にも繋がるわけだろう?だから村井事件は、長官事件を関連づけて調べるのには実にいいネタだったし、いいタイミングだったんだ」

北のバッジ

後藤組は山口組の中でも「武闘派」といわれ、特に過激な組である。事件を敢行した後、「後藤組の犯行」を匂わせるものを”放置”する癖が警察当局では知られていた。

平成四年五月の映画監督、伊丹十三襲撃事件では、凶器として使用したナイフの刃先をわざと残した。
昭和六十三年三月の山口組内の抗争事件で、一和会会長宅にダンプカーで突っ込んだときは、わざわざ静岡ナンバーのプレートを付けていた。

平成元年四月の静岡県富士宮市の朝きり高原のゴルフ場開発を妨害した「オイルばら撒き事件」では、組員の運転免許証をわざと落としている。あたかも犯行を誇示するかのようである。
長官銃撃事件の現場には、北朝鮮のバッジと、韓国のコインが捨てられていた。実行犯の”陽動”だったのか、その真意は不明だが、犯人からの一つのシグナルだったことは否定できない。

このバッジは北朝鮮軍の赤旗前衛中隊のバッジのように見えたことから、様々な憶測を呼び、「北朝鮮犯行説」まで飛び出した。警視庁の幹部は「たしか労働党の機関誌を含めて関係方面を調べたはずだが、北朝鮮国が製造したバッジであるとの確認はとれていない」として「バッジは必ずしも軍人だけが持っているものでなく、家族など多くの関係者も入手できるものだったという見方がある」と語っていた。

北のバッジだとしても、工作員が日本国内で付けるようなものではないらしい。しかも仮に北朝鮮の関係者の犯行なら、プロの工作員がわざわざ証拠を残すのは考えにくい。
案の定、金七も素っ気ない。
「そんなものは、これまでの北朝鮮工作員の拉致事件を見れば分かるはずだよ」

それから約四ヶ月後、金七は八王子署から捜査一課の異動内示を受けた。その時の送別会での金七のあいさつは、次のような内容だった。

「捜査一課管理官で戻ることになりました。特別対策管理官はオウム対策の部署のようなもので、長官事件をやることになりそうです。公安が触った後の捜査なので、本当は途中で抜けたくなかったのですがーー」

2000年3月31日。小山金七は定年退職を前に、胃癌で亡くなった。


筆者の私見その1

小山氏の話が事実であれば、村井秀夫は暴力団と接点があったことになる。


上九一色村では後藤組関係者が、国土法利用計画法違反で逮捕される事件が起きている。また地元住民の間でも暴力団の存在が指摘されていた。これらの情報をまとめて考えると、村井刺殺の発端は土地取引から始まったのではないだろうか。


話は変わるが、地下鉄サリン事件の実行犯、林泰男は在日朝鮮人である。
林の祖父母は北朝鮮の秘密工作船支援の容疑で、日本の公安調査庁の重要監視対象者だった。

小山は林と徐裕行の背後にある在日闇社会にも注目し、暴力団、オウムの接点を紐解こうとしていたのだろう。しかし小山は志半ばで亡くなった。翌年の2001年には九州南西海域工作船事件、金正男密入国事件が相次いで起きた。いずれも北朝鮮と暴力団が関わった事件である。

小山が健在であれば、これらの黒い接点の解明が進んでいたかもしれないが、未だ闇に包まれたままである。

オウムと後藤組の接点も断片的だが明らかになっている。
オウム・村井を刺殺した徐裕行が、後藤組に合流したのも偶然にしては出来すぎた話ではないか。
徐がブログで裕福な私生活を誇示し、ヨットを披露した事実もまた、犯行側のメッセージである可能性も捨て切れない。

そしてもう一人、村井事件に関心を示す人物がいた。




菅沼光弘氏。1936年、京都出身。

1958年(昭和33年)、国家公務員上級職甲種採用試験(法律職)合格。1959年(昭和34年)、東京大学法学部卒業後、公安調査庁入庁。近畿公安調査局調査第二部第一課長を経て、1977年(昭和52年)4月1日、和歌山地方公安調査局長。1979年(昭和54年)4月1日、中国公安調査局調査第二部長。1980年(昭和55年)4月1日、中国公安調査局調査第一部長。1981年(昭和56年)4月1日、千葉地方公安調査局長。1982年(昭和57年)4月1日、公安調査庁本庁総務部資料課長。1986年(昭和61年)4月1日、公安調査庁研修所長。1990年(平成2年)1月22日、公安調査庁本庁調査第二部長(同部は国際情勢分析担当)。1995年(平成7年)4月1日、退官。2006年(平成18年)4月29日、瑞宝中綬章受章。



2013年6月26日、菅沼氏は著書「日本を貶めた戦後重大事件の裏側」を上梓した。
主に中国海軍レーダー照射問題、下山事件、オウム真理教事件と数々の重大事件を取り上げている。

ここで菅沼氏は村井秀夫刺殺事件に強い関心を示し、
釈放された徐裕行の危険性について警鐘を鳴らしている。以下抜粋。


1995年4月23日、オウム真理教の村井秀夫(1958–1995)が教団東京総本部前で刺殺されました。村井を刺したのは、在日の、三重県伊勢市の神州士衛館とかいう事務所所属の徐裕行というヤクザです。

神州士衛館は本人の申告で、実際にはそういう団体は縁はあっても活動はしていない架空団体でした。彼は前日に五反田で北朝鮮工作機関の人と接触したと言われています。もちろん確証はありません。

この徐裕行は、もう刑期が終わって出てきています。警察もあとはなにも追求しないので、村井がなぜ殺されたのかも分かっていない。これも北朝鮮の覚醒剤と関係あるのではないかとか、いろいろなことが言われています。警察はやるべきことを全然やっていない。

日本政府は、あるいは警察は、オウム真理教事件を矮小化してしまって、その国際的な背景は全く追求していません。

 だから、北朝鮮との関連で調べなくてはいけないのは、「なぜ、村井が徐裕行に殺されなければいけなかったか」「この二人を結ぶ線は何なのか」「この二人の間にどういう人間関係があったのか」「これはオウム真理教と関係あるのか」です。そういうことを全然、なにも調べていない。

 国際的な背景を持ち、国際的な力を借りて、政府を転覆しようという意図を持った活動だったわけですから、オウム真理教事件は、まったく破防法の対象団体もいいところです。ところが、「破防法は憲法違反だ」とか、今でもまだ言っている人がいるけれども、当時はまだまだ、そういう考えの人が多かった。



筆者の私見その2

菅沼氏は、当時の警察の捜査態勢は杜撰だったと批判している。
当時対応したのは第四課、暴力団専門の捜査班だった。

未解決事件として名高い警察庁長官狙撃事件は、テレビや本などで捜査の問題点を検証する動きが度々あるのに対し、村井事件については全く動きがない。

一体何故、オウム最高幹部の暗殺がなぜそこまで軽視されるのか?

警察のセクショナリズム的事情が真相解明の支障になっているのか、それとも公にしてはならない深い事情でもあるのだろうか。これもまた、村井刺殺のもう一つの闇といえるだろう。


満期出所後も危険視され続ける男、徐裕行。
2016年現在、公安調査庁のHPをみると、徐裕行の名前、顔写真が掲載されている。
公的機関は今も徐の注視を続けているようである。

徐は暴力団とは別に、北朝鮮とも黒い関係を持っていた。
次回はその真相に迫って記事にしていく。