カントの「純粋理性批判」を、中学生でも(たぶん)わかるようにしてみました。

「批判」ってなに?

「批判」って言葉から、どんなイメージが浮かびますか?
多くの人にとっては普通の生活に使うような日常的な言葉でないですので、
この言葉の意味を訊かれると、答えに困ると思います。
大方は、言葉を並べたてて、人に詰めよったり、攻撃したりする、
そんなイメージが強いのではないしょうか。

「批判」という言葉をよく使う人においても、この言葉の意味を正確に
使っている人は、そんなに多くはありません。「非難」と区別せずに使って
いる人がほとんどなのが実情だと思います。

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このブログのタイトルにもある「純粋理性批判」は、カントという哲学者の
書物です。「批判」とはまさしくそのことです。
「批判」とは、
考える性(さが)である理性が、理性自身の妥当性を考え、判断すること。
平たく言えば、「考える」こと自体を考えることによって、
ある事がらがどう正しく、どう正しくないか、それをはっきりさせることです。

なぜそうするのか?はっきり正確に知りたいからです。
「知る」ということは、正しいことを知りたいと思い、知ることだからです。
「知りたい」と思うことが、理性の本性・本質だからです。
そして、その理性こそが、人間の人間たる本質だからです

正しいとは、「正しいと誰かに決められているから」正しいのではありません。
「正しい」とはまず、理屈が通っていること、論理的に正しいことです。
それが「正しい」に絶対に必要な条件あり、そうでなければ「正しい」と
いうことはできません。
だから、たとえ法律で「正しい」と定められたとしても、理屈に合って
いなければ、人はそれに対して、「おかしい!」といいますよね。

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人が何かを「批判」するのは、知りたいからなのです。知りたいのに、
理屈が理解できない。「おかしい、どこがおかしいのか?どこが正しくて、
どこが間違っているのか?」それを知ろうとするのが「批判」という行為で
あり、「批判」という精神なのです。
したがって、批判の対象は、他人も自分もありません。
「罪を憎んで人を憎まず」と言いますね。批判は「理屈を疑って人を疑わず」
なのです。
 
「批判」とは、考えることを考えることです。そのことは必ず「否定」
形をとることになります。ある事柄を正しく知りたいということは、
その事柄を「疑う」ことになるからです。疑わずに信じていたら、
考えることなど不可能です。故に正しく知ることなどできません。
理性の本性・本質とは「否定」することでもあるのです。

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「非難」ってなに?

残念ながら「批判」という言葉の多くの使われ方は、知りたいがため
ではなく、人を責めたり、自分を守ったりすることに使われています。
つまり、「知りたいための否定」ではなく、「否定のための否定」です。
しかしそういうのは「非難」といいます。
したがって「非難」の対象は自分以外、他人に向けられます。
「批判」と「非難」は似た語感であるため、混同して使われたり、時には
意図的にすり替えて使われたりします。

さらに「非難」のためには、理屈の正しさを無視したり、ねじ曲げたり、
時には理屈抜きになされることもあります。この場合は非難でさえ無く、
「揶揄、誹謗、中傷」といったものになります。

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「言論」と称して、「批判」の語をただの非難や揶揄に使っている人の多くは
そのことに自覚的ではありません。「考える」ということがどういうことかを
知らないからです。
「考えを知る」ということは、つきつめれば「考え(論理・理屈)」は同じ
1つのものである
ということを知る、ということです。
「純粋理性」とは、簡単に言えば、自分も他人もみんな同じところの
「考え」であるということです。

それを知らないと、他人が知りたいと思って「批判」してきたことを、自分に
たいする「非難」だと思って、攻撃と防御することが目的になります。
つまり、他人に対して「非難」することになります。
攻撃と防御が目的なので、「知る」ことは目的ではなくなり、考えることも
なくなる。当然、論理性もなくなり、理性的でなくなる。つまり感情的になる。

理性的である批判と、感情的である非難は全く異なるものです。
意外に思うでしょうが、感情的というものは、表面的な見た目の態度や
言葉遣いのことではありません

見た目はいくら冷静を取り繕って、いくら涼しげに難しく見える言葉を並び
立てても、そんなのは理性的とは言いません。
どこがどう正しく、どう正しくないかを理路整然と説明することが
できなければ、そんなのはただの感情的な「非難」なのです。


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批判ではない「非難」の見破りかた。簡単です。

非難する人はドンドン話を核心から遠ざけようとします。別の視点とか、
参考意見とかいって、話を突き詰めるのではなく、話を広げていきます。
いわゆる「煙に巻く」「はぐらかす」というものです。
そのつど話を核心に戻すのは手間であり、話が長くなるので、そういう人は
相手にするだけムダになります。

もうひとつ、非難する人は外からの「情報」を根拠にします。
「誰かがこう言ったから、何かにこう書いてあったから、何処そこではそういう
ことになっているから、それが常識だから…。」そういうものを頼りにします。
当然「自分はこう考え、必然的にこの結論になる」という説明はなくなります。

最後には、「私はこう思う」。「これが自分の見解だ」。と自己完結した
ただの「意見」で終わらせようとします。個人の自由意見という、
自分だけの土俵に逃げ込むわけです。

「考え」と「意見」はまったくの別物です。
「批判」の目指すところは誰にでも共通するところの「考え」であり、ただの
個人的な見解は「意見」といいます。
考えた結果、こういう結論にしかなるはずがない、というのが「批判」です。
それに対し、理屈はどうあれ「自分はこう思う」というのはただの意見です。
ただの意見で他人を責めることを、まさしく「非難」と呼ぶのです。

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ただ知りたいがためだけに、ことを明白にしたいがために、言われていることの
理屈の正しさを問うこと。それが批判です。
その批判に対して腹を立てて「勝つための」議論をする。つまり、非難する。
そうする人がほとんどです。批判に対して、批判で対応できる人は、おとなと
呼ばれている人でもめったにいません。

一休さんに登場する「どちて坊や」。彼はおとなを困らせます。
しかし彼は、困らせようとしてるのではなく、知りたいだけなんですよね。
あれは純粋理性の権化です









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