アバウト福田のこんな感じ

インターネット活用コーチ 福田浩です。
コーチングのこと、インターネットのことなど、思いつくままにお話しします。


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夢をカタチに インターネット活用コーチの福田浩です(^_^)v

 

姪っ子がズボンのボタンを付けてくれました。

部屋に聞こえてくる姪っ子とお祖母ちゃんの会話を聞いていると、どうもゆるく付けてしまったりしていたようですが、僕が見たときは立派に出来ていました。

出来ることが増えてくると言うことは、素敵なことですね。

 

今日は「アタマの言葉とココロの言葉」というお題にしました。

こんなお題だと、いくつか違った話が出来るなぁ。。。まぁ、それはまた別の機会にするとして。

 

この本を読んでいたときにね。

 

最初に「言葉」についての議論があったんですね。

要するに「宗教の言葉」を定義しておこうと言うことで。

 

例えば、創世記で神が世界をお作りになったというとき、それを「科学」の言葉で受け取ると、それは可笑しいとか、いやビッグバーンから地球が出来て生物が発生し進化するさまを言い表しているスゴいことなんだとかね。

それを「宗教」の言葉で受け取ると、そこにはまた違った意味が出て来る。

 

このように「科学の言葉」が代表するような、客観的に検証可能な言葉、この本では「情報言語」と呼んでいますね。

一方で、語り手が自分のことを語る、例えば「頭が痛い」というような、それを聞き手が「自分のこと」として感じる、「あぁ、自分の経験したことのあるあの感じを彼は感じているんだ」みたいな。こういうことは「客観的に検証できない」わけですね。こういう言葉を「表現言語」と呼んでいます。

 

言葉の曖昧さはちょっと置くとして、「頭の言葉」と「心の言葉」と僕は呼びたいなぁと思っています。。

 

頭の言葉というのは「理解力」があれば「分かる」。しっかりと粘り強く説明すれば分かる。

そして、分かったかどうかは「テスト」をすれば確かめることが出来る。

学校で習うことは、テストを前提とする限り、こういう「言葉」だというと言い過ぎかなぁ。

 

心の言葉というのは、少し違う。

痛いと感じたことのない人には、「頭が痛い」と言われてもよく分からない。

でも、その場では分からなくても、いつか「あれはこういうことだったんだ」って分かるかも知れない。

 

僕自身は技術者だったこともあり、頭の言葉の人だったかも知れません。。

コーチになってから読む本も変わってきてね。あるいは会話の内容も変わってきて。

心の言葉ってあるなぁって思う。

 

心の言葉というのは、その場では分からないことが多い。

ただ、その言葉を聞いて、その言葉が心に残って・・・受容体というのかな。レセプターが開くというのか・・・無意識のうちになにかと出会ったときに・・・あぁ、アレか!って思う。

それもまた、新たな出会いとともに、やっぱりコレか!と考え直したりね。

答えは二転三転する・・・というよりも絶対的な答えは無いのかも・・・日々問い続ける、日々味わう。。

心の言葉というのはそういうものだと思う。

 

学校では、頭の言葉を大量高速に処理する能力を「成績」と称するんだけれども。

僕は「心の言葉」の理解については別に考えてね。

答えを急がない、ゆっくりと「理解との出会い」を待つ。

そういうゆとりを持ちたいものだと思います。

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夢をカタチに インターネット活用コーチの福田浩です(^o^)

 

久しぶりにブログを書きます。

最近、ちょっとしたコンテンツを書いているのですが、なかなか迷いがあって書き進めない。

面白いコンテンツになるとは思いますよ。これだけ迷っているんだから(^_^)v

 

ゴールデンウィークは、例によって姪っ子とよく遊びました。

姪っ子は最近、「12才」という少女漫画にハマっていて、僕にも読ませようとします。

 

率直に言って、何が面白いのかが、ぜんぜん分かりません(^_^;)

僕らが12才、小学校六年生の頃には、ひたすら「アホ」でしたからねぇ。

姪っ子のお兄ちゃんが彼女くらいの頃は、「事件探偵団」なるものを結成して、秘密基地を作ってました。

僕も秘密基地に招待されましたが、なかなか「アホ」でね。僕もワクワクしました(>_<)

やっぱり、女の子はよく分かりませんねぇ。

 

連休中は、キリスト教の八木先生と禅宗の秋月先生の対談本を読んでいました。

一つは、以前紹介したこの本ですね。

 

自我と自己、エゴとセルフ、つまり自我が開かれて自己が露わになる。

このイメージ、十牛図でもそうでしたね。牛を探すというのは本当の自分を捜すことでした。

そして、「本当の自分」・・・良いとか悪いとか、そういうことを言っているのでは無くって・・・本当の自分を覆い隠している煩悩と言うんですかね。「騒がしい自我」という言葉があるんだそうですが、その騒がしい自我を剥がしていく。そこに本来の自分、自然つまり「自ら然り」とする自分が露わになってくる。それが十牛図の旅でした。

 

僕が尊敬している林竹二先生はこんな意味のことを仰っていました。

「子供といえどもドグサに汚されている。それを一つ一つ吟味し取り除いていく」

「ふつう人は、世間でこれが善だ、と言っているものを善だとする。だがそれは知識ではなくてドクサだとするのです。世間の通説というようなものを、そのとおりにこれが真実だ、というふうに思っている状態が無知であり、その思い込みをドクサと言っているわけです。その無知、ドクサから自由になることがソクラテスにおいては学問の課題だったわけです。」 

 

このイメージをよりしっかりと理解したいと思ったので、次はこんな本を読みました。

 

この本も八木先生と秋月先生の対談本になります。

読んでいて、僕がU理論のようなものに惹かれながら、アドラー心理学に違和感をおぼえているものの正体が、なんとなく見えてきたように感じました。

岸見先生の先生、なんて名前だったっけ。野田俊作先生ですね。論文をいろいろ見せていただいた時、仏教のことをずいぶんと書いて居られた。

そこに何かがあるのだろうと、そういうことで「宗教」の本を紐解き始めたわけですが、僕の感じていた違和感というのは、どうもキリスト教から離れ始めた西洋哲学への違和感だったんだろうと思います。

 

そこで「西田幾多郎」という名前がお二人の話の中に頻繁に出て来る。

教科書で習った西田幾多郎ですね。「善の研究」ですか。

「哲学の道」を散歩していた人ですね。南禅寺から銀閣寺に繋がっているあの道。

 

「善の研究」をチラッと読んではみたのですが、全く歯が立たない。(>_<)

「純粋経験」「直接経験」って言われてもね。「アハ体験」とどう違うのかよく分からない。

そこで、昔読んだ本を思い出して、八木先生と哲学者の西谷啓治先生の対談本を読んでいます。

 

これがねぇ。ムチャクチャ分かりやすい。

なぁるほど、そうかぁ!って。

 

もちろん、マルチン・ブーバーからここまで読み進めてきたからなんでしょうけどね。

そうかぁ!ここに連れてこられたかぁ!って感じています。

 

直接経験、言葉になる前の主客以前の純粋経験。

 

そういうことを考えて居ると、ミポリンの翻訳した本が僕の中に「ガン!」っと入ってきました。

 

 

 

 

 

連休明けて僕の会う人は、ちょっとだけ言うことが変わっていると思うので、要注意です。

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今から、この本を読みます。

 

新刊はAmazonでは買わないと決めているんです。

地元の本屋さんを大事にしたいんでね。

今まではネットからジュンク堂に取り置きを頼んでいたのですが、ネット販売の統合と言うことでその仕組みが無くなってしまいました。

普通の「通販」になってね。本屋さんに行かなくて済むので便利ではあるのですが、Amazonと比べるとトロいんですよ。

便利なら便利に、不便なら不便にして欲しいよね。僕は不便でも良いって思っているんだから。

 

で、近くの本屋さんに届けてもらえる仕組みがあると言うことで、それを使ったんです。

届いたと言うことで本屋さんに行ってみると、手違いでその場で発注になってしまったようで。

出たときにサイン本を読めると思っていたのに、ちょっと待ちになってしまいました。

本を受け取ったのですがサインが無いと言うことで間違いに気付き、サイン本と交換しました。

慣れてなかったんでしょうね。

 

取り置きをしてでも、お店の人とやりとりをして買いたいなぁと思うんです。

地元から本屋さんが無くなるのはイヤだし、そこは消費者にも責任があると思う。

Amazonって手軽すぎて怖いと思うことがあるしね。

 

この本、すごく分かりやすいです。お薦めします。

 

さて、「話し方の心理学」の続きです。

 

今日のお題は、「コミュニケーションとは与えること」としました。

 

コミュニケーション(communication)の語源を調べると、コムニカチオ(communicatio)、 「分かちあうこと、共有すること」、communicare(コムニカーレ)「共有する」などが出てきます。

人間関係は、このように「分かち合う」「共有する」ことで成り立っています。

 

自分では満たせない欲求が誰にでもあります。

人は満たしてくれる相手を求め、その求めを拒絶するものは同じ目に遭います。

人が人に求めているもの、愛情、承認、励まし、賞賛、理解、同情、共感・・・こうした欲求の大半は、会話を通じて満たすことが出来ます。

そのため、特に意図しなくても、ごく自然のうちに会話の中にはこのような欲求が侵入して来ます。

 

そのとき、相手の要求を満たしてあげることが出来れば、会話は実のあるものになります。

会話の中には、このようなGive&Takeがひっきりなしに行われ、こうしたお互い様の連続で人間関係は維持されます。

 

会話は金銭に換えられない素晴らしいもの-注目、関心、興味、共感、知恵-を相手に与えることが出来ます。

物質的なもので満たされることの無い深い飢えを、会話は満たしてくれます。

 

「話すことによって与えるもの」として、次の三つが挙げられます。

  1. 教育する
  2. 楽しませる
  3. 感情面の欲求を満たす

「教育する」とは、事実や情報を与える、建設的な批判をする、個人的な経験を共有する、役に立つ情報を与える、といった幅広い意味を表します。

「楽しませる」とは、ジョークや愉快な話、エキサイティングな話などを通じて、相手に元気を与えることです。

「感情面の欲求を満たす」とは、相手を賞賛したり、認めたり、同情したり、自慢に思っていそうなことを話題にしたりすることです。

 

会話は同時に複数の働きをします。

例えば自分の感情を相手に打ち明けるとき、相手に気持ちを伝えるとともに、私はあなたに自分のことをさらけ出します、それだけあなたのことを信頼していますと言うことを伝えることになります。

愉快な話をして聞かせることは、相手を楽しませるとともに、相手を楽しませるために自分の時間も労力も使っていること、それだけあなたのことを気遣っていると言うことを知らせています。

 

言葉は贈り物です。物質的な贈り物に負けないほどの喜びをリアルに伝えることが出来ます。

 

「聞くことによって与えるもの」もあります。

自分の考えや感情を吐きだしてしまいたいとき、耳を傾けてくれる人が居るのはありがたいことです。

聞き手がいることで思考が整理でき、感情を解放することが出来ます。

つまり、聞くことそのものが贈り物になります。

 

考えると言う行為は、非常に無秩序なプロセスです。頭の中には雑多な欲求がひしめき合ってそれぞれが主張しています。

それを押しのけるように「考え」が形成されます。このような混沌としたプロセスが頭の中で行われています。

 

このように頭の中につぎつぎに「考え」が浮かぶと、それを解放したいという感情に駆られます。

それが建設的なもので無くても、話すことで楽しい思いをして、多少でも緊張が和らぐだけで本人は至って満足なのです。

 

そこに聞き手という存在が居ると、相手に分かるように秩序立てて話そうとします。

聞き手が居るから明確な思考が出来ると言うことはよくあることです。

たとえて言うなら、自分の考えを相手に試着させ、すこし後ろに下がって見栄えを点検するようなものです。

聞き手が熱心に聞けば聞くほど、話し手は考えをまとめて結論を出そうとします。

そのお返しとして、自分も相手の話を聞こうとします。話を聞いてくれたことの感謝の証しです。

 

話し手にとって聞き手とは感情の放出を促す媒体です。

感情が鬱積して居るとき、とりあえず話をするのが一番であり、話す限りは聞き手が必要です。

これとは別に、勢いは無いけれどもどうしても吐き出したいという感情があります。

こういう感情は、放出しても安心、共感してくれる、力づけてくれると確信できる聞き手を待っています。

 

聞くという行為は、相手を癒やすことに繋がります。相手の緊張を解きほぐし、相手は楽に感情を吐き出すことが出来ます。

情報交換という意味ではプラスでは無いかもしれませんが、相手との関係は豊かなものになります。

 

「話すことで得る」ことは、聞くことで与えることの逆です。

鬱積した感情を話すことで相手の時間と労力を使って気持ちを楽にしようとしています。

相手の感情を受けとめることで得られるものはなんでしょうか。

話し手は聞き手に対して、あなたを信頼しているからここまで自分をさらせるのだというサイン、つまり有る特別な地位を与えています。

 

感情を発散して大満足な話し手は、自分にとって楽しいことは、相手にもきっと楽しいはずと思いがちです。

感情を長々と放出し、聞き手の時間を消費すればするほど、聞き手はうんざりし、自分の問題に関心が移ってしまいます。

視界を曇らせていた感情の暗雲が消えて、相手を「耳」では無く「人」としてみることが出来るようになったら、すぐに相手を会話に巻き込み、感想を尋ねるなどして、ぞんぶんに話してもらいましょう。

 

「聞くことで得ること」は、話すことで与えることの逆です。

聞き手は役に立つ情報と心地よい気分を手に入れています。

ただ、聞き手が聞くことに徹し、何も返さないとなると話し手は不快感を覚えます。

 

良い聞き手はありがたいものですが、全てを吐きだしたと思った瞬間、聞き手の存在はさほど有り難くなくなります。

お返しが何も無いのでは、相手に都合良く利用されたのではと、話し手はうんざりします。

役に立つ情報、励ましの言葉を貰ったら、相手に敬意を示すことを忘れないようにしましょう。

 

会話は宝の山です。私たちは、貴重な時間と集中力を会話に注ぎ、さらに情報を提供し、相手を力づけるためのエネルギーを提供します。会話は素晴らしい資源です。

会話とは互いにその資源を分け合うことです。問題はどちらがどれだけ手に入れるかです。

 

往々にして、会話は激しいぶんどり合戦になります。

相手の話を遮り、会話の主導権を握ろうとし、自分の持ち分を相手に奪われたような気持ちになります。

少しでも自分の持ち分を増やそうとすると相手の言葉に耳を貸すことが出来なくなります。

これは不毛な戦いです。そんな戦いに勝ったとしても得られるものは有りません。

 

初めから相手に資源を提供するつもりで会話をする方がはるかに実りはあります。

会話は共有するものである。目的を果たすためにはそれが一番の近道です。

 

私たちはつい、相手は当然聞いているものとだと思い込んでしまいます。

会話で何を話そうか、どのように話そうかと私たちは知恵を絞りますが、相手に聞いてもらうための工夫というと、ほとんど何もしていません。

 

話したいと言う欲求があると、聞く力はガクンと落ちます。

どういうときに聞き手は話したいと思うでしょうか。

  • いま聞いたことに疑問がある。同意できないので質問したい
  • 意味が理解できないからもっと詳しく話して欲しい
  • あなたの意見に賛成だという意思表示とその理由を話したい
  • 本題とは関係は無いがどうしても言いたいことが有る

どんな場合でも、話したいと言う気持ちが起きると、聞き手は話し手に集中できなくなります。

このような事態を避けるには、「話したい」という欲求を発散させる方向に持っていくことです。

 

聞き手が自分から話そうとしないなら、合間合間で上手く誘導して言いたいことを引き出しましょう。たとえ本題と関係の無いことでも話してもらった方が良いです。

 

ものごとを効率的に進めていくためには、論理的思考と感情の両面で人を納得させなければなりません。相手の発言が論理的で無くてもキチンと対応するべきです。

感情は論理をかき乱そうとします。だから自分は論理的に話しているつもりでも、相手には非論理的に聞こえることもあれば、相手は分かったつもりでもこちらはサッパリ分からないということも起きます。

 

論理的な意見であろうと、理屈では説明のつかない気持ちであろうと、相手が伝えようとするからにはそれを受けとめるところから始めなくては、人間関係を築き発展させていくことは出来ません。

 

会話とは「共有すること・分かち合うこと」です。

相手に時間を与えて、考えて居ることや気持ちを語ってもらいましょう。

それを習慣にすることが、良好な人間関係と質の高いコミュニケーションを手に入れる近道です。

 

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「親鸞とパウロ」という本を紹介しました。

 

僕がこの本の中で、一番このブログで書きたいと思ったのは、この言葉です。

相対の絶対化

八木先生はこのように言います。

(p239)

私は「相対の絶対化」ということは恐ろしいと思うんです。これは「人間的」というより悪魔的だ。

戦争とか、大量虐殺とか、破壊とか、一方的な支配とか、侵略とか、先入見、偏見、対話や交わりの拒否、傲り、問答無用の態度、無知、無関心、曲解、そういうものはみな「相対の絶対化」からでてくる。

ただし、それから自由になることはあり得ると思うんですね。

自分の相対性を自覚するということですね。それはできることだと思うんです。

(中略)

それは相対の相対性に「目覚める」ことです。

「相対の絶対化」という「罪」について、ただ「赦し」とか「義認」とかを言うことはできない。

だいたい、相対を絶対化している人間はあくまで絶対を絶対化していると思い込んでいるから、自分の「罪」に気付かない。

「罪」の意識も無いし、本人は正しいことをしていると信じ込んでいる。

こういう状態に罪人の「義認」を説いてもはじまらない。

グノーシスだと言われても「目覚め」のほうが必要だと思う。

人間に煩悩がつきまとうのは仕方ないとしても、相対の絶対化はほんとうに克服しないといけない。

相対の絶対化、なにを絶対化とするかというと、自我、アドラーで言うとライフスタイルですね。

私が世界を見るときのフィルターです。岸田秀先生によると人間は本能が壊れているので、その代わりに自我という言葉を前提とした論理体系を持つようになったと言うことです。

 

パウロは、「律法」をしっかりと守っていると自負しているエリートなユダヤ教徒でした。

律法というのは、神との契約ですね。契約をちゃんと守っているから「義とされる」ということです。

パウロは「自分は正しい」と信じてキリスト教徒を迫害していた。

 

「迫害」をする人の論理というのはそうなんでしょう。

自分は正しい、自分は絶対だと思っている。。。その根拠もいろいろと揃えているんでしょう。

しかし、それは如何に客観的に「正しい」としても、「私のライフスタイル」という相対的な、あるいは仮のフィルターを通して見ているのだということに変わりはありません。

 

ネットなどを見ていても「自分は正しい!」「あいつは間違っている!」という叫び声があちこちから聞こえてくるようです。

なんでそんなに怒ってるんだろう。。。って思うんですね。

 

共産主義がね。僕らが子供の頃はメーデーとかがあって、メーデーの歌を歌ってました。

僕もお父さんの肩に乗って見に行ってました。

「きけばんこくのろうどうしゃ~♪」

共産主義というのは、僕はよく知りませんが、マルクスもエンゲルスも「理想」を掲げたんだろうと思うんですよ。

ただ、一つ致命的な欠陥は「私たちは正しい!資本家を倒せ!」とやっちゃったことなんじゃないかな。

 

「私は正しい!」って言っている人は、なんか敵を作るよね。

これは「正しい」ということは、ひとまず脇に置いておくと、私と「敵」の関係はアドラーの言う「縦の関係」なんだろうと思うんです。

 

極論かなぁ。。。僕はそうは思わないんだけど。。。こんなことを考えています。

アドラーはこう言うんですね。世界を敵と見るのか味方と見るのか。

そんなのウソやん。敵も居るし、味方も居るよ。世界はそんなにシンプルやないよ。

 

ここで、「相対の絶対化」ということを持ち出してくるとね。

「私は正しい!」という人は、自分の「ライフスタイル」を絶対化している。

「絶対化」しているアイディアが崩れると「怖い」から、ますます絶対化する。

 

そのために「怒り」と言う感情を使う。

「敵=異質な意見」を寄せ付けるのが怖い、「コミュニケーションを取りたくない」というのが「怒り」の目的の一つかも知れない。

正しい自分の方が間違っている「敵」より上だと思いたいのでしょう。

 

じゃぁ、「横の関係」というのが何かというと、「相手とのコミュニケーションを取りたい」ということなんでしょうね。

「敵=異質な意見」に対しても心を開く。

もしかしたら自分の「ライフスタイル」は崩れるかも知れないけれども。

 

と言うことは、「縦の関係=敵」「横の関係=味方」という状態のことを言っているではなくって、「横の関係=敵とも(敵だからこそ)コミュニケーションを取る」という「意志」のことを言っているんじゃ無いか。

そうすると「世界を味方と見る」というのも、「みんな仲良し」という状態を言っているのでは無く、世界が敵だらけであろうとも、世界が敵だらけであるからこそ、「正しいということはひとまず脇に置いて」心を開いて話そうと言うことじゃないかな。

 

そういえば八木先生も「隣人愛」を「敵だからこそ愛すること」だと仰っていたなぁ。

 

それに気付いた「あなたから始めなさい」とアドラーは言っているような気がします。

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熊本で地震があったようですね。

姪っ子からLINEでメッセージが来ました。

そういうことに関心を持って知らせてくれるようになったんだなぁ。

 

親鸞とパウロ」を読了しました。

 

とても面白かったです。

キリスト教の八木先生と禅宗の秋月先生の対談本。

以前、読んだことはあるのですが、やはり当時とは受け取り方がぜんぜん違っているように思います。

 

若い頃はね。やっぱりこういう難しげな本を読むことに喜びを感じていたと思います。

自分はこんなことを知っているんだと、そんな感じですね。

 

今はもっと、自分の経験や問題意識に引きつけて読んでいるように感じられます。

ですから、シンクロニシティと言うんでしょうか、いろんなモノが繋がって、なにかに導かれているような気さえしています。

 

親鸞とパウロですね。

うちは安芸門徒、浄土真宗ですから、親鸞には以前から関心を持っていました。

と言っても、法事のときくらいですけどね。

その親鸞がパウロと似ているんだと、八木先生の御著書は何冊か読んでいましたし、これは面白いなぁと言うことでクはね。

 

対談と言うことですので、斯界を代表する碩学が意見をぶつけ合うわけですよ。

いやぁ、お二人とも、なんでもよう知ってはりますなぁ。わくわくしながら読みました。

 

この本の中で、とっても素敵なお話しがあったのでご紹介します。

 

雲厳さんというお坊さんがお茶を点てているところに、道吾さんというこれまたお坊さんが来て尋ねたんですね。

このお茶、誰にやるのかい

一人欲しいという者があってな

どうしてそのお方に自身で点てさせないのか

幸いにわたしがここにおるのでな

この「一人」と「私」・・・いや、同じ人ですよ。

この「一人」と「私」との関係性。つまり「一人」が求め「私」が答える。

 

別の話をしましょう。

同時に読んでいた本なんですけどね。

 

 

ここに(P111)こんなことが書いているんです。

 なぜそれを望むのか

  1. 愛する人のため
  2. お金を得るため
  3. 名声を得るため
  4. 自分はそれを得るに値するから
  5. 力を得るため
  6. 父親(あるいは元配偶者、母親、先生、コーチ)が間違っていたことを証明するため
  7. 人生あるいは人間はどうあるべきかについての自分のビジョンを実現するため
  8. 楽しいあるいは美しいから
  9. 選択の余地がないから

もし、8か9を選んだのなら、あなたはここに残る資格があります。
その他の7つを選んだ場合でも、残ることはできます。ただし、直ちに「更生室」に入ってもらうことになります。

この「一人」と「私」、「自己(セルフ)」と「自我(エゴ)」

 

コーチをやってて、「私には価値がある」「私には可能性がある」「私が私が・・・」というね。

そういうところになにか「我執」を感じることがあるんです。

 

「幸いにわたしがここにおるのでな」

 

僕はその気持ちを大事にしたいなぁと、そんなことを思います。

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5年生になった姪っ子に感想を聞いてみると、教科書が分厚くなったとのこと。

家庭科で裁縫道具を買うんだそうです。ボタン付けとか家の中の係が増えそうですね。

 

この本を読了しました。

原題は「Do The Work」ということです。

著者はハリウッドの脚本家ということで、わくわくドキドキしながら全編を読みました。

 

僕は本を読むときマーカーで線を引きます。

最初はね。重要だと思うところに線を引いていたのですが、だんだん線を引くところが増えてきてね。

「うん!分かった!」と思うところに線を引くようになりました。

 

この本に関しては「全行」線を引いてしまいました(^_^;)

 

線を引いてから一度読み返す。そうすると頭に入るんです。

でも、全行に引いたんじゃねぇ(>_<)

 

さて、「話し方の心理学」ですね。

 

今日は、「客観的に話す」としました。

 

「言葉」は、事実を表現することよりも、個人の経験や反応を表現することに長けています。

人は自分の経験をあたかも客観的な事実のように伝えてしまいます。

ところが自分の経験を言葉にするとき、人は客観的な視点に立っていません。

自ずと会話の中には歪められた情報がやりとりされることになります。

 

会話から歪みを除くためには、実際に有ったことにそれに対する自分の思い-願望や期待、感情-を分けなければなりません。

そのためには、話の内容についてお互いの解釈を確認するといった対処が必要であることはすでに述べました。

 

思考を歪めないための工夫として、本書では五つあげています。

  1. 何を前提に判断しようとしているのかを知る
  2. 修飾語を数字に直す
  3. 白か黒かで分けず、グレーゾーンの中に位置付ける
  4. 頭から決めてかからず、一つ一つについて柔軟に考え、正確に判断する
  5. 誰かの意見を聞いたときには裏付けを取る

何を前提に判断しようとしているのかを知る

私たちは自分が慣れていることや予想が付くことを標準とし、そこから逸脱するものだけに気付きます。その人の「標準」によって表現は変わります。

私たちのものの見方は、価値基準、見通しや願望・期待、現在の心境などにも左右されます。

 

相手に非現実な期待を抱いているとき、事実を歪めがちです。

人のことを判断したり批判したりするときは、まず自分自身に問いかけましょう。

「自分は相手に何を期待しているのだろうか」

自分の状態をあらかじめ言葉にして認識しておけば、現実を歪めてみる傾向も減ります。

 

自分がこの状態をこう見ているのが、他の人にはどう見えるだろうかと自問してみましょう。

同じ状況を他の言い方でどう伝えることが出来るだろうかと考えてみるのも良いでしょう。

 

個人的な反応を付け加えることは悪いことではありませんが、どこまでが客観的な事実を述べたモノで、どこからが自分の解釈なのかをわきまえておきましょう。

修飾語を数字に直す

修飾語に認識にズレが無いか気をつけましょう。

特徴の有無だけでは無く、どのくらいのレベルなのかを数字で表現しましょう。

数字が得られない場合は、およその量で代用しましょう。

 

自分が与えたり受け取ったりする情報から主観的な要素を出来るだけ取り除き、具体的な情報にしましょう。

確定できたところで、それがどれほどの意味を持つのか、実際にどれくらい重要なのかを考えてみましょう。

白か黒かで分けず、グレーゾーンの中に位置付ける

真実はたいていグレーゾーンのどこかにあります。

ものごとは部分的には真実で部分的には真実ではありません。

ところが私たちはどうしても、有るか無いかで考え、表現してしまいがちです。

また、有りもしない境界線を引いて強引にカテゴリーに分類しようとします。

それが実に便利なので、ついつい頼ってしまいます。

現実にはこのような明確に分類することは出来ないし、人によって境界線の線引きはバラバラです。

この不確かな世界では、それは危険な行為です。

 

白か黒かという表現が出たら、その中間地帯について考えてみましょう。

100%白とも黒とも言いきれない部分がないか探ってみましょう。

頭から決めてかからず、一つ一つについて柔軟に考え、正確に判断する

人は、そのつど決断を下すことを避けて、一般化したパターンを作ってしまおうとする傾向が有ります。

一つを選択すると選択しなかったモノがよく見えてきます。

決断を間違えると自分が判断を間違ったという思いに苦しめられます。

そこでルールを設定し、正確な判断よりも安全を採るというわけです。

しかし、そのことによって想定外の状況に重要な要素を切り落としてしまうことがあります。

 

現実には想定外の要素はあまりにも多いだけでは無く、現場の状況は刻一刻と変化し、現実と想定とはますます乖離していきます。

実態に即した判断であるのか、既存のパターンに当て嵌めて考えて居ないか、問いかけてみましょう。

誰かの意見を聞いたときには裏付けを取る

私たちの感情はとても巧みに願望を事実とすり替えます。

事実に基づく客観的な結論のつもりで、じつは自分に都合の良い結論を導き出すのはそのためです。

誰かの発言が真実であるかどうかを判断するときに、発言そのものの信憑性よりも誰がそれを主張しているかで判断しがちです。

一つの好ましい特徴を見て、それだけを根拠に他の部分も好ましいと思ってしまったり、逆に嫌いな人物についての悪い情報を頭から信じてしまうというようなこともありがちです。

 

事実に基づかない発言や決めつけに出会ったら、発言者の感情や願望が込められているのではないかと確認してみましょう。

 

個々の発言が実は何を意味しているのか吟味する習慣を付けましょう。

この人が言っていることには、どんな感情や願望が混じっているのか考えてみましょう。

そのためには、話を端折らずにたくさん質問をして、具体的で明確な言葉を引き出すことを心がけましょう。

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ちょっと、気になったことがあったので、書いておきます。

 

人はそれぞれ自分のフィルターを通して世界を見ています。

アドラー心理学では、そのフィルターをライフスタイルと呼んでいます。

ライフスタイルは、人がそれぞれ作っていくモノ、つまり仮のモノです。

 

人が自分のライフスタイルを自分の中から見ることは困難です。

ですから、自分が何かを見たときに、自分の「感じ方」が正しいと思いがちです。

しかし、他の人は、別の「ライフスタイル」を持っています。当然に感じ方は異なります。

 

「私」を中心において、万巻の書を読んだとしても、万人の賢者の話を聞いたとしても、それは「私」のライフスタイルを通して、私に「都合の良い」ことが見えたり聞こえたりするだけのこと。

「あなた」が「私」と異なる意見を述べるとき、「私」は「私が正しい!」と叫びはじめます。

 

しかし、「あなた」も「私」と同様に、掛け替えのない一個の人格です。

たとえそれが「私」にとって受け入れられない意見であったとしても、それは「あなた」のライフスタイルからは「私」と違うものが見えているだけのことに過ぎません。

 

「私」が「あなたは間違っている」というとき、「私」を「あなた」よりも優位に見ようとしていないだろうか。

つまり、アドラー心理学で言う「縦の関係」ということですね。

「あなたは私のように正しい考えを持っていないのだ」と考えて居ないだろうか。

 

アドラーの言う「横の関係」であれば、少し対応が変わるのでは無いでしょうか。

アドラーの言い方を借りれば、「あなたの目で見、あなたの耳で聞く」

 

「私は〇〇と見えている。あなたには△△と見えている。あなたにはなぜそのように見えるのか知りたい」

そんな素朴な疑問が湧いてくるのでは無いでしょうか。

 

もちろん、「あなたの目で見、あなたの耳で聞く」ことは出来ません。

しかし、出来ないからこそ「あなたの目で見、あなたの耳で聞く」

つまり相手の立場に立つ、英語では in someone's shoes なんて言いますね。

大切なことは、「私を相手のところまで動かす」ということなのでしょう。

 

これはまさにU理論で言う「判断の声(Voice of judgement)」「皮肉の声(Voice of cynicism)」を越えると言うことに他なりません。

 

私を動かす。私の外に出すことで私のライフスタイルに気付くことがあります。

それが「自分を吟味する」ということ、「吟味しない人生には意味が無い」と言うことですね。

ところが、ここで「私のライフスタイル」を替えなければならないと気付くことがあります。

 

これは今までの「私」を否定することに他なりません。

とても怖いことです。これがU理論で言う「怖れの声(Voice of fear)」です。

「私」の中での「戦い」があるわけです。

 

ですから、「横の関係」というのは、なんとなく良い感じに見えますが、実はとても厳しいことなんだろうと思います。

お互いに否定せずに、なぁなぁで。。。と言うことで有れば問題ないんでしょうけどね。

 

そこで、お題にした「眼鏡を替えるようにライフスタイルを替える」ですね。

こういうことが、当たり前のように「できる」ということが僕の理想です。

それは「私からの自由」と言っても良いのかも知れません。

 

ライフスタイルというのは「仮のもの」という自覚がその前提にあります。

「男子三日会わざれば」と言いますが、サラッと眼鏡を替えるようにライフスタイルを替えたいモノです。

 

ところで、世の争いというモノは、この「私」のあり方、「私が正しい!」と私を固定することに起因するのではないでしょうか。

「私」をますます堅く守り、「あなた」との接触を断とうとする。そんな場面を見かけます。

 

「相対の絶対化」という言葉をどこかで見かけました。

仮のモノは仮のモノ、そんなものに執着してもしかたがありません。

 

ですから、ここの書いたことも、明日には別なことを言っているかもしれません。

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夢をカタチに インターネット活用コーチの福田浩です(^_^)v

 

一昨日、姪っ子はリップスティックに乗っていて、手をひねったそうです。

痛々しく湿布を貼って、すりむいているところを見せてくれたのですが、どう見ても「つば付けとけ!」のレベル。

それでも動かないことをアピールしていました。

 

今日は入学式。

アーチを作って新入生を迎えるのに、湿布を貼ってるのもなぁと言っていたのですが、今朝になって「動くわ!」

湿布無しで学校には行ったそうですが、「痛い」アピールは続けていました。

 

さて、「話し方の心理学」ですね。

 

前回は、話し手は、聞き手に「話を聞いてもらう」だけではダメで、「頭を働かせてもらう」

そのためには聞き手に考えてもらうための質問をしましょうという話でした。

 

聞き手は、今までの「考え」を持っていますから、新しい考え方を取り入れるためことには抵抗があるのが普通です。

聞き手が「抵抗する」ということは、「頭を働かせた」、話し手に反応したと言うことです。

つまり、「反論は手応えアリのサイン」というわけです。

 

素直に同意するのは、争いたくないと思っているからなのかもしれません。

相手があっさり同意する場合は、行動に移すように念を押しましょう。

 

激しく反発されるのは、提案を受け入れたいという思いの裏返しであることが多いものです。

心の中に二つの願望が対立しているとき、聞き手は不安になります。

話し手に同意したいと思っても今までの考えが消えたわけではありません。

どちらかを選ぶとどちらかを失ってしまいます。

 

こういう場合は、いったん引き下がるのが得策です。

ムキになって説得しても聞き手の不安は解消されません。むしろ苛立ちを話し手に向けてしまいます。

あくまでもニュートラルに、客観的な態度を保ちます。聞き手は自分の葛藤に向き合わなければなりません。

 

聞き手の立場に立って持論を批判し、それに対する反論を聞き手から引き出すことも有効です。

あくまでも聞き手を尊重し、聞き手に評価をしてもらいましょう。

互いの立場に立って、お互いの考えの利点を点検することで、聞き手は話し手の考えに馴染み、客観的な判断をすることが出来るでしょう。

 

聞き手が筋が通らない抵抗をする場合があります。

意見が違うから反発するとは限りません。たまたま抵抗したい気持ちが抑えきれなかったという場合も有ります。

本題とは無関係に、反論したい、負けたくない、ということもあります。

そのような場合は、互いの主張を検討しても意味がありません。

 

会話の内容とは無関係の反発であることを示すサインとして、本書では以下の5項目を挙げています。

  1. 猛烈である
  2. 聞く耳を持たない
  3. 一貫性が無い
  4. 正当化する
  5. 反論がコロコロ変わる

持論を取り下げるには、それなりの葛藤があり、決して潔くはなれないもの。

こうした葛藤こそ、本当の意味で聞き手が話し手の考えを取り入れた(賛同しているわけでは無い)サインです。

 

聞き手の反論が必要以上に感情的、筋が通らない、聞く耳を持たない、そういう場合は思い切って路線を変えましょう。このまま進めても平行線です。

 

聞き手が頑として譲らない場合、それは必ずしも話し手の言い分が弱いからとは限りません。

話し手の主張が聞き手に伝わらないのは、主張の中身では無く、それ以前に聞き手が何に価値を感じるか、価値観の問題であることが考えられます。

聞き手の価値観を探ってみましょう。

 

聞き手がなぜ反発するのかまったく手がかりの無い場合があります。

こういう反発に対処しようと理屈をぶつけても跳ね返されるだけです。

その前に、以下のステップを踏みましょう。

  1. 相手に理解を示す
  2. 反発していることを自覚してもらう
  3. 反論を相手とともに検証する

相手に理解を示す

多かれ少なかれ、私たちは理屈に合わない言動をします。それを自覚するのはイヤなモノです。

私たちを不合理な言動に走らせる原因は私たちの内部にあり、外部の状況とは関係ありません。

人の内面はまさに何でもありです。私たちはその

衝動をコントロールし、社会的に認められる形で表現しています。

 

しかし、衝動が強まり、自制心で抑え切れなくなりそうになると、にわかに不安が押し寄せ、恐ろしくなります。

そうなると、自分の気持ちを封じ込めるために言動を最もらしく正当化したり否定したりしようとします。

 

そんな相手の本音を知るためには、あせらず気負わずに、相手を緊張させないように、ゆっくりと時間を掛けて相手に気付いてもらうことです。

 

あなたを理解しましょう。受け入れましょうという態度を示せば、相手は自分の不合理な部分を出しやすくなります。

それは「あなたの言うことに耳を貸します」ということでも「あなたの考えに同意します」ということでもありません。

相手の立場を受け入れるとは、相手がどう感じているのかを理解し、それを尊重することです。

 

まず、あなたの感情を受け止めますと意思表示をし、あなたの考えはこうですねと確認する。

大切なことは、相手の感情をそのまま受け止めること。

相手の感情と意見とを分けて、それぞれに合った対処をしましょう。

反発していることを自覚してもらう

抵抗していること、その抵抗の裏に論理的に説明の付かない動機があると気付かせます。

ただし、直接指摘してはいけません。

相手が自分の感情を分析できるような質問を投げかけてみましょう。

本題に関係の無いことにこだわっている自分に気付くかも知れません。

反論を相手とともに検証する

あからさまに反発しているのにその理由を言わない。あるいは賛成できないとしか言わない相手に対しては、まず何を隠しているのか尋ねてみましょう。

相手が反論を表に出さなければ、こちらの考えを主張しても無駄です。

質問をして、相手の考えを明確に、具体的にしていきましょう。

 

人が反発を示すときは、理屈に合わない動機が紛れ込んでいることが珍しくありません。

反発する理由を深く話し込んでいくうちに、理屈に合わない動機、本題とは無関係な動機は力を弱めていくでしょう。

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夢をカタチに インターネット活用コーチの福田浩です(^_^)v

 

健康経営についてのディスカッションに参加してきました。

 

健康というとね。僕が思うのは、WHOの定義ですね。

「肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも」ってやつ。

 

肉体的な健康、精神的な健康、社会的な健康。それぞれについて考えないといけないと思うんです。

 

肉体的な健康というのは分かりやすい。定期検診とかね。スポーツをするんだとか。いろいろ有ると思うんです。

精神的な健康というのも、最近は注目されはじめたのかなと思います。メンタルチェックとかね。

 

肉体的な健康と精神的な健康、この二つは個人を見ている。

社会的な健康というのは、グループ、あるいはグループと個人の関わり合いを見ています。

少し観点が異なると思うんですね。

極端な言い方かも知れませんが、社会的な健康がベースに合って、それが精神的な健康、肉体的な健康へと繋がっている。

これは「企業」だけの問題では無くって、考え方としてはいろんな「社会」に、家庭から国家、あるいは世界にまで広がることなのかも知れません。

 

そんなことを考えて居ると、ふとこんなことを連想しました。

 

発達障害についてちょっと興味を持っているんだというお話しを以前しましたでしょ。

未だ、理解が薄いんですけどね。今の理解で言うと。。。ということで勘弁してもらうとして。

 

自閉症っていうと、この言葉から「自分を閉じている人」だと僕は思っていたのですが、どうもそうじゃないらしい。

この人たちは、普通の人に比べて、何かがスゴく出来たり、何かがスゴく出来なかったり、要するにアンバランスなんですね。

だから、集団生活に入ったときに、「不安」なんだと。

だから、自分を閉じるんや。。。分かるわあ、僕もそう言うところ有るわ。。。まだあんまり読み進んでいないので合っているかどうか分かりませんが、そう受け取っています(^_^;)

 

でもね。才能って言うのは、そもそもそういうものじゃ無いのかな?

 

いろんな対処の方法を見たんですが、要するに何かというと、そういう人たちが安心して過ごせる場を作ろうよと言うことじゃないかな。

それはね。「自閉症」という問題じゃ無くって、全ての人にとって、ということじゃないかなぁ。

 

そこでね。連想したのが、アドラーの共同体感覚。

共同体感覚は、文字の如く『共同体と思える感覚』です。言い換えると『他人を仲間と思える感覚』のことです。

http://xn--cck1d7d6c.com/8items/social-interest/

 

他人を仲間と見る感覚。他人を味方と見る感覚。

う~ん、よく分からないなぁと思っていました。

じゃぁ、仲間って何? 味方って何? 敵って何なの? ってことになるでしょ。

 

難しいと思うんですよね。

 

でも、一つ、ここで気付いたことがあって。

 

アドラーは、仲間のことをMitmenschen、つまり「繋がっている人」「一緒に居る人」と言っています。Mitmenschlichkeit、人が繋がっていることですね。

その逆の状態を表すのに「敵国に居るような」という表現を用いています。

 

「敵国に居るような」。。。どうですか。そういう思いをしたことはありませんか?

会社でもそんなことありますよね。

 

そう考えるとね。上司や同僚は「味方」と言えるだろうか?

そこが「敵国に居るような」場であれば、それはMitmenschenとは言えないんじゃ無いか。

 

社会的な健康というのは、そこが「安心の場」であるのか、「安心感を持って過ごせる場」であるのか、と言うことでは無いかな。

それは、メンバーへの「信頼」がベースにあるのでしょう。

そういう場は、誰かが「提供」するのではなくって、メンバーがともに作っていく場だと思うし、僕はメンバーを巻き込んでいくリーダーシップが、少なくとも最初には必要なんだろうと思います。

 

そんなことをツラツラと考えました。

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夢をカタチに インターネット活用コーチの福田浩です(^_^)v

 

今日から姪っ子は学校です。

「五六年やなぁ。たいへんやなぁ」

六年が少ないので五年生は六年生の手伝いが大変なんだとのこと。

五年生、頑張って欲しいですね。

 

さて、「話し方の心理学」ですね。

 

私たちは、正しい言葉を使えば自分の言いたいことが伝わると思いがちです。

実際には「正しい言葉」は存在しません。

「自分の言いたいこと」を本当に理解して貰うためには、しっかりと聞いて貰うこと、活発に頭を働かせてもらうことが鍵になります。

 

相手の言葉を理解するためには、相手の言葉で表現されたものを、いったん自分の言葉に直して考える必要があります。

言葉を受け止めただけでは理解したとは言えません。

理解するとは、相手の考えを自分に引き寄せて考え、自分の状況にフィットさせ、当事者の立場に身を置いて実感することです。

 

ところが、聞き手はそういう状態にはなりたがりません。

「思考する」ためにはそれなりにエネルギーが必要です。

他人に問題を考えるよりも、自分のことを考えてしまうのが自然です。

 

話し手の責任は、自説を言葉で表現して伝えることだけではありません。

一歩進んで、聞き手がそれについて思考するように仕向けること、そこまでが話し手の役割です。

営業が商品説明だけで終わっては仕事を果たしたことにはなりません。

相手が自分の頭でセールスポイントを一つ一つ検討するところまで持っていかなければなりません。

 

話し手は、自分が述べたことについて聞き手が考えるように質問を使うことが出来ます。

この質問は、聞き手の考えを明らかにすることが目的ではありません。

話し手が言ったことを理解して貰うための質問。こちらの考えを相手の頭に植え付けるための質問です。

質問することで聞き手は受動的な状態から能動的な状態にならざるを得ません。

今話したことについて聞き手が頭を働かせて反応を見せたら、目標達成です。

 

人は自分なりの考え方を持っています。

それは自分にとってしっくりくる快適なものです。そう簡単に捨てることは出来ません。

人の気持ちは理屈では動きません。自分の気持ちにピッタリとフィットすると納得しなければ人は新しい考え方を取り入れることはありません。

 

話し手は、自分の提案を自信を持って提案します・・・それは自分にフィットしているからです。

聞き手は、離れたところからそれを眺めています・・・聞き手は自分の考え方の方が自分にフィットすると思っています。

 

聞き手に理解して貰うためには、服を試着するように、いったん相手の考え方を脱がせて、こちらの考え方を試着して貰う必要があります。。。見た目では無く、着心地で判断して貰うのです。

 

試着して着心地を確かめている状態とは、話し手の言葉を聞き手が自分の思考に取り込んだ状態、自分の言葉で考えて居る状態です。

聞き手が話し手の言葉を自分の言葉に置き換えて話題にするとき、聞き手は話し手の考えを理解したと言えます。

 

そのためには理路整然と説得することよりも、質問をすることのほうが有効です。

自分の考えを一つずつ述べながら、目的に合った適切な質問をすることが鍵になります。

 

質問は聞き手に思考を促すためのものです。

ですから、必ずしも疑問形を取るとは限りません。

何かを聞かれて頭を働かすことは心地良いものです。質問を上手く使うことで会話の主導権を握ることが出来ます。

 

会話の中で質問をする習慣を付けましょう。

自分の思いを言葉にするだけでは無く、「私の考えをあなたはどう思いますか?」と聞いてみましょう。

話をすることは、必要な情報を渡しておしまいではありません。相手の思考を刺激することです。

質問をする習慣が付くと会話の情報量が増え、お互いの思考が刺激を受けて活発になります。

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