※書き起こししているからといって必ずしも同意賛意しているとは限りません。

曽野綾子氏「3・11は日本人の『弱さ』を図らずも浮かび上がらせた 被災者と老人の『甘えの構造』について」週刊ポスト2014/03/21号

<書き起こし開始→


東日本大震災から3年を迎えた。「千年に一度」といわれた天災と原発事故という人災の爪痕は深く、いまだに数多くの被災者が厳しい生活を強いられている。そうした現実に向き合い、被災者の再出発や被災地の復興を果たしていくことが、日本人の重要な課題であることは言を俟(ま)たない。

だが、あの大震災は同時に、現代に生きる日本人の「弱さ」を図らずも露呈させたのかもしれない。作家・曽野綾子氏は、「被災者や高齢者といった”弱者”と呼ばれる人々の甘え、そしてその甘えを当然の権利と認めてしまう社会に不安を覚えます」と語る。


◇「弱者の立場」の欺瞞



2月の関東地方の大雪の時、あちこちで「孤立した」村落があったとしきりに報道されました。

確かに停電すればとにかく寒くて辛いものですが、ニュースに登場した女性の高齢者が、おそらく食糧にも不自由しておられたんでしょうね。「これからは行政がもっと早く除雪をして、閉じ込められようにして欲しい」と言っておられたんです。

でも、日本はこういう場合、驚異的に早く道を開けてくれる。半月も一ヶ月も道が通じないなんてことはありません。ですから、やや過疎地域に住む人たちは、常に一週間かそこいらの食糧の備蓄は、自分でしておくのが常識なんです。

テレビに映ったその女性は、私くらいの年齢でした。おそらく戦時中に物に不自由した時代もご存知でしょうに、すぐ打開策を国や社会に求める。こういう姿勢を見る時、私たちは戦争から何を学んだろう、と思ってしまうんです。


--- --- --- --- --- --- --- --- --- ---
そうした声が何の疑問も持たれないまま「悲痛な叫び」として報じられ、国や社会に「早く道を開けないのは無責任だ」と追及することが正義であるかのような空気にも、曽野氏は苦言を呈する。
--- --- --- --- --- --- --- --- --- ---


今、世の中はこぞって「いい評判」が欲しいんです。相手から少しでも苦く感じることを言われると、自分の評判が悪くなりますから。誰しも自分もいい人だと思われたいために、「常に弱者の立場に立って書く」ことを標榜している評論家さえいますからね。

しかし、そういう考え方こそ差別なんです。或る人は或る面では弱者ですが、別の面では強い。生活保護を受けている方は、もちろんお金は足りないでしょうけれど、今月のお金が入らないことはない、という強みを持っていると感じている人もいるでしょう。自由業と名の付く仕事をしている人は、今月から無収入になっても、失業保険さえないんです。

人はさまざまな要素で生きています。それを過不足なく見るということが、現代でも誠実であり、勇気だろうと思いますよ。

問題の責任を追及することも、時には必要でしょうけれど、責任の追及という姿勢は、問題の解決策を全面的に相手に求めるということになってしまう。つまり、責任を果たさない相手だと、問題も解決してもらえないわけで、これはむしろ当事者にとって不自由な結果になるでしょうね。



◇「自分で解決」しない人々



私は、「常に解決は自分でする」という姿勢をある程度残しておくのが、人間として当然のような気がします。

先の大雪の時に、昔、私が聞いたいい話を思い出しました。私の知人で、大金持ちの家族が、北海道の十勝の雪の深い牧場で競走馬を飼っていました。自分の馬ですよ。その家の息子さんは、冬場の二カ月は道が閉ざされる牧場に暮らして、馬の世話をするんです。

その人に「毎日のご飯のおかずはどうなさるんですか?」って聞いたら、「道が雪に閉ざされる期間はだいたい二カ月ですが、鯵の干物を一日に一枚ずつと計算して、六十枚を買っておいて雪の中に放り出しておくんです。それがあれば、おかずには困りませんよ」と言われたんです。私はいつもその言葉を思い出して、そんな風に暮らせるんだと、自分に言い聞かせています。


--- --- --- --- --- --- --- --- --- ---
「自分で解決する」という姿勢が失われていることこそ、三年前の大震災で見えた「日本人の弱さ」ではないか。曽野氏は東日本大震災以降、そのことを言い続けてきた。それは国や社会の制度変更や、技術の進歩では解決できない、人としての生活力の問題でもある。
--- --- --- --- --- --- --- --- --- ---


東日本大震災で見えた「日本人の弱さ」とは、困難な状況を、なんとかして自分で克服して、いい生活をつくろうとする人が少ないことでしょうか。私たちは弱いですから、「座って助けを待つ」ということになりがちですけど、やはり自分たちで工夫して、この非常事態をどうしたら切り抜けられるかを考える方が人間的ですね。

大震災の時、私はその場にいなかったのですからよくわかりませんが、その夜から避難所には、食べ物を作る方はいらしたのかしら。

私だったら津波が引いたら、鍋とかお釜を拾い出し、ブロックで竃を築いて、燃料はそのへんに落ちている誰の物かわからない木片をどんどん焚いて暖を取りますし、高台に住む人におコメを分けてもらってすぐ炊き出しを考えますね。食料が、災害が起きたその日から届けられるなんて贅沢を言える国は、世界中どこにもないだろうと思いますから。

ところが、震災直後には「誰の所有物かわからない鍋や、誰の家屋の一部だったか定かでない木片を無断で拾ったり燃やしたりしたら、窃盗になる」なんてことを言い出す人も少なくなかったそうです。それでいて救援物資を早く届けてくれというのは、やはり人間的に不自然なことだと思うんですね。



◇「不足しない」のは幸福か?



--- --- --- --- --- --- --- --- --- ---
同様の甘えの構造が蔓延しているのが高齢者ではないか・・・今年、八十三歳を迎える曽野氏はそう語る。
--- --- --- --- --- --- --- --- --- ---


高齢者は、だんだん体力もなくなり、病気が増えるんですから、労わるというのは原則です。

しかし、年金、健康保険、介護保険などの制度が整ったからといって、「その権利をフルに活用しないと損だ」と口にする人がいます。

私はそうなりたくない。できれば健康でいて、自分が使える健康保険のお金は使わずに、体の弱い方に回したいんですけどね。

高齢者という存在は、「資格」じゃないんです。その上に乗っかって楽をしようと姿勢は美しくないです。高齢者も普通の人間ですから、生きている限りは毎日働かなくてはならない、と私は思っています。

昔から、「お爺さんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯に」と物語りは始まっているでしょう。そのような厳しい生活が死ぬまで続くのが、人間の生き方として普通なんですよ。



--- --- --- --- --- --- --- --- --- ---
昨年のベストセラーとなった『人間にとって成熟とは何か』(幻冬舎新書)で、曽野氏はこう書いた。

<現在の日本人は、まずまず食べられるから不幸なのだ。その人が今日食べるものにも事欠くような状態なら、何か半端仕事でもしてお金を稼がねばならない、という切羽詰った思いになり、その緊張も一つの救いになるのだが、今日の日本で普通に見る高齢者は、どうやら食べることはできる。雨の漏らない家もあって、死ぬまで住んでいける。しかし、目的がない、という状態なのだ。この虚しさほど辛いものはない。>

人間にとって成熟とは何か (幻冬舎新書)


¥798から



--- --- --- --- --- --- --- --- --- ---


もちろん日本が豊かになったからこそ、年寄りを甘えさせることができるわけで、本当にありがたいことだと思って、基本的には私も感謝しているんです。

でも年寄りっていうのは、いろいろな経験を経て賢くなっているんですから、社会の制度に甘えてはいけないということもわかっているはずなんです。

私が人間の心理で大切だと思っているのは、人間は「受けるだけでなく、与える部分があってこそ満足する」ということです。受けてばかりいる生活をすると、だんだん不満だけが嵩じてきて、「もっと寄越せ」、「あれもこれもして欲しい」ということになります。今の教育も政治も、すべて不足なく与えることを目的としていますけれど、それが果たして人間の幸福に繋がるかどうかは私には私にはわかりません。

少しでも(他者に)与える生活をしてもらうと、高齢者の尊厳は保たれます。年を取ってもまだ社会に密接に繋がって働いていられるという深い満足や楽しさも味わえると思いますけれどね。

今から半世紀近く前、アメリカ人が五十歳くらいで待ちかねたように退職して、後は遊んで暮らすという生活を見せつけられて、私など羨ましいと思ったものです。その歳の女性たちでも、赤い花模様のフレアスカートを穿いて、飾りの付いた派手なサングラスを掛けて、夫婦で嬉々としてハワイへ行く。そういう生活が羨ましかった。

しかし今になって考えてみると、そんな暮らしは私にとって大して素晴らしくはないんですね。すぐに飽きてしまいそうで。

日本は国土も狭いし、資源もエネルギーもないんですから、とにかく人が何かを生産していかなければならない。年寄りだって遊んではいられないはずです。「遊んで暮らしてくれ」というのは、有権者のご機嫌取りをしたい政治家のやり口でしょうけれど、それに乗るのはいけません。詐欺師の手口に引っ掛かるようなものです。



◇年寄りだから偉いのではない



--- --- --- --- --- --- --- --- --- ---
曽野氏は「年を取っていれば偉いというものではない」という。そもそも「敬老」という美徳は、年寄りが知識や知恵を持ち、それを若い人に教え、伝えるという前提があるから成り立つのではないか。
--- --- --- --- --- --- --- --- --- ---



誰に対しても、人は人を敬えるんです。もちろん「偉い人」から私たちは多くを教えられますけれど、そればかりじゃない。悪い人からも愚かなことをする人からも学べるんです。だから年を重ねれば敬われると考えるのは、間違っていると思います。それは幼児が「アンヨがおじょうずね」と囃されているのと同じでしょう。老人にはそういう甘やかされ方を許してはいけませんね。

もちろん年寄りは、その知識や体験の蓄積からも、学ぶところが多いはずです。だから子どもたちの学習を手伝ってもらったり、自分史を書くのを引き受けてもらったり、地域の交通安全や犯罪防止のために働いてもらったりと、年寄りだからこそできる仕事はいくらでもあるでしょう。

それを引き出すのが、本当は政治の力なんですけどね。

高齢者に「一日をどんな風にお暮らしですか?」と聞いてみると、「昼寝とテレビ」と答える人が結構多いんですって。それでいて、夜も寝るんですよ(笑)。なんてもったいない。人間がそんな風に過ごして生きていられる社会があるわけない、と私は思うんです。私は貧乏性だから。高齢者だって働かなきゃ食べられない社会が普通だと思いますね。

健康な人なら、生涯隠居はしないという人がいて当然です。政治もそれをバックアップして欲しいですね。

高齢者が甘え、 それを甘やかすためにお金を使うことが正義だというのは、仕事をしたい、何かの役に立ちたいという年寄りの活力を奪っています。同じことは被災者と行政の関係にもいえるでしょう。被災者にも同じように、救うことと働いてもらうことの双方の任務を担っていただいてください。




←書き起こし終了>










AD

コメント(7)