千羽鶴はなんのため

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早速、病の彼に千羽鶴を折る会みたいなのが結成されて参加してくれとメールがきた。
正直僕はうんざりだ。よく病に千羽鶴というのが定番だけれど、それがなんだ。



昔はもっと人間関係も親密で鶴を折ることはそれこそ念のように祈りを込ることだっただろう。ところが今は希薄な人間関係が多い。今回のようにネットで知り合い、実際互いにどれだけ知っている?

また現代人はいろいろなことを詰め込んでとても忙しいだろう。そんな関係で、そんな忙しさで鶴にどんな念を込めて折る?出来上がったものはただのオブジェだ。色んな人とで作り上げること、それはイベントならば楽しいし興味深いことだ。でも自己満足じゃないだろうか。祈りになるだろうか。


もちろん発案者が本気なのもわかるし参加者が真剣に心配しているのもわかる。ネットでの繋がりだってたしかに繋がっているし、親密じゃないなんていえないかもしれない。

いやどんな出会いでも同じだ。なんでも人と知り合うということは同じだとも思う。もちろん知っている人が不幸であるのはとても悲しくつらいことだ。でも今回の件では僕はどうも違和感があるんだ。千羽鶴はいかにも安易で他人事だから思い付くことのように感じる。人の生き死にがまるで単なるイベント事のようであまりに希釈されているように感じる。
なんせ”暇”な時に折ればいいのだ。


僕は以前付き合っていた人を病で亡くした。彼女は日本人ではなく北欧の人だった。

彼女の入院中にも千羽鶴(千羽はなかったが)が送られた。僕はその時のことをはっきりと覚えている。飾られた色とりどりの鶴を彼女はきれい!と興奮していた。なんせ初めて見るものだったから、とても喜んでいた。だけど千羽鶴の意味を知ったとき彼女の顔は複雑だった。自分の現実を否応なしに思い出してしまうし、あまり知らないししゃべったことも無いような人までそれを作っていること、自分の病がこの国では一つのイベントになったと思ったようだ。
だけどそれを片付けることもできず彼女が日本を離れるまでそれは枕元にあった(彼女は自分の国の隣の国の病院でなくなった)


その千羽鶴には何がこめられていたのだろう。折った人間の何人が今も彼女を覚えているだろう。

千羽鶴とはたぶん、それこそ必死に手を尽くして、それでも叶わないことに最後の祈りとしてやはり必死に折るものではないか。それがいきなり千羽鶴を折ろうっていうのはどうしても違う気がする。そうしてきっと「僕は何羽折った」「わたしは何羽よ」という折ることに意義を感じるイベントの要素を持ってしまうのじゃないか。


もちろん善意であることはわかっている。でも善意だからこそ寒々しい。






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