私の宗教観

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先日、ブログを通じて素晴らしい交流をさせていただいているVOXY様より、私の記事(青文字)に対して以下のメッセージ(赤文字)をいただきました。


現在の私は、仏教をはじめどの宗教にもまったく関心がありません。

宗教を肯定も否定もしませんが、今世の私には必要がないようです。

これからの時代は、一人一人が自分の精神性を高めていくことが、当然のように

起こってくる予感がありますが、それを司るのは最早、宗教ではない筈です。

一人一人の中に、神がいます。

その神の部分とつながることで、本当の自分を思い出すことが出来るようになってきます。

今、私はそのプロセスを歩みながら、少しずつそのことを思い出し始めています。

同じ意識の人が、地球上にどんどん増えていることも感じます。

これからは、『人生は素晴らしいものだ』 ということを自分自身が体現し、

私の経験をシェアすることで、今はそのことを忘れている人にも

思い出してもらえる自分であり続けたいと思っています。


> 宗教のことに触れておられましたので

> BONさんに限ってということではないのですが、最近のスピリチュアル、

> 癒しのブームにわたくしは、一抹の不安を感じているものの一人です。

> 万が一、もしも、聖書の記述が真実ならば、すべての愛、癒しはイエス=キリストという

> おかたを源としていることになります。

> まことのいやしはイエス=キリストから来るということが書かれています。

> そのイエス=キリストの教えを中心に、キリスト教の宗教は存在しています。

> 一つのしっかりした理性や知性をふまえた宗教という枠組みで規定するこなしに、

> スピリチュアル(霊的な部分=神の領域)に人間がかかわることは、第二、第三のオウム

> 麻原教祖のような存在を生む危険をわたくしは感じています。 (マタイ福音書24章11節)

> オウム信者は、まことに不思議なことに

> 人間的には、優秀な科学者であり、また、学歴もIQ的にも高い人々でした。

> そのような方々が何故あのような事件を起こすに至ってしまったか。

> スピリチュアルな面に大変大きな問題があったからです。

> あくまで、聖書の価値観でものを言って大変申し訳ないのですが

> ヒーラーの本質については、

> もし可能ならば、映画【パッション】をみていただきたいのですが、そこに

> メルギブソン監督が、かなり聖書に忠実にいやし主の本質を表現していると思います。

> 宇宙、命、愛という概念について愛するものに命を与えるということ

> 特定の宗教【団体】に属される必要はないと思いますが、ヒーラーを目指されるにあたり、

> ぜひとも、聖書との比較研究省察はお願いしたいと思います。

> 勿論本心は、BONさんのような愛情深く、素敵な方が、わたくしたちの共同体に属してくださり

> 助けてくださることことを希望してはいるですが、信教の自由がありますから・・・。

> いろいろ僭越なことを申し上げましたがお赦しください。


VOXY様らしい、愛と思い遣りに満ちたとてもあたたかいメッセージだったので嬉しかったです。

すぐに返事を書こうと思いましたが、宗教という大きなテーマなだけに自分の想いを言葉で表現することの限界を感じ、しばらく返事をかけずにいました。今でも言葉では上手く表現できるとは思えないのですが、心に問いかけて浮かんできた言葉を綴ってみたいと思います。言いたいことの半分も言えないないかもしれませんが、出来るだけ正直な気持ちを書いてみたいと思います。


VOXY様、ご心配いただき本当にありがとうございます。ご指摘いただいた文面から、仰りたい意図は十分理解しているつもりです。私のメッセージを読み返してみても、誤解を生じる表現があったことと深く反省しております。VOXY様には、以前にもお話したかもしれませんが、私が子供の頃には近所に外人宣教師が住んでいて、彼らが開催してくれていた日曜学校にも通っていました。また、ミッション系の大学だったため、チャペルの時間やキリスト教学の授業も履修していました。建学の精神である“Mastery for Service ”に集約されるキリスト教主義に基づく教育は、現在の私の人間形成にも大きな影響を与えてくれていると確信しております。その他、クリスマスコンサートや結婚式で奏でられる賛美歌も大好きですし、新約聖書も愛読しています。キリスト教の献身的な愛や犠牲的な愛を実践する主人公が登場する、作家/三浦綾子さんの作品も大好きでよく読んだものです。


一方、学生時代は観音様も好きだったので、西国の札所を巡っては心の平安を得ていました。大晦日には、除夜の鐘を聴きながら心に去来する煩悩を洗い流すことも好きでした。煩悩により四苦八苦するのが人間・・・四苦八苦=四×九+八×九=36+72=108・・・煩悩を断つ除夜の鐘が何故百八つなのかという意味を知って凄いと感じたものでした。今では、観光以外で寺参りをする機会はめっきり減ってしまいましたが、代わりに自宅で瞑想という形で自分の内なる存在と繋がり、心に溜まった垢落としをしています。


私の考えを述べさせていただけるならば、宗教の教えそのものを蔑ろにしているわけではありません。私自身の輪廻転生(キリスト教では認められない概念ですよね・・・)の過程でも、様々な宗教に関わり、信者として学んでいた過去世の記憶があります。勿論、今生の学びにおいてもキリスト教からは多くのことを学ばせていただいております。夫々の宗教には素晴らしい教えがたくさんある(カルト教団のような例外もたくさんありますが・・・)と感じながらも、現在までどこにも所属しておりません。しかし、宗教からたくさんのことを学んでいますし、今後も必要な知識を得ることにはかわりないと感じています。


宗教が作ったしっかりした理性や知性をふまえた教義そのものは素晴らしい智恵であり、私たちが実践する生き方のヒントであると思っています。しかしながら、固定された教義に基づいて組織を固めていかなければならない古い形の「宗教」の在り方には、甚だ疑問を覚えてしまうのです。本当に素晴らしい教えであっても、他宗を排撃するような人を産出するようになった瞬間に、組織としての宗教の持つデメリットが表出してしまうのだと思います。組織という枠組みを守るために、他の考えを受け入れないという人間のエゴです。愛の教えを崇拝するキリスト教国であるアメリカと、イスラム教圏の国々との火種が絶えないのも、政治や経済利権だけの問題ではなく、根底に宗教観の違いに端を発した人間のエゴが潜んでいるのではないでしょうか?


かつて、時代時代の節目に救世主と呼ばれた偉大な光の存在が、神の教え(宇宙の真理)を説きました。その偉人達が説いた教えが、ある地域では仏教として、またキリスト教として、ユダヤ教として、イスラム教として、儒教として、日本古来の日本神道として、世界の国々で広がってきたのだと思います。ですから、どの宗教もその時代のその地域で必要とされた教えであったと思います。同じ仏教から派生した宗派であっても、日本に伝来されて以降、時代背景や時の権力者の影響を受けて様々な形に変化したことをみてもそれは明らかです。

                                                                  キリスト教の歴史を観察しても例外ではないでしょう。本来、人々を導く愛の教えを説いたイエス=キリストの教えが、時代や環境の変化、その時代の支配者に利用されてしまうのも世界の宗教の歴史を見れば明らかです。イエスの教えとは関係なく、組織としての宗教を利用したり守ろうとする人間の出現により、本質が歪められてきているように思います。キリスト教において、宗教革命が起こったこともそうでしょう。マルチン・ルターを始めとした原理主義者は、自分達が正しいキリスト教者だとして、カソリックと対立し、蹂躙してきた歴史も然りです。


イエス=愛の代名詞とも思っていますし、イエス=キリストという人物が説いた愛の教えは普遍的なものだと思っています。しかし、イエスだけが愛の源ではありません。イエスは神の愛の実践者であり、宇宙に蔓延する神の愛をこの地球に、私たち人間に説いた偉大な指導者だったのだと思います。イエスの教えを学ぶことで、神の愛を学ぶことは素晴らしいと思いますが、キリスト教こそが全てであるという妄信はよくありません。


可能性という点で言えば、一人一人の心にはイエスと同じように神の愛を感じ、体現するだけの力が備わっているのだと思います。これまた極論ですが、増上慢な心で持って、誰もがすぐに悟れるといっているわけではありません。その可能性が誰にでも平等に与えられているといっているのです。何故ならば、全ての人間の本質は光であり、愛であるからです。そして、全ての人間が神の一部であるということを私は信じています。


今の時代もそうです。教祖と呼ばれた偉人が説いた教え(悟り)は素晴らしいものであり、輝きが消えることはありません。しかし、その教えを崇拝しているだけでは決してだめだと思うのです。彼らだけが神から選ばれた特別な存在ではないのです。確かに歴史に名を残し、何十億という人々に影響を与えた素晴らしい光の存在です。ゆえに彼らの生き様や教えは称えられることはあっても、否定されるものでは断じてありません。読まれている方も、これだけは誤解のないようにお願いします。


しかし私は、誰もがひとりひとりの心の中に、彼らと同じ悟りを経験することを可能にする神性な部分を有した存在だと思っているのです。それを、言葉というもので表現することは非常に難しいですが・・・・・宇宙で唯一の真理(叡智)があったとしても、その叡智を感じて表現した言葉(人)が10あると、10通りの解釈が生まれます。その10通りの解釈を聞いた人が、他の人に伝えると、また違った解釈が生まれます。私はその10の解釈が広がり、教えとなったものが宗教だと思っています。どれも正しいのですが、どれもが真理の一部を伝えているに過ぎず、真理(叡智)を100%伝えられているわけではありません。ですから勿論、その教え夫々の違いであって上下はないのです。


私もよく使いますが、スピリチュアルという言葉の定義はあまりに広すぎて私自身も説明できませんが、今の私の立ち位置を表す言葉として、一番しっくりくる言葉ではあります。私が感じているスピリチュアルは、自分の中にある神聖な部分と一体化することです。私自身が光であり、愛であり、神の一部であるということを信じられること。本当は内なる神とつながることで、悟ることも癒されることが可能であるということ・・・全ての救いや答えが、本当は外でなく自分の中にあるということを思い出すこと。そのために、自分以外の全てが存在してくれているという真実に気付くことなのだと思います。


まとまりのない文面になってしまいましたが、上記のメッセージは、あくまでも私の個人的な見解であり、正邪を問おうという意図は全くありません。宗教という非常にデリケートな問題ですので、読まれた皆様、どうか悪意の解釈や誹謗中傷の対象には絶対にしないでください。それ以外のコメントであれば、私の学びにもなりますので喜んで拝聴させていただきます。

                                                                          

VOXY様へ・・・私が影響を受けた様々な書籍の中で、最も私の疑問に対しての答えをくれたのが、ニール・ドナルド・ウォルシュ著 『神との対話』 でした。VOXY様にも是非読んでいただき、どのような感想を持たれるかを訊いてみたいと思います。最後に、重ね重ね失礼な表現があったかもしれませんが、何卒お赦しください。

                                                                          

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最後に、私が学んでいるライフスクールの師である王由衣さんが、彼女のブログでスピリチュアリズムについて次のように書かれています。その中に、宗教に関する今の私の考えを代弁してくれているフレーズ(ピンク色で表示)があったので、参考までに掲載させていただきます。


スピリチュアリズムは、19世紀半ばにアメリカで生まれ、アメリカ全土やイギリスに広がりました。その運動のピークは20世紀前半とされますが、今でもアメリカ、イギリス、ブラジル他の中南米などにメンバーや活動家(司祭/牧師、霊媒、ヒーラーなど)がいて、世間の目にはあまり見えないところで活動しています。スピリチュアリズムは、人間の魂が死後も生き続けることを信仰・信条の土台とします。そしてそれを証明するための方法論として、霊媒(「チャネラー」)とスピリチュアル・ヒーラーの訓練と養成に力を注いできました。


スピリチュアリズムからは多くの優れた霊媒が輩出していますが、ほとんどは無名で活動しています。比較的有名な人では、アメリカ先住部族のスピリチュアル・ガイド、シルバーバーチをチャネリングしたモーリス・バーバネルや、同じく先住部族のガイド、ホワイトイーグルをチャネリングしたグレース・クックなどがいます。欧米のスピリチュアリズムは、活動の形によって幾つかの派に分かれています。独自の宗教運動というスタンスを保っているところもあれば、キリスト教プロテスタント宗派の中に足場を持って、より一般社会の中で受け入れられやすい形で活動しているところもあります。


これは、転生輪廻を通しての魂の進化を教えるスピリチュアリズムが、キリスト教という、転生輪廻の考えを否定する宗教が主流を占める社会で活動していかなければならなかった歴史と関係しています。

私自身は過去6年、アメリカのオランダ改革派教会スピリチュアリスト派のセミナリー(聖職者課程)で学んできました。あと何年かのうちに司祭(牧師)として叙階を受ける予定です。しかし、スピリチュアリズムを「宗教」として広めようとは考えていません。少なくとも、固定された教義に基づいて組織を固めていかなければならない、古い形の「宗教」の在り方は、その役目を終えつつあると思うからです。スピリチュアリズムは、自らを宗教であると同時に、哲学であり、科学であると定義します。簡単に言えば、宗教とは信じること、哲学とは探求し、深く考えること、そして科学とは、証明を通して客観性を求めることです。スピリチュアリズムの視点と方法論は、今の日本に生きる人たちが直面しているたくさんの問題に解決の手がかりを与え、生きるための指針を示すことができると考えています。人は精神的な視野と価値観なしには、生きることはできない。そしてスピリチュアリズムは、そのためのバランスされたアプローチを示してくれる。これが私の視点です。


最近は日本でも、スピリチュアリズムとの関係をうたっているグループや個人がありますが、本来のスピリチュアリズムについては、シルバーバーチ関連の翻訳以外、あまり知られていないように思います。例えば、スピリチュアリズムに「先祖供養」という考えはありませんし、人を不安に陥れるような形で、目に見えない世界とのコンタクトを仲介することもありません。スピリチュアリズムでは、すべての「霊的存在(スピリット)」とのコンタクトは、私たちが人間としてよりよく生きるための癒しや支え、そして学びと成長のためのきっかけや機会として与えられるものであると考えます。訓練された霊媒やチャネラーが提供するのは、このような機会としての目に見えない世界とのコンタクトです。

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アメブロを始めて、今日でちょうど1年が過ぎました。日記代わりに心の声を書き留めてきましたが、このブログのお陰で、実にたくさんの気づきを得ることが出来ました。言葉に記すことによって、『俺って、こんなことを考えていたんだ!』という新たな発見があったり、日頃無意識で感じていることを自覚(認識)できるようにもなりました。ふと、こんなことを書きたいというテーマが浮かんできて、キーボードを叩き出すと勝手に手が動いて文章になるという経験が何度もありました。例えると、既に出来上がっている文章(メッセージ)があって、私を通して表現されているみたいな感じです。そして、何より嬉しかったことは、本当にたくさんの人と出逢い、お互いが意識の上で繋がれるようになったということです。ブログに書き込んでくださるコメントに、どれほど励まされたことか、どれほど勇気づけられたことか・・・そして、大切なことを教えていただくことが出来ました。こうした機会を与えてくれたアメブロと、ブログ上で交流させていただいている皆さんに感謝です・・・・・   本当にありがとうございます!


今の状態を観察してみると、ヒーラーへ向かって進んでいる私の道はとても順調で、一点の迷いも不安もない状態です。しかし、人生という観点でみると、この先に越えなければならない壁が立ちはだかっているような気がしています。それを脱するためのキーワードが浮かんできたので書き綴ってみました。

『自分を信じる』 『怖れと不安からの開放』 『子供の自分を思い出す』 『思いっきり遊ぶ』 『ありのままを受け容れる』 『自分を愛する』 『自分を許す』 『家族との関係』 『ソウルシート』 『今この瞬間に生きる』 などなど・・・今まさに私自身が変容する時期にあるのだと感じます。       

キーワードの言葉を見て、それぞれのメッセージの意味するものを感じます。以前、このブログで書いたメッセージの中にも同じような内容が含まれているので、また読み返してみるのもいいかなと思っています。新たなメッセージには、その奥に含まれている意図を感じていこうと思っています。


魂レベルでは、今の状況に何の不安も感じていないどころか、ワクワクしているにも関わらず、頭(思考)レベルで何らかの不安を拭いきれません。それは、自分の両肩に背負っていると思い込んでいる価値観や観念から齎されているのかもしれません。仕事のこと、将来のこと、家族のこと・・・スピリチュアル的には成長できたかな?と思う反面、私の思考は相変わらず頑固です(笑)。

~しなければならない・・・という呪縛から抜けきれず、『もっと、頑張らなければ・・・』 と無意識でやっているのかもしれません。そんな時には、瞑想しても深く入っていきません。思考(エゴ)の囁きに心が乱れ、内なる自分と対話することも叶いません。何となく漠然とした不安(怖れ)が消えないのです。心の声を聴いてみると、確実に次のステップに入ってきていると感じているのに、魂が望んだ展開に思考が怖れを抱いているのかもしれません。エゴに支配された思考を止め、自分の本質と繋がることこそが、唯一の解決策なのでしょうね。


私の人生を振り返ってみると、リラックスすることが下手だったように思えます。肩に力を入れて、一生懸命やらなければ・・・・と頑張って生きてきました。数ヶ月前、ある人から、あなたは過去世で飛鳥時代の高僧だったことがあると言われました。修行僧という過去世には、思い当たる節が大いにありました。大学生時代の私は、見た目(服装)が結構派手だったので、よく知らない人からは、軽薄でチャラチャラした印象を与えていたかもしれません。テニスサークルの代表を務め、女性客の多い人気パスタ店でアルバイトをする傍ら、暇があればお寺巡りを密かな楽しみにしていました。納経帳を持って西国や新西国三十三ヶ所の札所を巡り、住職と話すことに喜びを感じていました。般若心経や観音経も空で唱えていましたが、特に誰に教わることなく、何度か声に出して読んでいたら、勝手に諳んじられるようになっていました。今思うと、これは過去世の記憶だったのですね(笑)。


現在の私は、仏教をはじめどの宗教にもまったく関心がありません。宗教を肯定も否定もしませんが、今世の私には必要がないようです。これからの時代は、一人一人が自分の精神性を高めていくことが、当然のように起こってくる予感がありますが、それを司るのは最早宗教ではない筈です。一人一人の中に、神がいます。その神の部分とつながることで、本当の自分を思い出すことが出来るようになってきます。今、私はそのプロセスを歩みながら、少しずつそのことを思い出し始めています。同じ意識の人が、地球上にどんどん増えていることも感じます。これからは、『人生は素晴らしいものだ』 ということを自分自身が体現し、私の経験をシェアすることで、今はそのことを忘れている人にも思い出してもらえる自分であり続けたいと思っています。


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自分自身を知ること

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久しぶりの更新ですが、忙しさで自分を見失っていた訳ではありません。どちらかといえば、時間的な余裕があったので、読書をしたり、いろいろな人と会ったり、家族とゆっくり遊ぶ時間を持つなど、贅沢な時間を過ごしていました。私のブログテーマがスピリチュアルなので、大好きな家族とともに快適なアウトドアライフを満喫したことを詳しく紹介できないのが残念ですが、この夏のバカンス(今後の予定も含む)を抜粋するとこんな感じです。


☆自然豊かな山間部のキャンプ場で一泊し、近くの森で、息子(小1)にクワガタ採取の楽しさを教えてやったこと・・・ミヤマクワガタの雄雌を番いでゲットしました。

☆息子が初めて泳げたことが嬉しくて、一緒に5時間もプールで過ごしたために背中一面が真っ赤になって、今も痛痒いこと(笑)。

☆姫路セントラルパークのサファリで、車のすぐ傍(1~2メートル程度の距離)で猛獣と言われるライオンや虎と触れ合えた?こと。

☆今週末から、友人ファミリーとまたまた涼を求めて高原キャンプに行こうとしていること・・・先日のキャンプのメニューがおでんだったので、今回はバーベキューをやるぞ~!

☆家族そろって温泉好きなので、白浜へ温泉旅行に行き、帰りは、奈良県十津川村にある有名な谷瀬の吊橋を渡って、息子の度胸を試そうと企んでいること・・・実は私も20代の頃、足がすくんで渡りきるまでにかなりの時間がかかった経験があります(笑)。


このように、遊びの計画が充実してきているのは、私がガイドから出された宿題でもある “ゆとりと遊び” というキーワードを、楽しんで実践できるようになってきた証拠かもしれません。

皆さんはこの夏、どのようなバカンスをお過ごしですか?



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さて、前置きはこれくらいにして、最近、“本当の自分を知ること”の大切さと難しさを感じています。いろいろな書籍を読んで、先人の智恵を学んでいるのですが、その中で出会ったのがソクラテスの言葉でした。「汝自身を知れ」という言葉に殉教した男、ここに死す・・・ソクラテスの墓石の碑文には、そのように書かれてあったと言われていますが、彼は70歳を過ぎてから、いったい何の為に自分はこの世に生を受けたのか?私とは誰か?人生とは何か?と真剣に考えるようになったそうです。


ある日、デルフォイの神殿に書かれてあった 「汝自身を知れ」 という言葉を見つけて、ソクラテスは次のように考えました。毎日この道を通り、見慣れていた筈のこの言葉が、何故、今頃になって新鮮に感じられ、こうも気になるのだろうか?それから彼は何度も何度も、「汝自身を知れ」と心の中で唱えた末に、ある結論に到達しました。「この言葉のように、あまりにも身近にあるものに対して、自分は意識を留めることがなかった。それは、自分が無意識に支配されていたからである」と。この自分の意識の状態を知った時、自分が自分の主人になっていない現実を知ったソクラテスは、無意識を見つめ、自分の心の状態を目覚めた状態にしておくことを強く意識するようになりました。


すると不思議なことに、何か行動を起こそうとする度に囁いていた声(=この声を彼はデーモン神の声と呼んでいた)が聞こえなくなり、ソクラテスは生まれて初めて、自由を感じたのです。自分の意志で行動し、責任を持つことの素晴らしさを実感し天にも昇る心境だったということです。その後、ソクラテスは若者を先導し、自分が自分の主人になるための方法を説いたことが原因で、国家反逆罪に問われ、命を落とすことになりますが、自分という人間が、「汝自身を知れ」という言葉を世界に知らしめるためにこの世に生まれたのだという強い信念のもとに、迷わず殉教の道を選択したのだと思います。


私たちが、ソクラテスと同じ心境に到達するのは難しいでしょうが、彼の説く真理と、彼の心理は理解できるような気がします。デーモンの神の声と呼んだ無意識の声=即ち、自分のなかにあるエゴの声に惑わされないことが、自分自身の本質を知る唯一の方法なのだということを感じました。
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☆星に願いを☆

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七夕の夜、それは、天の川を隔てて輝く、わし座の1等星アルタイル(彦星)と

こと座の1等星べガ(織姫)が一年に一度だけ逢うことを許された夜・・・・・

このお話は中国で生まれ日本に語り伝えられた伝説です。


夜空に輝く天の川のほとりに、天帝の娘で織女と呼ばれる、それは美しい天女が住んで居ました。織女は、天を支配している父天帝の言いつけをよく守り、毎日機織りに精を出していました。織女の織る布はそれはみごとで、五色に光り輝き、季節の移り変わりと共に色どりを変える不思議な錦です。天帝は娘の働きぶりに感心していましたが、年頃の娘なのにお化粧一つせず、恋をする暇もない娘を不憫に思い、天の川の西に住んでいる働き者の牽牛という牛飼いの青年と結婚させることにしました。

こうして織女と牽牛の二人は、新しい生活を始めました。しかし、結婚してからの織女は牽牛との暮しに夢中で、機織りをすっかり止めてしまったのです。天帝も始めはこんな二人の様子を新婚だからと大目にみていましたが、いつまでもそんな有様が続くと眉をひそめざるを得ません。天帝はすっかり腹を立ててしまい、二人の所へ出向くと、「織女よ、はたを織ることが天職であることを忘れてしまったのか。心得違いをいつまでも放っておく訳にはいかない。再び、天の川の岸辺に戻って機織りに精を出しなさい」 更に付け加えて「心を入れ替えて一生懸命仕事をするなら一年に一度、7月7日の夜に牽牛と会うことを許してやろう」 と申し渡しました。織女は、牽牛と離れて暮すのがとても辛く涙にくれるばかりでしたが、父天帝に背く事もできず、牽牛に別れを告げると、うな垂れて天の川の東に帰って行きました。


それ以来、自分の行いを反省した織女は、年に一度の牽牛との再会を励みに、以前のように機織りに精を出すようになりました。牽牛も、もちろん思いは同じ・・・働いて働いて、7月7日を待ちました。こうして、牽牛と織女は互いの仕事に励みながら、指折り数えて7月7日の夜を待ちました。


ところが、二人が待ち焦がれた7月7日に雨が降ると、天の川の水かさが増して、織女は向こう岸に渡ることができなくなります。川下に上弦の月がかかっていても、つれない月の舟人は織女を渡してはくれません。二人は天の川の東と西の岸辺にたたずみ、お互いに切ない思いを交しながら、川面を眺めて涙を流すのでした。7月7日に雨が降れば・・・そんな2人を見かねて、何処からともなくカササギの群が飛んできて、天の川で翼と翼を広げて橋となり、織女を牽牛のもとへ渡す手助けをしてくれるのだそうです。


素敵なお話は、優美さんのHP↓ ~七夕 伝説....星座~ から抜粋させていただきました

http://yumis.net/tanabata/


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今日は七夕ですね~。皆さんが見上げた空の様子はどうですか?

七夕の夜は、毎年梅雨の真っ最中・・・子供心に、神様はいじわるだなと思ったものですが、実は旧暦で数えると、今年の七夕は8月11日だそうです。

夏真っ盛りで雨の確立は低そうです・・・よかったね、織姫様と彦星様!


昨日、せろさんからのメールで、BONさんは何をお願いしますか? と訊かれて?????

そういえば、子供の頃以来、七夕の夜に、天の川を眺めながら星に願いを・・・なんていう風情なことをした記憶がありません。ということで、直感に尋ねて閃いた5年後の私をイメージしてみました。明確なビジョンが見えたので、全て掲載しようかとも思いましたが、個人的な内容になるので、一部消去または表現を変更しました(笑)。



【 2010年7月7日の私 】
自分の夢を叶えて、大好きな家族と仲間に囲まれた、豊かな人生を送っています。
いよいよ、生まれる前から決めていた使命を果たすべき時期が到来しました。
5年間、ヒーラーとして様々な経験を積んできたので、心身ともに準備万全です。
たくさんの人々の魂が、それぞれの道を歩んでいくサポートを強化していきます。
内在する神とガイド、そして、全ての精霊たちに心から感謝します。
“我と共に歩まん・・・神へと続く光の道を!”

七夕の夜、皆さんは何を願いますか?


息子への手紙

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愛する大地へ

今日で、大好きな幼稚園ともお別れですね。お父さんは仕事があったので、今日の卒園式には行けなかったけど、本当におめでとう!家に帰ってきたとき、満面の笑顔で出迎えてくれた君をみて、本当に月日の経つ早さを感じました。

「今日の卒園式はどうだった?」と尋ねたお父さんに、「嬉しかったけど、ちょっと悲しかった。最後に幼稚園から帰るとき、泣いちゃった」といった君の言葉が印象的でした。君は、とても優しく、素直に育ってくれましたね。お父さんとお母さんの自慢の息子です。

“生まれてきてくれて、本当にありがとう”
君を授かり、君を育ててみて、初めて気づいたことがあります。
それは、私を生んで育ててくれた両親の大きな愛です。親が子供に注ぐ愛情の深さを、君を授かったことにより知りました。両親からもらった大きな愛を、今度は私が親になって君へ注いでいる。

親の愛は、無償の愛です。誰もが経験できる愛の中で、神様が人間に注いで下さっている愛に最も近いものが、親が子に注ぐ愛かもしれません。親が子供に感じる無償の愛を通して、神様が私たちに愛の本質を教えてくれているのかもしれません。

最後に、君を育てるときの参考にしている『子供が育つ魔法の言葉』にあった、私の大好きな詩を紹介します。


『子は親の鏡』

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる

とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる

不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる

子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる

親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる

叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる

広い心で接すれば、キレる子にはならない

誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ

認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる

見つめてあげれば、子どもは、頑張りやになる

分かちあうことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ

親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る

子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ

守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ

和気あいあいとした家庭で育てば、
子どもは、この世はいいところだと思えるようになる

                  ~ドロシー・ロー・ノルト~

この1週間、現実の仕事の忙しさに飲み込まれ、スピリチュアルとは程遠い時間を過ごしていました。瞑想して自分の内なる声と向かい合う時間も取れず、少々疲れ気味です。自分のやりたいことが見えてきているにも関わらず、その道を思うように進んでいけないもどかしさに、あせっているのかもしれません。先週のセラピーでも、あせってはいけませんとマスターに言われましたが、頭ではわかっているつもりなのに現実はなかなか難しいものです。

私の心が不安定なためなのか、ブログに向かってもいつものようにメッセージが浮かんできませんでした。いつもなら、こんな内容で書きたいと思ってキーボードを叩き出すと勝手に文章になっていくことが多いのに・・・。

こんな日は、私のバイブルでもある“神との対話”と向かい合いたいと思います。はじめて『神との対話』を読んだとき、私が探し求めていた真理がここにあると直感的に思ったものです。それほど、この本に書かれたメッセージに感動しました。宇宙の真理が、この一冊の中で整然と展開され、動かし難いリアリティとして見事に結実しているように思えました。心身が疲れている今日は、自分の原点に戻って、自分を癒してくれる言葉を“神との対話”の中から抜粋して紹介したいと思います。

『ゆたかさ』とは何ですか?

『ゆたかさ』とは、あなた方『そのもの』のことだよ。忘れてはいるが、あなた方は本来『ゆたかさそのもの』なのだよ。すべてを含むものだ。
だが、あなた方は偽りの自分としての自我(エゴ)を身にまとうことでそのことを忘れている。だから、ゆたかさを感じられずにいるのだ。

いつも、エゴは「まだ足りない」と言う、「何かが成し遂げられたなら、満足する」と言う。「今のままでは、満足できない」と言う。そのために、あなた方は自分が本当は『ゆたかさそのもの』であることを感じられない。もっと素直な自分でいてごらん。


『素直な自分でいるって、どうすればいいんですか?』

あなたは、自分がしたいことを無我夢中でしているとき、「ゆたかさそのもの」になることができる。楽しさ、嬉しさ、喜び、満足感に浸ることができる。無我とは、エゴという偽りの自分をなくすこと、夢中とは夢といわれている観念だけの世界、本当の現実の中にいることだ。それは、我を忘れることだ。エゴに執らわれないことだよ。エゴとは、社会や親や学校、常識などによって教え込まれた価値観、観念のことだよ。

人生とは、ゆたかさを味わうためにあるのだよ。人生は、楽しむためにあるのだ。幸せを感じるためにある、ゆたかさを味わうためにあるのだよ。それはつまり、わたしと共にあるということを感じるということだ。
そして、「わたしと共にあるということを感じる」ことが、魂が成長しているというしるしだ。魂が成長すればするほど、私との一体感は強まる。どんどんわたしと統合していく。そして、ますますゆたかさを感じていくのだよ。

いままで、目にとめることも無かった道端の花にさえ、生命の輝きを観る。そよぐ風に大地の息吹を感じる。小鳥の声に、生命のつながりを知る。自分が大いなるゆたかさの一員であること、ゆたかさそのものであることを知るのだ。

さあ、エゴのささやきに耳を貸すのをやめ、誰かの評価を気にするのをやめ、あなた自身の心の声にしたがってごらん。直観に耳を傾けてごらん。わたしの流れに身をまかせ、自然なあなたでいてごらん。自分というゆたかさに浸ってごらん。


今日は、私の直感に従い、自分というゆたかさに浸る日にしようと思います。