「会津藩校 日新館」
テーマ:論語のこよみ明治の幕開けを担った戊辰戦争で、最も凄惨を極め、身を以って武士道を顕現した白虎隊の墓前は、春夏秋冬と香煙が絶えない。この少年らが学んでいたのが藩校日新館である。
会津の教育の渕源(えんげん)は、日新館建設より遡ること140年前に、庶民が造った稽古堂に始まる。
これに対し、好学の藩主保科正之は租税を免じ、50石を与えて奨励したという。
1803(享和3)年10月。
「藩の興隆は教育にあり」との家老田中玄宰(はるなか)の建言を採用した五代藩主松平容頌(かたのぶ)は、今までの学校を拡大して「日新館」と命名し、釋奠(せきてん)(=孔子祭)の礼を行って開校した。
「日新」とは、『大学』の伝二章にある湯盤銘(とうのばんのめい)の「荀日新日日新又日新」(荀(まこと)に日も新たならば日に日に新たに又日に新たにせん)より採っている。
旧日新館は若松城(鶴ヶ城)の西側に、八千坪の校地に1500坪の建物を備えた堂々たるものであった。
上士の子弟が10歳になると、願書を出し素読所に入学する。
素読所には、四、三、二、一等の階級があり、まず四等に入って『孝経』『小学』と『四書・五経』の11経、さらに五代藩主松平容頌が編集した『日新館童子訓』が課せられ、これが読めると三等に進んだ。
三等からは教科書も増え、春秋二期に考試があり、合格すると進級した。
一等になると、初代正之が編纂した『二程治教録』『伊洛三子伝心録』『玉山講義附録』の三部書他十数種の教科書で、高等教育がなされた。
素読所を卒業した優秀な者と五百石以上の長男は、講釋所(こうしやくしょ)(=大学)に入りさらに学んだ。
ここでは、下・中・上等の三階級があり、習うより作詩・作文を発表して指導を受けた。中等に進んだ者で将来を嘱望された者は、藩費で江戸の昌平學(昌平坂学問所)への遊学が許された。
日新館には、素読所、講釋所の他に、神道方、和学方、書学寮、礼式方、数学方、天文方、医学寮、雅楽所があり、多様な学科を学んだ。
課業は朝8時より素読が始まり、10時からは12歳以上の者が素読所二階の書学寮に入り、12時まで書道を学んだ。12時より一時間は昼休みで持参の弁当を食べたが、15歳以上の者には日本最初といわれる給食を行った。13時より15時まで午後の授業となるが、14歳以上は武道を行って体を鍛えた。
武道には、弓術、馬術、槍術、刀術、柔術、居合術、砲術、水練と各種あって、それらを一通り習熟するが、どれか一つは免許皆伝にならねばならなかった。また、18歳になると、武講に入って兵学を学び、土図場では築城法も学んだ。なお、水練を学ぶ水練水馬池は日本最大のプールといわれ、プールを有していたのは日新館と長州藩の明倫館だけである。旧日新館の唯一の遺構でもある天文台を備えていたのは、日新館と薩摩藩の造士館及び水戸藩の弘道館だけであったという。
什の掟
日新館に入学する前の6歳から9歳までの子ども達が、「遊びの什」と称する特殊な組織を持っていて、その規則を「什の掟」といった。
それは、午前中は自宅か寺子屋で入学準備の勉強をし、午後になると町内毎に決められた家に集まり、早く生まれた9歳の者が什長になって取り締まり、次の「什の掟」の反省をするものであった。
一、年長者(としうえのひと)の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
三、嘘言(うそ)を言うことはなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいじめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人(おんな)と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
これに違反すれば制裁もあり、大人も口出しできない厳重なものであった。
これが日新館教育の前提となり、会津魂の涵養に寄与した。
1986(昭和61)年9月、戊辰戦争より120年ぶりに場所を代えて忠実に復元し、往時の藩校日新館の雄姿が再現された。
会津藩校日新館 論語こよみ から
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