2017-06-30 02:23:08

クェゼリン慰霊の旅・15

テーマ:ブログ

(承前)

 

 食堂を出ると、外は明るくなっていた。・・・夜がすっかり明けており、黒雲が白い雲に変化していた。そして、幸運なことに、雲の切れ間がわずかに覗いていたのである。相変わらず雲の動きが速く、椰子の木は大きく揺れていたが、天候回復の兆しが顕著に現われていた。・・・これならば、慰霊式が執り行えるかもしれない・・・。

 朝食を思ったよりも早く食べ終えたので、僕はロッジまでの道すがら少し脇道に逸れて、外海をみようと海辺まで出てみることにした。プールの脇を抜けて行き、手入れされていない椰子の木の間に足を踏み入れてみた。すると、そこは人がしばらく歩いたことのないところだったらしく、土や草に空気の層ができていてフカフカになっていた。踏み込む度に、足は気持ち悪いぐらい地面に沈み込んだ。・・・もしかしたら、水際作戦において、ここで倒れた日本兵の骸が、この下に無数に折り重なっているのかもしれない。僕は気持ちの悪さを我慢しながら、跨ぐように大股で歩いた。

 ・・・海岸は、僕が想像していたような白くきれいなビーチではなかった。波風に耐えて枝が曲がった低木と分厚い葉の草とがまばらに生えており、拳よりも大きな石がゴロゴロと転がっていた。波は荒々しく、海の色はグレーが濃く、垂れ込めた雲と同じ色をしていた。(椰子の木のシルエットを入れずに、海だけの風景を写真で切り取れば、北海とも日本海とも間違えそうなものであった。)・・・ここは中部太平洋のど真ん中。世界最大の環礁を誇る、美しい「クェゼリン環礁」である。けれど、晴れていればまだしも、今朝は嵐の後。・・・暗示的な特別の嵐。・・・外海の厳しさ。・・・悲しみの海。

 73年前の今日、1944年(昭和19年)1月28日、奇しくも我が父が産声をあげた日・・・。「マキン島」・「タワラ島」といったギルバート諸島を制圧し、矛先をマーシャル諸島の「クェゼリン島」・「ルオット島」に向けたアメリカ軍が、爆撃を仕掛ける前夜であった。・・・僕は昨夜からのこの不気味な嵐に、73年前の悪夢を見た。そして、いま、この悲しみの海に、日本兵が73年前に見た光景を重ねあわせてみる・・・。

 

 

 アメリカ軍による爆撃は、1944年1月30日の早朝から始まった。延べ200機の飛行機が三波に分かれて来襲し、この空を埋め尽くした。日本軍も若干の零戦がここから飛び立って応戦したが、多勢に無勢、圧倒的な航空戦力を前に為す術なく、日本軍飛行場は大空襲に合い、一面、火の海と化した。この日の午前中には、日本軍航空部隊はほぼ壊滅状態となる。この艦上機による爆撃に加えて、夜に入ってからは、戦艦や駆逐艦から猛烈な艦砲射撃が行われた。戦艦15隻、重巡12隻、軽巡6隻、空母19隻、駆逐艦92隻、掃海艇、護衛駆逐艦21隻、この他、輸送船や上陸用艦艇などを合わせると300隻を越える一大艦隊が、クェゼリン環礁を取り囲んでいた・・・。

 一方、見渡す限り真っ平らなこの島で、日本兵が隠れるところはどこにもなかった。平均海抜3メートルで、もっとも高いところで6メートルしかない島である。しかも、珊瑚礁で出来ているため、地下を掘ることができない。したがって、地下陣地は作れない。もし要塞を建てたとしても、しっかりとした土台が作れないので脆弱なものだった。この時点で、鉄筋コンクリート製のトーチカや戦車壕、機銃陣地などが、どれほど構築できていたのだろうか・・・。実際、ほとんどは、身を隠すだけの、椰子の木を利用した簡易の壕を作るしか方法はなかったようである。

 当時、ここにいた日本兵は、海軍「第六根拠地隊」(司令官・秋山門造少将)が4,110名、陸軍「第一海上機動旅団」(第二隊長・阿蘇太郎吉大佐)が1,020名で、合計5,100余名の守備隊であった。戦力としては充分ではなかったし、防備体制も万全ではなかった。なぜなら、クェゼリン環礁は、マーシャル諸島の中でも後方にあったため、前線基地のある「マロエラップ環礁」・「ウォッゼ環礁」・「ミリ環礁」・「ヤルート環礁」などを素通りして、まさか直接、敵が上陸作戦を展開してくるとは思っていなかったようである。たしかに、上記に挙げた東マーシャルの島々では、日本軍は防備を万全に整え、手ぐすねを引いて敵の来襲を待っていた。音羽正彦殿下が、クェゼリン島にいた理由も、それで説明がつく。後方基地ならば、より安全だろうということで、他の島から移ってきたという話を伺った。

 ・・・このように、クェゼリンにいた守備隊は、丸裸同然と言ってもいい防備で、敵の空襲、艦砲射撃を受け、それに耐え抜いたのである。

 

 2月1日朝、猛烈な艦砲射撃の援護の後、アメリカ軍は水陸両用の軽戦車を先頭に、第一陣が上陸作戦を敢行。・・・身も毛もよだつ、恐ろしい光景。平和だった島は、一夜にして地獄となった。殺気、怒号、爆音、恐怖、怒り、呻き・・・こうした非日常的な恐ろしいものが、海の向こうから音を立ててやってきた。日本兵は息をひそめ、アメリカ軍の上陸を許した。しかし、事前の猛烈な爆撃や艦砲射撃にもかかわらず、その後の日本軍の抵抗は予想以上に激しかった。第一陣は、やむなく後退。そこで、アメリカ軍は島の西方に連なる小島に上陸し、野砲を陸揚げするなどして、攻撃体制を強化する。

 2月2日朝、アメリカ軍は再度、上陸作戦を敢行。日本軍の攻撃はなかった。しかし、なりを潜めていた日本軍は突如反撃。しかし、正午までに飛行場の西端まで前進を許す。

 2月3日、激闘が続くも、日本軍に反撃の兵力ももうわずかとなっていた。

 2月4日、夜明けとともに日本軍陣地は次々と落ち、海軍首脳部の全員が自決。

 2月5日朝、残された日本兵が最後の抵抗をするも全滅。ここにクェゼリンの組織的戦闘は終わりをつげた。

 2月6日、アメリカ軍による最後の掃討戦。この日、アメリカ軍によって、クェゼリン島の占領が宣言された。クェゼリン島での日本軍戦死者は約4,130名。守備隊の8割以上が戦死したことになる。対するアメリカ兵は、177名が戦死。朝香宮殿下のおじさまである音羽正彦海軍大尉も、第六根拠地隊参謀として参戦したが、ここクェゼリン島で戦死した。

 

 

 ・・・現地に行ってよく分かったが、こんなちっぽけな島で、しかも隠れるところも、逃げるところもどこにもなく、また、増援部隊も航空戦力による援軍もない中で、アメリカ軍の圧倒的な戦力を前に、彼らはよく7日間も持ち堪えたと思う。・・・戦闘という殺戮行為に対して、無条件に賞賛することはできないが、もし、自分がその立場にあったとしたら、きっと彼らと同じことをするしか方法はなく、そして日本のため、ふるさと、家族、愛する人のために、全力を尽くして、自らの命を捧げたことにたいして、僕は最大の敬意を表したい。

 しかし、残念ながら、この戦闘でアメリカ軍に大打撃を与えることはできなかった。しかも、太平洋戦争全史を振り返ってみるならば、クェゼリンが陥落したことにより、「絶対国防圏」の構想が崩れ、連合艦隊はトラックからパラオへと後退せざるを得ず、防衛線の大幅な後退を強いられてしまうことになる・・・。

 

 海風は、相変わらず強く吹きつけていた。これ以上、風に当たったら、僕はもう、歌えなくなってしまう・・・。悲しみの海を去ることにした。そして、椰子の木の間のフカフカした土と草とを、申し訳ない気持ちで、踏みつけていった。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

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