この前、とある人に質問されました。


●●さん(ある有名な方)はとても好き勝手に生きているようなのですが、彼女はあれで幸せなんですかね?


わたしはこう答えました。



表面上は好き勝手に生きているように見えるけど、ほんとうは自分を生きているだけだから、みんなが思ってる以上にストイックだと思いますよ。




●●さんは直接お会いしたことはないけれど、たまにのぞくことがあって、思ってたんです。



表面上は好き勝手だけど、内面ストイックだなって。笑










自分に正直に生きることは、時にとても怖いことだらけ。

なぜなら、正直になること素直でいることは、古い習慣や古い価値観を破壊するときがあるから。

その時、感情的な痛みを伴います。
人はその痛みを嫌うのです。




だから、自分に素直に正直に、ではなく
表面的に、わがままなほうにいってしまう。



好き勝手やるのと、
真剣に自分の本心を追求するソレの違いね。




だから、自分勝手じゃないんだよね、自分に正直に生きるというのは。

でも、否定されたり批判されたりすることもある。それは、当たり前なんです。



ブレない自分という確固たる存在に委ねている者が、

我慢や遠慮でブレてきた人にとってはそう見えるし、振り回されてしまうから、批判したくてしょうがなくなるのです。

刺激するのをやめてくれ、と。










とにかく


好き勝手生きること、好きなように生きることと、自分を生きることは全く違うこと。



好き勝手に生きるってのは、自分の好きな部分にしか触れることがありません。


だから、感情的に不安定になることを拒むために、何かを拒否しながら実は、内心ビクビクしながら過ごしている、それが好き勝手に生きるということです。



表面上は好き勝手に生きているように見えて、
ただ自分に素直に生きている人は、ときに自分を生きることで、嫌いな自分に出会うことがあります。



むしろ、嫌いな自分にたくさん出会わされるのが、自分を生きるという手段の特徴です。



ただ、それはきっかけにすぎません。
嫌いな自分に出会うことではじめて気づくことがたくさんあるから。


一見ネガテイブに思えることも、重要な役割を持った出来事。





よりたくさんの感情に出会い、
それを受け入れられる、許可できる自分自身になるとですね、柔軟になる。




だからこそ、
自由な人とは、自分に正直な人。



不安になる自由も恐れる自由も嫌がる自由も、
求める自由も手に入れる許可も…自由にできる。






わがままとか自分に正直に生きるとか、
捉え方を変えるとすごく偉大なことに思えてきますね。










ちなみに、わたしが知る人の中で最も自分に正直だと思う人との北海道旅行も、今日で最後です。

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小樽にこんなわんこがいました。

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すでに何か噛んでますわ。




生きていることによってでしか感じられないことがある。



当たり前だけど、それは人それぞれ。





でも、生きていることがとっても美しいもので
命って、いいなぁ、尊いなぁと思うとき、

そこから生まれるすべてのことに対して同じような感覚を抱くんです。


少なくともわたしは。


頭固い方だし、理屈っぽいし、よくわかんないことはね、信じられないタイプ。


でも、体感に勝るものはないですよね。どんな理論も証明も。





抽象的で具体性はないし
理論とかそういうのも、ことばにするのは難しいけど、わたしは、わたしの命を美しいと思える。


生きている意味を探す必要性がなくなり、
自分の存在価値を残す脅迫に怯えることがなくなった。

まるで歌うように踊るように、わたしがわたしでいていいただそれだけでいい、の中に包まれるようになった。


教えてくれたのは本でも教科書でも誰かのセミナーではありませんが、しかしそれらがきっかけになったのも間違いありません。



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美しい、それはビューティフル、とは違うものです。





きれいだとか
整ってるとか
ポジティブとかじゃなくて。


いろんな姿を見せる自分自身
想定外の動きをするわたしの心
わけわからないことが起こり、それに戸惑い
しかしながらもまた、それに対処しようとし

あがき
わめき
ときに立ち止まり、


それでも明日に対して
迎い入れる姿勢をとるわたしに。


どこか、自分自身じゃない誰かからの尊敬の念を感じることがあります。


尊いよ、って言われている気がするのです。
何かを残せているのも残せていないのも錯覚だけど、あなたが生きているということ、それは尊いことですと、

いのち全体から言われている時があるのです。




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だから、意識にはなかなかことばにできない
表現できない美しさがある。


それを体感することは
もしかすると、どんなことを学ぶよりも
自分自身が存在していることの美しさを感じることに、繋がるのだと思います。






というわけで、





すでに多くの人が参加してくれているのですが、まだいけます。

わたしは、共有したい。たくさんあっちに教えてもらったことを。美しさを。


自我のフィルターでしか見れない世界の殻を破って。あなたの中にどんな世界が生まれるのでしょう。

それもまた、楽しみなのです。

ぜひ、参加してください。一期一会のこの時間を共に過ごしたいのです。



普段よりとてつもなく抽象的ですが、良質な情報量の多い場になると思います。




さ、それでも世界にYESと言おう。










みなさんは、今の自分にはどんな疑いがあると思いますか?


愛されていないんじゃないか。
必要とされているのだろうか。
本当に大丈夫なのか。
病気になるんじゃないか。
お金がなくなるんじゃないか。
捨てられるんじゃないか。
裏切られるんじゃないか。


どんな疑いたちが、自分の中に存在しているでしょうか。




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わたしたちは様々な疑いを持ち、
それが不快な感情や不安を生み出して

緊張し、不自由になり
奪ったり過剰に守ろうとしたり、しますよね。


それに嫌気がさすたびに、
疑いは、邪魔者扱いされます。

そして、なんとか疑いをはらそうとして、
今度は解決策を探し、
試そうとする。




しかし、角度を変えてみませんか。


疑いほどのギフトはない、と。



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疑う、ということは
それが晴れる、という証拠だとしたら。

晴れる前提で、疑いが存在しているとしたら?


愛されているという事実を知る前提で、疑っているのだとしたら?

大丈夫が前提で、それを体感する前提で、疑いがあるのだとしたら?



すべて、疑いをひっくり返して、考えてみてほしいのです。



疑ってることがあるなら、
未来にはそれが晴れる世界が待っているので。


晴らす必要もなければ、
疑わないようにする必要もない。





なぁんだ、勘違いでした、ホッ



それが未来にあるからこその
今の疑いなのだとしたら。


愛されていないんじゃないかという疑いは
愛されているんだと知る前触れ。


必要とされているのだろうかという疑いは
必要とされていることを知る前触れ。



本当に大丈夫なのか、と疑えるのは
本当に大丈夫だったと知る未来があるから。





不安になれるということは、実は
それだけ余裕もあるということなんです。

疑えるということは、
無意識のすこーし深いところで
本当は違うことを、知っているということなんです。




明日から、

疑いを晴らそうとすることも

しなくてよくなるね(^_^)


そしたらもっと、
自然と息をするように
自然と信じる力も
ふわっと上昇するのです。