数日間、自分が感じていること
見えている世界、
そして味わった体感を言葉にすることができなくなりました。

合宿の後からずっとそうなのですが、

というより、

合宿前からずっとそうだったものが、
あの3日間で完全に扉の向こうに両足をつっこんでしまった感じで。


どうにもこうにも過去の自分には戻れなくなってしまった、という感じでした。



なにやらそう書くと、壮大なことのように想いますが、
ただ単に、生きる世界やその前提が完全に変わっただけの話で、


そうともなると、ブログを書くことの意味だとか、
文章を綴るそもそもの意味合いが違ってくるだけのことです。


基本的に何かを書き続けたいというのは同じです。



ただ、そのエネルギーの向かう先、というか
受取り手も変わるだろうし、伝わる感覚も違ってくる。



それに慣れる期間…というか
自分の中に落とし込む時間が必要でした。



だから、書きたいことがたくさんあってたくさんあって


たーくさんあったのに、言葉にできないこの数日間の悶々…




やっと今日キーボードという名の鍵盤に向かった時に
リズムが出てくることが出来てホッとしている次第でございます。




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はてさて、

この数日間…いや、この数ヶ月間をかけて
体験してきたことを言葉にしてシェアしてみたいと想います。



まず、先に結論から述べてしまうと


「すべてがうまく生き続けることを受け入れなさい」



というような感じの世界をたくさん垣間みました。




また、別の表現で言えば、



「すべてのものに宿る自由のチカラを発見し続けなさい」



ということでもありました。




まず、すべてのことが「うまくいき続ける」


というのは、
例え目の前で何が起ころうとも、
その現象に対する「解釈」にゆがみはあれど、


現象そのものは総合的に完璧な存在である、

という感覚です。


何が起こったとしても、
それに対するネガティブな反応を示してしまうのは、


「それは、あなたの歩む道、望む方向ではないですよ」のサインであって、
なんらかの変えるべき悪い性格が私たちの中にあるというわけではないのです。


これについては私も長い間伝えてきたし、
他の多くの方も伝えてきていることです。



感情というものは、
魂のシナリオとの関わり方をその都度教えてくれているんだ、と。




ただそれだけ。
ただそれだけなんです。



負の感情が持つ意味なんて
それくらいしかない、と言っても過言ではありません。

とにかくわたしたちは長い間、
その魔力に取り付かれ、


どうにかしよう、どうにかしよう、と
エネルギーを注入しすぎたのでしょう。



ネガティブな感情がわくとき、私たちがおおよその場合
何かしらのイメージを抱えています。

そのイメージを抱えているとき、
そこには「ほんとうの自分」はいないってことが

潜在意識にはすぐに分かる。

だから瞬時にそのイメージから脱却せよと
サインをなげてくるのです。



負の感情のサインとは、
わたしたちに

「もう、そのイメージにチカラを与え続けなくても良いよ」


というお知らせなだけでありまして。



それ以上も、それ以下もないんだよ、

ということを私のこの数日の経験は教えてくれました。


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というか、実は完全にあっちいっちゃったんですけど(笑)
そこでもらってきたメッセージだったんですよね。



これ、あまり詳しく書くと
かなりあやしいので、メルマガかなんかで後日配信しようと想うのですが、


とにかく、そういうことでした。
それくらいシンプルなのに、


どんどんネガティブな感情の湧くイメージに
人がエネルギーを費やしてしまうクセや習性、あるいは
そういうビジネスの体勢やセラピーの流れがあったから


そろそろ軌道修正しなければいけないね、

という感じです。


それが悪い、とかダメだ、とか
そういうことではなくって。



単純に、それだけでは前には進めないから、という感じでした。




いや、前にはという表現には語弊があるかもしれません。
前には、というわけではなく、


「全方向に」という感じです。



魂や人間の意識体というものには
そもそも前、後ろ、というものはありません。

距離という概念がなく、
時空が存在しないために、

前、後ろ、ではなく、


中央から、全体へ


というエネルギーの流れ方をするのです。



だから、前に進めない、というよりは


「自分自身が拡散しない」


ということでしょうか。
広がりがなくなる、という感じでもあるのです。

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とにかくわたしたちの中には
二種類のイメージがあります。


細かくわけると3種類のイメージを持つのですが、
言葉にするとこんな感じです。



1、思考上でのイメージ(ただの考え、価値観の投影)
2、感情面でのイメージ(喜怒哀楽のはっきりしたイメージ、過去の残像)
3、感覚面でのイメージ(感情や価値観ではなく、確信めいた臨場感のある映像)


この三つのイメージを自分の中で
違いを発見することが出来たり、
あるいはどれがどれで、どれがどれじゃないのか、


はっきり分かってくるようになると、

どんなことにエネルギーを使えばいいのか、ってことが
だんだんわかってきます。


そうするとどうなるか?


単純です。


「シンクロしか起き続けないことを体験する」


または


「すべてうまくいき続けることを受け入れる」


ことになるのです。


上の三つのイメージでいえば、
人が注力すべき順番はこの通り。



3、感覚面でのイメージ(感情や価値観ではなく、確信めいた臨場感のある映像)



2、感情面でのイメージ(喜怒哀楽のはっきりしたイメージ、過去の残像)



1、思考上でのイメージ(ただの考え、価値観の投影)



この順番でエネルギーを使ってきます。
むしろ、本当は

3、感覚面でのイメージ(感情や価値観ではなく、確信めいた臨場感のある映像)



だけで良いのかもしれませんが、
どうにもそういかないのが人間ですので、

感情面でのイメージや思考面でのイメージなども
必ず必要になってくるでしょう。


ただ、それら二つのイメージというのは
映画の中で言えばサントラみたいな感じで、

メインではなく、あくまでも一つの物語を盛り上げるための演出にすぎない。


映画を見ていて、
サントラを聞き入ることはないじゃないですか。

そんな感じなのです。



聞いてはいるし、気付いてはいるけど、
それに注力しない。


そういう感じでしょうか。

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何やらぼかして書いてますが、
あえて抽象的に書きます。

そして、感覚で、行間で、間合いでこの文章を読んでみてください。



さてもう少し続けます。




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魂はこう言います。

魂、というかまたちょっとそことは違う領域ですが、こう言います。




「既に見えている、既に存在すると知っている世界を
ひとつひとつでいいから形にしていくこと」


「何か、本当はありもしないのにそれを求めたり、
それがないと分かっていて求めてもいないのに
そこに執着するのはやめなさい」


「もっと自分の中にある確信めいた世界、幸福の形、
生き方の形や、信頼の形を全面的に信頼しなさい」


と。


あくまでも、感覚ですが、
そういう感じなのです。



自分の中に、確信めいた「既に見えている世界」
というものが誰の中にもあります。
それは静かなとき、
世界と繋がったと感じる時、

あるいは愛する人や愛する時間とともにあるときに

ふっと自分の中に入ってくることが多々あります。


また、その確信めいた世界というのは
何もパズルのピースが全部そろった状態で
入ってくるわけではありません。


中にはすべてのピースが揃った状態で見えることもありますが、
だいたいは2つか3つくらいのピースの重なりだけが見えて、


その形をまずは具現化させようとしている間に
また別のピースたちが姿を現します。


それはすべて

創造、という名の「再現」であり、

確信めいた世界観に含まれるのは絶対的な信頼のみなのです。




そこに奪い合いの世界もなければ、
何か問題を起こす必要もありません。


「そうである」こと、
「そうなる」こと、
「そうであることが、そうである」ということが

何も理由もなく正当性もなく存在するのです。



これはすべて感覚の話。
怪しいと想う人はここでリターンしてくださいね(笑)



ただし、ここまで食い入るように読んだあなたは、
既に自分の中にもう「ある」とわかっているはずです。



そして、ここからです。


ここからは自由という名の責任と、
創造というなの別次元で起こる苦しみとの付き合いがはじまります。


ですが、それは迷いや不安や人間的な苦しみではなく、
プロセスを味わう「喜び」の一種。

苦しかろうとなんだろうと、
それを味わえる喜びや感謝も必ず一緒にやってきます。


創造することの喜びは、
もはや感情論ではなく、完全にプロセスを一歩ずつクリアして


既に見えた世界がどんどん形になっていくその様を
自分の中で感じる、というものです。


だから、迷いはありません。不安もありません。
ですが、自由とは苦しいものです。



なぜなら、自由であるがゆえに
何かを限定することはできないし、

自由であるがゆえに、
有限性ではなく、無限性を信じることになるから。


これが人間の「自我」にとっては恐ろしいことなのです。


だからわたしたちは故意的に自分の中にそういったブレーキの感情をつくります。

すべては

「自由への反撃」でもあると想うのです。



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ただし、

全体的に見ればすべての人は色々なタイミングを踏んで

必ず自分のその確信めいた世界観を体験するようになっています。



そこは一般常識の通用しない幸せのカタチや、
今まで誰も見たこと聞いたことのない生き方の形をしています。


どれもがいびつで、
どれもがとてつもなくへんてこな形をしている。


でも、
誰一人として、他の人と同じ形になってはいけないのです。



そうなってしまえば、
あるいはそうなろうとするから私たちはぶつかります。

相手と同じ形をすれば、ハマりあう時に
同じ出ている部分が、同じ出ている部分とぶつかるのですから。



そんな必要はないじゃないですか。





自分の中に、ほんとうはこうである、
ほんとうは、ああである。

わたしはこれが見えているし、
あの人はこうであっていいと既に受け入れている。


そんな自分が既に皆さんの中には存在しています。

そこは「問題」が必要ない場所です。
恨む人も、嫌な人も、
もちろん、自分を傷つける人もいません。



かつては、そういう世界が面白くないと想って
忘れてしまえ、とされていました。


でも、今はもうそういう時期じゃないみたいで。



みーんなが、確信めいた素晴らしい世界に
身をつっこむ時期だと想っているんです。





愛であれ。

こんな自分は、あんな自分は、

という限定性から自分を解き放つのです。


すべてがありのままをベースに生まれているのだと想えば、

「あ、おなかすいた何か食べよう」


っていうのと同じくらいのノリで
自己実現して、いいんですよね。




どんどん、味わっちゃってください。
必要な人に届きますように。



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…ってな具合です(笑)

あー、やっと書けたあ。


すっきり。


大丈夫、あなたのタイミングは、いつだって成熟した時にしかやってこないから。


ひとつひとつの繋がりを感じて時を過ごしていれば、

焦ることも、むやみに不安になることもない。


「ひとつひとつの繋がり」を感じて生きるというのは、

昨日あったことと、今日あったことの繋がり。


寂しかった感情が連れてきてくれた喜び。

会いたいと苦しかった時間が与えてくれる、
会った瞬間の嬉しさ…。


そういうものを、ヒシヒシと感じることです。


ひとつとして、当たり前なことはなくって、

一つ前のことに、一つ後が導かれているのだとしたら。



あまり頑張らず、
そうならなかったときは、
そうならなかったというタイミングであると捉えたいですよね。


あるいは、

「思ったようにならなかった」というひとつが、

「思ったようにならなくて本当は良かった」という

もう一つ別の幸せの形を連れてくるかもしれない、と。


そう思えば、別にひとつひとつのことにジャッジをつけて、

いいとか悪いとか判断しなくても


流れるように生きていくことが出来ます。



--

性格もそう。
ミスもそう。
後悔したってやってこない未来だから、

どうせなら繋がりを信じて先を待ちたい。



明日どうなるかなんて予測しても

今日がそれほど楽しくないなら。



やっぱり今が一番心地よいと思える自分でいたいと思うのです。




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きのうは、ひっさしぶりに後悔の念が襲ってきました。

あれもこれも、してあげられなかった~…とかいう


「本人に未確認の」後悔の念です(苦笑


あとあとよく考えたら、

きっと相手も私に対して「あれもこれもしてあげられなかった~」と

密かに悔やんでいることはあると思う。


そう考えたら、別に私が一人でうじうじ悩むことでもないのかもしれないと、

思えてきたのです。



しばらくしんみーり、センチメンタルになっていたのだけど、

その後とっても嬉しいことがあって。


ぜんぜん他の人には分からないであろう、

とっても嬉しかったことは、ほんとうにちょっとした小さなこと。


でも、それが大きな喜びになるためには、
その前に私がたっぷりしんみりしていなければいけなかったと思う。



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あぁ、繋がっているなあ。と

色々な意味で、感じたのです。







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あ、終わっていい?笑



おわり。

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私たちは、自分自身である以上のことも
それ以下のこともする必要はない。

私たちが出来るのは、

自分の言葉を放ち、
自分のやりたいことをやって、
自分であることを生きることなのです。


AさんもBさんもそのようにして生きたら、
二人の間に生まれる相反する事柄は

「ただの違い」として認識され、

それが互いの仲を壊すことにはなりません。



ただ、自分を生きることはそう楽には出来なくて。

どうしても
「自分ではない他の誰かを生きること」を経験する時期も必要です。


--

人によっては20年。
人によっては40年。

あるいは、死ぬまで結局誰を生きていたのか?
分からない人もいるかもしれません。

一度わかったとことで、
また分からなくなるのかも?


まぁ、それはそれで、それなのでしょう。


---


自分を生きる、ということは
私的にはそう難しくないと思っています。


自分を生きること、というのは
「何も違和感のない日々を過ごすこと」にとても近い。

違和感があったり問題が生じているとき、

私たちは自分の中心からズレていることがほとんどだから、
そういう時は静かに、どこがズレているのか観察してみるのです。


そうすれば自ずと、
自分の違和感の原因に気付く。


だいたいそれは、
別に抱え込まなくていいことを自分のものにしていたり、
もう背負わなくてもいい責任を卸せていなかったり。


あるいは、自分の勘違いで勝手な妄想が進んでいたり、
起こってもいないことを、起こっているかのように
勘違いしていたり…。


気付けば、どこがセンターか、
おのずと発見できるはずです。

気付けば自分がどこに戻ればいいのか?
はっきり分かるはずです。



戻れば、あとはそこにいることを、
その一瞬を楽しむだけ。




いま、あなたの中は静かですか?


わたしのなかは、静かです。





まる。