欲しがっても欲しがっても

なかなか得られないと思うもの。


それは、

「既にあなたがもっていた」と気付くものであり、

奪ったり、誰かからもらったりするのではなく、

「既に自分にはあった」と発見するものである。



欲しがっても欲しがっても手に入らないのは、

それが、そもそも「ない」のではなく
「ある」んだよ、ということを

暗に教えてくれているのです。


だから、

欲しくて欲しくてたまらないものがあったら、

それは誰の気持ちであっても、言葉であっても、
物質であってもそうでなくても、


「欲しがっている」状態から、
「既にあると気付く」状態へ。


そう、意識を変化させていくと、
欲しかったものは、頑張らずして手の内にあると
思えてくるでしょう。

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そこからさきは、
「努力」や「我慢」の世界ではなく、
「楽しむ」の世界です。


今までは、

欲しくて欲しくてたまらないものを手に入れる為に、
努力し、自分にチカラをつけ、

出来るだけその「欲しいもの」が手に入るように、

「いいこ」にしようと我慢をした。

でも、


「欲しいもの」は
手に入らないかわりに、

「欲しいもの」は
「すでにそこにある」という感動を与えてくれる。


そう、気付いたあと、

自分を磨くことも、
成長しようとすることも、
変化を求めることも、

全てが「強要」ではなく、

人生をエンジョイするための、ひとつの「遊び」になる。



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そうやって、わたしはいつも頑張っています。

一般的に見れば、明らかに働き過ぎです(笑

たぶん、人よりは仕事のために動いている時間は長いでしょう。



それは、わたしにとって仕事とは

「遊び」に近く、

「我慢」の結果、得られる対価ではなく、

「楽しんだ」結果、人のことも楽しませ自分も楽しませた

その恩恵として、お金くこと。


それが、私の仕事の定義です。



だから、欲しいものがたくさんあるわけではありません。

もっともっと、こうなりたい。

もっともっと、こう成長して、

こういうものが欲しい、創りたい、見たい、行きたい、聞きたい


…そういう気持ちはもちろん、たくさんありますが、

それは全てプラスからのスタート。

「私には、ないから、足りないから」ではないのです。


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欲しがっても欲しがっても

なかなか得られないと思うもの。


それは、

「既にあなたがもっていた」と気付くものであり、

奪ったり、誰かからもらったりするのではなく、

「既に自分にはあった」と発見するものである。



欲しがっても欲しがっても手に入らないのは、

それが、そもそも「ない」のではなく
「ある」んだよ、ということを

暗に教えてくれているのです。



何かに盲目になっているときは、

ぜひ、これを思い出してみてください。

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これは過去のメモ帳から抜粋してきました。


たぶん、ブログかメルマガに書いた気がします。



今欲しいと思うもの。


人でも、モノでも、時間でも…



なんでもいい。


それは、あなたの「本当に欲しいもの」が
かたちを変えて投影されたもの。

で、本当に欲しいもの、ってのは

実は

「今、すでにもっている」ものです。



ただ、形を変えて気付かない。
気付くことが難しい。

だから、盲目に何かが欲しいと思う時は、
自分が「欲しい」と思うそのものはダミーだと思った方がいいんです。



例えばお金が欲しいなら、
本当は「お金」が欲しいのではなく、

お金に何かが見えているんです。
お金のその先、お金の持つ何か別のエネルギーを。



で、もし欲しいと思うものが手元にないのであれば、
それもウソです。

お金はなくても、
お金に見えている「本当に欲しいもの」は

必ず「今、ここ」にある、


と心に決めて、それを探してみてください。



「今、ここ」で解決できないことは何もない、

と私は思うし、


それこそが、ある種の自分と心地よく付き合うコツだと思うのです。







(2014年8月の過去記事より)

2015年のおすすめ過去記事です!

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もし、外側のなにかに「孤独」を見いだしたなら、
自分の中にある「排他的な自分」がそこに映っているかもしれません。



もし、外側のなにかに「怒り」を見いだしたら
自分の中にある「支配したい」がそこに映っているかもしれません。




投影の法則、というのは非常に非常に便利ですが、

自分の中にある光を見つけるために、
まず一度闇をくぐる必要があります。

ですから、
投影の法則ってのはとても面白いんだけど、
やっていると最初の方、

すっごいグロテスクなものが、わんさか出てきます(笑



うげーって、なる。




でも、その奥に相対的な感情を見つける。
相反して存在している想いを見つける。

そうやって出来た時に、わたしたちの中にある
そのしこりのような、アンバランスなものはなくなっていきます。

「内側からの許し」はそこからがスタートなのです。


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ひさしぶりに、ものすごくちゃんとした、本格的な
投影の講座をしたくなりました。
6月頭くらいに、いっちょやろうかなと思っているのですが…。



きっかけは、
立て続けにわたしが世界に対して

「孤独」を発見したから。


なぜだか、自分の周りの人が、
自分を拒否していたり、人から繋がりを断たれていたり、
無関心だったり、興味をもたれない、
かわいがられない、
というような、感覚が生まれたのです。




ま ち が い な く

それは幻想だってわかるんですが(笑)

感情は勝手にざわつくわけです。



「わたしって、必要とされていないんだろうなぁ。」

「わたしって、みんなから距離をおかれるなぁ。」

「誰も、近づいて来てくれないんだなぁ。」


と、勝手にどんどん話が膨らんで、

まさに、放っておけば「それが全ての真実だ!」
となるくらいの、成長っぷりを見せます。


そうそう、大切なのはね、
この無意識に出て来た感情を押さえ込んで
幻想をやめようとすることではなく、

「変なエネルギーを与えて成長させないこと」


が大切なのです。

投影の法則は、だからこそ、使えます。


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でね、わたしはこういうとき、こう考えます。


わたしが外側の世界に
「孤独」とか「排除」とか「拒絶」とか「無関心」

をわざわざ見つけて
わざわざ感傷的になるのには、まず意味がある、と。


そして、

「孤独」が見えるということは、
自分の中に「孤独でいたい」「孤独であることのメリット」

があるということ。


「排除」が見えるということは、
自分の中に「排除したい」「排除することのメリット」

があるということ。



また、人から拒絶されていると感じるときも、
自分の中に「拒絶心」があることがわかるし、

「無関心」が他者に見えるということは、
自分の中の「人と関わりたくない」
という気持ちの投影だ、と。



そうなんです。


「わたしたちが、されている」

と思うことって

「わたしたちが、していることorわたしたちがしたいと思っていること」

です。

もっと別のニュアンスで言えば、

「そうすることに、メリットを感じていること、強制していること」

なのです。


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すごく矛盾に思えますが、

わたしが孤独で傷つくということは、
わたしが「孤独」をどこか愛しているということ。

わたしが無関心で傷つくということは、
わたしが「無関心」でいることにメリットがあると
どこか思っていたということ。


これは法則的な話なのです。


でね、ここから考えてみるわけですよ。


わたしが「孤独」であることのメリット。
わたしが「無関心」であることのメリット。


メリット、
というよりね…


「孤独」や「無関心」の別の世界観を見つけてみる感じなのです。




例えば、

孤独って、とても大切だと思っているんですよね。

ほんとうの孤独とは、誰かを想う時間のことであり、
それは孤独の持つ、別の世界のことです。



無関心というのも、誰かとの間にちゃんとした境界線を持ち、
相手と自分を混合させずに付き合う、
という世界を持っています。

だから、無関心というのは、別の意味で言えば
他者との間にある絶妙な距離感であるとも、言えるでしょう。



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ただね、

「孤独」であることを強制すると、
あるいは
「無関心であること」を強制すると、

バランスを崩してしまいます。


孤独であることを強制する、ということはない!
と思うかもしれませんが、

「孤独でいることのほうがメリットがある」

という想いが強すぎてしまうと、
それが闇となって現れてしまう。


無関心であることを強制するということは、
他者に踏み込むのをやめましょう、
相手のことを尊重しましょう、
自分のことを守りましょう、

ということをどこか強制している、ということ。

ですが、バランスを崩すと
無関心は闇となって、わたしたちの外側に存在をしてしまうのです。


---


言葉で聞くと、
・孤独
・無関心
・排他的
・支配的

などはすべて、嫌なイメージがついてしまいます。

ですが、立体的に見た時に
愛せない性質はありません。


すべて、片一方からしか見ないから
「良い・悪い」「正解・不正解」がうまれ、
人の中に争いが生まれてしまうのです。



ですが、自分の中にある
どんなものが投影されているのか、
というのを知るのは

自分が何を手放すべきなのか?よりも


「どこが、バランスを崩しているのか」

を知るためです。



現実に自分の孤独が投影されていたとしても、
孤独をがんばって手放す必要はありません。

現実に自分の無関心が投影されていたとしても、
それをがんばって手放せばいい、ってことじゃないのです。




ありのままの自分を愛する、

ということは、


自分にとって不都合な要素を消し去るために
手放して、手放して、手放して…


って、ことじゃないと思いませんか。


ありのままの自分を愛する、って

自分が持っているすべての要素に光をあててあげたり、
別の角度で見てあげたり、
違う意味を与えてみたりする、

「自分に対して能動的な関わりをもつこと」ことを指すのだとわたしは思っていて。



何でもかんでも、
ちょっと不快になるものの大元を見つけたら


はい、削除!
はい、手放す!
はい、やめる!


って、ちょっと違う気も、するんです。


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ただね、やっぱり
自分の中にある孤独とか、排他的な気持ちとか
罪悪感とか、支配欲とか、

そういうのが、投影されると
反射的に、嫌な気分になる。

感覚的に、不快になる。
さみしくなったり、怖くなったり、する。



そのバランスをとりもどすためには、
やはり「正反対のこと」をするのがいいのです。



孤独、が見えていたなら、
人と関わらないようにしようとしていた自分を振り返り、

ちょっと、誰かに関わりを持とうとしてみるとか。


無関心が見えていたなら、
誰かに対して感心を持って、首突っ込んでみる、
というのをやってみるとか。



そうやってね、

「性質を手放す」

よりも

「世界観のバランスをとる」

ことを、意識すると、いいですよ。


ヾ(@°▽°@)ノ


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おすすめの過去記事です!

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過去の記憶を再生する
という次元から
抜け出して現実を見てみた時、

実は目の前に何も起こっていないと分かることが出来て、

すーっとココロが静かになっていきます。



過去の記憶に振り回されている時、
私たちの脳みそはとっても賢く自分を騙して

いかにも目の前に新しい問題が起こっているように見せかけますが、


本当は全て「過去の記憶の再生」なんです。


その意味が少しずつわかっていくと、
何かが起きた時に、それにどっぷりハマることなく

もっと身を引いて自分の現実を眺めることが出来ます。


これを《観察意識》とも言います。


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今思えば、私が言っていること、やっていること
伝えていることは全てこの《観察意識》に通ずることであって、

結局どんな方法もこの観察意識に他ならないのです。


不安をどうしたらいいとか、
恐れをどうしたらいいとか、

なぜ不安なのか、なぜ恐れるのか、
なぜ怒ったり、イライラしたり、嫌な気持ちになるのか。


それは全て「記憶の再生」による苦しみだからであって、
本当は目の前に何も起こっていないんですね。



この脳みその錯覚から、自分を解放すること。

それを「手放す」って言うのかもしれません。


過去の再生だと割り切り、

「今、ここ」の状態に戻ってくること。

それをが「自分に戻る」ってことだと思います。



複雑に書きましたが、シンプルに考えればいいんですよね。

何か問題がおこったら、不安になったら、嫌な感情に振り回されたら…


「お、記憶が再生されている」って思えばいいのですから。

シンプルですが、練習の必要な意識かもしれませんね。


--

自分が反応してしまう現実というのは
全てが記憶の再生であると思ってもらって構いません。


嬉しいとか、喜ばしい、という現実も
厳密に言えば「過去の記憶」からの再生です。


本当に魂の底から喜んでいる時、
思考がぶっとんでしまいますので、

俗にいう「いっちゃってる」って感じになりますから、
嬉しいとか楽しいとかワクワクする、っていう解釈は
出来ないのです。

まーでも、嬉しい時にイチイチ「これは過去の記憶を再生しているだけだ」

と割り切る必要もないから、それはそれで
楽しめばいいと思うのですが。



負の感情が引き起こされる出来事や現実、
目の前に広がる問題などは99%過去の記憶からの
何かしらのメッセージだと思ってみるといいのです。


--

ただ、その記憶の元となるイメージが
すぐにはっきり思い出されることがないときもあります。

なかなか思い出せないほど潜在意識の下に隠れてしまい、
全然現れてこないこともあります。


だから大事なのは、
自分を苦しめる記憶を思い出せるかどうかではなく、


「今の問題は目の前では起こっていないんだ」

とどこかしれっと割り切ってしまうことなんですね。


--

目の前にあなたが執着する人がいたとしても、
それは「執着」という色眼鏡をつけてその人を見ているだけであって、

本当に相手に対して執着している訳ではないということです。

何かの記憶に執着していることになりますが、
それを相手に投影しているということです。




目の前にあなたが許せないことがあったとしても、
それは目の前で起こっていることではなく、

あなたの「脳内(潜在意識内)」で起こっている反応である
、ということ。

目の前のことが許せないわけではなく、
かつて許せなかったこと(あるいは許されなかったこと)が
目の前で再生されているかのように思えるから、

だから、目の前に問題があるように見えてしまうだけ。


これって、すごいカラクリだと思いませんか?

多くの人がコレを知れば、
かなり苦しみから解放されるような気がするんです。

---

例えば恋愛。
相手を支配し、相手をコントロールすることが
何にも意味ないことだと分かります。

つまり、

本当に支配したい相手は目の前にはいなくて、

相手を支配したいという気持ちが
内側にあるなんらかの記憶により生まれ、
それが目の前に再生されている
、ということ。


例えば子育ての話。
子どものことを叱ったりしたくなったとき。

それは叱りたい子どもが目の前にいるのではなく、
目の前の子どもを見ていると、叱りたい自分や叱られていた自分を
脳内で再生してしまうから。

だから、目の前で「その過去」が再生されているように、
思ってしまうのです。


---

人によっては知りたくない事実かも知れませんね(苦笑)

なんたって、投影の法則というのは
苦い良薬みたいなもので。

飲み込めば効き目も早いのですが、
最初のうちはとても苦く感じるのです。

人のココロには自然なる防衛本能が組み込まれていて、
全てが一瞬にして分かってしまうことは
非常に怖いことなんですね。

いきなりココロに宇宙規模の全ての情報が入ってきたら怖いと思いませんか?

そんな感じです。


だから、

人は愛に戻ったり、
一瞬にしてすべてを悟ったり、
あるいは宇宙の真理たることをカラダで体感することが
誰にでも出来るけど、それは簡単にできることではないし、
出来なくてもいいことです。


そこらへん、

悟りたい、悟りたい、知りたい、知りたい症候群の人は
どこかで分かっていると、いいですよね。

--

さて、長い上に話が難しくなっちゃいましたが、
とにかく私が言いたいことってのは、


「私たちの過剰に反応する現実は、

全てが過去の記憶の再生なんだ」
ってこと。


割り切った上で、現実をよくよく見てみれば、
全ては「今」起こっていることではないと分かり、

ココロのどこかで安心できるかもしれませんね。



そうすれば、
もっと単純に「ほっとする」っていう
ココロの安定が生まれるのではないかと思います。




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3月8日まで
ハタユカラボ第4期の募集です!



配信テーマは…







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