例えば、ある素敵な一軒家があったとしよう。

 

この一軒家という空間、

そしてこの一軒家という空間に住む人のためのことを思って、

インテリアチームが組まれたとする。

 

 

その時、インテリアチームはさまざまな価値観の人々で構成されている。

どの人も、その人なりの考え方と

その人なりの好み、個性、ルールというものを持って

チームとしてこの一軒家の空間作りをしようとしている。

 

 

チームは一致団結して

 

この空間の”主”のために、切磋琢磨しながら

意見を交換し合う。

 

話し合いがうまくいっているときは、

チームのメンバーがそれぞれの考えを認め合い

議論することができているとき。

 

ただ、その時はかならず、焦点は常に

”空間の主”に向けられている。

 

 

この一軒家に住む主が心地よくなるように。

幸せな時間が過ごせるように。

 

 

照明はこうしたほうがいいだの

窓はこうしたほうがいいだの、

キッチンはこうしたほうがいいだの

色はこうだの

机はこうだの

小物はこうだの

カーテンはこうだのと

 

いろいろな論争が繰り広げられている。

 

 

^^^^^^

 

しかし、チームが目的を見失うと

個性豊かなチームは互いに争うようになる。

 

”空間の主”のことは忘れ、

誰の意見が最も正しいのか?

誰の価値観が最も素晴らしいのか?と

言い合いをはじめてしまう。

 

 

この時、話は全くまとまらず、

誰の意見も尊重されずに、

 

混沌としたまま、

一向に、一軒家のインテリアは決まらない。

 

 

当然、

 

空間の主は落ち着かないし、

幸せな気分にもなれないし、

 

ほっとできず、

”居場所がない”と感じてしまう。

 

 

^^^^^^^^^^

 

これが、わたしたちの潜在意識で起きていると考えてみてください。

 

 

空間の主、というのは”自分”のことです。

 

そして、その空間の主のために

さまざまな価値観を持ったコーディネーターたちがいます。

 

コーディネーターたちはいろいろな体験を積んでいますから、

ご意見番的な感じで存在しています。

 

このコーディネーターたちはわたしたちの中で”声”として登場します。

あるいは”ことば”や”考え方”といってもよいでしょう。

 

 

空間の主は、基本的にインテリアコーディネーターたちから信頼されていません。

 

”自分の方が経験しているから”と思っています。

 

『わたしたちが決めてあげる!』

『わたしたちに任せて!』

といって、コーディネーターたちは

自分たちの主張を通そうとするのです。

 

チームが仲良い時は良いのですが、

個々の価値観が存在する中で

その意見たちがまとまるのはとても大変です。

 

人間界でも大変ですが、

もちろん、潜在意識界でもたいへんです(笑)

 

チームをまとめる唯一とも言えるものは

 

”空間の主”への愛

だといっても過言ではないでしょう。

 

”ヴィジョン”ですね。

 

 

しかし、インテリアコーディネーターたちがそれを忘れてしまうと、

意見が暴れるようになり、目的を見失い、

そして、居場所がなくなってしまうのです。

 

これが、

 

 

・喪失感や孤独感

・居場所がない感

・落ち着かない感

・自分がわからなくなる感

 

となるのです。

 

^^^^^

 

 

 

わたしたちはついつい、

自分そのものと、自分の中に持っている”価値観”とを同一視してしまいます。

 

しかし、空間の主とコーディネーターたちは違う存在ですよね。

 

価値観は価値観。しかもたったひとつではありません。

こころのクローゼットの中にあるお洋服たちと同じ。

 

 

 

よく、

 

 

「わたしはこう思う」と言いますが

 

 

”わたし”が思っているのではなく

”わたしの中にある価値観”が思っていることだったりします。

 

そういった「わたしはこう思う」には必ずと言っていいほど

「でも」「けど」「だって」

 

がつきます。

 

 

「わたしはこう思う、けど〜・・・」

「わたしはやりたいのだけど、でも〜・・・」

 

 

この類は、ほとんど”自分が本当に思っていること”ではないと捉えてもらっていいのです。

 

 

この本でも書きましたが、

 

 

 

 

ほんとうの願望は自分を幸せにします。

 

「〜したい」が自分を幸せな気分にしないなら、

その願望は、願いではなく自分への強迫観念です。

 

 

”〜したい”ではなく

”わたしは〜したい、と思っていなければいけない”

”わたしは〜したい、と思っているに違いない”

 

ということ。

 

 

まずは、これが区別できるようになると

自分のほんとうに感じていることや

自分自身とのつながりを強く感じることができますね。

 

 

^^^^^^

 

さらに、価値観というものは変わっていきます。

 

 

季節が変われば衣替えですし、

自分の好みが変われば洋服の種類も変わりますよね。

 

だから価値観は変わりますが、

本質的な自分自身は変わりません。

 

 

しかしここで、自分自身と価値観が同じだとしてしまうと

価値観が変わろうとする時に、恐れや不安を感じてしまいます。

 

それはつまり、”裸になる怖さ”と同じです。

 

服が脱げないことと、価値観を変えることができない(あるいは変わろうとする時に抵抗感が生じる)

 

どうすればいいかって、まぁ、裸になればいいんですが(笑)

(つまり、どんな自分であってもありのまま見せればいいってこと)

 

 

 

 

それができたら苦労しないぜって話なんですよね。

 

そこで思い出して欲しいのは、先ほどの

こころのインテリアコーディネーターたちのこと。

 

 

 

 

 

彼らが”空間の主への愛”を見失うと、

もともとバラバラな意見が凶器になってしまいますよね。

 

互いに傷つけあい、罵倒しあい、競い合うようになる。

 

自分の内側がこのような状態だと、

それがそのまんま外側(現実的な世界)の人間関係につながります。

 

 

内戦が起きているから、

外側でも戦いが起こる。

 

 

 

だからまずは、このブログの例でいうなら、インテリアコーディネーターたちの注目を

”空間の主”に集めないといけないんですね。

 

 

つまり、戦うことや競い合うことから

 

”目的を果たすこと”へ、

 

 

自分の価値観や前提、

思い込みなどのエネルギーが向く矛先を変えるのです。

 

 

 

 

 

ぼうっとしていたら、常に自分の頭の中で鳴り響く、

いろいろな声に翻弄されていきます。

 

 

さっきはやりたいとおもったのに、

次の瞬間「それは意味がないよ」と声が聞こえてきたり、

 

 

また次の瞬間「またまたネガティブになっている」と言い出しては

「いいじゃんこれもわたしなんだから」

 

と喋り続ける。

 

 

 

 

この移り変わる声たちは必ずしも”ひとり”とは限りません。

 

 

さまざまな価値観がミルクレープのように重なり合っているのが

わたしたちの状態なのですから、

 

 

自分の中で切り替わり続ける”声”を、

たったひとつ、にしようとコントロールする必要はないのです。

 

 

なんども言いますが、空間の主のために

 

喋り続け

意見を交わし続け

論争し合うインテリアコーディネーターたちは

 

本来、わたしたちの心地よさと幸せのために存在しています。

 

目的を忘れてしまうことがあるのです。

だから、意味もない争いや戦いが

自分の中で繰り広げられてしまうのです。

 

^^^^^^

 

わたしが潜在意識の仕組みを伝える時にいつも話すのですが、

 

 

『潜在意識の思い込み(=信念、価値観、思い込み)を

 

変えようとするのではなくて、

 

その思い込みや価値観たちに、

 

本来の目的(愛、感謝、喜び)を

 

もう一度思い出してもらうこと』

 

 

がとても大切なんです。

 

 

 

ビジコアの動画テキストコースでもお伝えしているのですが、

 

 

人は自分にとって不都合な思い込みや価値観を見つけると、

すぐにその反対の価値観を持てば幸せになれる、と思っています。

 

しかし、

潜在意識の思い込みも前提も

 

変える必要がないことが多い。

 

 

 

 

クローゼットの中にある洋服が良いから悪いから、で捨てるわけではないように

『目的』を見失っているそれらが自分を苦しめているだけなのです。

 

 

 

だから、再度、目的を与えてあげる。

 

 

 

価値観や思い込み、ルールや前提などといった

”こころのインテリアコーディネーターたち”に

 

『あなたたちの仕事は、わたしを幸せにすることです』

 

 

とちゃんと伝える必要があるのです。

 

 

 

 

クローゼットにしまわれて着ることがなくなった洋服たちに

もう一度、一緒に出かけるチャンスをあげる。

 

「この服、まだ着れるかも?かわいいかも?」と

その服の意味を持たせる。

 

そういう意識を持って見てはじめて

”それはいらない価値観なのかどうか”がはっきりわかります。

 

^^^^^^

 

じゃあ、どうすればもう一度目的を持ってくれるの?

 

って話ですよね。

 

 

そのためには、

 

空間の主がそもそも主張しなければいけないわけです。

 

 

 

 

クライアントがぼやぼやしていたら、

インテリアコーディネーターたちも目的が定まりません。

 

どんな空間に住みたいのか?

どんなライフスタイルがいいのか?

何を体感したいのか?

 

空間の主がまず、思い出さなくてはいけないのです。

そして、空間の主はわがままでいいのです。

 

 

 

得たいものとか、なりたい姿とか

お金とか恋人とか愛情とか成功とかの前に

 

感じたい感覚に貪欲であれ。

 

 

外側(目に見える結果や、お金や結婚や、成功や数字やお客や出来事)

 

に焦点を向けるのではなく、

 

内側に向け続ける。

 

 

 

なにを考えているのかはどうでもいい。

(コーディネーターたちの声だから)

 

 

感じたい感覚に貪欲に、感じること、感じ続けていること

感覚をキープすること。

 

 

それが大事ということです。

 

 

 

 

 

常にいい気分でいることを選択しよう、と言われているのは

そうすることがすばらしいからではなく、

またそうすることで人生がうまくいくからではなく、

 

常にいい気分でいることを選択しようとするプロセスの中に

空間の主である自分との出会いがあり、

自分の”考える”素晴らしさではなく”感じるすばらしさ”との出会いがあり、

 

ほんとうに幸せだと感じている瞬間に気づくことができるからなのです。

 

 

 

空間の主が目覚めれば、

そのために働くインテリアコーディネーターたちは

もっと活気に溢れるでしょう。

 

争うためにさまざまな価値観を持つのではなく、

自由に生きるために、さまざまな価値観が存在するように、なるのです。

 

 

もし、自分の中の考えや言葉や声がカオスになってきたら

ひところ、こころを込めてこう、自分に伝えてあげてください。

 

 

 

 

 

 

『あなたたち(考えや声)は、わたしを幸せにするために存在しているのです。』

 

 

 

 

と。

 

 

ピシャリ!と言ってあげると、

じつはビシッと!背筋が伸びるコーディネーターたちなのです。

 

星予告

 


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世の中にはいろいろな肩書きがある。いろいろな職業がある。

20歳から独立してやってきたわたしは、今でもなおわたしの一番の肩書きと職業は『はたゆか』であることだと強く感じる。


秦由佳は、いつどんなときも、はたゆかという職業を全うしているだけで、それは時々形を変えて、ポジションを変えて、世界を変えるだけ。

電気配給会社が自由化され、そのうち貨幣制度も自由化されたとしたら、次は職業の自由化なんじゃないかと思う。

その時に、自分の仕事は自分を生きることですと言える人がどれだけいるだろうか。どれだけ、いてくれたらいいだろうか。

それは職業『はたゆか』の思う個人的なエゴなのだけど。
でも、それでも、わたしたちは生まれてきた証に名前をもらって、そこからすでに自分の人生を全うするという仕事をもらってる。

生きてるだけで、価値がある。それはそういうことなんじゃないだろうか。



言いたかったことはつまり、どんな仕事をしてようが、どんな肩書きを持ってようがなかろうが、根本的にわたしたちはみなが自分の『名前』という職業を全うしているということなのだ。

それを全うしてはじめて、その上に成り立つ仕事がうまくまわる。自分を全うしてはじめて、その自分のやる仕事や職業が全うされる。職業をこなすより、自分を生きる方が大変なんだ。

そこから逃れるようにお金や成果に目がくらみ、大切なものを見失ったとしたらもう本末転倒。

自分という人間を生きること。当たり前だけど、社会的なもんより、地位的なもんより、どんだけ成功して稼いでるかより、そこのほうが大切で、そこが結局は一番の財産となるってこと。

そういうことだと思うの。




こんなにも多くの人が仕事に夢中になり、日々の当たり前な生活や家族との時間を犠牲にしてまで働くことについて考えていたの。

わたしの中で出た結論。
結局、仕事をしているときは役割が与えられる。明確な仕事や、重要性が分かる。責任感も与えられる。

でも、その役割がなくなった日常は、突然自由になりすぎて、自分自身に役割を与えられなくなる。

だから、役割が与えられている時間を無意識に大切にしすぎてしまうんだ。その時だけは生きてる感覚がある、と。追いかけているものがある時だけは、生きてる実感がわく、と。


自由に対する免疫が弱すぎる。自由というものがあまりにも遠くて眩しくて掴めないものになってる。

それはただの洗脳ね。生きるということがそもそも自由の体現なのだから、免疫が弱すぎると、役割に負けてしまうんだ。


誰にも何にも役割なんて与えられなかったから、自分で決めたの。20歳のわたしは、社会に適合できないと分かったから、適合できる社会を作ろうと思ったの。そのときに、自分で自分に役割を与えた。わたしは『はたゆか』という仕事をする、と。



だから、自由になった。自由になってはじめて、わたしは秦由佳になれた気がするの。
(ちなみに、今はみんな私のことボスと言うけど、本人はボス感全くなし。パジャマで出かけられるような人間です。)


------


だから、個人的にわたしから全国のみなさまにお願いがあるの。

社会や会社から与えられた役割を全うする時間を少しだけ減らして、何でもない誰でもないようなあなたと付き合ってくれる友人や家族との時間を増やして欲しいの。


あなたが役割や社会的なものに対して向きあい、がんばってる時間を、あなたが誰であろうとあなたの側にいたいと思ってくれる人のことを考える時間にして欲しいの。

あなたの会社は、あなたが成果を出したら認めてくれるかもしれない。

でも、あなたが役割や成果という装いを脱いだ時のあなた自身に、どれほど社会は関わり、そして抱きしめてくれるだろうか。



働く時間を減らして欲しいわけじゃない。そういうことじゃない。でも、そうじゃなくてもいい時間、生き方があるんだよ、って。そう言いたいだけなの。


昔のはたゆかは、お父さんもお母さんも忙しくって、いつも一人だったの。でも、わたしのために、家族のためにがんばってること、知ってた。

一人遊びが得意になったことは、今の仕事に役立ってる。でも、わたしが必要としてたのは、仕事で頑張って得たお金でもなく、成功して得た地位でもなく何でもない、ただの時間だった。



役割を外した大切な人の横顔を見て、こっちを見て、笑って、と思ってる人はたくさんいると思うの。



あなたが少しだけでもいいからそれに気づいて、そっと横を向いてくれるだけでいいから。
ただその小さいことだけで、幸せになる人は、たくさんいるんです。



(2016年4月過去記事 再更新)


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すごい人、じゃなくて

嬉しい人、でいたいなと思っています。

 

 

 

 

何かができてすごい

何かがわかっていてすごい

何かが長けていてすごい

 

一度自分をそういう人間にしてしまうと

その”すごい”からはみ出ることが怖くなって

 

いつのまにか

すごくない自分をさらけ出すことができなくなってしまう。

 

 

でも、

 

嬉しい人でいることは

わたしにとっては大切なことです。

 

 

嬉しい人でいる、というのは

 

 

”あなたがいてくれて嬉しい”と言われたい、ということでもあるし

 

”あなたがいてくれて嬉しい”と言う人でいたい、ということでもあります。

 

その欲に、忠実でいたい。

 

 

 

これはとても簡単そうで難しいことだなって

最近感じていました。

 

 

忙しさにまみれてしまうと、

気づかぬうちに自分の中に生まれる

小さな”うれしい”を取りこぼしてしまうし、

 

無意識のうちにすごい人すごいこと

すごい自分でいようとすればするほど、

 

他者が自分に向けてくれている

”うれしいです”の気持ちを見逃して受け取れない。

 

 

 

 

だからわたしは、

 

すごいひとより

うれしい(のギブアンドテイク)がある人でいたい。

 

 

そう思うのです。

 

 

(3年前くらいの写真)

 

 

 

っていうのもね、最近ある人が

 

周りから批判されているのに対してショックを受けていた時に

 

”わたしはそんな人じゃないのに・・・”

 

と嘆いているのを見て思ったんです。

 

 

 

 

 

 

 

他者が自分をどんな人間かと思うのは

コントロールすることができません。

 

勘違いされたくないと思うのは当然ですが、

 

しかしながらに、勘違いされたくないと思えば思うほど

身構えてしまうものです。

 

 

じゃあ、勘違いされたり

誤解されたり、

勝手な妄想で批判されたりするとき

 

必ずしも相手が悪いのか?

 

と言われればそうでもない。

 

 

なぜなら基本的に

 

人と人との間に勘違いや誤解が生まれる時、

そこには絶対的な悪人、罪人や被害者はいないからなのです。

 

 

Aさんにとってわたしという人間は

冷たくて頭が固くて、とっつきにくい人。

 

Bさんにとってわたしは

温かくてたのしくて面白い人。

 

”わたし”という人間のどこを切り取るのかは他人が決めることで、

 

人が自分を切り取った要素というのは

自分の一部として持っているものなのです。

(受け入れたくない!という人もいるけれど)

 

 

 

 

わたしは、他者から誤解されたとしても平気になりました。

 

あの人はこうだよね

あの人はこういう人だよね

 

そう言われることも、よしとしました。

 

 

 

なぜなら、

 

 

 

 

”ほんとうのわたし”はわたしが決めることだし、

 

さらにいうなら、そのほんとうのわたし、というのは

 

自分にしか認識できないものだから

 

わかってもらうほうが、無理がある。

 

のです。

 

 

 

自分がただ感じるしかできないの。

 

それを他者にわかってもらおうとして伝えたとしても

相手の中で生まれた”はたゆか”という人物は

あくまでも相手の中にある像だから、

相手が切り取ったイメージだから。

 

そして、相手が切り取ったイメージは

自分の排除した自分のときもあるから。

絶対にわたしはそんなひとではない!

なんて、頑なになる必要はありません。

 

 

 

 

そこはコントロールできないし、

する必要もない。

勘違いすることも、誤解が生まれることも

 

ふつうに人と人との関わりの中では

当たり前のことだと、思うのです。

 

^^^^^

少し例え話をするなら、こんなことが以前ありました。

 

 

どこか風の噂で、わたしはとんでもなく

冷たい人間だということを聞きました。

 

 

そのときに思ったのです。

 

 

”あぁ、そうかもな”って。

 

 

 

しかし、一方では

わたしのことを”優しい人だ”という人もいます。

 

また他のところではわたしのことを

”強い人だ”という人も。

 

きっとうちの相方はわたしのことを

”乙女だ”と言ってくれるに違いないでしょう(希望込w)

 

 

ごく身近な人たちには

 

さざえさんちのカツオくんと、クレヨンしんちゃんと

アルプスのハイジを足した感じだと、

言われています。

 

 

幼い系かい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そう、

 

見る人触れる人によって、

わたしの様々な側面が

相手の中に伝わります。

 

そして、わたしの様々な側面は

相手の中でさらに色付けされ、

違う人物となります。

 

もう、どうしようもありません。

 

 

 

こんな感じで死にそうになりながら仕事しているときもあれば

 

image

 

こんな風に爽やかなジドリができる余裕あるときも

 

image

 

(同一人物に見えんな・・・笑)

 

 

 

 

 

 

 

自分では違う!

そういう人間じゃないのに!

と思っていたとしても

 

自分の背面を見ることはできないように、

すべてを把握することができているわけではない。

 

それならば、

 

 

うん・・・確かにそういうわたしもいるかもな、

 

と思うことができます。

そして、そのほうが断然、きもちよい。

(快便的なきもち良さ)

 

 

 

 

 

ゆえに、

 

他者からわたしがどういう人間なのか

どう思われているのか

逆に興味があるときもあります。

 

しかしそれは、自分を決める判断材料にはなりません。

自分の価値はそこでは測りません。

 

他者が描いた自分像で自分のことを評価しないからこそ、

他者の描く自分をコントロールすることもしないのです。

 

 

自分はそういう風に見られることもあり、

そういう風な側面もあるかもしれないなぁ。

 

へーおもしろい・・・

 

 

 

そっちの方向に捉えることも、できるということ。

^^^^^^

 

なにやらいろいろな話題が組み合わさった

バイキングのような記事になりましたが(笑)

 

 

まとめるとつまり、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

”勘違いさせとけ”

 

 

 

ってことですかね。笑

 

 

 

 

そして、人が自分をどういう人間だと思うのかに興味を持つということは、

 

同時に自分自身で感じる”わたしという存在”にも意識を向けることになります。

 

 

 

 

 

他者からどう見られているのかは

ひとそれぞれ。自由。そこに抵抗する必要はない。

 

 

 

なぜならわたしは、

 

 

すごいひと、じゃなくて

うれしいひとで、いたいから。

 

 

あなたはどんなひとで、いたいですか?