先日の無料メルマガ、大反響だったので

一部をブログにもシェアしておきますね。


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『自分を大切にする・自分を愛する』

ずいぶんとこれは大切なことだと言われ続けて、
最近は多くの人が意識するようになったのではないかと思います。


”自分を大切にしていればすべてがうまくいく”


とまで豪語はしませんが、それほど『ご自愛』ベースに生きる人が増えているのも事実。


しかし、個人的にそこには”ある罠”が潜んでいるようにも、思います。




たとえば、努力とか頑張るとか超える、とか。

そういうものって、自分を大切にすることとは真逆にあるように思えるかもしれません。

でも、そうではないとわたしは思っています。



努力しろ!というわけではなく、

『発展途上をたのしもう』ってことだったり、
『完璧ではない自分を生きる』ってことだったり…
『何かができない自分をたのしむ』ってことだったり…


努力する良さ、ってそこにあるとわたしは思うのです。



”がんばる”と同時に、
”できない自分”を見つけ、

そんな自分を受け入れていくチャンス。


だからわたしは”勉強”とか”できないことをやる”のが好きです。

知らないことを認め、積極的に知ろうとする。
できないことを認め、できるようになろうとする。


『自分を大切にする
自分を愛する』


聞こえはいいかもしれませんが、擁護とは違うと思っています。

攻めのない守りは、ただ、自分を囲い込んでるだけ。


それって”自分を信頼する”ことだと思っていて。


自分を信頼して、自分を奈落の底に落とすこともできるわけです。



自分に対して優しくするだけが、自分を愛するということではないということ。

ある一定のところまでは優しくして優しくして。

でも、それがもう当たり前にできるなら、
今度は自分を全信頼して、真逆いってみようよ、と。

守りと攻めのバランス、ですよね。




自分を心から信頼したときに、

あえて自分の恐れている世界にジャンプインする!ってのも大切なこと。




”何も変わらない””楽しくない””ワクワクしない”という人に限って、

自分に優しくはできるけれど、自己信頼してジャンプインすることをしないわけ。

(ビジネスも同じ。)





わたしは、自分を愛し、自分を信頼しているからこそ、

ネガティブなことが起きてもいい、と思っています。
ネガティブな感情になっても、いい。





自分がとても大切だからこそ、
涙を流すことも、受け入れている。腹をたてることも。


だから、人生にどのような失敗が起ころうと
その都度、自分を全信頼することができるなら・・・



今、余計な心配はいらないわけです。
自己嫌悪のヒマもありません。

自分を愛し、自分を信頼し、自分を大切にしているからこそ、
広く言えば『自分の人生に何が起きても、OK』。

そうなるとですね・・・

”とことん自分の限界をみてみたい”

となったり、

”嫌われることもしてみたい”

となったり、

”自分を大切にしない、もやってみよう”

となるわけ。笑

”できない、たのしくない、好きじゃない、もやってみよう”とか。
”全然興味ないこともやってみよう”とか。


ほんと、矛盾しているように思えるかもしれませんが
大前提として自分のことを大切にしているので

傷跡残さないように生きよう、傷まないようにしよう、より

『自分らしくその瞬間その瞬間はじけて、それで受けた傷ならそれも愛せる』
そういう感じ。



自分を擁護するより、

解放して、開いて
傷つくことも許して受け入れて。




誰かを恨んだり嫌ったり嫌われたり妬まれたり、

そんなことが人生におきたって、

全身全霊でそんな自分を大切にする。



自分を大切にする、愛する、の本質って
『こういう人生にする』『こういう生き方がいい』という感じよりも、

『どういう人生でもわたしはわたし』と腹をくくることだと思うのです。


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Express Life Mission Program


ー人生のミッションを表現するー



ミッション(使命)とは、自分を生きること。

自分を表現する喜びに触れるために、

過去につばさを生やし、

未来のとびらをひらこう。

いま募集中のELMプログラムって何?と聞かれますが、

Express(表現する)

Life(人生の)

Mission(ミッション)から、きています。


でも、難しいことが言いたいわけじゃないの。


大丈夫なの。
大丈夫なの。

だいじょうぶなの!!!

ってこと(笑)

自分で生きて、本音を出して、感情を放出して、だいじょうぶなの。

で、それを「全身で」感じてほしいんよね。


とびこむ?ん?とびこまない?笑

どうぞ、悩んでくださいね(^^)


あなたがあなたを許さないのではなく、

あなたが誰かを許さないのではなく。



あなたの中にあるルールが、あなたを許さないだけ。

あなたの中にある価値観が、誰かを許さないだけ。



そのルールは誰が決めたの?
その価値観は誰のものだろう。




もう、その価値観やルールは使わずに生きる!

とあなたが決めれば


許せない自分も、

許せない相手も、

許せない現実も、ない。



何と戦うことも、ない。

理想と現実を比べることも、ない。




比べて生きる、のではなく

表現して生きる。


戦って生きる、のではなく

創造して生きる。




誰かと比べることでしか自分を確立させられなかった人は、

誰とも比べることなく存在していい、という世界へ。



望んでもいないのに架空の勝負をしかけ

戦うことでしか生きていることを感じられなかった人は、

誰とも戦わずして勝つことも負けることも必要のない世界へ。


あなたがあなたを許さないのではなく、

あなたが誰かを許さないのではなく。



あなたの中にあるルールが、あなたを許さないだけ。

あなたの中にある価値観が、誰かを許さないだけ。




どんな風に生きてきたか?より、

どんな風に生きていこうか?



その問いかけは計画ではなく、

自分へ寄り添うことのひとつ。



決まりごとでも目標でもなく、

自分との会話の、ひとつ。






むふふ。

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最近、メルマガやブログなどで
『感情とフィーリングはちがうよ〜』と書いています。

そもそも、その二つを分けることになんの意味があるのか?
フィーリング(感覚)ってなんなのか?

それが腑に落ちないと、この話は面白くないかもしれません。


でも、

感情とフィーリングのちがいがわかると…
いいことがあります(笑)

なので、まずはレッツ、イメージング!


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例えばあなたが自己嫌悪に陥ったとき。

あなたの中には、3人の存在がいることになります。


存在その1…ジャッジする声

存在その2…ジャッジされる声

存在その3…存在1と、存在2を観察している存在








なんだかよくわからなくなってきました?

いえいえ、分かりやすいはずです(笑)



自己嫌悪に陥っている時、

まず脳内では『過去のシーン』が再生されていますよね。


自己嫌悪の対象になるような自分の行為を
思い出しているはずです。


”あんなことしなければよかった”
”なんでわたし、いつもこうなんだろう”


思い出している過去の自分そのものは
そんなこと思っていませんが、

思い出している過去の自分に対して
ジャッジを下している自分は、そんなことを言い出しますよね。



ここまでは、存在1と存在2のやりとり。

否定される対象の自分(イメージ・記憶)と
否定する自分(価値観・ルール)の二人。



この図のように、テレビの映像(記憶・イメージ)を見ている
もうひとりの存在がいます。



しかし。

『じゃあ、誰がそれを見てんの?』ってはなしで。


例えばこの写真をもう一度。



そう、今この写真を見ているのは”あなた”です。

この写真に写っているテレビも、男の人も

”見ているあなた”がいなければ、存在できません。


これが存在3、となるわけです。


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この3つの存在をこう、わけてみます。


存在その1…ジャッジする声

→→価値観・ルール


存在その2…ジャッジされる声

→→思い出・イメージ


存在その3…存在1と、存在2を観察している存在

→→??????



あれ、存在3が、????となりましたね。

でも、その前に存在1と存在2をもう一度。


存在その1…ジャッジする声

→→価値観・ルール


存在その2…ジャッジされる声

→→思い出・イメージ



わたしは、あえて”存在”という表現を使いましたが、

よくよく考えてみてください。



『あなた』という存在は”価値観・ルール”ですか?

『あなた』という存在は”思い出・イメージ”ですか?



抽象的な質問ですが、答えはNO


だって、

はたゆかという人間と、価値観・ルールはちがうわけです。


はたゆか=果物

価値観・ルール=バナナ



とイメージすると、わかりやすいでしょう。


バナナは果物ですが、果物はバナナではありません。


何やら、言葉遊びのようになってわからなくなった人はすみません、何度も読んでください(笑)






とにかくですね、


わたしたちは、価値観でもルールでもありません。
思い出やイメージでもありません。

価値観やルールは、わたしたちそのものではなく

『わたしたちが持っているもの』です。


家にある家具と、自分はイコールではありませんよね?

関係性はあったとしても、
完全一致なわけではないはずです。






存在その1…ジャッジする声

→→価値観・ルール


存在その2…ジャッジされる声

→→思い出・イメージ


存在その3…存在1と、存在2を観察している存在

→→??????





このね、存在1の声と、存在2のイメージに

どっぷり浸かっているとき。



感情がドバドバ出て来ます。

感情に振り回されます。





脳内の映像や記憶、イメージを罵倒する価値観やルールって、

自分の本音ではありません。


それらは、多くの場合幼い頃に

『無意識のうちに覚えた』もの。

両親や幼い頃の環境が、これに影響を与えています。



自分の中にある、価値観やルールから生まれる声もしくは
それらがジャッジするイメージや過去の記憶(残像)にとらわれてしまうと、


存在3


とのつながりが途絶えてしまいます。



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実はね、この存在3というのが俗に言われる

「観察者」のことです。


ジャッジもしない。
判断もしない。

そもそも無限に自由な存在が観察者であるため、

ただただ存在が満ちています。

この存在3、にフィーリングがあります。



つまり、




存在その1…ジャッジする声→→価値観・ルール

これに意識がいっている時でてくるのが

感情


存在その2…ジャッジされる声→→思い出・イメージ

これに意識がいっている時でてくるのが

感情


存在その3…存在1と、存在2を観察している存在

これに意識がいっている時、


感覚


を感じることができるようになる。


ということです。


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訓練しないと、わたしたちは


価値観やルールから生まれる声を本音だと思ったり、
自分の過去やイメージに苦しめられたりします。


しかし、

訓練、というか練習すればするほど、


感情と感覚を同時に感じることができるようになる。


そうすると、どんな感情が出てきても

それにどっぷりつかることも、振り回されることもない。

フィーリング(感覚)をひらいていれば

どんな感情でも、それを抑え込むこともなく
かといってどうするわけでもなく

ジャッジせず、手もかけず

ただただそこで見守る、という存在でいられる。



(簡単に書いてますが、それを習得するのにわたしも時間をかけました。)








たとえばどうするかというと、


『ものすごい感情』と同時に、

『その感情のそばにいる感覚』を感じることをします。




めちゃめちゃ悲しいとき。
その悲しさを感じつつも、
悲しさと同調せずに、そばにいる。


何もしない。

ただそばにいる。

ただそばにいる存在で、いる。



その状態でしばらく経つと、
悲しみの感情は味わい切られて、すっきりデトックスされます。

なぜなら、安心して感情を発生させ続けられるからです。




感情は噴水みたいなもの。


出し切ったら、止まります。






ここで、感情に意識を向けすぎてはいけません。

噴水が中途半端に止まって、水がたまるのです。



感情はただただ発生させておいて、
その上で、自分は感覚のフィールドにいる。


感情というのは何かしらの反応なの。

自分の中のルールやタブーに触れている時に出るのがネガティブな反応。



だからといって、それに意識を向けてどうこうしようと思っても
逆に意味がありません。

押さえ込んでしまいます。


だから、


感情とともに、感覚でいる。

感情を発生させながら、フィーリング全開でいる。



これがポイントです。

(感情に対して瞑想の姿勢で接する、みたいなものです。)


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んー、ちょっと説明が難しいのですが。(文章だけでは。)


言葉の概念は人それぞれ違うので感じ方も違うけれど、

もし『なんかよくわからないけれど、面白そう』

と思ったかたは、この記事も読んでみてください。


その私は、【私】なのか?