理学療法士が嫌いな理学療法士のブログ

理学療法、理学療法士について書いています。


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「凄い理学療法士とは?」

みなさんはこんな事を考えた事はないだろうか。
これまでいってきたように理学療法はとても曖昧な学問で、今のところ患者さんに対して万人が納得する方法論は「無い」と言っても過言では無い。

、俺はそんな中にも各理学療法士によって良し悪しはあると思っている。
正解はないからといって誰がやっても同じとは思っていない。

「良い理学療法士になりたい」
「凄い理学療法士になりたい」
理学療法士を目指した時点で一度は誰でも思ったことがあるのではないだろうか。

そこで言われる「良い」「凄い」とはどんな事を指すのだろう?
知識が豊富?
技術が熟練されている?
はたまた「結果」の出せる理学療法士?

ひとつだけではないにしろ何かしらの「能力」を比較の対象に挙げ頭に思い描いたに違いない。

最近までサッカーのW杯が世間をにぎわしていた。
仮に四年に一度、「理学療法の世界大会」なるものが開かれたら一体全体どんな大会になるのだろうか。
もしも自分が主催する立場にあるとき参加者達にどんな事を競わせるだろうか。
そんなことを今回は考えてみようと思う。

理学療法士を広く捉えると、病院や施設、事業所などで働く一社会人、一医療人と言える。知識や技術などの前に社会人としてのマナーや礼儀がなっていなければならず、さらに一医療人として患者さんや利用者さんとしっかりとした信頼関係を築き……
というような話は今回は避ける。
この辺りは言うまでもなく理学療法士として重要な部分だが、うーん…綺麗すぎるというかなんというか、なんだか浅い議論になりそうなので気がすすまない。特に勉強もせず何も考えていない理学療法士が急に話をふられてとりあえず言っておくような意見で好きじゃない。そしてつまらない。
ここではもう少し理学療法に特化した内容に触れていく。

さて、このことを考えるにあたって次のことについて整理しておこう。
理学療法を語るときによく挙がるテーマ、「知識と技術」。
皆一度は「理学療法士は知識と技術のどちらが大切か?」という議題で話し合ったことがあるのではないだろうか。
おそらく多くの場面で「どちらも大切」などという当たり障りのない意見に落ち着いてしまうことだろうと推測する。
俺はあえてここに噛み付く。

「知識」の方が大切だ。

巷では「結局、技術がないと治すことはできない」とする意見が多い。
おそらく「いくら理屈をこねたところで治す術を持っていないと意味がない」と言いたいのだろう。
ここで言われる、また世間一般的にイメージされている技術とは、「AKA」や「ボバース」、「PNF」といった徒手手技のことだと思う。
また「技術が大切だ」と主張する理学療法士がイメージする技術もそれに近い。
それらがまったく必要ないと言う気はない。
それらをもって本当に「治す」ことができるならやはり持っていたほうがいいのだろう。

ただ、何度も言うようにそれらは現段階では分からない。科学的な根拠が出ていない。という議論が一つ。
さらに、仮にそれらが「治すことのできるもの」だと仮定して、本当にそれは「技術」によってもたらされるのかという議論が一つ。言い換えるなら技術も知識を得ることで多くは可能になるのではないかということ。
こういった点から(特に後者の理由から)俺は少なくとも知識と技術だけを比べた場合、知識の方が圧倒的に必要、重要だと主張する。
「知識なくして技術なし」、技術は知識の後についてくるものだと思っている。

本題に戻り、「どんな知識を持っている理学療法士が凄い理学療法士か」ということを考える。

解剖や生理、運動学といった基礎医学は言うまでもなく必須である。それらを抜け目なく網羅し臨床推論の多くを基礎医学から導き出す理学療法士、凄い理学療法士だと思う。

エビデンスとは何かという科学的方法論について詳しく調べ可能な限りEBM・EBPTを実践する理学療法士、凄い理学療法士だと思う。

様々な凄い理学療法士像があると思うが、そんな中、俺が思う凄い理学療法士は、
「色々な練習方法を知っていて患者さんのレベルに合わせて適切な課題が設定できる理学療法士」である。

回復期病棟に勤務する俺にとって、運動プログラムの設定は必須の知識である。
例えば立位で後方重心の患者さんに対する起立練習や、足関節ストラテジーが乏しい患者さんの立位保持練習などあらゆる状態の患者さんの運動課題の設定を行わなければならない。もちろんベースとして「筋力増強運動」や「起立・着座練習」、「歩行練習」などといった武器は持っているが、そこから患者さんの特徴をつかんだ運動課題の設定となると、これが本当に難しい。
易しすぎても難しすぎても練習にならず、さらに獲得してもらいたい動作に汎化されるようなメニューでなければならない。
そのあたりをしっかりと捉え、丁度いい難易度の課題を設定できる理学療法士、そんなことができる理学療法士は紛れもなく凄い理学療法士である。

冒頭にあった理学療法士の世界大会を主催するなら、基礎医学や論理的思考をチェックするテストに加え、「・・・という状態の患者に対する運動プログラムを考えなさい」といった課題をどこかに盛り込むことだろう。

最後に、以前も書いたが回復期病棟の理学療法は患者さん自身に運動してもらうことが最も大切だと思う。そんな俺だからこそやはり「技術」といわれるものよりこういったところに目が言ってしまうのだろう。
外来リハやクリニックで働いていればまた違った考えになるのかもしれない、と一応逃げ道をつくっておこう。

さてさて、久しぶりのブログ。「凄い理学療法士」について考えてみた。
これまで何度も言ってきた「論理的思考」については理学療法士なら標準装備されていて当然だという思いからあまり取り上げていない。
みなさんも自分の思う凄い理学療法士について考えてみてはどうだろうか。

今回はこの辺で。


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最近は訳あって多忙な日々を送っている。ブログもなかなか更新できていない。
(コメントを送ってくださった皆様、返信が滞ってすみません。
ちゃんと読ませていただいております。共感や励ましのコメントは大変元気をもらいます。いつもありがとうございます。)

さて、今回は「お詫びと訂正」というタイトルで筆を取らせてもらった。

実を言うと俺はいままでずっとウソをついてきた。
いや、「ウソをついてきた」というよりは「最近ウソだということに気付いた」と行った方が正しいだろうか。
ここで真実を発表しこれからはまっとうなPT人生を生きていくこととする。

俺が今までついてきたウソ、それは「理学療法士は嫌いだが、理学療法は好き」ということ。

これまでのブログで「理学療法士も理学療法も嫌いだ」ということを何度か言ってきた(と思う)。
そのほとんどが「理学療法士」の嫌いなところについて書いてはいるが、一部「理学療法」の批判もしてきた。
だが気付いた。おそらく俺は理学療法が好きなのだろう。

理学療法について勉強をするのは苦ではない。
仲間や同僚と飲みに行くとたいてい理学療法の熱い話になる。そしてそんな時間が嫌いじゃない。正直好きだ。
理学療法という職業に誇りを持っているしケチなプライドもある。
理学療法は大変素晴らしい学問であり社会にとって必要な役割を担っていると思う。
理学療法と理学療法士を混同していた。

これまで理学療法を批判され嫌な思いをされた方々に心よりお詫び申し上げます。
大変申し訳ございませんでした。

これからは好きな理学療法と、嫌いな理学療法士について書いていこうと思う。

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前回からの続き。

前回のブログで理学療法は数学のように「数字」を使って「足し引き掛け割り」ができないと書いた。
そして今回はなぜできないのか、その理由を書く流れになっている。

いや、ちょっと待て!なぜできない前提で話を進めているんだ!おまえは何も考えずに理学療法をやっているのか!
前回のブログを見た理学療法士からはそんなお叱りの声が聞こえてきそうだ。
すまなかった。
誤解を解いておこう。

以前にも書いたが俺は理学療法がもっと数学のような理論の組み立てで行える作業であればいいなぁと思っている。
妥当な演繹を繰り返して評価や治療を導きたいと思っている。
なぜその評価を選んだのか、なぜその評価からそう判断したのか、なぜその治療プログラムを選択したのか、そういったことを理論立てて言いたい。

「偉い先生が言っていたからです。」
「勉強会で推奨されました。」
それだけの理由でやりたくないのだ。

世の中の誰からも支持が得られる理屈を組み立てて「評価・治療」を選択したい。そう思っている。

、そうできない現実がある。
また、その考えが受け入れられない
がある。

それがなぜかを今回は考えてみる。


ではさっそく、といきたいところだが…
その前にもう一つだけ、なぜそもそも「数学」と比べたがるのか、というところにも少し触れておこう。

数学と比べてどうなるの?あんたが勝手に数学を選んだんでしょう。勝手に選んで勝手に比べてそれで理学療法はあーだこーだって…そんなの勝手にしてなさい。
なんて手厳しい御意見が聞こえてきそうだ。

まず、俺は「
理学療法」が科学である(あって欲しい)と思っている。
それと同時に世の中の学問の内、最も科学性の高い学問が「数学」だと思っている。

つまり「科学である(ありたい)理学療法」と「科学の最高峰にいる数学」を比べて、理学療法という学問のどこに問題があり、どうすればより科学性を高められるのか、を探るために比べているのだ。
とかなんとか言えばそれなりに聞こえるだろうか。
理解が得られない人には「理想の人に対する憧れ」と下手なミュージシャンが使いそうな言葉で勘弁してもらおう。


さてさて、ようやく本題に入る。
理学療法が数学のようにできない理由。また効率の良い(と俺が思っている)学習方法が身を結ばない理由。


1.素材の不確かさ
数学でいうところの「1」は「1」である。
寒いからといって急に「0.999」になったり、100年に1度だけ突然変異によって「1.01」になったりはしない。
「1」と定められたものはどんな条件においても「1」でありそれは「確か」なことである。
また、「足し算」はどんな状況でも「足す」役割しかしない。気分が良いから「割って」みたり、でしゃばって「掛けて」みたりはしない。
これもまた「確か」なことである。

これを「医学」や「理学療法学」に対比して考えてみるとその「不確かさ」がよくわかる。

例えば「Aという筋力増強運動をすると筋力が向上する」という研究があり、それは高いエビデンスレベルを有しているとする。よし、この研究結果を基に今から患者に筋力増強訓練Aを実施しよう。
こんな場合でも、その研究で用いられた「筋」と今から実施する患者の「筋」は厳密に言うと違ってしまう。

上記の研究結果をもとに演繹的に考えを組み立てていきたいところはやまやまだが、「研究で使われた筋と目の前の患者の筋は違うではないか」という反論が成り立ってしまう。

屁理屈のように聞こえるかもしれないが、どんな状況下においても「1」であり続ける数字とはその「確かさ」が違うということをここでは言いたい。

そしてその現実が科学でありたい理学療法を邪魔してしまっている。

いくら精度の高い研究をして精度の高い結果が得られても数学に比べるとその「確かさ」が数段に劣ってしまう。
研究により「確か」と判明した事象も少し調べるといくらでも反例が出てくる。

ある人の骨がまたある人の骨とまったく同じものでない限り突き詰めていくとどこかでズレが生じる。「骨」レベルでそんなことが生じるのだから、それよりももっと表層の事象や理論はもっともっとズレやすいということは言うまでもない。

「素材の不確かさ」
これが演繹法により理学療法ができない一つの要因である。


2.素材の多さ
さっきから「素材」と呼んでいる曖昧な概念。
何を「素材」と呼ぶのかを定義せずに話をすすめてしまったため釈然としない感が否めない。
ここでは「理論を構築する上で基礎となるもの」と一応定義しておく。
これでもまだ漠然としているが、例えば数学では「自然数」や「足し算」などが「素材」と理解してほしい。

では理学療法の「素材」とは?
筋肉や骨の解剖・生理学、痛みの生理学、正常歩行の知識、筋力増強のメカニズム、廃用症候群のメカニズム、ストレッチの効果…
同じ次元で並列に並べることが難しいが、とにかく多いということが言いたい。

さっきは素材自体の曖昧さが問題だったが、仮にそれらが全て「確か」であったとしても組み合わせる素材の数が多すぎて全てを網羅できない。

数学のように「数字」と「計算法則(足し・引き・掛け・割り)」を覚えればある程度のレベルまで応用できる、とは行かない。

素材を覚えるだけで理学療法人生が終わってしまう、そう言っても過言ではないくらい多い。そのため応用頻度の高い素材を選んで覚えるにとどまってしまう。

前回のブログで書いた「効率の良し悪し」で言うと、こと理学療法においては「素材を使って応用する」というやり方が本当に効率の良いやり方なのかが疑わしくなる。

前回のブログの例で言うなら「14+29=43」、「7×16=112」と
一つ一つ解を覚えてもそう変わらないのではないか、となってしまう。

こりゃ大変だ、基礎ばかり覚えていても仕方ない。このままじゃ臨床で「結局何をすればいいか」までたどり着かないぜ。

そんなことを思ったからかどうかは知らないが、素材を使って応用するという意識が低く、理屈や理論はそっちのけ、はじめから具体的な方法論だけを求める、そのような学習方法が蔓延してしまったのではないだろうか。

先輩の話や研修会の教えに疑問を持たず「こういう反応が出たらこの手技をする」、「ここの痛みはここをマッサージする」と盲目的に信じる理学療法士が多いのもこのあたりに一つ原因がある気がする。

「素材の多さ」
これがもう一つの理由である。


3.理学療法における科学的方法論の偏り(かたより)
演繹と帰納については少し前のブログで書いた。
そして科学的に物事を組み立てていこうと思うと、どちらか一方だけを使用するのではなく両者をうまく組み合わせていかなければならない、と書いた。

が、近年の理学療法は「帰納」が優先される傾向にある。
つまりエビデンス重視である。
これはあくまでも俺が感じる風潮で教科書や学校で学んだことではない。

例えば、Aさんは担当患者をみて、歩行中立脚期の膝のロックという現象から膝伸展筋の筋力低下を疑い筋力を測定。その結果膝伸展筋力に筋力低下を認め、より安定した歩行獲得のために大腿四頭筋の筋力増強運動を実施しよう、と考えた。
次の日、Bさんがその担当患者を代診して膝のロックを観察する。特にそれ以上の評価はせず次の日Aさんに「膝のロックに対しては腹筋を鍛えることが改善に効果があると最近読んだ文献に書いてあったよ。」と声をかける。

すると、どうだろう。どちらが正しいかはさておき、理学療法界ではBさんの意見の方が支持を得やすくなっている。(あくまでも私見だが)
どこか文献には逆らえない風潮がある。(もちろんBさんの言う事が間違っていると言っている訳ではない。)
Aさんの主張が受け入れられるためには「歩行中の膝のロックには大腿四頭筋の筋力増強運動が効果的」とかなんとかいうタイトルの研究結果が必要になる寸法だ。

・「歩行中の立脚初期には膝伸展筋の遠心性収縮で衝撃吸収を行う」…という正常歩行の理論
・「立脚初期に膝伸展筋が働かないと膝折れする方向に力が働く」「膝を伸展させると筋の力を使わず支持が得られる」…という物理法則や生体力学
・「膝関節伸展筋(大腿四頭筋)は起始が下前腸骨棘や大腿骨、停止が脛骨粗面」…という解剖学
・「筋力増強運動は筋力を向上させる」…という古くからある研究結果
これらを基に演繹的に
∴「膝関節伸展筋の筋力増強訓練を実施する」と導き出す推論方法が、「文献に載っていたよ」にあっさり負けてしまう風潮がある。

ここで俺は演繹が良くて帰納が悪いと言いたいわけではない。

先にも言ったがどちらも科学的な方法としてはなくてはならない方法でうまく組み合わせていかなければならない。

それなのに「帰納(枚挙的機能法)」、つまりエビデンスだけを重視しているところが悪いと言っている。

エビデンスが得られた方法しか認められないというのならば、基礎医学の勉強は研究者だけがすればよく、臨床家は「研究結果」という名の解答集だけを読んでいればいいのではないだろうか。(少し言い過ぎか)

多くの確からしい基礎医学を前提に演繹的推論をして人体に応用する、これも立派な理学療法ではないだろうか。

エビデンス以外の演繹的推論をもっと認める勇気を理学療法士諸君は持っていこうではないか。

「理学療法における科学的方法論の偏り」
これがあるから理学療法の学習方法にも偏りが生じる。


うーん、「理学療法のあり方」などと題名に書いたが全然違うことを書いている気がする。
途中から何が言いたかったのか自分でも分からなくなった。
我ながらツッコミどころの多い駄文だ。テーマが難しかったと多めに見て欲しい。
今回はこのへんで。




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昔、ダウンタウンの松本人志さんがラジオ「放送室」でこんなことを言っていた。


元ジャリズムの山下さんに腹が立つという内容の話


(松:松本さん、高:高須さん)


「人が大体なんかやるごとに、人間生きていくとチェック項目多くなっていくやんか、ハイこれチェック、チェック、チェック、チェックね。」

「うん。」

「街でこけたらこういうとこが危ないねんね、チェック。」

「うん。」

「で、だいたい自分なかでチェック項目を100くらい用意してるわけですよ、自分なかでね。」

「はいはい、そやねぇ。」

「あいつ(山下さん)5つくらいしかないやろ。」

「うん。」

「『電気』とかそんなんしかないやろ。」

「そういうことやねん、そういうこと。」

「そのな、甘さが…」

「例えばコーヒーをこぼしました、『お前何してんねん!』って言われたら『コーヒーはこぼしたらあかんねや』って思うねん。でも、紅茶は別やねん。そういう考え方やねん。」

「飲み物こぼしたらあかんって…」

「そういう広い視野では物事を捉えへん。『コーヒーこぼしたら怒られる』…しかも、コーヒーこぼしたら『松本さんは怒んねや』っていう覚え方やねん。」

「うわっ(笑)」

「今田さんはまた別やねん。」



この話をきいたとき、単純に「面白い」と思ったのと同時に「うーん、なるほど」と妙に感心させられたことを覚えている。


この話は山下さんのアホさ加減を誇張して例えているものだと思うが、その一方で頭の悪い人の脳内での思考過程を非常に分かりやすく解説している話だと思う。


大げさに例えているだけで「頭の悪さ」の本質を突いている例えではないだろうか。


負けじと俺は数学で例えてみようと思う。


「14+29= 」という式の解を求めるとき、ほとんどの人は「14」という数字と「29」という数字を使い「足し算」という計算を行う。


同じように、「7×16= 」という式の解を求めるときは「7」という数字と「16」という数字を使い「掛け算」という計算をする。


言いたいことを強調するなら、「14+29」あるいは「7×16」という式の「解を覚えている」訳ではない。


そして覚える人は(ほとんど)いない。


なぜなら効率が悪いからである。


「14+29」あるいは「7×16」の解が生きているなかで頻繁に必要、事あるごとに出てくるというのなら覚えてしかるべきだろう(だから九九は覚えなくてはならない)。


しかし多くの人にとってこれらの式は、ごくたまーに出てくる程度、数ある数式の中の一つにしか過ぎない。他の数式たちを差し置いてわざわざ覚えてあげる義理はない。


さて、これらの例えで言いたいことは

「生きていく上では効率の良い学び方が必要」ということ。


松本さんの話にしろ数学の例えにしろ、ダメな考え方のどこがダメなのかを突き詰めていくと「効率の良し悪し」というところに行き着くのではないだろうか。


仮に山下さんのような考え方でも、最終的な目的が「ダメな行動を覚える」ことにあるならば失敗しながら遂行していくことは可能である。

「コーヒー」も「紅茶」も、「松本さん」にも「今田さん」にも同じ失敗を繰り返し、その度に毎回インプットして覚えていけばいい。

数学の例でも一つ一つの数式の解を覚える方が楽だというのならあえて俺が口を挟む問題ではない。


しかし、現実世界ではひとつのことから多くのことを効率良く学ばないと愛想をつかされてしまう。

「コーヒー」と「紅茶」、いくら飲み物が違っても世の中の人々は「初めて」とは認めてくれないのである。「コーヒーを松本さんにこぼして怒られた経験」から「飲み物を人にこぼすと怒られる」とインプットしなければならない。

自然数や足し算、掛け算といった材料を用いて効率よく考えることが要求される。


さて、そろそろ理学療法の話をしよう。


理学療法でも同じように効率の良い勉強方法があるはずだ。そう思って俺は今日まで勉強をしてきた。

数式の答えを一つ一つ覚えるのではなく、足し算や引き算といった「公理」・「定理」を先に学習し「数字」を用いて応用することで幅広く物事を考えられるのではないか、意識的にせよ無意識的にせよそれが理学療法の正しい勉強の仕方だと思ってやってきた。

つまり解剖学・生理学・運動学というような「数字」と、筋力増強運動・運動学習理論などの「足し算」や「引き算」を組み合わせて考える方が効率が良いのではないか、そう思ってやってきた。

しかしどうだろう。

どうも雲行きが怪しい。思っていたのとは一つも二つも様子が違う。
俺の勉強方法は間違っていたのではないか、効率なんて求める愚かな考えにバチが当たったのではないか。
そんな気分にさせられる毎日だ。

人は言う。
「もっと柔軟に考えていくことが必要だよ。」

「柔軟に考える」―――うむ、良い言葉だ。
「ちょっとバタバタしてまして」くらい使いやすい言葉だ。

おそらく俺は頭が固いのだろう。

物事が柔軟に考えられていないのだろう。

だから理学療法には向いていないのだろう…か。


ではなぜ、理学療法は数学のように「数字」と「足し算・引き算」を掛け合わせて評価や治療を組み立てていけないのだろうか。

今回はそのあたりを少し考えてみる。

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さてさて、理学療法とエビデンス。


コメントのやり取りで本来と違う流れになってしまったが最後までやりきろう。


エビデンスとはどういったものかということについて、PTさんとのコメントのやり取りで少し理解が深まった。それでもまだわからないことが多い。

「まとめ」と題したが、ここからは俺の考え、俺が考えるエビデンスの正しい活用方法について述べる。


まず、エビデンスの話に入る前にコメントでも少しあった「演繹(えんえき)」と「帰納(きのう)」というものについて説明しておく。


演繹とは「一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る推論方法」のこと。

言葉だけ聞くとなんのこっちゃ?となりそうなので例を挙げる。

(例)

①「人間はいつか死ぬ」

②「太郎は人間だ」

この二つの条件があった場合に

∴「太郎はいつか死ぬ」

と結論付ける。

このような推論の仕方を演繹法という。

当たり前と言えば当たり前のことだが、科学における大事な推論方法であるということを理解して欲しい。


次に帰納。帰納とは「個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則・法則を見出そうとする推論方法」のこと。

①「太郎は死んだ」

②「花子は死んだ」

③「次郎は死んだ」

・・・

∴「人間はいつか死ぬ」

と結論付ける。

このような推論の仕方を帰納(この例は枚挙的帰納法)という。


演繹は「前提が『真』であるならば結論も必ず『真』となる」という性質(これを心理保存性という)があるが、帰納は「前提が『真』であっても結論が『真』とならない場合がある」、という性質がある。


これらはどちらも科学的な方法としてなくてはならないもので、どちらか一方だけを使って推論するのではなく両方をうまく組み合わせて使っていかなければならない。


と、ここでは簡単な説明で終わる。詳しくは「科学哲学」という分野を勉強していただきたい。



さてさて、コメントにもあったが医学における「エビデンス」は帰納法によってつくられる。


つまり、

→脳卒中患者をたくさん集めて

→「A」という治療をした

→他の治療をした群より「A」を実施した群の方が有意に改善を示した

→「A」は脳卒中患者に効果がある治療法だ

・・・という過程をたどる。

その結果「A」は「エビデンスがある」「エビデンスレベルが高い」という評価を得ることになる。

大まかに言うとそういうことだ。



では、この「エビデンスが得られたものたち」をどう利用するのか?そこが今回俺の最も言いたいポイントなのである。




俺はこう思っている。

「理学療法を演繹法に則って行いたい」


むむ、少し言葉がぼんやりしている・・・

こう言い換えよう。

「全ての治療プログラムを演繹法による推論により導き出したい」


エビデンスの話はどこへいったのやら、あっちこっちに話が飛んでしまうが最終的にはエビデンスにつなげるつもりなので根気よく読んでいただければ幸いである。


演繹には「妥当な演繹」と「非妥当な演繹」がある。


よく理学療法士の会話の中で以下のような推論が行われる。

①「股関節外転筋力が低下していると片脚立位はとれない」

②「Aさんは片脚立位がとれない」

∴「Aさんは股関節外転筋力が低下している」

さて、この推論は正しい(妥当な演繹)だろうか。


この推論は、

①「背が低いと男はモテない」

②「太郎はモテない」

∴「太郎は背が低い」

と論理的に同じ構造をしている。

つまり妥当な演繹ではない(これを「非妥当な演繹」という)。

太郎はモテないだけで背が低いかどうかはこの条件からはどちらも言えないからだ。

同じようにAさんは片脚立位がとれないだけで股関節外転筋力が低下しているかどうかは分からないのである。



次に妥当な演繹の例を挙げる。

①「人は運動をしないと廃用症候群に陥る」

②「Aさんは寝たきりでまったく運動をしていない」

∴「このままではAさんは廃用症候群に陥るだろう」

これは妥当な演繹の例であると言える。


①「宝くじは買わないと当たらない」

②「太郎は宝くじを買っていない」

∴「太郎は宝くじに当たらない」

と同じ論理構造である。


ここで注意して欲しいのがあくまでも「演繹が妥当かどうか」であり「前提が真かどうか」は今は関係ないということ。

前提が真でないことと演繹が妥当かどうか(論理的に正しいかどうか)はまた別の話である。



何が言いたいのかと言うと、

「理学療法士は頭の中で常に妥当な演繹をしていなければならない」

…うーむ、本当はこう言いたいところだが突き詰めると部が悪くなるので次のように言い換えておく。


「理学療法士は妥当な演繹と妥当でない演繹の区別をつけられなければならない」


もっと分かりやすく言い換えるなら

「理学療法士は論理的に正しいということがどういう事なのかを知っていなければならない」

と、こうなる。

つまりは先ほどのような非妥当な演繹(股関節外転筋力と片脚立位)について、穴があると見抜ける能力が必要だ。

物事を考える、さらに説明するときには最低限論理的であることが求められる。理学療法士はこの能力が絶望的に低い。

だから嫌いだ…と久しぶりに俺のブログらしくなってきた。どこかでお帰りなさいと聞こえた気がする。気のせいだ。続けよう。



さてさて、妥当な演繹と非妥当な演繹について説明した。

それでは妥当な演繹のみを用いて治療プログラムの立案をしたい俺にとって何が問題になってくるのだろうか。

「そうしたいなら勝手にすればいいじゃないか」、そんな心無いヤジが聞こえてきそうだ。

そう簡単に言わないでくれ。現実とは厳しいもの。したいと思ったことがすぐに実現する世の中ではない。そんな夢のような世界なら今頃俺はこんなブログのために眠たい目をこすってカタカタと指を動かしていないはずだ。



先にも触れたが妥当な演繹は、前提が真ならば結論も真になる「心理保存性」という性質がある。


そして我々理学療法士、ならびに科学の名の基に職業をまっとうする全ての者にとって永遠のテーマ、誰もが辿り着こうとする絶対的な目的地とは「結論が真になること」である。


痛みのメカニズムが、筋力増強の仮説が、治療の効果が「正しい」ことである。


そのためには前提が真である条件を用いて妥当な演繹を繰り返していかなければならない。

となれば、前提が真とはどういう事かという話になる。

そこで出てくるのがまさしく「エビデンス」。


そう、「エビデンス」とは前提を真に近づける役割を担う。


そもそもある事柄が「正しい」か「正しくないか」という判断は突き詰めていけば誰にもつけられない。

「人間は死ぬ」という命題も「もしかすると死なない人間がいるかもしれない、あるいはこの先生まれてくるかもしれない」という反論を完全に否定することはできない。



それでは困る。

何が正しくて何が正しくないかはっきりしないそんな世界では、中国人は自転車に乗らなくなり、インド人はカレーを食べなくなる。イタリア人はカッコをつけなくなり、反町隆史は「ポイズン。」と叫ばなくなる。いかんいかん、それはまずい。


そこで人間は正しいか正しくないかを「帰納」という方法を用いて判断することにした。


その延長にあるのが「エビデンス」というものなのである。


つまり「完璧に正しいことを主張」することはできないかもしれないが、帰納によって真に近づけられた事柄を妥当な演繹によって論理的に組み立てることで、「限りなく正解に近い主張」はできるという寸法である。


理学療法における思考も言うまでもなくこれを基に行われるべきである。


今のところ「エビデンス」という言葉は臨床研究、つまり治療法に限定された使い方をされる(らしい)。


治療プログラムを立案する最後の推論「ゆえに~(例えば筋力増強訓練)を実施すべきである」で主に登場する。


ただ、それまでに出てきた多くの条件も統計的証明により導き出された前提であり大きく変わりはない(と思っている)。


筋力が低下するという前提も、筋力が低下していると歩けないという前提も、もっというならば力学という物理法則も、突き詰めれば全て帰納法によって証明されてきている。


エビデンスを真新しく捉えると何か大層なもののように思えるが、「統計的に正しいと証明されたもの」と簡単に考えると、これまで扱ってきた解剖学や生理学の知識と大きく変わりはない。

それら全てを持って演繹的に組み立てていけばより科学的な理学療法が行えるのではないかと思う今日この頃なのである。


・人は運動しないと筋力低下をきたす

・MMTという評価法は人間の筋力を適切に評価できる方法である

・MMT3未満の股関節外転筋力では歩行が不可能である

・「歩行-筋力評価」という評価法を用いれば歩行不能の原因を筋力とそれ以外の要素に分けることができる

・筋力増強訓練は筋力を向上させることができる

・「筋力強化法A」という筋力増強訓練はMMT3未満の筋力をMMT3以上に上げることができる


こういった条件から妥当な演繹を行い治療プログラムとして「筋力強化法A」を選択する、そんなことができたらどれだけいいだろう、と俺はいつも夢を見ている。


そんな俺の夢のために日々エビデンスは作られている…。


「結果を真に近づけるための前提作り」これが俺のエビデンスの捉え方である。



最後に…

気づいた方もいるかもしれないが、今回俺が言いたかったことは「エビデンスの捉え方・活用方法」であるとともに、結局いくら質の高いエビデンスを作ったからといって論理的なものの考えができなければ結果を真に近づけることはできない、ということ。


「前提・条件が誤り」であるときと「論理が誤り」であるとき、どちらも結果は真とならない可能性が高い。


勉強をして知識を得る。これはあくまでも演繹の前提を真に近づける作業である。

それらを臨床で活躍させるためには、妥当な演繹をもって論理的に組み立てていく必要がある。


理学療法士諸君は、忙しいなか勉強して知識を詰め込むことも大事だが、たまにはゆっくりじっくりとそのあたりを考えてみてはいかがだろうか。







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