日本の古代探索

古事記・日本書紀・万葉集の文や詩を通して我々の先祖の生きざまを探ってゆきたいと思います。


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今年の夏は暑くて少しばて気味です。

柿本人麿の詩もまだまだあって面白いのですが、ここらで気分を変えて、巻3の詩をご紹介いたします。

この二つの詩は天皇と御付きの姥とのやり取りです。

近頃の車のテレビコマーシャルに似たような設定がありましたので取り上げてみました。

 

. .天皇賜志斐嫗(おうな・老女)御歌一首

二百三十六、否(いな)と言ふ(言へど) 強(し)ふる志斐(しひ)の我 強ひ語り 

此(こ)は聞かざりて 朕(われ)戀(こひ)にけり

 

訳:駄目だというけど (絶対だめだと)言い張る志斐嫗の気持ちも 

駄目だという言い分も これは聞きませんよ 私は恋してしまったのです

 

**「しふる」は「強ふ・無理押しにする、の連体形」。「が」は「自分の意思」。「しひかたり」は「相手が聞きたがらないことを強引に語ること」。「こはきかざりて」の(きかざり)は「聞かざり・否定の助動詞(ず)の連用形」で「聞きません」。「にけり」は完了の助動詞(ぬ)の連用形+過去の助動詞(けり)。

 

志斐嫗が答えて奉った歌一首

二百三十七、否(いな)言へど 語(かた)れ語れと 申せこそ 志斐言はましか 

強(し)ひ語りと云(ふ)

 

訳:駄目ですとは言いましたけれど 言え言えと おっしゃられるからこそ 

志斐は申しましたのに (其れを)強語(しひかたり)とおっしゃるのですね

 

**「奏」は「まうし・連用形」=「申し(まし)」→助動詞「まし」で「こそ」を受けてその已然形「ましか」と読む。

助動詞(まし・事実に反する過程に基づく推量を表す)は未然形に接続で「言は(未然形)ましか」、で「申しましたのに」。

 

この天皇を持統帝とする向きもあるようですが、このやり取りは男性の天皇のようです。

私は、このやり取りにふさわしい天皇は文武帝だと思うのですが。あるいは天武帝でしょうか。

 

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この詩は間違いなく人麿の詩です。やや難解なところもありますが194番の迫瀬部皇女を詠った詩を見事にトレースしています。

明日香皇女の木缻(きのへ)の殯の宮の時に柿本朝臣人麿が作った歌一首と短歌

 

百九十六、飛ぶ鳥の 明日香の河し 上つ瀬に 石橋渡る(一に云う岩走る) 下つ瀬に 打ち橋渡る 生ひて靡ける 玉藻もぞ 絶へては生ふる 打ちつ橋 幾日(いくか)為される 川藻もぞ 枯れては生(は)ゆる 何しかも 我が大君の 立たせるは 玉藻しもころ 臥(こや)せるは 川藻し如く 靡相(なびかひ)し 宜しき君し 朝宮か 忘れ給ふや 夕宮か 背き給ふや うつそみと 念(おもほえ)し時 春の辺は 花折り挿頭(かざ)す 秋立てば 黄葉(もみぢば)かざす 頻(し)き堪(た)へし 袖携へて 鏡なす 見れど厭(いと)はぬ 望月(もちづき・十五夜の月)し いや珍しみ 念(おもほ)えし 君と時々 出(いで)まして 遊び給へし 御食(みけ)向かふ 木缻(きのへ)し宮か 常宮(とこみや)と 定め給ひて あぢさはひ めこともたえぬ しかりかも(一に云うソコヲシモ) あやに哀れみ 鵺鳥し 片思ひ嬬(一に云うナガラ) 朝の鳥(一に云う朝霧) 通(かよ)はす君し 夏草の 想ひし萎へて 夕(ゆふ)星(づつ)し 彼(か)往き此(ここ)去る 大船の たゆたひ見れば 気も晴れる 心もあらぬ それゆえに すべしらましや 音(おと)のみも 名のみも絶えぬ 天地(あめつち)し いや遠長(とほなが)く 思いひ往く 御名(みな)に掛かせる 明日香川 いついつまでも はしきやし 我が大君の 形見かここは

 

訳:飛鳥の 明日香の宮で 昔 断たれた男女の仲を 此の時(になって) 仮橋をかけていたのですね (宮殿で)生き生きとしていらした 貴女は 仲を割かれても生きて来られました 心の想いが いつか成就するかもしれない 川藻だって 枯れてもまた生えてきます どういうわけか 私の貴女様は お元気な時は 玉の様にお美しく 亡くなられると 川藻の様です。お互い惹かれあった 素敵なお方でしたよね 朝のお仕えをお忘れになったのですか(そんなことはないですよね) 夕べのお仕えを御断りになったのですか(そんなこともないですよね)この世にいる人だと 思ってしまう時 春の野は花のかんざしで飾られ 秋になるともみじばで飾られます ずっと我慢してこられた (あの方と)袖を携えて 鏡のように丸い いくら見ても逃げない 満月を いつまでもずっと見ていたいと深く思ったのですね。 そうしたくなった時は あのお方と時々 お出かけになって お遊びなさいましたね。 ご一緒に食事をした 木缻の宮を これからずっとおられる宮となさいましたのに なんて云う事でしょう 逢ってお話しすることもできないなんて しようがないですね(残念ですね) むしょうに感動して 鵼鳥になって 片思いの妻のように(勝手に思いながら) 朝どりが鳴くまで(朝霧が立つまで) 通わされてしまう貴女でした (昼は)夏草のように 考え込んで萎れてしまい 夕べの星のようにまたやって来る 大船のように ゆったりと想えば 気も晴れるのでしょうが 望みもかなわない そんな気持ちで どうして良いのかわかりません 声すらも 名前すらも聞かなくなってしまいました。 この世が続く限り (皆が)偲んで行くことでしょう 貴女の名を重ねた 明日香川は いつまでもいつまでも なつかしい 私の貴女様の ここは形見の地です 

**百九十四の泊瀬部皇女の詩とされるものに重ねた詩の様です。明日香皇女との関連が気にかかります。「上瀬・下瀬」これも百九十四と同じく「昔と今」か。「石橋渡」の「石橋・いはばし」は「男女の仲が途中で絶える喩え」とある。後の「打橋・仮の橋」は亡くなった後の今になって、つながりを求めていることを表しているのか。又その後の打橋(うちつ「心の中の」はし「愛し」は「心の底での慕わしい気持ち」を表しているようです。「生乎為禮流」は「いくか(幾日・いつの日か)なされる(成就するかもしれない)」。「しきたへし」は「頻(し)き堪へし」で「堪えつづけた」、「し」は過去の助動詞「き」の連体形。「鏡成・かがみなす」は十五夜月の丸さの形容か。「みれどいとはぬ」は「見ても逃げない」。「めづらしみ」は「めづらし」の語幹+「染む」で、「何時までもずっと見ていたいと深く思う」。「君」は「あのお方」。朝宮は朝の宮仕え。「や」は反語の意味か。「あぢさはふ」は「旨く行くのが邪魔される」意で「まずいことに」。「めこともたえぬ」は「会って直接話をすることもできなくなった」。「あやにあはれみ」は「むしょうにしみじみと感動して」。

布は敷に通ず、とある「はしきやし」はなつかしい。

 

**この詩は百九十四の泊瀬部皇女を詠ったとされる詩の情景を、下敷きにして詠んでいるように思えます。

明日香皇女は天智の娘と云う事ですが(書紀)、(あすか)で生まれたとすれば、どちらかと言えば、天武の娘にふさわしい名です。又、淨広肆迄位を上げて亡くなっていることも気になります。天智の娘の飛鳥皇女については、同母妹の新田部皇女が天武の妃になっていると書紀にはあります。しかし、この詩から、ここで言う明日香皇女は天武の娘の泊瀬部皇女と同一人物のような気がいたします。

尚、泊瀬部皇女に関する記述は少なく、天武紀で天武と宍人臣大麻呂の娘との間の二男二女の長男が忍壁皇子で三番目の長女が泊瀬部皇女とされています。川嶋皇子の妻であったらしいとの認識は、万葉集のこれらの詩によるものと思われます。

194196の詩が同一の女性に対する詩の印象が強いことから、泊瀬部皇女は明日香皇女と同一人ではないかと推量されるのです。

 

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前回申しましたが、171番からの23首の詩は、如何にも草壁の皇子を偲んだ詩のように記述されていますが、これらは恐らく「蘇我馬子」を偲んでいる詩のように思えます。

 

それはさておき、今回は

柿本朝臣人麿が泊瀬部皇女・忍坂部皇子に献上した詩一首並びに短歌です。

此の忍坂部皇子と泊瀬部皇女はともに天武帝の子で同母の兄妹です。

この時代、大津皇子と持統帝との葛藤があり、天武系の大津皇子は謀反の嫌疑をかけられ殺されました。この大津の謀反を密告したと言われているのが、泊瀬部皇女の夫と言われている天智系の川嶋皇子です。迫瀬部皇女の兄の忍坂部皇子は川嶋皇子らと共に「帝紀」などの編纂をした間柄であると言われています。この詩は、大津密告事件の後、天智系の川嶋皇子と天武系の忍坂部皇子との間に確執があったことをうかがわせるような内容です。その狭間で揺れる泊瀬部皇女の心の思いを人麿が詩にして本人に献上したのでしょうか。

 

百九十四、飛ぶ鳥の 明日香の河し 上つ瀬に 生(お)ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ降り經(ふ)る 玉藻なす 彼(か)より此(かく)より 靡(なび)かひし 夫(つま)の命の たたなづく 柔肌戀ふを 蔓木断ち 身に副(そ)ひ寝(い)ねば ぬばたまの 夜(や)床も在らむ(一に云う離(か)れなむ) 虚しくて 慰めかねて けだしくも 逢ひやと思(も)ひて(一に云う君も逢うひやと) 玉垂れの 越(をち)の大野し 朝露に 玉藻は泥(ひづ)ち 夕霧に 衣は濡れて 草枕 旅寝(たびね)鴨する 逢へぬ君ゆえ

訳:隆盛の 明日香浄御原の宮で 昔 生まれました女の子は 今 時も立って

  女性となり いろいろありましたが お互いに惹かれあった 夫との 重ね合った

  柔肌を慕っていましたのに 引き離されてしまいました

御一緒できませんでしたので きっとさびしく独りで寝ていらしたのでしょう

(お互い離れて寝ていました) おそばにいませんでしたので お慰めすることもかないませんでした もしかするとお会いできるかと思って(貴方も来合わせるかと)

(貴方が)お眠りになっている 越智の大野で 朝露にまみれて 女(皇女)は

泥に汚れ 夕霧に衣を濡らして 草を枕に 旅をしている鴨のように浮き寝をしてい

るのです 逢うことができない貴方ですから

**明日香乃河之は明日香浄御原宮を指していると思われます。

上瀬と下瀬の対比は、川の上流と下流と云う意味から、「昔と今」を表していると解釈しました。玉藻は「女性」。「流れ降りふる」は「時がたって」の意味。「ふる」は「経(へ)」の連体形。尚の意味は「慕う」。この後ろの「を」は接続助詞(~だけれども)。劒刀は「蔓木断ち」で木にまつわり付いている蔓を断ち切って取り払う意味が込められていると思います。何かの原因で「引き離された」ことを表現しています。夜床は「ヌバタマノ夜床モアラム」とあることから、暗いさびしい夜の寝所と云う意味で、「独り寝」を意味しているようです。又「夜床離(カ)レナム」の方は、「お互い離れて寝ている」と云う意味でしょう。「なむ」は余情を表す係助詞。「所虚故」は「自分が居ない所だから」と云う意味で、「ムナシクテ」と読みました。「相屋常念而」は「や」を疑問の終助詞とみて、「会ひやと思ひて」。「キミモアヒヤト」は「貴方も来合わせるかなと」。「玉垂」は「精霊」を「落とす」と云う意味から「葬送の地」を表しています。

「旅宿鴨スル」は「鴛鴦(おしどり)のように二人仲よくいるわけではないので、渡り鳥の鴨のように寂しく浮き寝(心の落ち着かない眠り)をしています」。

 

反歌一首

百九十五、しき耐への 袖返(かへ)し君 玉垂れし 越野(をちの)に往くも えも逢はめやも(一に云う越野(をちの)に往けど)

 

訳:じっと我慢して 夢で逢っていた恋人の 葬送の地の 越智の野に何度行っても

  会えるわけはないのですね(一云う)は越智野を何度訪ね歩いて見ても。

 

**敷妙乃は枕詞とされていますが、かかる相手が多すぎます。従来、詩の意味には関係なく、敷布団又は、寝床に敷いて寝る布とされていますが、違うと思われます。

「しき」は接頭語で「絶え間ない・しきりに」と云う意味です。又「たへ」は「じっとこらえる・ささえとめる」と云う意味ですから、「しきたへ の」は「じっとこらえている状態」を指す形容句ではないでしょうか。「袖返す」は「袖を裏返しにして、内側を外に出して寝ると、恋しい人が夢の中に現れると信じられていた」ことを表しています。

ですから「しきたへの 袖返し君」は「じっと我慢して、夢の中での逢瀬を楽しんでいた恋人」の意味でしょう。「過去」は「過」が「よぎる・いたる・訪れる・すぎる」と云う意味で、「去」は「さる・ゆく」などの動詞の他に、助辞として動詞の後の文末に置かれ「動作の継続や趨勢を表す」とあります。ですから「過去」は「何度訪れても」と云う意味でしょう。(一云う)の「過奴」は「往けど」(訪れてもの意)。

「亦」の音は「エキ・漢音、ヤク・呉音」ですから、「亦毛」は「えも・(連語で、どうも~できない)」。アハメヤモは「逢は」(逢うの未然形)「めや」(助動詞ムの已然形+終助詞ヤ)で反語「も」は感動を表す終助詞(~よ・~だなあ)

 

原注:右は或る本によると河島皇子を越智野に葬った時、泊瀬部皇女に献じた歌とあります。日本紀では朱鳥五年辛卯(かのとう)の年の秋九月己巳(つちのとみ)朔丁丑(ひのとうし・九日)に淨大参の皇子の河島がみまかったとあります。

**この194番の詩は泊瀬部皇女が詠って忍壁皇子に献じた詩のような気がいたします。195番の反歌は柿本人麿の詩のようにも思えます。

 

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