生活保護の不正受給問題でよく言われるのが、「不正受給される人がいるから、ほんとうに必要な人のところにはまわらない」という主張です。これは、不正受給率が約0.4%であることをわかったうえでの主張であることは当たり前であるとして、「たとえ0.4%であっても、不正受給者がいる以上は同じことだ」との主張もまた、成り立ちます。つまりは、不正受給によってたくさんお金を使うから必要なところに回すお金がないというお金の問題ではなく、悪いことをする人がいるからその制度を使うことができないという公平性の問題になっていると言えます。

公のお金を使うからには、厳密な公平性を求められているのは明らかです。公のお金で一部の人が私腹を肥やすとするならば、それは糾弾されてしかるべきですし、その制度自体に疑問を投げかけるのも当然です。場合によっては、やめてしまうのも選択肢の一つです。生活保護も、公のお金を使う以上厳密な公平性を求められるのは当然です。制度の厳格な運用が求められます。

ここで確認しておかなければならないのは、生活保護はなんのためにある制度かです。これは、憲法に基づく生存権を保障するためにある制度であることは自明です。生存権は、基本的人権の根幹ですから(そもそも生きていなければあらゆる人権は意味がありません)、なによりも優先して保障されるべきです。

すると、公平性が損なわれる不正受給という行為があるから、その制度を使えないものにしてしまえというのは、憲法が保障する生存権と、その公平性を天秤にかけて、公平性のほうが重いということになります。

これはおかしいですね。なによりも優先されるべき生存権よりも公平性という社会の都合が優先されるとしたら、人の生存が前提の社会(だって死人の社会なんて、誰も想定していないはずです)が成り立ちません。社会が成り立たないのに、社会の都合を優先するのはムリがあります。つまり、公平性が担保されないからといってその制度自体をやめてしまうのは、その制度を成り立たせる根拠すらも否定するという、なんとも愚かな矛盾に陥ってしまうのです。

公平性よりも優先すべき制度はあるのです。今、個人よりも社会が優先される流れが強いようです。憲法改正も、社会の都合を優先させることに主眼を置いているといえましょう。ここで立ち止まって、もう一度個人を、人を大切にするとはどういうことか、それは社会の都合とどう折り合わせるのか、考える必要があるのではないでしょうか。

付記:個人があって社会があるのか、社会があって個人があるのかの議論になるのは、承知の上です。僕は、これは卵が先か鶏が先かと同じ議論だと考えています。つまり、どちらでもよい、です。詳しい考察は、後日あらためます。

不正受給率についてはこちら。日弁連のホームページですから、一応信頼できるかと思います。
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/booklet/data/seikatuhogo_qa.pdf
これは不正受給が明らかになった件数比であり、明らかになっていない件数は入っていないことは承知しています。ただ、議論を正確にするためには、明らかになっている数字のみ使うしか方法がないため、つまりいわゆる「暗数」は使えないため、これを貼り付けます。

http://www.nichibenren.or.jp/activity/criminal/icc/complicity.html

共謀罪とは、実際法を犯さなくても、犯す相談をした段階で罰を与えられる罰のことです。

そもそもなぜ罰があるかというと、その行為の「善悪」ではなく、その「行為」をすると社会がうまく回らないから。純粋に社会をうまく回すためだけのため。だから、罰という最高の人権侵害が許されると同時に、罰を決めるのはそれが社会にどれだけ影響があるかで決めるべきなんです。

考えただけ、相談しただけではなんら社会に影響はありません。もちろんその行為がおこれば社会に影響はあります。しかし、「おこなわれない」可能性もあります。「おこなわれない」場合は社会に影響はありません。罰を与える根拠がありません。

相談することは、自分の考えを他人と共有することです。自分の考えを持つことは、それを自分だけにとどめておくだけでなく、他人に表明することも含まれます。憲法の「思想信条の自由」「表現の自由」は、民主主義の国家にあって自分の考えを持つことが基本であるために書かれています。共謀罪がこれら2つの自由を犯すものであることは明白です。恐ろしい人権侵害です。

罰は人権を著しく侵害します。罰の根拠がない可能性があることは罰するべきではありません。

今までの法律では、国家の機密を守る手段は国家公務員法だけでした。これからは特定秘密保護法が担います。さて、今回は「誰が」秘密を秘密とするのかについて考えます。

国家公務員法では、秘密を秘密とするのは、実は裁判所だったのです。こちらをご覧ください。
http://www.hou-nattoku.com/mame/yougo/yougo267.php
つまり、行政は「これは秘密ですよ」と公務員には言えますが、実際秘密にしていいかどうかは裁判所が決めます。行政の言うことを司法がチェックできる体制だったのですね。

ところが、特定秘密保護法では、行政の秘密を行政が決めることができるようになりました。その仕組みはこちら。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-12-11/2013121101_04_1.html
ということは、行政が秘密にしたことをチェックできるところがなくなってしまったということです。

三権分立とは、政治権力を3つに分けてお互いをチェックしあう体制です。チェック体制があるから暴走させずにすむんです。これでは行政の暴走を許してしまう危険を認めることになります。

特定秘密保護法が成立しました。この法案について様々な発言がありますが、この法案の根本的な問題点を考えました。

まず、この法律では、国家機密にアクセスした・しようとした「国民」に罰則を与えることにした。これが問題の根本にあると考えます。以前から、機密を漏らした公務員に対しての処罰規定はありました。その規則で処分された公務員もいますね。今回は、それに加えて国民にも罰則規定を設けています。つまり、国民には、機密にアクセスするなしようとするな、ということです。国民は、政府が知ってもいいといったものしか知ることができなくなったということです。

さて。物事を判断するにはネタが必要で、そのネタが恣意的な与えられたかたをしたら、判断がコントロールされることは明白ですね。こうとしか考えられないネタを与えられたら、こうとしか考えられません。一方、民主主義は、「自分たちのことは自分たちで考えて決める」システムです。で、自分たちで決めるためには、決めるためのネタが必要ですね。そのネタは正確で信用でき自分たちが取捨選択できるものでなければなりません。この法律によると、政府が提供するものしかネタにできないということになります。つまり、政府の考えてほしいようにしか国民は考えることができなくなる、ということです。

そうすると、国民は自分の頭で考えているように見えて実は、導き出される結果が決まっている考えにしかたどり着かない考えを巡らすことになります。これでは、自分の頭で考えたことになりません。他人が考えたことを反芻するだけです。つまり「自分たちのことは自分たちで考えて決める」システムの、基盤を壊す事態になりますね。

最近よく「知る権利」という言葉が出てきます。この「知る権利」は、さきにみたように民主主義の根幹をなすだいじな権利です。この権利を大幅に侵害するこの法律。今一度言いたいです。

「ほんとにこれでいいの?」

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/131007/trl13100713160002-n1.htm

在特会に対する判決が出ましたね。侮辱罪を認める判決でした。僕
のこころは、実は悲喜交々なんです。

侮辱による政治活動は犯罪になる、判例を作ってしまいました。この、侮辱というのが、あいまいな概念でして、
http://naiyoshomei.k-solution.info/2008/11/post_79.html
引用します。「現実に人の社会的評価が害されたことまでは要しません。」...

これは何を意味するか。その人の社会的評価が害されたと裁判所が認めた場合は、刑罰になるということです。これ、こわいですね。裁判所は、いわばモノを言わさない権力を持っています。すごい権力者が、刑罰であるかどうかの線引きをすることができる。

だから、政治活動を名乗って侮辱罪を発動させ先例を作ったら、今後政治活動で誰かを攻撃し、攻撃された方が同じ構図に持ち込んだら、これ、犯罪になるんですよ。政治活動に足かせがかかります。

ですから、手放しで喜べないんです。秘密保全法案が通ろうとしている今、自分たちの権利を擁護するべく国民による政治活動が必要な時に、いらんことしてくれたと。しばき隊ですか?の人たち。返す刀で自分がやられるとは、こういういことです。

政治活動は、民主主義を維持するのに基本的な権利です。国民が自ら、この基本的人権を制限させる方向に走るという愚かな行為。在特会がそこまでわかって、ほかの政治活動を制限するための捨石になったと考えるのは、考えすぎでしょうか。

なお、判決文はここで読めます。全文かどうかはわかりません。
http://d.hatena.ne.jp/arama000/20110514/1305386990