公のお金を使うからには、厳密な公平性を求められているのは明らかです。公のお金で一部の人が私腹を肥やすとするならば、それは糾弾されてしかるべきですし、その制度自体に疑問を投げかけるのも当然です。場合によっては、やめてしまうのも選択肢の一つです。生活保護も、公のお金を使う以上厳密な公平性を求められるのは当然です。制度の厳格な運用が求められます。
ここで確認しておかなければならないのは、生活保護はなんのためにある制度かです。これは、憲法に基づく生存権を保障するためにある制度であることは自明です。生存権は、基本的人権の根幹ですから(そもそも生きていなければあらゆる人権は意味がありません)、なによりも優先して保障されるべきです。
すると、公平性が損なわれる不正受給という行為があるから、その制度を使えないものにしてしまえというのは、憲法が保障する生存権と、その公平性を天秤にかけて、公平性のほうが重いということになります。
これはおかしいですね。なによりも優先されるべき生存権よりも公平性という社会の都合が優先されるとしたら、人の生存が前提の社会(だって死人の社会なんて、誰も想定していないはずです)が成り立ちません。社会が成り立たないのに、社会の都合を優先するのはムリがあります。つまり、公平性が担保されないからといってその制度自体をやめてしまうのは、その制度を成り立たせる根拠すらも否定するという、なんとも愚かな矛盾に陥ってしまうのです。
公平性よりも優先すべき制度はあるのです。今、個人よりも社会が優先される流れが強いようです。憲法改正も、社会の都合を優先させることに主眼を置いているといえましょう。ここで立ち止まって、もう一度個人を、人を大切にするとはどういうことか、それは社会の都合とどう折り合わせるのか、考える必要があるのではないでしょうか。
付記:個人があって社会があるのか、社会があって個人があるのかの議論になるのは、承知の上です。僕は、これは卵が先か鶏が先かと同じ議論だと考えています。つまり、どちらでもよい、です。詳しい考察は、後日あらためます。
不正受給率についてはこちら。日弁連のホームページですから、一応信頼できるかと思います。
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/booklet/data/seikatuhogo_qa.pdf
これは不正受給が明らかになった件数比であり、明らかになっていない件数は入っていないことは承知しています。ただ、議論を正確にするためには、明らかになっている数字のみ使うしか方法がないため、つまりいわゆる「暗数」は使えないため、これを貼り付けます。