今回は、「保守」をテーマにした2回シリーズの第2回目です。
引き続き、佐伯啓思の『「保守」が「戦後」を超克するすべはあるのか』の内容を紹介していきます。
戦後日本では、保守・革新の対立が政治的・思想的空間を構成し、アメリカ的な自由・民主主義・市場経済の側につくのが「保守」とみなされました。
今日もっとも「進歩主義的国家」といえばアメリカです。グローバリズムと称し、世界全体を覆いつつあります。「保守の精神」からすれば、もっとも警戒すべきはアメリカ流の「進歩主義」ということになります。
ところが、アメリカの建国精神(「自由」「平等」「民主主義」「富の獲得」を追求する権利が万人に与えられている)に「復帰」することが、アメリカにおいては「保守主義」ということになっています。それは色濃く「進歩主義」に染め上げられているものです。
これは、フランス革命に反対したエドマンド・バークによってはじめられた本来のイギリス流の保守主義とはかなり異なっています。
冷戦体制下でアメリカ側につくことが「保守」の役割とみなされてきたことによって、イギリス流の(本来の)保守主義とアメリカ流の保守主義の間の区別が見落とされてきました。
また、「保守の精神」がその国の歴史や文化に即した価値体系の保持や維持に関わっているとすれば、「日本の保守」を「アメリカ流保守主義」に対して自己同一化することは、あまりにも不適切なことというほかありません。
「保守の精神」にとっては、日本の歴史的伝統を踏まえた価値とはなにか、とい問いが決定的なものとなってきます。
冷戦以降のアメリカの世界秩序構想の中ででてきた96年の「日米安保共同宣言」では、日米安保体制は「アジア太平洋の安全」への相互協力へと拡大し、さらに05年に合意された「日米同盟」では、「世界の安全保障」という「共通の戦略目標」のための共同行動へと変形されていきました。
「日米安保体制」から「日米同盟」への変質とは、端的にいえば、「戦後体制」を固定化し、それをいっそう先に推し進めようというものといえます。
アメリカの有事、あるいは「ならずもの国家」との対決におけるアメリカの軍事行動に際して、平和憲法を前提にしつつ後方支援等で日本が関与するという方向を目指すものでした。しかし、このような関係は決して対等な同盟とはいえず、「従属的同盟」とでもいうべきほかないでしょう。
今日の日本は、確かに自由・民主主義の世界秩序の受益者です。しかし、だからといって、アメリカ的な力による自由・民主主義の世界化、これに敵対する諸国の脅威に対する力の対決、という価値観までも共有しているとはいえません。
自由・民主主義や市場競争は近代社会の理念であり、また、近代社会の主要な制度的な条件ともなっています。しかし、その抽象的理想を普遍化して絶対的な価値とみなすことは「保守の精神」に反します。
むしろ自由の過度な追求が放埒に陥り、民主主義の安易な理想化が衆遇政治を招くことを警戒するのが「保守の精神」であります。
日本の論壇では、いわゆる左翼の護憲平和主義は事実上、力を失ってしまいました。では、それに代わって改憲論が力を増しているのかというと必ずしもそうではありません。
今日の大勢は、左翼的平和主義というより、むしろ思考停止的な現状維持に従った「平和憲法プラス日米安全保障」論なのです。端的にいえば、アメリカが守ってくれているのだからそれでいいじゃないか、というだけのことです。
国民が主権者であれば、自分たちの生命・財産を自分たちで守るというのは、近代国家の基軸です。
また、「ステイト」(国家)は、ある程度の共有された歴史的・文化的価値をもつ「ナショナリティ(国民性)」に基づかなければなりません。ここで「価値」が問われます。この「価値」は、普遍的な自由や民主主義ではなく、国民の独自の歴史的生成物であります。
もし「保守の精神」に立つならば、アメリカという国家の基軸は徹底した「進歩主義」「近代主義」にあり、その価値は日本とは大きく違っているという認識から出発すべきです。
日米関係において、「保守」がすべきことは、そこに含まれているどうしようもないディレンマを認識すること以外にありません。
現状において日本は日米関係を重視するほかありませんが、そのことは「保守の精神」からすれば変則的な事態であり、本質的な事柄を先送りするにすぎません。
われわれは未だに、戦後、日本という国の姿を描き出してはいません。未だに、近代国家の原則からすれば厳密な意味でなお主権が確立しておらず、「ナショナリティ」を構成するはずの価値観が見失われた現状は、まだ「敗戦後」というほかありません。
明治以降の日本の近代化、国際化は、常に「西欧的価値」の圧倒的な拡張の中で、その受容と対抗において、いかに「日本」の主権を確保するかという課題と共にありました。この「日本」の中には、「日本的価値」も含まれます。
「西欧的なもの」と「日本的なもの」の間には常にディレンマがあり、その葛藤が近代日本を活力あるものとしてきました。戦後も同じことです。
しかし、今日、われわれはこのディレンマを引き受けようとしません。
保守の立場とは、まずこのディレンマを自覚することなのです。
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マスコミ世論に影響されやすい「大衆」は、その時々の気分で政権や政策を支持したり批判したりします。政治の世界は、幾層にも矛盾した課題が錯綜して見えにくいため苛立ちを募らせやすくなります。
そんな「大衆」のなかの隠された半面である「庶民」としては、日々の生活の中に「伝統の知恵」を脈々と受け継いで実践している方も多いのではないでしょうか。
「自由」や「平等」によって恩恵を受けていることはもちろんですが、その行き過ぎが欲求不満や不安の種になっているような気がします。
「保守の精神」は近代主義のおかしさに違和感をもった気持ちにフィットします。しかし、保守思想は、西洋哲学や社会思想などを踏まえて考えないと理解しにくいところがあります。
「保守の精神」を理解するためには、「保守の精神」を理解しにくい日本人のディレンマについても自覚する必要があると思います。
実際の保守派には、デリカシーのないオヤジもたくさんいます。
既得権を守ることや強者の論理に傾きがちな面があることは否めません。
しかし、「保守の精神」は、現代社会の見落としている点を浮かび上がらせてくれます。こんな時代だからこそ、日本人の「伝統の知恵」を再発見する重要性があります。
落語の世界は、理性万能主義、合理主義とは遠いところにあり、
「伝統の知恵」の宝庫です。
個人主義ではなく、何よりも「ご縁」を大切にします。
理屈では割り切れない矛盾に満ちた人間への
あたたかなまなざしがあります。
そして、そんな人間の滑稽さを笑います。
落語は、伝統を保守しながら現代との接点も大切にします。
そこから活力ある伝統芸能が誕生してきました。
「保守の精神」で、どんな社会が築けるのでしょうか。
それよりも「保守」という言葉自体が死語になりつつあるようです。
「保守の精神」では、何を保守すべきなのかが問われます。
私たちは、何を保守すべきなのでしょうか。
私たちのなすべきことは ・・・・
しっかりやろう 保守点検 (^_^)v
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<参考文献>
『自由と民主主義をもうやめる』 佐伯啓思著 幻冬舎新書 2008/11
『「保守」が「戦後」を超克するすべはあるのか』(「正論」6月号 2010/5)