魑魅魍魎なるこの世をば はすにながめて楽しんで 憂い顔して 刻む かりそめの時…
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February 28, 2016

◆「私」がある限り、私は宇宙を支配することなど当然できはしないが、存在せしめることは…

テーマ:◆戯れ言

人気blogランキングは?  この世で最も「私」に関心を持つ者は、他ならぬこの私であり、私以上に「私」を知るものなどいやしない。
 全知全能の神だって、私一人だけにかまっちゃおれないもの…。
 もっとも、「私」を知っているという私でさえ、「ぼくってなに?」って具合に、エイジングすればするほど、「こいつは何者?」なんて、てんでわからなくて、ますますもってウロウロ迷っているありさま…トホホである。
 まァそれはともかくとして、仮に「誰よりもあなたを愛しているのヨ。そうよだから、あなたのこと誰よりもわかっているワ」というような女がいたとしても、それは「うそぶき」「うそつき」「うわっつら」、「私」を知る私の知り具合に、どうしたって勝るものではない…当たり前だ。
 第一こちとら、はなっからそんな女が、この世にいるなんて思ってやいないし、これっぽっちも望んじゃいない…。誰だって、てめぇが第一なんだしネ。
 むしろ、「あなたのこと、知れば知るほどわからなくなるわ…いったい、あなたって何者なの? なに考えてるの? こんなに、いつもあなたのこと思っているのに…ほんとうにわからない…」ってのが、よほど正直、ちょっと心ひかれてしまう女だ。
 最も身近なパートナー・つれあい(縺れ合ってるが…)である女、我がカミさんはどうだろう?  
 「あなたって、どうしようもないヒトね…いったい何考えてんだか? 何十年も一緒にいて、こんなにわからないって…あなたのことばかり思って、あんなにもあなたを知りたいと、そんなときがあったなんて…。くやしいけれど、今もそうかもしれないわ。あなたは、そんなことどうでもいいじゃないと言うかもしれないけど…とにかく、あのころのあなたに、夢や希望や期待があったのよね。…あなたは、そんな私を、あれこれ、ことごとく裏切ってくれた…あなたほどいい加減なヒトって、きっといない。そうよ、憎ったらしいったら…」
 と、最後は、表現する言葉もなくなり、あきらめて投げ出したように言う。
 私が言う女とは、ちょいニュアンスは違うけれど、そうそう、決して私に無関心になったってわけじゃない。と、あくまでオプティミストの私…あれこれやんちゃなことばかりしてきた、どうしようもない「人でなし」でノー天気な私は、何一つとして言い返せない。
 「そんなオマエから、最後のどんずまりでは、オレはどうしても離れられなかったんだよネ…まッ、オマエには、ひとりでほっとけない、わけのわからない魅力みたいなものがあったってわけサ。…とにかく、最後よければ、まとめてよしとしようよネ」って、わけのわからぬ卑怯な自己弁護をしてしまい、またまた墓穴掘ってしまう。
 愛しているが故に、唄の文句じゃないけれど「あなたの過去など知りたくないの」と封じ込めるような裏返しの感情吐露など、やせ我慢の「まやかし」、本当は何もかも知りたい衝動だと知るべきで、それが真相で真実の愛だと私は思っている。
 けれど、男と女が互いの間に「愛」(ここで、「惚れたはれた」は素敵なことだけれど、ちょいと別次元)を継続して感じ在らしめることを望むのなら、互いに相手の全てを知らない方がいい。むしろ知らないことが多ければ多いほどよいのだし、極端なことをいえば、何も知らないにこしたことはないのだ。
 愛のモチベーションというものは、おそらく、今の今、この瞬間において「互いに相手をよりもっと知りたい欲望」であり、コイトスによる「自己同一化を図ろうとする願い」であって、あたかも、この私のように「私」を知る私であらんとする究極の行為に他ならないだろう。
 「愛はベクトル」だと私は思っている。知らなければ知らないほど、それはより強い方向性を持って実現されるはずだ。
 そう、完璧なオーガズムの瞬間、「無」であり「死」である、自己実現を、おそらく私たちは経験する。それは、造物主の見事ないたずらである。
 なぜって、うーん、大抵は「…かのようなもの」で、すべては元の木阿弥、尾は引くが継続はなく、スタート地点に戻る。いやいや、むしろそれが理想なのかもしれない…。
 やがて必ず訪れてくるであろう愛の消滅は、知りすぎた挙げ句のしっぺ返し、冷ややかな現実の認識であり、あらまほしき姿との冷酷なギャップの厳然とした提示であろう。
 愛は「許す」ことから始まるなんていうけれど、それはきっと嘘なのであって、仕方なく、法だとか世間体だとか…という「枷」を設けたりして、この男と女の人間社会はなんとか成り立っている。
 「愛」に「許す許さない」は元々ありはしないのだ。
 さて、しかして、こうして私が「私」を書くときは、誰が何と言おうと、断然、それは、事実ではないにしても、真実の「私」である。…たとえ、それがナルシスティックに偏向したり、マニアックな表現形態をとっていたり、セクシャルにマゾっぽかったり、非情なサディストの様相を呈していたり、少々虚勢を張って仮面をかぶっていたり、すぐに嘘だと見破られるようなオブラートをかぶせたり、多少罪のない偏見が入り混じっていたとしてもだ…。
 なぜなら、それらもまた私自身であり、まぎれもなく、そんな瑣末の寄せ集めが「私」であるからだ。
 「いや、君はそんなヒトではないよ…この世に表象されている君は、そうじゃない」と、いってみたところで、四六時中、私をそばで目を凝らして観ているわけじゃないし、第一、私の心を見透かすなど、誰にだってできやしない。
 この世、つまり、まァ言ってみれば、宇宙ってのは、私の「私」なくして、あるものではいから、「私」を在らしめ、それを自由自在に感じ、「私」がある限り、私は宇宙を、支配することなど当然できはしないが、存在せしめることはできるに違いない…。
 (つづく)
 
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February 13, 2016

◆新宿歌舞伎町は、かくして江森さんとの濃密な取材に繋がり、今も時あれば私を心地よく…

テーマ:◆我了転声

人気blogランキングは? (2/7 からのつづき) 江森さんに頻繁に会っていた80年代初め…彼は、ほぼ1ヶ月、夜ごと夜ごと、私を道連れに新宿歌舞伎町を徘徊した。
 ホキとの一騒動と週刊朝日の連載が一段落した後(といっても、この一騒動はちょいと長引いたのだが…)のこと、テレ朝の「モーニングショー」の話が持ち上がったころだったか。
 つづく連載のためで、これはすぐに単行本化され、「新宿歌舞伎町 セックス産業最前線ルポ」(1983 汐文社)となった。
 この街を牛耳る面々から、入り組んだ街の様相、立ちんぼの男娼の縄張り、数々のセックス商いetc.と、この街の夜の俯瞰図を一目瞭然に一望し、体臭がプンプン臭ってくるような集まる人々の相関図と様々な素顔を浮き彫りにした、それは江森さんの真骨頂はここにありというようなルポルタージュであった。
 私は、江森さんの飄々として大胆、ズカズカと恐いもの知らずで、はり付いて血を吸い取るヒルのような取材を、ピッタリと寄り添うように盗み取った。
 これらは、後、私と相原英雄(現在、プラネットエンターテイメント代表取締役)と組み、「情報ノンフィクション」分野で(独自のノウハウを生み出したと互いに自負しているが)、確実に、「time21」「そこが知りたい」「地球発」などといった番組に繋がる素地になったはずだ。
 ところで、歌舞伎町といえば、早慶戦の夜飲んだくれて騒ぎ、テレビの仕事を手がけるようになってからは、ことあればゴールデン街をはしごした…この街を抜きにして私の青春はきっと語れないだろう。
 話は飛躍するが、そのころのことを、以前こんな風に書いている。

 70年代に向けて細い糸をほどきながらたぐり寄せると、おぼろげな記憶の中に突然やけに鮮明なシークェンスが現れてくる。
 きっとそれは、人が夢を見るのと同じようなフラッシュ再生なのだろうか。
 例えば、新宿MHの天井の隅にはりついたような楽屋から舞台を見下ろしている私の姿…。
 私に好意を寄せてくれたダンサーの微笑み…。
 二丁目のはずれにあったカウンターバーのたたずまい…。
 最初、新宿MHの楽屋に案内してくれたのは、ユートピアのホープだった。
 彼は、相方ピースと「ゴム紐」芸で少しは売れ始めていたころだったが、そんな彼を中心に集まってきたのはいずれも大きな夢を抱いていた若手芸人の面々だった。
 彼らが当時、師匠と仰いでいたのが、コントWベアーのレオナルド熊さんと天野良昭さんだった。 
Wベアーは、主として井上ひさしの書いたコントを彼ら流にアレンジして舞台にかけていたが、ニコリともしない「怒り芸」を、笑いをとって確立したのは、熊さんが恐らく本邦初であった。
 天野さんは、当時から体の調子が思わしくなかった熊さんの女房役に徹していた。
天野さんと二丁目で…  あのとき、天野さんがいなければ、後、TVなどでもてはやされた熊さんは、きっといなかったに違いない。
 私も、天野さんにはかわいがってもらった。当時、豊島園の「お化け屋敷」と呼ばれていたご自宅には何度もおじゃまして、「霊」に面会させてもらうなど、実に不思議なある種の「力」をもっている人だった。
 そもそも、私が、あの日活ロマンポルノの白川和子がデビューした劇団「赤と黒」の再生にからんだりしたのも彼に連れられてのことだった。
 劇団再出発の舞台が、「新宿アシベ」(60年代、GS時代に「ジャズ喫茶」として有名だった)をレストランシアターにするというプランだった。
 私は、よく分からないまま文芸部員の名刺をもらい、TVと舞台で「二足のわらじ」をはくことになったのだった。
 プログラムは、バラエティたっぷりに構成したもので、演劇を中心に歌あり、マジックあり、腹話術ありと、今思えば、かなりユニークであった。
 ユートピアもマギー司郎も、売り出したばかりのシーナ&ロケッツなども出演した。
 私は、なんだか古い台本を手渡され、今風にアレンジしてくれと頼まれたり(原本は「紅楼夢」であった)、宣伝ビラを作ったり、街頭に軽自動車で乗り出してスピーカーでがなり立てたりと、なんだかはちゃめちゃな毎日を送った。
 舞台衣裳を着けてスポーツ紙をメインにアポなし訪問をしたせいか、今にして思えば、後々大きな仕事をしたという目端の利く才能豊かな人々が「見物」にやってきた。 紅楼夢の衣装あわせ
 しかし、活気があったのははじめだけ、レストランシアターという看板を掲げている以上は、飲み食いのサービスが必要で、所詮寄せ集めのスタッフばかりの厨房は大混乱するし、自称「音効のプロ」で加わった青年は、全く使いものにならなかったし、ダブルブッキングではかりにかける役者がいたり…!
 それでも、文芸部は、テアトルエコーの若手を集めて、つかこうへいからもらった「熱海殺人事件」などをかけさせたりしたのだが、客が呼べなければつぶれる以外にない。
 このてんやわんやは、一年も続かなかったが、私としては、多彩な人々との出会い(東宝の故丸林久信監督、声優の横尾まりなど)と、本業のTVや、後、週刊誌などの取材に大いに役立つことになった。

 新宿歌舞伎町は、かくして、江森さんとの濃密な取材に繋がり、今も時あれば、私を心地よく刺激し続けているのである。
 いやはやそれにしても、つくづく愉快な時代であった…。 (つづく)
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February 07, 2016

◆宇宙から俯瞰しながら、江森さんが、そう言った…

テーマ:◆我了転声

人気blogランキングは? (1/23 からのつづき)  「エイジングした私は、今、江森さんをどのように見ているのだろうか?」と書いた。
 書いてはみたが、まずもって私は、頻繁に江森さんに会っていた頃の彼の年齢を、とうに超えている。…まッそれはともかく、私は時の流れに乗って自然にエイジングしてきたのだろうか?…怪しいものだ。
 いや、だからといって、自らの年齢を顧みず懸命にアンチエイジングに励んできたわけではない。むしろ、アンチエイジングには素直になれないのだから…。
 「そんなに若いっていいことなのかしら…?」
 健康であることを目的とした肉体鍛錬の証であるならそれはそれでいい。しかし、世の大勢はどうも「見た目若さ」へ向かってしゃかりきになっているようにみえる。
 まァ、そこのところに大きな「市場」もあるわけだけれど、コマーシャリズムにのせられるほど、こちとらお気楽じゃない。
 どうせ、肉体も体力も衰えていくのが、これはこの世に生をうけ、生きていく動物であることの定め、頭髪の減り具合も、身長の縮み、シワの刻みも、はたまた、視力聴力腕力脚力の衰えも個人差はあるが、それが現実、個々に年相応でよいのであって、アンチエイジングといくら抗っても、若き日あの時の“凜々しき姿”は、もう還ってこない。…命はやがて尽きる。
 これは諦観などではなく真理、「自然なエイジングこそ理想的」と、とにかくそんな風に私は考えている。
 まるで開眼し悟り開いたようにエラソーだが、そもこんな境地に至ったのは、実に単純、“男”としての能力が次第に由々しき状態となり、もうほとんど“女”を追い求めなくなってきたから…とは。
 白状すれば、「あわよくばアバンチュールも」の可能性あるうちは、私とてあれこれと育毛剤を試し、アスレチッククラブに通って身体を絞り、歯の治療も怠らず、もてファッションにも凝った。
 いやはや、まさに品性お下劣、下衆の極み。…なんてことだが、そうそう、私が言いたいことは、こんな肉体的体力的表面的なことではなく、能力知力、知性品性、経験知識、突きつめれば、エイジングで得られる「心」のことだ。
 おそらくエイジングってのは、ちょっと「宇宙からの俯瞰」つまり「神の目」にも似たポジションに近づいていけることのような気がする。それは、己の心がピュアであればあるほど、あるいは、己の経験や知識などの蓄えが多ければ多いほど、そのような「目」を輝かせることができるのではないか…。と書いたのも、そこのところ。
 二十歳になる前から早く歳を取りたいと、私は真剣に願っていた。
 ぶっちゃけ、歳を重ねれば、世の酸いも甘いも嗅ぎ分けられて、人生の機微も生きることの意味も自然に分かるようになる…。と、まるで「身体」の衰えと取り引きするように「心」は真理に近づけるものとかたく信じていた。
 というわけで、エイジングした今の私は? ってーと、いャー「怪しいものだ」。…忸怩たる思いを抱きながらそう言ったのは、ますますもって人生の意味なんてのは曖昧模糊として分からなくなっているからである。
 しかも、情けないことに、ボケ、認知症、アルツハイマーというわけではなく、ベンジャミン・バトンじゃないけれど、ある種の「幼児還り」をしているかのような…。それはそれで「ピュア」なのだろうが…。
 それにしても今、やはり「自然の時の刻みに抗わぬがよい」…と、つくづくそう思う。
 ところで、この世の人生に幕を下ろした「江森陽弘」…彼は、この世の「江森陽弘」を、もう自ら意図して変えることはできない。そう、とても不公平だが、「江森陽弘」を変え得るのは、こちら側にいる私たちだけ。
 「美は、見る人の目にある」と言うが、「歴史」も為政者に美化されてきたように、まして、いわんやあちら側にいる「人」をおいてをや…だ。
 かくして、今、私のポジションから、江森さんを、どう見ているのか?
 「オイ、コダマ! そんなコト止めろよな! そっちにいるオマエが、どう見たってオレは知ったこっちゃないけどさ。 ただサ、そっちでオレの気持ちの中に、スンナリと何の違和感なく、しかも結構図々しく居座っていたオマエだったんだぜ…今更って、お笑いぐさだヨ。… なァコダマ、せめて、こっちで会うことを楽しみにしているオレが、今も居るってコトをさ…」
 宇宙から俯瞰しながら、江森さんが、そう言った…。 (つづく)
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January 23, 2016

◆エイジングってのは、ちょっと「宇宙からの俯瞰」つまり「神の目」にも似たポジションに…

テーマ:◆我了転声

人気blogランキングは? (1/17 からのつづき)  実のところ、私は「お葬式」が苦手だ。まァ得意という人も少ないだろうが…。
 私ほどの年齢、しかも親類縁者の多い田舎ともなると、「お弔い」は必然多くなる。
 いつだったか、親しい人の告別式の知らせに、「お悔やみには、出ないと決めているの…」と囁いたのはホキだった。
 彼女のような生き方をしてきた女性なら、世間様も然りと思ってしまうから、ひち面倒くさい「断り文句」はいらない。
 だが普通、そうはいかない。
 江森さんに「しかるべき礼儀」を尽くさなければと、「マナー育」や「行事育」の講演や執筆も多い我がカミさんは言う。
 けれど、「遅ればせながら名乗り出たお妾さんか落胤」のような気持ちといったら、ちょっと喩えはよくないが、どうしてもすぐさまそれができないそんな風な迷いが私にはある。
 「満中陰」の忌明けも過ぎ、おまけに新年を迎えたご遺族に、私の落ち度で遅れた礼儀を今さら尽くしてしまったら、一方的に「彼らの時」を引き戻し、一旦整理したであろう「心の中」に揺らぎを引き起こしかねないのではないか。よしんば、そんなことはなくとも、そんな私は完璧な「間抜け」である。
 いや決して、これは、お葬式苦手の私が独りよがりの申し開きをしているわけではない。
EMORI  ここは、一人静かに、江森さんへの思いに浸る「儀式」もあるような気がする。と、こんな呟きにも似たことを縷々書き始めているのだ…。
 そもそも「お葬式」ってのは、こちら側にいた人があちら側に逝き、どこかで繋がっていた人々が、なんとか「踏ん切り」をつけ、これからの時を生きていくための、こちら側の人々の儀式…つまり、私たち一人ひとりの極めて個人的な「黙示」ではないのか…。
 
 1983年から86年にかけて、江森さんは、テレ朝の「モーニングショー」(朝ワイドの草分けとして、このキー局の看板番組だった)のメインキャスターをつとめた。
 当時、今の六本木ヒルズあたりにあったテレ朝の正面玄関脇の喫茶で、「遊びにおいでよ」という江森さんの本番後を、よく待っていた。
 同局では、午後のワイドショー「おんなのひろば」やクイズ番組「ヒントでピント」をやっていたり、すぐそばに「$1000パーティ」の事務所があったりしたので、今でも局舎の周辺の街をとても懐かしく思い出す。
 なにしろ、六本木には、テレ朝だけでなく、江森さんの事務所があったし、その後、カミさんのディオール本部が日産ビルに、日本に帰ってきたホキも「北回帰線」などのクラブを開いたりした。
 日本放送作家協会の事務所や俳優座、打ち合わせに使ったコーヒーショップ、仕事先のプロダクション、飲んだり食ったり踊ったりのプレイスポットetc.…いやはや、とてもじゃないが、筆が追いつかない。
 ところで、舞台は一転、LA「パブクラブHOKI」…江森さんがらみで、オネエこと「マイク」を思い出す。
 いつも粋な着流し(ほとんど故江利チエミさんから、その舞台衣裳やら何やらを譲り受けたもの)でホキに寄り添うように、ちょこんと浅く腰掛けていた。
 マイクについては、ホキも『文豪夫人の悪夢』(主婦の友社刊)の中に、詳しくふれているが、83年の夏頃だったか、「日本人で初めてAIDSに!故郷・新潟の雪を見たいといって日本へ…」などと、明らかにマイクと思われる人物が、「週刊朝日」に書きたてられた。
 この記事の掲載を私は、江森さんからの電話で知ることになった。
EMORI  「コダマ、マイクって、ホラ、ホキのとこにいた、どんなヒトなの?」
 「で、AIDS、っていうんだけど、そんな話、聞いてた?」
 ホキに確認してみると、「マイクは、食道の入口を塞いだ動脈瘤かなにかで、その年の5月にみまかっていた」のが真相で、AIDSなどでは決してなかった。…自らの性にズッポリとはまることで、難しい時代にみごとな「オネエ道」を貫いての大往生であった。
 この一件…どうやら、ガセネタをもっともらしい記事にしたてあげたLA特派員の「尻ぬぐい」の役を江森さんがやったわけだ。
 ところで、LAに滞在していたとき、ホキに連れられてマイクの部屋を訪ねたことがある。
 マイクに「タマちゃん」と呼ばれていた私は、江戸弁のオネエ言葉で「ネェ、いいこと、タマちゃん、ホキちゃんを大切にシタげるのよ」とまるで母親のように頼まれたのを覚えている。
 その時、マイクとホキと私のいる空間に見たデジャヴのような感覚が、今こうして思い出をたどっている私が見ているものと奇妙に重なっているのは、どうしたことだろう…。

 おそらくエイジングってのは、ちょっと「宇宙からの俯瞰」つまり「神の目」にも似たポジションに近づいていけることのような気がする。
 それは、己の心がピュアであればあるほど、あるいは、己の経験や知識などの蓄えが多ければ多いほど、そのような「目」を輝かせることができるのではないか…。
ところで、エイジングした私は、今、江森さんをどのように見ているのだろうか? 
 (つづく) 
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January 17, 2016

◆それが、「ヘンリー・ミラー」そして「ホキ徳田」つながりでの「遭遇」だったからだ…。

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人気blogランキングは? (1/12 からのつづき)  「江森さんとの出会いが、スリリング」…と書いたのは、それが、「ヘンリー・ミラー」そして「ホキ徳田」つながりでの「遭遇」だったからだ。
 本来なら、私のようなポジションにいる者が、放送作家としての仕事ならともかく、当時の「江森陽弘」は、とてもじゃない、こんな話ができるような存在ではなかったのだ(シナリオオークション「$1000パーティ」で、多くの“大物”といわれる人たちに会ってはいたが…)。
 若かった私を、今こうして思いだし考えてみると、なんだか「運命の赤い糸」に、あまりにも素直に操られ従っていたふしがある。それは、見るもの聞くもの触れるもの、五感のすべてが真新しい経験だったわけで、次の瞬間を、いわば第六感に頼って生きていかざるを得なかった…といったら、あまりにも「主体性のないいい加減な男」の謗りを免れないかしら…。

 
江森陽弘さん(当時、朝日新聞出版局編集委員)が『ヘンリー・ミラーのラブレター~ホキ・徳田への愛と憎しみの記録~』を講談社から上梓したのは、1982年8月のことだった。「週刊朝日」に連載したものに加筆してまとめたものである。
 江森さんの特徴のあるサインがなつかしい初版本が、今、私の手元に開かれている
 「ヘンリー・ミラーの大きな特質は、純真無垢なやわらかい心と、強い認識力である。この二つが、彼の人生の最後の恋、ホキ・徳田へのみずみずしい恋情において、余すところなく現れている。」…“こしまき”に書かれた、吉行淳之介さんの推薦文である。
 「あとがき」に、江森さんはこう書き始めている。
十数年前、インタビューした頃の江森さん  「ホキ・徳田と初めて会ったのは2年前である。『週刊朝日』の“女が迫る”という対談であった。対談のあと、ヘンリー・ミラーの話になった。手紙を書くのが好きなヘンリー・ミラーのことだ。さぞかし、ホキ・徳田へ熱烈なラブレターを送り続けたに違いない。念のために聞いてみると、300通ほどあるという。その手紙を公開してほしい、と彼女に伝えてから『週刊朝日』に連載するまで1年以上かかった。…」
「ヘンリー・ミラー展」(池袋西武)会場のホキ徳田  実は、こう書かれた2年前すでに、私は「ヘンリーからの手紙があるんだけど、どう?」と、ホキに言われ、分厚い「手紙」のコピーを手渡されていた。
 LAに“パブクラブHOKI”を開店したばかりのホキは、頻繁に東京に戻ってきては、テレビや雑誌、はたまた“ヘンリー・ミラー展”などの仕事を忙しくこなし、私もLAに行ったりして、ホキとの「不思議な交流」が始まっていた。
 「ちょっとしたメモだとか、ポストカードやら、まだ他に何だかおもしろいものが、LAの家にはいっぱいあるけど…」
 ヘンリ・ミラーの「アナイス・ニンへの手紙」は、よく知られたところで、「これは、大変なものを預かった…ホキも覚悟の上なんだろうな」と、踊ろうとする好奇心を押さえることができなかったが、心はなぜか重かった。
 ヘンリー・ミラーの手紙がいかにすごいものかは、私はわかっていた(卒論「現代小説論~性表現について~」のためでもあったが、ヘンリー・ミラーはむさぼり読んでいた)。
 どんな風に、私を紹介したのかは知らないけれど、「今、ここにいるから話してみてヨ」と、電話を代わられた相手が、江森さんだった…「東プリ」にいるという。
 とにかく、「江森陽弘」に関する情報を集めた。…「聞き書き」の名手、朝日の社会部の敏腕記者、名編集委員、乙羽信子の聞き書き「どろんこ半生記」、「金子光晴のラブレター」、「越路吹雪 その愛と歌と死」とたてつづけに本を出したばかりの作家、おまけに学部は違ったが大学の大先輩…私の出る幕などないと観念するのに時間はかからなかった。
 「江森さんのことだけど…言うことないよ…」とホキに伝えた。
 「そうねHIRO、あなたがそう言うのなら。一度会ってみてよ…」
 TV番組はもちろん、執筆、出版などと様々な企画に夢をふくらませた今までのいきさつから、「文句の一つ」も言いたいぐらいの気持ちをなんとか抑え込み、預かっていた分厚い「ヘンリー・ミラーの手紙」のコピーを携え、“女が迫る”の対談が行われていた、京王プラザホテルで…初めて「江森陽弘」に対面した。
 けれど所詮、私など鼻っ柱の強いだけの若造にすぎないわけで、初めから江森さんのペースだった。
 「君も、よかったら、取材、手伝ってよ」…ホキへの聞き書きをベースに、「ヘンリー・ミラーの手紙」を織り込んでいく構成で、「週刊朝日」に連載する…取材スケジュールはトントン拍子で決まった。
 ホキは、私の裁量に任せるとは言ってくれていたが、今にして思えば、朝日新聞の江森さんに「ヘンリー・ミラーのラブレター」が移ることで、ホキもより早く確実にしかるべきギャラが得られることになり、恐らく内心喜んだはずだ(当時、ホキは、クラブ経営の資金繰りにも奔走していた)。
 ホキへのインタビューは、LAで行われることになり、1981年末、丁度『アメリカ西海岸・旅する本』(早稲田編集企画室)の取材があったため、その流れで、先にLAに入っていた私は、江森さんの到着をリトルトーキョーのホテルニューオータニで待った。
 ホテルと棟続きのウェラコート3FにあったパブクラブHOKIの麻雀部屋で、インタビューは始まった。
 私は、ホキと江森さん(二人はほとんど同世代)の間に入って、なんとも居心地の良いコーディネイター役だと自らを納得させたのかもしれない。
 江森さんの「聞き書き」の手練手管を間近で見ることができるなんてのは、まさに僥倖!
 一週間ほど続いたこの“仕事”を終えた私は、私から取り上げた「手紙」に対する江森さんのちょっとした恩情だったのか、日本に戻ってからも、ホキのマネージャーのように動いたり、江森さんの書いた原稿の清書(ギャラはもらったが、ちょっと屈辱的ではあった)をしたりと、「週刊朝日」連載が完結するまで手伝った。
ヘンリー・ミラーのラブレター  ホキはホキで、「ヘンリー・ミラーのラブレター」からとびっきり「ヘンリーらしい」のを選んで、私にくれた …。
 ところで、私のメシの種ともいうべき本業の方はというと、1ヶ月以上の不在だったが、相変わらずクイズ番組『ヒントでピント』のアンカーは続け、NHK-FMで連続ドラマを書いたりしていたが、翌82年早々、かねてから東宝で進めていた企画にゴーサインがでて、ネパールにシナリオハンティングに向かった。
雑誌に掲載する写真のために、いろんなポーズを決めてくれた江森さん  ニューオータニの部屋で、詰め込んだキャリーバッグの上に馬乗りになってパッキングしていたちょっとひょうきんな江森さんの姿…タワーレコードの最上階のレストランでLAで知り合った連中と食事をした時、ちょっと猫背に歩いていた私を見るや、「オッ、コダマ、ゴリラかと思った」とおどけた笑顔、ピアニストのミッシェルにLAツアーをしてもらって、とびっきりはしゃいだうれしそうな江森さん…なぜ、私はこうも鮮明に覚えているのだろうか…。 (つづく)

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