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2015-11-12

一般質問…今後の三鷹市の財政のあり方について

テーマ:議会報告
2015年9月議会で、「今後の三鷹市の財政のあり方について」というタイトルで、質問しました。
以下、概略をまとめます。

【半田発言要旨】
1)私達は、成長することがなく、資産が目減りする時代を生きている。
戦後日本経済が息を吹き返してから約40年半、日本の景気は上昇の一途をたどってきた。景気というものは上昇もあれば下降もある。上昇期間に比べて下降期間が短く済むことはない。バブル崩壊以降、数々の景気対策の失敗がそれを見事に証明している。アベノミクスも同じ運命をたどるだろう。金融緩和を施しても景気下降の流れに勝つわけがない。

2)アメリカ発のいわば金融緩和失敗ショックが今まさに始まろうとしている。
NYダウを初めとして、急落のサインは既に出揃った。当然、日本経済にも大きな影響を及ぼす。今後再び円高路線へと回帰し、日経平均は暴落となるだろう。政策レベルで景気下降の流れを覆すことなど不可能なのである。

3)景気が下降し続け、成長することのない時代をどのように生き抜くべきか。この永遠の命題は、国だけではなく、自治体にも突きつけられている。私は、このことと正面から向き合い、成長しない時代における自治体のありようについて考えていく。


4)成長しない時代においては、税収は目減りして当たり前だ。税収減時代にどう向き合うのか、経営のセンスが試される。
支出規模維持の1つの方法は借金だが、大切なことは、誰がその借金を返すのかという認識である。人は異動の自由がある。つまり、三鷹市が抱える借金は、今の三鷹市民が返し続けるということには直結しないのである。返す人は、将来三鷹市に住むであろう人々であり、また三鷹の子どもたちである。つまり、未来の子どもたちのクレジットカードで現状を謳歌するのが自治体の借金の実態である。成長しない時代において借金を繰り返すことは、後の世代にツケを回し続けていることと同じと言ってよい。新たな借金をすることなく、ただただ我慢をする、過去の借金を返し続けるべき時代を私たちは生きているのである。

5)支出規模維持のもう1つの方法は、国や東京都のお金を使うことだ。しかし、国全体が景気下降サイクルの最中にあり、成長しない時代を生きているのだから、これらの外部資金はいずれ枯渇することが見えている。これら外部資金に依存して支出規模を維持ないし拡大するのではなく、いや、依存する部分はあるにしても、必要最小限に抑え、いわぱ国や東京都に迷惑をかけない、そういう自治体像を描く時代だと考える。

6)三鷹市は現状、予算規模は年々増加の一途をたどっている。成長しない時代において、規模そのものが、維持ではなく増加すること自体に私たちは違和感を感じなければならない。借金や国・東京都のお金など、三鷹市の税収とは違う部分に依存して拡大の路線をたどっている現実がある。成長しない時代だからこそ、経営規模は拡大ではなく、むしろ縮小すべきである。

7)予算というものは、支払う相手がいるわけだから、予算規模の縮小はその支払う相手が痛みを伴うことにつながる。当然ながら気持ちのよい話ではないと感じる人がいるだろう。
大切なことは、なぜその予算を縮小するのかということについて、市民の皆様の共通の理解を
得ることにある。これは見方を変えれば、「どのようなことに税金を使うべきなのか」を考えることでもある。

8)税は強権的に取られる。支払う側からするならば、気持ちのよいものではない。いわぱ取られ損の税なのである。税を取る側は、税の使い道につき、なるほどその使い方なら理解できるねと、納税者に理解して頂けるような対象に「のみ」税金を使うべきである。税金とは、あくまで納税者からの預かり金であり、税を取る側が自由に使ってよいものではないのである。

9)私は、税の使い方につき、納税者の皆様に理解していただけるような共通の公式を打ち出すべきだと考える。その公式は、「税は民の生きるを守るための原資であり、その目的についてのみ使う」であると考える。


10)ところが現実はどうか。ある特定団体の補助金という現象は山ほどある。その事業が消滅しても、民の生きるを守るを侵すことがないという事業もたくさんある。
確かに税を取る側にとっては必要なものかもしれないが、大切なことは、その支出の有り様が納税者に理解して頂けるのかという点にある。
先行き不透明で成長しない時代に生きているからこそ、いま一度、改めて1つ1つの支出のあり方を、その支出が「民の生きるを守る」につながっているか、特定の方に恩恵を与えているにすぎないのか、その支出につき納税者に理解してもらえるかという視点から、ゼロから洗い直さなければならない。

【半田質問】
1)今後の景気動向をどう考えるか。三鷹市にはどのような影響があると考えるか。
2)三鷹市は新たな建物を今後見合わせ、新たな事業を展開することを見合わせ、借金を返し続けていくべきではないか。
3)借金や国・東京都にお金に対する依存を減らし、経営のあり方を見直すべき時期に来ているのではないか。
4)支出の見直しには、不断の行財政改革をし続けていく必要がある。今までの行財政改革を振り返り、どのように総括をしているか。今後、さらなる行財政改革を進めるべく、どのような考えで取り組むつもりか。

【市長答弁】
1)景気動向について。判断が難しい。一時的なものなのか、危機的状況へつながるのか、いや、回復するのか、この辺は慎重に見極めていく。
平成22年度予算では、市税収入が約20億円減の、非常に厳しい財政状況の経験もしている。
景気が悪化した場合には、個人の所得や企業の収益に影響が及び、市政運営の根幹となる市税収入はもちろんのこと、配当割交付金ですとか、株式等譲渡所得割交付金など景気動向に連動した交付金の落ち込みは当然ある。
今後、景気動向をきちんと見届け、特に市税を含めた一般財源の減収が見込まれるわけだから、景気動向のマイナスの面については、常に留意をしなければいけないと思っている。
社会保障関係経費などセーフティーネットに係る経費は、確保しなければいけない。
消費税率改定に伴う交付金の増は、この社会保障関係経費に向けることができるという意味では、一定の緩和効果があったと思っている。

2)三鷹市は、地方交付税の不交付団体を堅持している。
一方、市民は、国税を払い、また都民税を払っているのだから、国から交付税措置がない自治体だからといって、適切に国が国民のために果たすべき取り組みについては、求めることは必要だと思っている。例えば、小児医療に係る経費、子ども・子育てに係る経費、高齢者等の医療に係るもので、自治体だけでは運営が困難な制度の中で、国がきちんとナショナルミニマムとしてセーフティーネットを保障すべきものについては、当然国からお金をもらっていい部分もある。(例えば)予防接種は、法律が通ると、法定接種になると突然お金はほとんど来なくなる。
私は、ナショナルミニマム論は強調しておきたい。

3)東京都も交付税の不交付団体だ。東京都も三鷹市もあわせて法人市民税等は、国に召し上げられるというようなことになっていて、いかがなものか。
私は、都民として、国民として、しっかりとした標準的な行政サービスを得るための財源に、国や東京都の補助金等財政支援を得ることは、ー定の必要な権利と認識する。
ただし、依存してはダメで、経営を強めなければならない。

4)市債については、市民にとって必要な建設事業の財源として、自治基本条例に規定する社会資本整備等における世代間の負担の公平化を図るものとして、後年度負担に配慮しながら、適切に活用していくことも必要である。

5)ただし、私たちは最大限の努力をしてきた。平成27年度の当初予算では、景気動向を反映して、予算では過去最高となる市税収入を計上したが、6月補正予算後も、市債を活用してきた事業について、市債の借り入れを見合わせた。また、基金の取り崩しについても抑制を図った。
後年度負担の公平さを考えても、後年度負担を大きくすることは望ましくないから、後年度負担の減少を見据えた財政運営に努めている。
今後、高齢化が三鷹市でも進む。生産年齢人口の割合が低下すると予測されている。景気動向や国や東京都の財政の状況にかかわらず、全体としては低成長時代における緊縮財政を想定して自治体経営力を高めていきたい。

6)リーマン・ショックを契機とした厳しい財政状況の中で、事務事業総点検運動や公共施設総点検運動などの経常経費の見直しに加え、民間委託化の推進にも取り組んできた。加えて、市税収入を上げるために、収納率を高める環境整備もしてきた。常なる行財政改革だから、行財政改革には終わりはない。

7)とても大切なポイントを申し上げたい。質問議員は、納税者の視点に立って、納税者に理解を得られるようにと言うが、三鷹市政というのは、納税者のためにだけ仕事をしているのではない。納税できない子ども、赤ちゃん、あるいは低所得者、納税していない皆様のために、納税者の税をどう活用して、まさに民の生きるを守ることをできるかなのである。
だから、納税者の理解だけじゃだめである。納税できない人の生きる権利を保障するためには、そのことも含めて納税してくださる方が納得して頂かなければならない。
納税者が、納税するだけで何の行政サービスも受けないような何もしない市役所では、納税者は市町村を選べるわけですから、何もしない三鷹市だったら転出されるだろう。
だからこそ参加と協働のまちづくりを進めて、納税者が、喜んで三鷹市の市政に参加し、喜んであるときは無償でボランティアもしてくださるし、無償で御意見も言っていただくし、要するに市民として、税金をどう使うかということが見える化されている。納得して頂けるように自治体経営白書の取り組みなども強めている。
(半田注→この部分の前段は、何を言ってるのかよくわかりませんでした。なぜわからないかは、私の質問部分を見てもらえれば一目瞭然です)

8)さらに、税の使い方については、市長や教育長だけで決めているわけではない。市識会の議決を頂いている。しかも、どういうふうに使いなさい、どういうふうなサービスが不十分だ、こういう工夫はできないかというような御提案も頂いている。
こういうやりとりの中で私たちは行財政改革を進めていくのである。財政の健全化を図りながら、何よりも行政サービスの質を確保し、行政への信頼を高める、そういう行財政改革を進めてきたと思っている。
そうしなければ、三鷹市民の皆様は、納税者であれ、納税されない子どもたちであれ、低所得者の皆様であれ、納得されないだろう。大事なのは、広い意味での市民満足度を高めることである。


9)なお、平成27年3月31日付をもって三鷹市事務事業総点検運動推進本部は解散した。でも、それは、運動としてやっていくということは解散したにすぎない。常なる行財政改革、常なる経常経費の見直し、しかも、ずっと去年までやってきたから、来年も続けるかどうかということについては、真摯に、本当に向き合っている。
今までやってきたことをやめるというのは、なかなか大変なことだ。やめるのも減らすのも、本当に説明責任が問われていると思う。
しかし、低成長、あるいは成長しない時代に、何に重点を置くから、どこはしないかということについては、議会を通じても議論していくことを通して、行財政改革の質を高めていきたいと考えている。

【市側答弁の後の半田発言】
1)この側面からの質問は、過去何度となく質問させてもらって、正直恐縮ではあったが、改めてやっぱり聞かなきゃいかんなと考えたのは、(通告直前の)金曜日の深夜だった。月曜日の朝一で通告を出したが、ミニブラックマンデーと今言われているようだが、月曜日になって急落をした。その前の金曜日の深夜の段階で、もうNYダウが決壊をしてしまった。いよいよ来たなというのが正直な本音だった。そこで、改めて確認をするべく、急進この質問を取り上げたというのが正直なところだ。

2)壇上で3つ質問をした。3つの質問には1つの幹がある。
まず、国・東京都の話だが、「見込めるものが、見込めなくなる事態がいきなりやってくる可能性があるのではないか」という点である。
先行きが不透明な時代だからこそ、ある程度、お金のだぶつきを今のうちに準備しておく必要がある。
入りが入らないんだったら、出る方を減らしていかなければいけない。今までの「出る」をどのように総括をして、今後の「出る」の見直しを続けていくのか。これが行財政改革の質問である。

3)このような哲学で行財政改革に臨んでいるんだということを発信をし続け、入りが不安定な時代に突入するからこそ、資金がだぶつきが見える時代に、ある程度、財政調整基金をどんどん上積みをする必要がある。
そうはいっても出る部分は、避けられない部分が当然あるので、1つ1つの事業のあり方について、今までを振り返り、今後のやがて来るであろう危機に、どのように自治体として備えていくかという観点からの質問である。
過去の行財政改革のあり方は評価をしている。さらに深化をして頂きたい。

以上になります。
一般質問するには、通告という過程が必要です。この通告とは、「こういうことを質問しますよ」と事前に事務局に提出することです。この時の通告は、いじめ問題他幾つか考えていたのですが、市側答弁後の半田発言にあるように、通告直前の金曜日にNYダウが割れてはいけないサポートを割ったので、もしリーマン級のような大変な事態になったらどうするかをもう一度考えるように発言しておく必要があると考え、急遽変更したという経緯があります。

この原稿を書いている時点では、為替は落ち着いているようですね。株式相場は「作られる」イメージがあり、あまり参考にせず為替を重視していますが、116円台に急落後じわりじわりと円安となり、123円台まで回復しました。稀有な心配だったかな?と考えたくもなります。

こういうのは、すべて日柄の問題で、来たるべき日柄に節目を迎えるというのは経験則でわかります(長くなりますので黄金分割理論の重要数字の解説は省きます)。
今注目しているのは、75円台を記録した週から212週目の11/23の週と、125.84を記録した週から26週目の11/30の週です。

下がり始めというのは、通常一旦は戻ります。その戻り位置は、基点となるポイントから下に流れる18度線のケースが多いのです。今回のケースでは、6/5記録の125.84が基点となります。この18度線の位置は、11/23の週には124.35付近、11/30の週には124.28付近となります。この両者のどこかで戻りが止まり、再度円高開始なら、間違いなく言えることは、今回の一連の円安はやはり本物ではなく戻りレベルに過ぎず、125.84で戻りが終了したということです。

この18度線がポイントなのですが、もしこれを上に突破した場合、再度の円安で安心したくなりますが、ただ突破時点が11/23の週だと注意が必要ですね。75円台記録の週から212週かけて円安終了の可能性は否定できないからです。

いずれにせよ、12月には大勢が判明していることでしょう。市場は米国の利上げを確実視しているようですが、これが実施されずにドル安再開なら、やはり円高なのかな?とぼんやり見ているところです。

大切なことは、平常時だからこそ、危機感を持つべきであるということです。この主張は過去何度となく言ってきたので、ひょっとしたら今回の質問で最後にするかもしれません。

なぜなら、平常時じゃない事態が始まったら、平常時のあり方を質問する機会は終わってしまったことになるからです。
12月…どのような事態が待ち受けているでしょうか。まずは先に書いた2つの日柄待ちとなりますね。
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2015-11-11

Twitterから学ぶネット選挙の限界…文字で伝えることは本当に難しい

テーマ:論点集
Twitterはもはや私の生活には欠かせないものになっています。未だ顔を合わせたことがない人と楽しく会話したり、また特定分野の識者の見解を学んだり…。Facebookは友達申請という壁があるので、どうしても以前からの知人中心となってしまいますが、Twitterにはそれがありません。誰をフォローしようが自由です。

学びたいこと、会話したい人を選んで、好きなことを好きなだけ吸収できる、こんな素晴らしい道具はないとすら思えます。

しかし、一旦Twitterを開くと、様々な言い争いが嫌でも目に入ってきます。これらの言い争いは、実にどうでも良いレベルのものが多く、しかも発端を調べてみると、必ずと言って良いほど、どちらかが仕掛けています。
自分のTweetに批判してきた人に「なんだと!」と怒って反論するケースもあれば、他人のTweetをわざわざ引用して見解を加え、相手の反応を待っているとしか思えないものまで、まぁ色々見えてきます。

こういうのはエネルギーを消耗するので、なるだけ目にしないように心がけているのですが、それでも目に飛び込んでくるのがあり、これはもうしょうがないですね。Retweetという機能がある以上、自分がフォローしている方がRetweetすれば目に入ってきます。

これらの言い争いは、よくよく見ると、言葉尻を捉えて拡大するケースや、最初から難癖をつけているとしか思えないものまでいろんなのがありますが、共通点は「とにかくいがみ合っている」ということに尽きると思います。

私は不思議なのです。
顔と顔を合わせて話をしてる場合ですら、お互い理解しあうことは稀でどなり合うことすらあるのに、文字だけで理解しあうなんて土台最初から無理じゃんと思えるのです。顔と顔を合わせている場合は、(音声ではありますが)文字情報と相手の顔という複数の要素があるのに、ネットだと文字だけなので、理解しあえるわけがないのです。

にもかかわらず様々な言い争いをしているわけですから、これはもう「理解し合おう」という土壌そのものが多分最初からないんだろうなと思えてなりません。

今一度、文字情報だけで相手に全てを伝えるのは限界があることを、私は改めて考え直しているところです。
なぜこういうことを書いてきたかというと、実はネット選挙活用について改めて考えてみたのです。
かつてネット選挙の限界を経験し、私は「日本に真の民主主義はない」という仮説を立てました。

「日本は真の民主主義の国ではない」

また、前回はネット選挙活用だけで選挙に臨むという無謀なことをやってしまったわけですが、どういう戦い方をしたかは、こちらをご覧ください。

「2015三鷹市議会議員選挙」
(全部で35回のエントリー)

もうひとつ、民主主義云々以前に、そもそも文字だけで全てを伝えることができるか?と、Twitterの中の言い争いを見ながら、考え込んでしまったのです。

もう結論は出たようなものですね。
そうです。無理なのです。
ところが、政治家の方は未だにネット選挙活用とか言っているわけです。私は自身で経験して、ネット選挙の限界を体験しましたが、改めて政治家の皆さんに問いかけたいのです。

「文字だけで伝わると思います?」

ネット選挙を活用することは、もちろん大切なことです。ある情報につき有権者が知りたい場合、政治家としてはなるだけ答えてあげることが必要であり、その意味ではブログであろうがホームページであろうが、要は辞書のような役割を果たすことは現実にあり、この側面はやはり重視するべきでしょう。有権者の知る自由に応える義務すらあると言えます。

一方、政治家側としては、ネット選挙活用をどうしても選挙の当落に結びつけたくなるでしょうね。現に私がそうでした。

そもそも、ネットの情報というものは、検索されないと話になりません。その意味で調べる側の(有権者の)能動的な行動が前提になります。
しかも、ある情報にたどり着いた時、顔と顔を合わせているわけではない以上、Twitter上の言い争いからわかるように、全てを伝えることはできないと言って良いでしょう。

このように考えると、ネット選挙というものは、実はそれで全て大丈夫というものではなく、あればあったに越したことはないというレベルのものであり、それに過剰な期待をしてはならず、そこから広がるのは善意ではなく悪意から発せられる情報の可能性すらあるという、なんと申しましょうか、諸刃の剣のようなものがあると思えるのです。

Twitterを開くたびに言い争いが見えてきて、文字だけじゃ理解し合えんなぁと頭が向かって、ネット選挙という文字が浮かんで、思わず、「あっ!」と気づいてしまったわけです。
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2015-11-03

見る人しか見ないアンケート

テーマ:論点集
ツイッターでアンケート機能が装備されたようですね。なかなか面白い展開になっています。政治家で活用を図る人が出てきそうですね。

さて、政治や行政が実施するアンケートについて考えてみましょう。このブログで書いてきたように、わが国には真の民主主義は存在しません。個人主義・自由主義からの当然の結論とすら言えるでしょう。何度も書きますが、人は自分のお尻に火がつかない限り動かないのです。民主主義は大切だ!投票に行こう!という理念のみで、人は動かないのです。

アンケートはどうでしょうか。議員さんにしろ政党にしろ、いろんなアンケートを実施します。
まず、誰が見るでしょうか。
議員さんや政党のアンケートなら、その方々を支持する人なら、目は通すことでしょう。そうでなければ、見もせずにすぐにゴミ箱行きでしょう。
行政が実施するアンケートも同じことがいえるでしょうね。そもそも関心がないなら見ることすらない事態は、容易に想定できます。

大切なことは、こんな状況でアンケートに答える方は、ごくごく一部だろうと、実施者側が考えておくことにあります。
つまり、ごくごく少数の集まってきたアンケートなどで、「市民の声を聞いた」とか「協働!」とか言わないことです。

見る人しか見ていないという現実は、よくよく考えると当然の結果なのです。そのアンケートに答えないと、明日からの生活に困るとか考えられないですよね。つまり、受け取り側からすれば、どうでもよいことなのです。

ここから興味深いことがわかってきますね。

アンケートを実施する側は、アンケートをすることそのものに重きを置き「市民の声を聞いた」とかやりたがり、その集まってきた声を忠実に実施したがるのは無理もありません。見方を変えれば、ここにも特定のムラ内部ならではの庄屋意識が見え隠れしますね。集まってきたわずかな声で、仮に政治や行政が動くとなると、これはこれでかなり問題のような気もするんですよ。
つまり、一部の声で、全体が左右されやすいことは否めないということなのです。

ここに想いを馳せると、様々なアンケートの結果を目にした時に、回収率はどれくらいだろう?と気にすることにつながっていきます。特に、行政は、基本計画だの総合計画だの作る時に、必ずと言って良いほどこの手のアンケートを実施しますが、回収率は惨憺たる結果というところが多いのではないでしょうか。

実施する側はわずかな声が集まっているに過ぎないにもかかわらず「協働!」とやりたがる一方で、アンケートの存在すら知らない住民が圧倒的大多数…。

つまり、この手のアンケートの話の類は、片や関心がある人、片や関心すらない人、という2つの社会の存在を確認するに過ぎないということすら言えるのです。
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2015-10-30

自治体の借金…返す元金以上に借りないが大原則

テーマ:論点集
例えば本社ビルを建築する、取引先からの入金が遅れるので運転資金を借りる、ボーナス支払い用に季節資金を借りるなど、企業は様々な借金をします。皆さんのご家庭で、お家を買うときローンを組みますよね。あれも借金です。

他人様のお金でモノを買うのです。借りた以上はその借りたお金に付加価値をつけてお返ししなければいけません。これが利息ですね。結局、借金とは、後刻発生する利息というコストを伴う資金調達のひとつなのです。

さて、自治体では借金に関係してよく言われる言葉の中に、公債費というものがあります。平たく言うと、借金返済のための必要なお金を指します。元金だけではなく利息も含まれます。

当たり前のことなんですが、とても大切なことを書いておきましょう。
公債費は借金の元金そのものではありません。利息も含まれるから当然ですね。
つまり、公債費が減少している、もしくは今後減少する見込みというのは、その額がそのまま元金が減ることにはつながらないのです。

例えば、公債費が10億と仮定してみましょう。その10億のうち利息はどれだけあるでしょうか。1億かもしれないし、2億かもしれないですね。つまり10億の借金「そのもの」が減ったことにはならないのです。

なるほど、では、借金の元金はどれだけ今年は減るの?と疑問を持つのが当然の流れでしょうね。実は、この借金元金額そのものの推移を示すモノって、自治体レベルではあるようでなかなかないのです。

先ほどの10億の例で言いますと、仮に2億の利息としますと、8億の元金が減ったことになりますが、ではその年に9億の借金をしたとしたらどうなるでしょうか。

「公債費は10億でした。新規借金は9億です」なんだか聞こえの良い言葉ですね。しかし、この言葉からは、実は借金の元金が増えていることすら想定されるのです。

大切なことは、「元金でいくら減ったか、新規借金はいくらか」を比較することなのです。

デフレ収束と言いたい政治家もいるようですが、デフレ真っ最中なのは間違いありません。モノの値段はどんどん下がっていきますもんね。そもそも、デフレとは「現金の価値が上がり、モノの価値が下がる」ことを指しますので、価値が上がる現金を借金という形で調達して、やがて価値が下がるであろうモノ(つまりハコモノ)をつくること自体が、大変な損失を生み出しているのです。

行政はいろいろ言いますよね。借金については世代間の公平だとか、ハコモノについてはなんらかの言い分をつけて必要なものだと主張したり…。言い分は言い分として聞いておくとして、みなさんは、デフレの時代に借金でハコモノをつくることの意味をぜひ考えていただきたいのです。

もちろん、やむにやまれずするしかない借金というのもあるでしょうね。これはこれで程度の差はあれ、発生することは致し方ありません。

片や返す、片や借りる、一方デフレ時代における借金のあり方…これらを総合すると、ひとつの公式が見えてきますね。

「毎年、返した元金以上に、新規借金を発生させない」

自治体の借金状況を考えるとき、これが大原則になると考えます。
今後、公債費は減る見込みと首長が言う時こそ「元金はいくら減るの?それに対して新規借金はどうなるの?」という感性を持つようにしてみてください。

このような感性を持ち始めると、首長が「今後公債費は減る見込み」という言葉そのものに、疑問を持つことになるはずです。

本来は、返す元金と新規借金の見込みを対照的に示すことが必要なのです。ところが税を取る側は、今後減る見込みを強調したがるのです。無理もありません。今後これだけ借金するつもりですとは、なかなかいいにくいですもんね。

毎年、予算そして決算を見る時に、返した元金以上に新規借金が増えているなら、それはなぜか?を考えることこそ、もっとも大切なことなのです。
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2015-10-29

学校や教員にあれやこれや求めすぎるからおかしくなる

テーマ:論点集
財務省が文部科学省に教職員定数を減らすよう求めていく方針を打ち出したようです。
この話は、もう例年行事といっても良いくらいで、あぁまたこの記事が出る季節になったかくらいにしか思いませんでした。この手の話が出てくる時期には、秋が深まっていくんですよね。

いくつかの新聞記事を見ましたが、「方針を打ち出した」レベルの話なんですよね。しかし、ネットを開くと、教育関係者含め大反発のようですね。報道内容と、受け取り側の受け取り方を比較すると、ネットの議論が一方方向に行きやすいのだなぁと改めて実感しているところです。こういうのは、きちんと記事の中身を確認したいですね。

さて、財務省の言い分がかなり批判されているようですね。私は批判を承知で書きますが、財務省の言い分に理解を示すものです。少子高齢化社会なのに、教員の数はそりゃ減っていきますよ。子どもが減るんですもん。教員が学校に来て、子どもがいないのに草刈ばっかりやるんですかね?
自然減を過重に宣伝するのも如何なものかとは思いますが、どうもいくつかの主張を組み合わせますと、どうも財務省の言い分は「教員とは教える人である」という当たり前のことを前提に組み合わされている気がするのです。

一方、批判している側の言い分はどうでしょうか。
いじめ対策に人が必要だとか、コミュニティスクールの観点から地域対策に人が必要だとか、そもそも現状でさえ過重労働だとか、いろいろあるようです。批判側の言い分を見ていますと、教員がやるべきことが実に多種多様なんだなと気付かされます。

この手の話になると、私はいつも不思議な気持ちになるのです。
教員って、何をする人なんですかね?

教員は子どもに授業をするのが仕事なんじゃないですかね?しかし、現実はどうでしょうか。
地域の学童保育の祭りに教員はよく顔を出していますね。IT教育と言われればITを勉強するだろうし、食育と言われれば地域の農家の人のところにも勉強に行くだろうし、いじめ対策と言われれば重大事案となると警察とのやりとりも増えるでしょうし、地域団体主催の会合にも参加しないといけないでしょうし、自治体によっては小中一貫教育だのコミュニティスクールだの、それによっては会議数も増えるでしょうし…。

よくよく見ると、「教える」以外のことがあまりに多すぎるのですよ。この現状を維持しようとすると、教員を減らすとは何事だ!となるのも無理はないですね。

さて「◯育」という言葉を考えてみましょう。先に述べたIT教育だの、食育だの、まぁいろんな「◯育」がありますね。議会でもよく質問がある分野です。学校でこういうことをやったらいいじゃないか?と聞かれたら、中味が一般受けするものなら、嫌とはなかなかいいにくいですよね。

これらの現象は、結局のところ、何もかも教育の名の下に現場の学校や教員に負担を課すものであるという発想がなかなかみえてこないところに特色があります。

私は、教員は「教える」に特化して、それ以外のことを一切やらないようにしてみたらどうだろうか?と考えているのです。

教えるに特化することなく、あれもこれもと学校や教員にやらせている現状が、まずは問題なのです。お住いの地域の学校をよく見てください。どうでも良い会議に時間を取られているなぁとか、なんで誰も聞きに行かないであろう講演会を毎年やっているのとか、まずは「あれ?」と思う現象をみてみましょう。

「なんでこんなことまで教員がやっているの』という素朴な疑問が出てきて当然なのです。

財務省vs文部科学省というお決まりの構図が騒がれる時期にいつも思うのですが、教員を減らすことにただただ反対!ではなくて、「教員のやることを減らすにはどうすればよいか?」の声がなかなか聞こえてこないのは何故なんでしょうか?

反対側の言い分もよくわかります。わかるからこそ、まずは教員の負担にはどういうものがあるか?なぜそれらが発生してしまったのか?の議論をもっと展開して欲しいのです。

私は、教員は、「教える」に特化して、「教えること以外のこと」を削減するところから議論を始めるべきだろうと考えます。現状のままで教員削減反対というのにはついていけません。ですので、かなりの少数説なんでしょうが、私は財務省の言い分を理解したいという立場です。

自治体レベルでは、「教える」とは関係のない教員の負担を洗い出し、それらを削減することから始めるべきでしょう。
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2015-10-28

答弁は要望内容容認を求めるものではない

テーマ:論点集
地方議員にできることは何か?改めて考えてみますと、絶望的な現実を目の当たりにします。
まず、予算を編成できません。首長が予算を編成できます。予算は議案として議会に上程され、その予算で良いかどうか、賛否の手の上げ下げが全てと言っても言い過ぎではないでしょう。

政治家というものは、庄屋意識に満ちた人ですから、当然ながら地元の地域の住民の要望を議会の場で首長にお願いをするということになります。ここからも、首長をワントップ、すなわち唯一の権力者とした見事なまでのピラミッド構図が読み取れますね。議員は住民の要望を首長に届けるという次元では、権力者と納税者の中間に位置するわけです。まさに民主主義的観点の構造の賜物ですね。

議会で首長にお願いをする場は、本会議場での質問が多いでしょうね。「Aにつき、私はBを実施すべきと考えるが、首長の見解を問う」みたいな形が一般的でしょう。

さて、ここで改めて「質問」という文字を見てみましょう。「質」すなわち「ただす」わけです。お願いではないのです。平たく言えば、「この件はどうなってるんですか?」という、まさに「ただす」です。ここからは、ただす側とただされる側の力の均衡が読み取れますね。いわば自由主義的観点、力の均衡の構造です。

つまり、制度上のあるべき姿と、実際と異なっている現実があるのです。

議員には庄屋意識があります。「あれをつくったのは私だ!」というあれです。地方に行けば、なぜこんなところにこんな大きな道路があるの?という現実をよく目にしますよね。そういうのを見るたびに、私は政治家特有の庄屋意識に想いを馳せるのです。

この庄屋意識の昇華には、権力のワントップのピラミッド構造は実は親和的なのです。こういう要望が届いている、お館様なんとか!というわけです。下から吸い上げ、上にあげ、お裁きを施してもらうというわけです。どこかでみた時代劇となんだか似ていますね。

この流れだと、質問するとき、首長に理想の答弁を「求める」姿勢になるのは無理もないですね。「求める」答弁が権力者から返ってきたら、お館様に認めてもらえた!となるわけで、その政治家の評価は格段に上がります。

しかし、改めて考えてみますと、制度上はやはり「ただす」なわけで、諸問題につき行政側の考えを聞くというのが本来あるべき姿です。理想とする答弁を「求めたら」もらえた、お願いしていた事項が予算化されたなどなど、議員さんによって様々でしょうが、有権者の皆さんは是非一度、議会質問とは何か?について考えてみる機会を持っていただきたいと思います。

庄屋意識の当然の帰結として、政治家の実績を問う声がよく聞こえてきます。以上述べたように、実績とは、質問したことが増額にしろ減額にしろ予算化されたかとなるのでしょうが、権力のワントップ構造を考えるとき、地方議員レベルで実績と言えるものは何があるんだろうか?と近時の私は考えるようになってきました。

予算編成というのは大変なことです。この小さな三鷹市でさえ、約1000億円の予算が審議されるのです。要望した事実が予算化されたらそれで良し、予算議案が上程されたら賛成するというのは無理もない話です。予算編成権が議会側にあったら、と考えたくもなりますが、行政国家現象といわれて久しい現在では、非現実的と言わざるを得ません。

政治家特有の庄屋意識につき、時間があれば日本史を勉強しながら、政治意識論とでもいいましょうか、そういうものに手をつけたいと考えているところです。現状では、政治家に実績を求める声は確かにあり、制度上は力の均衡を示してはいるものの実際は権力ワントップ構造に親和的になっていること、また予算編成権を議会側に移すのは質量ともに限界があることなどを合わせ考慮しますと、いずれにせよ限界があることはまちがいないようです。

私個人としては、地方議員という制度はもう必要ないのではないか?とすら思い始めています。そもそも、住民要望と言っても、権力者側の窓口をきちんとしていれば良い話です。入り口の問題ですね。議員を介在させることなく予算化につなげることは現実に考えられます。その代わり、いわば地方行政監査士とでもいえばいいのでしょうか、監査専門の人たちで行政を監視する方が、より現実的だろうとすら思います。

しかし、いうまでもなく、このことが実施されたと仮定すると、では民主主義的観点はどうなっとるんだ?となりかねません。難しい問題ですね。

まとめに入りますが、地方議員がする「質問」とは本来は「ただす」ものであり、権力者に理想の答弁を求めるというものではないのです。お気に入りの議員さんの質問を目にする機会があれば、ぜひ一度じっくりとご覧になってください。質問に対し首長が認める姿勢を出したとします。当然あなたは喜ぶでしょう。

しかし、同時に気づいてください。

権力者に認めてもらえたことを喜ぶとは、いったいどういうことなのか?ということを。
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2015-10-27

地方自治レベルで政権交代は事実上不可能に近い

テーマ:論点集
昨日書いたように、人はお尻に火がつかないと動きません。言い換えれば、お尻に火がつくまで動く必要がありません。

では、お尻に火がついて投票に行かざるを得ないほどの重要な争点とは、どんなことが考えられるでしょうか。いわば、政権交代に匹敵するほどの争点があるでしょうか。

まず思いつくのは負担増ですね。上下水道の料金が上がるとか、ごみ回収につき有料の袋を使わされるとか(いわゆる家庭ごみ有料化)、地域によっては公営の交通機関の料金値上げなどが考えられます。

しかし、これらは負担増といっても、せいぜい数百円のレベルです。我慢できる範囲ですね。政権を倒そうというレベルには至りません。私は、三鷹市における家庭ごみ有料化の際に、この現状を思い知らされました。

一時期、多選批判が持てはやされた時期がありました。同じ首長のままで良いのか?という怒りです。

しかし、これもよくよく考えますと、個々人レベルではどうでも良い話なのです。誰が首長だろうが、会社の転勤命令が出たら引っ越すのです。持ち家はあるが、転勤で家を貸しているなんて例ざらにありますね。自分の生活の範囲で全てが完結する場合、すんでいるまちのエライさんが誰であろうがどうでも良いのです。ひょっとしたら、首長の名前を知らないケースもあるかもですね。そりゃそうですね、覚える必要なんてないですもんね。

多選批判というものは、長く権力者の座にいたものを引き摺り下ろすという、いわば権力をめぐる御家騒動レベルに過ぎないのです。ここでいう御家とは、与党とか野党とかそういう概念ではなく、権力に接している次元が個々の住民より近いと言う意味です。

「あいつは長く権力者でいすぎなんだよ。少しは俺たちの方にもやらせろよ。でないと権力腐るだろ?」…もっともですが、まぁ個々の住民の皆さんには関係ないですよね。勝手にやれば?で終わりです。前回の埼玉県知事選では、自ら多選に一線を画したはずの方が、再度返り咲くというのに低投票率のままなのです。まぁ、多選批判なんてこんなもんです。

財政の悪化はどうでしょうか。「こんなに借金が増えた!」は確かに論点になりそうです。
しかし、財政の悪化も、個々人レベルから考えるとどうでも良いことです。いつ引っ越すかもわからない、別にどうでもいいじゃん、というわけです。地方の場合、引っ越す云々は確かになさそうですが、借金が増えたおかげでこれだけ生活が不自由になったというのは、ちょっと考えにくいですよね。先ほど料金の値上げを書きましたが、数百円レベルなら大して見向きもしないでしょう。

医療や介護の条件がよりきつくなる場合は、どうでしょうか。これはインパクトありそうですね。なんといっても自分自身の「今」に降りかかることでもあります。

しかし、これは自治体レベルではどうにもならないことが意外に多く、不利であろう現職側がきちんと国庫負担の説明などをきちんとすれば、さほど争点にならないでしょう。

いかがでしょうか?
政治に関心があり、普段から選挙に行くから「こそ」多くの論点が見えてきて、「これは問題だ!」と沸騰しやすくなり、その沸騰状況を大多数の住民が横目に見ながら、もしくは気づくことすらなく、自治体レベルの権力者は決まってしまう現実は、やはり否定できないのです。

このように見てくると、権力者が権力の座を降りざるを得ない場合は、極端に言えばなんらかのスキャンダル以外考えにくいということになります。しかも、この手のスキャンダルは通常ではまずありません。なぜなら、ある場合はすぐにマスコミが報道するでしょうし、だからこそ住民の目に止まりやすくなり、権力の座を追われやすくなるからです。「どこから」情報が入ってくるのかというのも、大きな要素になってきますね。

このように、自治体レベルでは、政権交代はまず発生しないと見て良いでしょう。国政と異なり、自民・公明・民主の大連立状態の自治体議会は、それこそ数多くありますし、こういうところならなおさら政権交代はないですね。

こうなると、権力の座はどのように移るのかについては、答えは簡単ですね。

「禅譲」しか考えられないのです。多くの自治体の首長選挙で、権力者が次を後継指名することがよくありますよね。まさにあれです。

自治体レベルでは、権力者の地位は、特定勢力により固定化され、脈々と続いていくというわけです。しかも、このことにより、多くの住民には特段問題がありません。そもそも「たまたま」その時期に住んでいただけなのかもしれません。

自治体レベルで、権力者側は「税を取り使う側」です。一方、納税者は「税を支払う側」です。

つまり、国政と異なり、自治体レベルでは、権力者と納税者は、それぞれ別世界を形成しており、いわば2つの社会を形成しているわけです。国政選挙と異なり、自治体レベルの選挙の投票率が軒並み低いのも理解できますね。

改めて思いますね。
地方自治は民主主義の学校なわけないですって。
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2015-10-26

地方自治は民主主義の学校ではあり得ない

テーマ:論点集
今年の初めの日経の記事をまずはご紹介しましょう。
ネット選挙の浸透まだまだ 衆院選候補者情報「見た」16%

国レベルの選挙だと、新聞だのテレビだの目にする機会は多くなります。当然関心も出てきます。
地方レベルの選挙、特に市町村レベルだと、新聞だのテレビだの目にする機会はまずありません。当然関心を持ちようがありません。

国レベルの争点だと自分の身に降りかかるケースも考えられます。税金のあり方などが典型ですね。自分のお尻に火がつく可能性に直結するわけですから、当然関心も出てきます。
地方レベルの選挙、特に市町村レベルだと自分の身に降りかかることって、よくよく考えるとあまりありませんね。最初に直面するのは、いわゆる保育園問題でしょうね。我が子が待機児童になりかねない、いったいどうなっとるんだ?などなど、自分の身に降りかかることから政治の関心を持ち始めるのは無理もないことです。自分に関係のないところで選挙が行われているというのが、多くの地方レベルの選挙の実態ではないでしょうか。

若干それますが、若者世代の投票率低下の問題がよく言われますが、考えてみますと、自分のお尻に火がつかない以上、わざわざ貴重な休みの日に投票に行く必要はないのです。いわば自由主義的観点と申しましょうか、「ほっといてくれよ」の発想からだと、「私に関係ないから興味ねぇわ」というのは、当然の結論とすら言えます。

つまり、そもそも、選挙は関心がある人しか行かないのです。

さらに、関心がある人は、それなりに調べようとする人が出てきます。ここでネット選挙の意味が初めて出てきます。
ここでわかることは、ネット選挙の相手方は必然的に選挙に対し「能動的」な方と言え、その意味で入口から限定された人たちを相手にしているに過ぎないのです。

私は、今年の春の三鷹市議選で立候補し、完全ネット選挙で臨みました。選挙カーなし、選挙事務所なし、電話がけなし、それどころが街頭宣伝すら一切なし…その代わり選挙期間中は情報発信を頑張り、様々な論点を用意し、判断材料をできるだけ揃え…
始める前は民主主義の意味を重んじていました。民主主義の重要性を考えれば、みんなある程度は投票に関心があるはずであり、様々調査するだろうと。
結果は、大幅に票を減らしてなんとか下位で当選という有様でした。
この経験から私は多くのことを学びました。次のブログ記事にまとめているので、よろしければご覧ください。

日本は真の民主主義の国ではない

民主主義的観点を重視すると、決して喜ばしいことではありません。低い投票率で、自治体の運命を左右することなど、決してあってはならないことです。
しかし、人は利害で動くものなのです。お尻に火がついたら人は動きます。火がつかない限り人は動かないのです。

これが良いか悪いかという価値判断は、それは悪いに決まっているのですが、ポイントは「選挙は大切だよ、だから投票に行こう」という掛け声は、届く人には届くのでしょうが、すべての人に届くわけではなく、また届いた人も自分に関係なければ動かないだろうという現象を、ありのままに受け入れることにあると考えます。

先ほど書いた私の実験ですが、私はどうしてもこれをやってみたかったのです。今冷静に振り返るととんでもないことをやってしまったなぁと反省することしきりですが(笑)、私は民主主義は重要なんだよという価値観がすべての人に共有されるわけではないということを、身をもって体感したかったのかもしれません。

どのようにしたら選挙に通るかと言われれば、今は間違いなく露出した者勝ちと答えるでしょう。それが現実だからです。何度も駅頭に立ち、何度も大きな音量で選挙カーを走らせ、否が応でも有権者の脳裏に名前を焼き付ける、そのことによって初めて先ほど書いた「能動的」な層の脳にインプットされ、スタートラインに立てるわけです。

冒頭に紹介した日経の記事ですが、考えてみますとより身近に感じる国政選挙でさえ16%という状況ですから、自治体レベルではもっと低くて当たり前ですね。

まとめに入りますが、ネットというものは、有権者が「能動的に」動くからこそ意味がある道具であり、ではどうすれば有権者が「能動的に」なる機会を増やすか?が問題になってくるということです。ここから情報開放の考えが重要になってくるのです。

「地方自治は民主主義の学校である」よく教科書的にこう言われますが、現実はこの正反対であり、地方自治は民主主義の学校ではありえないということになります。
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2015-10-22

自治会など住民自治組織の後継者不足問題を議員は考える必要はない

テーマ:論点集
皆さんのお住いの地域で、名前こそ自治会だの町会だの様々でしょうが、いわゆる住民自治組織があることでしょう。マンションの場合もそうですね。以下、名前を統一して自治会という言葉で論を進めてみます。

「自治」会なのですから、自らを治めるわけです。地域で起こったことを、地域の皆さんで解決するのです。大切なことは、これらの活動は、構成員の「意思」を頼りにしているということです。まあ、当然ですね。「自治」なのですから。

近時、この自治会の役員のなり手不足が問題となっている地域があるようです。地方だと高齢化が進んでそもそも若者がいない現状があり、一方都心部では、そもそも若手の世帯で自治会そのものに加入していないケースなど、いろんなパターンがあるようです。

まず、前者ですが、いないものはしょうがないですね。問題にしようがありません。
問題は後者です。ポイントは、役員云々以前になぜ自治会に入らない世帯があるのか?という点です。これを問題視して、よく地方議会で自治会のあり方や加入促進を質問するケースがあるようです。

一見、まともな問題提起に見えます。しかし、ここで一旦立ち止まって考えてみる必要があります。
そもそも、「自治」会なのです。自分たちでやっていることなのです。加入しない人にどう働きかけるかは、自治会で考えるべきことであり、政治が考えるべきことではないのです。至極当たり前の話ですね。
議会で質問されても、答弁する方も困るでしょうね。例えば、新規加入に向けて、こういう条件整備が必要だとか、答弁してしまったら、これはもう大変な問題ですね。自治に権力が介入する瞬間なのですから。
ですので、答弁する側も、「魅力発信を期待したい」とか、そういうありきたりな答弁にならざるを得ないでしょうね。

これらの現象をつぶさに見てみますと、地域で起こっている特定課題を議会で取り上げるのに「相応しいのか」というテストをすることなく、まずは取り上げるというところに特徴があるような気がしています。ちょっと考えれば、自分たちの集落の問題を、自治体全体の場ともいうべきところで質問することの方がどうかしているのです。

後継者不足も同じ理屈ですね。「自分たちの問題なんだけど、市はどう思いますか?」って、それは、はぁそうですかとしか言いようがありませんね。

人は強制されない自由を持っているのです。人はメリットがあるところには参加します。人はお尻に火がつかないと動きません。全ての基本は、「ほっといてくれ」から考えるべきだと思うのです。
このように考えると、加入者不足問題を議会で取り上げること自体ナンセンスですし、また当該自治会に加入するメリットがなければ、そのメリットを自治会が作り出すべきなのです。

これらの活動は、いわゆるボランティアですね。最初から参加意識に乏しいのなら、いっそのこと解散すべきなのです。大切なことは、ボランティアとは、本人の自主性や意識の持ちようでなんとか成り立つものであり、そこに強制の要素が若干でもあると、人は逃げ出すということです。

意識を共有し、一緒に自治会を構成するということは、もうそれだけで大変な話なのです。私自身、住んでいる地域の町会には加入していません。加入したいとすら思いませんし、勝手にやれば?としか思いません。

よく居心地悪いんじゃない?とご心配をいただきますが、そもそも40代後半にもなろうというのに、今さらいわば強制的にどこかに属したいとはさらさら思いません。残りの人生が少ないなら、気の合う人と付き合っていきたいですね。

もちろん、自治会に加入している人と、個人的に仲良くしていることはありますが、それは「個人対個人」の関係であり、それ以上でもそれ以下でもないのです。

日本特有ともいうべき、ムラにいる以上は、そこの会に所属して当然みたいな空気は私自身は苦手ですし、いわば強制的帰属とでもいいましょうか、そういうのはやはり個人の自由の観点から考えると疑問を感じますね。ましてや、議会で取り上げるとなると、「ここはあなたが固有の問題を議論するところではありません」でおしまいとすら思います。

まとめに入りますが、自治体を巡る環境で、様々な場面でボランティア擬似強制みたいな現象が近時発生しており(地方都心問わず)、そのことが個人の意思の自由を外形的に拘束してしまっていることは私は問題だと考えます。言うまでもなく、この関係での補助金の類があるのであれば、それは地方議員の方は問題視していくべきでしょう。
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2015-10-21

議院内閣制も二元代表制も実質は同じである

テーマ:論点集
日本で一番偉い人は誰でしょうか。長男に聞いてみたら、答えは「内閣総理大臣」と来ました。
三鷹市で一番偉い人は誰でしょうか。長男は今度は、「市長」と答えました。
議会人の端くれとしては、いやいや議長じゃないの?と言いたくもなりますが、それはさておき、子どもでも権力者のイメージというのはあるのだなぁと改めて実感させられました。親バカと言われればそれまでですが、ちゃんと言葉を覚えられて偉いね!ともちろん褒めてあげました。

行政権だの立法権だの三権分立だの、難しい話はさておき、この両者が国及び地方の権力者というのは正解とみて良いでしょう。
行政国家現象という言葉がありますが、これだけ膨大な予算を編成するわけですから、もはや議会はただの追認機関であるとすら言えるかもしれません。議会サイドでゼロから予算案編成というのは、現実では考えられません。

さて、内閣総理大臣を選ぶ際によく使われる言葉は、議院内閣制ですね。簡単に書くと、国会で多数派の一番偉い人が内閣総理大臣になるわけです。建前としては、議会が行政権を監視し、信認を失った内閣はもうダメですよとなります。とはいえ、議会側から、「あなたはダメよ」というケースはなかなかないですね。無理もありません。多数派の一番偉い人に「あなたはダメよ」なんて、普通に考えたら言えるわけがありません。会社を想定してみてください。極端な例ですが、平社員が徒党を組んで社長に「あなたはダメよ」と言うわけがありませんね。まぁ、感覚的にはそれと同じこととみて良いでしょう。
一旦選ばれたらもはや最後、あとは権力者たる内閣総理大臣の意向に沿うように、多数派の過半数により追認をするのが国会とすら言えるでしょう。

では、地方の首長はどうでしょうか。首長を選ぶ際によく言われるのは、二元代表制ですね。
先ほどの議院内閣制は、内閣総理大臣は国民が直接選挙で選ぶわけではありません。これに対し、地方の場合、首長の選挙があるのです。もちろん地方議員も選挙があります。首長も議員も、住民が選挙で選び、両方ともに市民代表であり、対等の立場でお互いに牽制し合うと、教科書的には説明することになります。

ところが現実はどうでしょうか。
三鷹市の例を出しますと、現市長は、自民党・公明党・民主党の支援を受けました。この3者は三鷹市議会で過半数を持っています。

先ほどの議院内閣制と比較してみてください。
実は全く同じなのです。多数派の中から権力者を選ぶという意味では、実は議院内閣制も二元代表制も、実態面では全く同じとすら言えるのです。実態が変わらないのなら、首長選挙はなくても同じですね。

一方、地方議員の方々の中に、二元代表制の存在意義を重視し、地方議会をどう機能させ首長に対抗する組織にするかを真剣に考える方がいらっしゃいます。現に以前の私はそうでした(今は違いますが)。

しかし、議院内閣制、二元代表制というシステムの違いはあるものの、両者の根底は権力者選出作業という次元では同じであり、その意味で誰が権力者かが確定したら、実はそこはスタートであると同時にゴールですらあると言えるのです。

首長与党という言葉があります。与党とは、要は支える人とでも理解して頂ければ結構です。二元代表制を重視すると、地方議会に与党も野党もない、議会は一致して首長を監視すべきだ!となるのでしょうが、先ほど書いたように権力者は選んだらおしまいという側面を考えると、実は地方議会も与党と野党という現象が発生するのは致し方ないことなのです。

例えば、誰が見てもおかしな条例を首長が議会に提案したとします。二元代表制を重視するなら、議会は否決となるのでしょうが、権力者選出作業の側面を考慮すると、私たちの中から選んだ権力者が決めたのだからと追認することになりますね。

こう考えますと、国会であろうが地方議会であろうが、現実としては、権力者の追認機関というのが実態なのです。

地方議員の方は、二元代表制を重視するという理念を掲げても、現実には限界があることを誰もが経験なされていることでしょう。議院内閣制と比較してみますと、実は議院内閣制も二元代表制も同じであるということに気づくと、一種の冷めた達観の域に達することでしょう。

議院内閣制であろうが、二元代表制であろうが、権力者選出作業の形態が若干異なるにすぎないと捉え直すと、実は国会も地方議会もなんら変わらんと言えるのです。
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