私 現在アメリカ在。日本国籍。
元夫 現在沖縄在。アメリカ国籍。アメリカ空軍所属。
長男 11歳。沖縄の地元小学校5年生。両国籍。
次男 7歳。1年生。両国籍。

2004年 沖縄に住んでいた私達は、夫のDVが理由で離婚する事になった。
離婚直前に、私の祖母が体調を崩し手術をする事に。ただし、高齢の為、万が一が考えられるとの事で医者から家族は一度祖母に会いに行くべきだとのコメント。二人の息子を連れて、祖母(青森県)の元に行きたいと夫に伝えたところ、協議離婚で、子供の養育者を彼の名前で届けなければ、祖母の所に行かせないと言い張る。数日間、話し合いをしたが彼が全く譲らない為、祖母のことを思い仕方なくそれにサインし、日本本土へ行く。

約二週間の滞在を経て沖縄に帰ると、フロリダ州での離婚届けと協議書を渡される。(結婚は、フロリダ州でしたので、離婚もフロリダ、日本には結婚届を帰国した際に提出)その協議書にも子供の親権は父親にと書いてある。それではいけないと夫と話し合いを続けるが、アメリカ本土で職がないものは親権を取れない、仕事を見つけてから親権を変える裁判をすればいいと夫に言われ、しぶしぶサイン。直ぐに、夫にアメリカに渡り仕事を探せと言われ何も知らぬ私は、グリーンカードを持って渡米。直後から、子供達と電話で話せなくなる。インディアナで通訳の仕事をはじめ、アメリカでの銀行口座も作って安定したところで、裁判を起こす。子供達に、養育費を毎月払っているのに、電話でも話させてくれない。手紙を出しても、返事も来ない。夏の面会(一ヶ月間)もさせてもらえない。アメリカ裁判は、時間がかかるので、直ぐに結果が出ない。そこで、たまに通じた電話で恐ろしいことを知る。長男(当時一年生)によると、新しい苗字になったらしい。直ぐに、実家の両親に電話をして、戸籍を取ってもらうと、元夫は沖縄の日本人女性と離婚後直ぐ再婚し、その女性が息子二人を養子縁組して私の籍から子供達の名前はとっくの昔に抜けてバッテン印になっていたのです。あわてて領事館に問い合わせると、日本の協議離婚書に子供を養育するものが夫になっているので、私の許可なしに、子供達を養子縁組することが可能だという。私は、アメリカの離婚協議書にそって養育費も毎月払っているのに、日本ではいつの間にか、自分の子ではなくなっていた。子供達を彼女の養子にすることは明らかにアメリカの離婚協議書に違反。また、電話も面会も記載されている通りにはさせてもらえない。そうしているうちに、沖縄に住んでいる友達からの連絡で、どうも元夫が沖縄での任期を終え、ヨーロッパに転勤になるらしいという話を知る。その当時でも、子供達との連絡は途絶えてきていたので、彼らがもしヨーロッパへ行けば、もしかしたら一生会えないかもしれないと思い、いろいろ考えた上でグリーンカードを使いアメリカ軍への入隊を決心。軍へ入れば、世界中の米軍基地へ行き来できる。また、軍の施設(軍警察、軍法律事務所など)も使える。言葉の問題が気になったが、当時の英語力で問題ないと言われ入隊。激しいブーツキャンプに出発。その後、職務訓練で6ヶ月間バージニアで過ごしている時に、私のフロリダの弁護士から連絡が入る。どうやら、元夫はヨーロッパではなく、ノースカロライナ州に転勤になったらしい。もしかして、子供達も来ているのかも知れないと胸を高鳴らせ当時の司令官に頼み、ノースカロライナの空軍基地に連絡を取ってもらい彼の居場所を発見。しかし、彼は単身赴任で子供達は、新しい妻と一緒に沖縄に残したという。子供達にはずっと会っていないし、話もしていない。がっかりだった。職務訓練が終了し初勤務地であるルイジアナに転勤になった。自由のみになった私は、出来る限りフロリダで行われる裁判へ参加した。裁判長は、面会権が無視されている為、元夫に子供達を一ヶ月アメリカにつれてきて、私と一緒に過ごさせるよう命令した。元夫は、飛行機のチケットをとった後、弁護士を通しいつアメリカに子供達が来るかを知らせてきた。ヒューストンで待ち合わせすることになった。空港の荷物取場で待ち合わせ2時間前に到着。ドキドキして待っていた。その判決が出て直ぐ、私は、家の子供部屋を完璧にした。子供達が寝るベッドも買った。部屋も、子供達が楽しく過ごせるように工夫した。子供達が好きだったおやつも買った。しかし、待ち合わせ後2時間を過ぎても子供達は現れなかった。Unitedに問い合わせると、キャンセルされていたらしい。涙が止まらなかった。彼は、その後同じ事を再びした。裁判長は、彼の100%親権を一時的に50%ずつということで判決を出した。しかし、彼の子供達に会わせない、話させないは続いた。去年の二月、いきなりひょっこり彼と連絡が取れた。沖縄に来たら、面会させてやるという。二日間の予定で会うことになった。本来ならば一ヶ月なのだが、彼が会わせてもいいと言うので気が変わる前に取り決めした。会う直前になって、面会は監視付きと告げられた。約束が違うというと、だったら会わなくてもいいという。一年半以上ぶりに会う子供達は、以外にそっけなかった。私の名前も覚えていなかった。ままと呼ばれるかと思ったら、シヅカさんと呼ばれた。さびしかった。監視は、元夫と、その奥さんだった。場所移動の際は、子供達と一緒に車に乗れない。子供達と心置きなく話すチャンスは全くなかった。その次の裁判で、ついに裁判長が私に100%親権をくれた。ずっと、待ち望んでいた判決。しかし、その日、彼サイドは誰も出席しなかった。彼の弁護士は彼の行いにあきれてやめたそうだ。あの日から、9ヶ月になる。アメリカで親権を与えられてから、一度も子供達と連絡が取れない。どうやら、電話番号もブロックされたようだ。誕生日に贈ったものは、受け取り拒否だ。唯一子供達に会えるのは、彼らが行っている小学校のHPを見るときだ。たまに、彼らの写真がでている。私の夫は、米軍で仮退役しているため、毎日基地に出入りしていないようだ。彼らは、基地の外に住んでいるため、アメリカのオーダーは、何の意味がない。

私は、毎日思っている。日本で、共同親権を行っていれば、子供達は他人に養子に行かなかった。役所に言わせれば、今、私は、日本では子供達の親ではない。悲しいことだ。
私の元夫はアメリカ国籍だ。大体、彼の戸籍ではないのだ。私の戸籍を、外国人の彼に荒された。私の許可なしで養子縁組が可能な日本の法律。本当に、悔しい。私達親子の唯一の絆を砕かれた思いだ。それで、私がもしも日本に行って子供達と会おうとすれば、おそらく元夫と新しい妻は私を誘拐犯として警察に通報するだろう。セボイさんが体験したように。ハーグ条約もいいが、私は、共同親権についても応援する。私は、遠く離れた地で、アメリカ軍の制服を着て、毎日子供達を思いながら仕事をしている。
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 2010年2月27日、夜9時頃に帰宅すると、家の中の電灯が点いていなかった。「どうしたのか」と思い、持っている鍵でドアを開けると、妻と2人の子(当時3歳と1歳)、
飼い犬がいなくなっていた。状況がよく飲み込めないままリビングへ行き、電灯を点けると、書き置きとともに、家庭裁判所からの調停呼び出し状が置かれていた。
 翌日、市役所へ行き、住民票を取ってみると私を除く家族は、数日前に妻の実家へ転出していた。
 下の子が1歳にもならない6月頃に、突然「離婚したい」との申し出があったが、生活費は欠かさず入れ、浮気や暴力行為・暴言などはもちろんのこと、飲酒・喫煙・ギャンブルすらしない私にとっては青天の霹靂であった。妻は以前、不妊治療を受けている際に「うつ症状」の副作用を伴う投薬を受けていたが、その頃の言動と離婚を言い出した際の言動が、酷似していたことや、育児ストレスが高まる時期でもあったことから、心療内科の受診を勧めると、そのことに対して激高し、それ以降、会話らしい会話は無くなっていた。
 それでも11月頃には長男の幼稚園を選定するために5軒ほど説明会に赴き、入園を決めた幼稚園の制服や教材を購入しており、このまま同居を続けてゆけるものと思っていた。


 調停では、お互いの意見は平行線であり、合意事項は、私の方から申し出た「婚姻費用の支払い」と、当初、妻は頑強に抵抗していたが、調停委員の説得によってしぶしぶ同意した「月1回の面会交流(日帰り)」及び「長男の年2回の宿泊を伴う面会交流」であった。
私は、妻に精神疾患の可能性があることを訴えたが、調停委員は「そのようには見えない」、
若い女性の家事審判官(大島佳奈子氏)は「うつだったら子育てなんてできませんよ」との一言で切って捨てられた。一方の親の正常でない精神状態での判断により、2人の子が片方の親を失い、その後の人生が大きく変わるにも関わらず、医師でもない家事審判官や調停委員が、ほんの僅かの時間本人と会っただけで精神疾患を有するか否かを決定すべきものではない。現に、刑事事件においては、被疑者の責任能力の有無は、量刑を決定する上で、重要な要素である。男性の調停委員は、私に非がないことと、妻からの離婚の申し立てについて、「わからない」との感想を口にしていた。


 妻の離婚の意思は固く、調停は2回で不調となり、○月○日、東京家庭裁判所に離婚及び二人の子の親権を求める訴訟が提起された。相手は、当然、弁護士を立ててきており、私は家庭裁判所からの訴状に同封されていた「無料相談所」に連絡し、そこで紹介された弁護士に相談をした。その際に、委任した際の報酬を尋ねると、「本件は複雑な事案であるから、まず、着手金として相談所の報酬規定の上限の40万円」と言われた。また、「訴訟の前に双方の代理人である弁護士同士で話をして解決を図る方が、対立が激化しないで済む」とのアドバイスを受け、それはその通りだと思い、その際の報酬を尋ねると「訴訟と同額の40万円」とのことであった。これまでに、ほとんど法律とは縁のない世界に生きてきた私にとっては、「ボろうとしている」という印象であった。これが事実であるのか、あるいは正当な報酬であるのかを判断する材料を持たないが、訴訟や法律・離婚・親権などに関する書籍を約30冊ほど買い求め、読了した結果、本人訴訟で臨む決心をした。様々な情報を収集する中で、「共同親権ネットワーク」の存在を知り、6月13日の講座より、参加させて頂いた。訴訟は、現在も係争中であるが、様々な講座や会報などを通じて得た知識は、非常に役に立っており、個人的な印象ではあるが、裁判官(部長職)や相手方弁護士(60歳位?)よりも優位に立っていると感じられることも、しばしばである。判決が出るまでは、楽観は許されないが、少なくとも私の件に関しては、本人訴訟の方が、代理人を立てるよりもメリットは大きかったと感じている。


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面接交流関係のミーティングに参加して、皆さまのお話を伺うと、その悲惨さに胸が痛むことが多いのですが、私の場合には、何とか娘とコンタクトはとれているので、皆さまと比べると恵まれています。
娘と生き別れになったとき小学5年でしたが、今年4月、大学生になり、無事に成長した姿を見ることができました。
離婚してから数年間は、毎週、メールで娘を呼び出していました。
塾の送り迎えもしました。
高校の合唱祭を見に行く機会がありましたが、やはり、周囲に対して引け目があるようでした。
反発があるのか、高校2年くらいからメールも寄越さなくなり、今は、ほとんど何も言ってきません。
養育費でも、勉強でも、できる限りのことをしてきたつもりですが、こんなものなのかな、と、思っています。


娘が見に行こうという映画は、離婚後の親子のふれ合いがテーマになっていることが多かったように思います。
トム・クルーズとダコタ・ファニングの「宇宙戦争」、西田敏行の「ゲロッパ」、メリル・ストリープの「マンマ・ミーア」、福山雅治の「容疑者xの献身」、最近では、松たか子の「告白」。
「マンマ・ミーア」は英国では史上最高のヒット作だったそうですが、日本では全くヒットしませんでした。
「宇宙戦争」は、面接交流での親子のふれ合いという設定のため、SFを期待した日本人には全く理解されず、日本では酷評されました。
「告白」は、離婚で別れた中学生と母親のふれ合いを逆手に取ったような映画で、悲しいかな、日本で大ヒットです。


娘が生まれて4年くらいで、私の体調が不調になりました。
元配偶者には、毎日のように、離婚してくれ、役立たず、病院に行ってこい、と言われ続けました。
娘を連れて旅行に出て、夜、家に電話をさせると、必ず不在でした。
8年前、何の問題もなく順調に仕事をしているさなかに、契約先から突如として仕事を減らすと告げられ、それから数日のうちに、元配偶者から「ハンを押さなければ、子どもには合わせない」と、言われる事態に至りました。
ハンを押した翌朝には、元配偶者は、離婚届を市役所に持って行きました。
離婚してすぐ、元配偶者は再婚しました。まるで仕組まれていたような感じでしたが、元配偶者の実家の至近のところに、離婚を指南するセミナーをやっているところがあり、恐らく、そこに通っていたのでしょう。


私は、子煩悩を通り越して、子どもが全てという人だったので、離婚から数年間は、ほとんど魂の抜け殻のようになり、仕事も失いました。
契約を打ち切ったのは自分自身ですが、仕事中に涙が湧いてきてしまう状況では、とても続けようがありませんでした。
自分でビジネスを始め、自分なりに必死に営業活動をしているつもりですが、既に5年が経過、展望も開けず、貧乏のどん底に沈んでいます。
生きていても無意味なのですが、飛び込む勇気もなく、いまだに息をしています。
大学の入学金までは、何とか娘に渡すことができましたが、ほとんど養育費も渡せない現状では、子どもにつれなくされるのも仕方のないことでしょう。


離婚後、泣いてばかりの日々でしたが、民法改正を目標とする団体に入れてもらいました。
自分なりに運動を進めていこうとしましたが、頑張ろうとするとかえって非難されてしまい、うまく行きませんでした。
それ以来、いろいろな団体に加入してきましたが、私の目からすると、活動している人が入れ替わっているだけで同じことが繰り返されていて、ほとんど運動が進んでいないように見えます。
個人的にも、街頭ビラまき、署名活動、イベント開催など、できる限りのことをしましたが、空振りに終わりました。
もちろん、国会での勉強会や面接交流法制化の動き、面接交流支援、国連へのレポート提出などの日常活動をなさっている皆さまには、頭が下がる想いです。
日本以外の先進国で、すべて、離婚後の共同監護法制化が実現しているのに、どうして、日本だけ、耳も貸そうとしない人たちばかりなのか、悲しく思うばかりです。


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4月30日、3500gの男の子でした。

すぐに胸に抱かせてもらいました。

無事生まれてくれた安堵感で気持ちは満たされていましたが、それとは別の自分の奥底からにじみ出てくるなんとも言えない気持ちで涙が止まりませんでした。

こんな経験は生まれて初めてでした。

その時はまだ、自分の体の一部だったわが子と引きはがされようとは、夢にもおもいませんでした。


私が、2歳にあと数十日というわが子と引きはがしに会ったのは、2008年の春のことです。

場所は保育園。

その後、調査官が教えてくれた、半年から1年の間元夫側弁護士と親権を取るための計画を練っていたのではという元夫の行動は本当に突然なものでした。


今考えれば、元夫は子供が生まれた頃、仕事でひどい挫折を味わっていました。

それまでにも、地方への転勤やいじめなど、結婚以来様々なことがありましたが、何とか重要ポストへ就くことができてほっとしたのもつかの間、元夫は上司へ御愛想でも言える性格ではなく、結局数カ月でそのポストを降ろされてしまいました。

後でわかったことですが、無断欠勤をしていたようで、私は全く気付けませんでした。

元々とてもプライドが高い人でしたので、重要ポストを降ろされたことがとてもショックだったと思います。後から聞いた話ではその責任を「妻が気がおかしくなっていたから、自分は子供を育てなければならず仕事が出来なかったからやむなくそのポストを降りることになった」ということにしたようです。


まず、裁判で私は、気がおかしくなってなどいない、というところを証明するためにロールシャッハテストを受けました。結果は日常生活を送れる正常な人ですというものでした。

その後も続々と、全く現実ではない私でない誰か他の人のことを言っているのではないかという元夫側の言い分に、それでも誠実にことに当たれば必ず裁判官はわかってくれるとの思いから、淡々と誠実に反論をし続けました。

自分のことだけなら、悪い男に引っかかってしまったで整理のつくことですが、私には大切な子供がいました。

とにかくわが子の為にがんばろうと決意しました。


ちなみに私ではない他の人のこととは、本当のことで、元夫側の弁護士は離婚専門でしたので、他の案件で全くの他人のものを私にあてはめて提出書類を流用していたようです。

日付が全く合っていなかったことがあり、他の場所の家裁で使われたものではないかと私側弁護士は言っていました。私の弁護士とも話したのですが、しっかり読み込んでくれれば裁判官にはわかってもらえることでした。


裁判では、裁判官と調査官が大切な役目を担っていると思います。

残念ながら、私はそのどちらにも恵まれませんでした。

裁判官は最後の最後に転勤で人が変わってしまい、新任の方は会ったその時に「尋問はやっても仕方がないんじゃないですか。私は忙しいんですよ。時間が無いんです」と言われました。

調査官に至っては、初めてお会いした時に目を合わせることなくとても感情的な不機嫌そうな態度で、とても公平に真実を探ってくださるようには感じられませんでした。

直後に元夫とその弁護士と一緒に廊下を歩いているところを見かけましたが、私の時とは一転してその調査官は元夫と談笑していました。

考えたくはありませんが、その調査官は夫側の弁護士に何かとり込まれているのでは、と考えてもおかしくない態度でした。

それは、その後の面接交渉の調停を私から申し立てたおり、ついてくださった熟練の調査官が裁判時の調査官の不手際をはっきり口にされたから確信したことです。

挨拶もしない不機嫌な態度や、元夫側との談笑の様、私の調査が全くされていないこと、それらを話すと、「ちょっとおかしいですね、普通では考えられませんね」と首を捻っておられました。


結局、裁判官は提出書類を読み込んでくださった様子は見られませんでした。

そして、子供はその調査官の言い分である夫側にというところが重視され、親権は夫側になりました。


私たちは何を信じればいいのでしょう。

裁判においても、その時の運が幅を利かせ、真実や誠実さは何の足しにもならないように感じます。。

弁護士さえも、“間正直な人ほど裁判では損をするんですよ”という始末です。

何かどこかがおかしくはないでしょうか。


私は、もしも共同親権という法律が整っていれば、友人がひっそりとつぶやいた「模倣犯みたいだね」という親権を取るために必死な元夫の奇怪な行動も言動もなかったのではないかと考えます。


親権を取るために、言葉でわが子のもう一人の親を痛めつけ殺し、嘘をしたてあげるようなことをする、しなければ今の制度では子供に会えなくなってしまう、子供も親に会えなくなってしまう。


私は今回のことで、自分の不利益ではなく、本当にわが子のためとなるところを考えること、それを気づかせてもらったよう思います。


現在の私は、子供とは親権という目に見えない壁で引きはがされてしまったけれど、それでも、自分の中では、どこかで精いっぱい誠実に事にあたれたことが、何か目に見えないところでわが子の為になってくれるのではないかと思っています。


平成5年2月、私が会社から帰宅すると、
子どもたちと元妻と家具が家の中から無くなっていました。
以来、私は子どもたちと会えなくなりました。
当時、長女小学2年生8歳、次女5歳の誕生日から1週間、長男3歳でした。


その1年後、子どもたちと月1回会うという約束のもとに、
八王子家裁において調停離婚しました。
親権は母親側です。
しかし、子を監護している母親は子どもたちと会わせるという約束を全く守らず、
3次にわたる調停、および履行勧告4回の家裁の説得にも応じませんでした。
いくら裁判所の調書で決めたとしても、面会交流には法律も無く、
強制力も罰則も無く、相手方に拒否されたらどうしようもありませんでした。
その上この間に、子どもたちには誤った父親像が植え付けられていきました。
当時はまだ「PAS」という言葉を知りませんでしたが、
年上の長女が先にPASに冒されていきました。


その後、全くらちが明かないため私は東京地裁へ民事訴訟を起こし、
監護親側の6年間にわたる面会交流不履行に対し、
平成11年11月、慰謝料支払いを命じる判決が出ました。
(おそらく、面会交流不履行で、初めて慰謝料を認めた判決だと思います。)
すでにその前、母親は再婚し子どもたちは連れ子として養子縁組をしていました。
(連れ子の養子縁組は、全く実父の側に知らせる必要もなく行われます。
民法第798条ただし書き。
すなわち、実父が知らない間に、戸籍上も新しいお父さんができています。)


そして東京地裁判決の後、私は養親ら監護親からの強引な反撃を受けました。
場所を移した平成12年の水戸家裁では審判官が、面会交流に色々な理由を付けて、
例えば、現在監護親のもとで平穏な生活環境のもとに
子らは精神的にも安定した生活を送っており面会交流はそれらの安定を害する、
面会交流は養父の監護権を害してはならず養父の監護権により制約を受ける、
実父は一歩身を引いて暖かく見守るのが最も良い選択であろう等々、
日本の前近代的な家族意識のもとに、


主文「1年間経過後、新たに合意または審判で面会交流が認められるまでの間、
面会交流を禁止し、子どもたちに接近してはならない。」(審判官:坂野征四郎)


とする審判を平成14年3月に出しました。
この時、弁護士から「事実上永久に、親子の関係を絶つ審判だ」と言われましたが、
そのとおりでした。
事実上の親子の接触禁止が、「1年経過後」も、際限なく効力を持ち続けました。


この間も父子間の情報は途絶えたまま、父親には子どもたちの様子もわからず、
父子の距離はますます遠のくだけでした。
水戸家裁が出した審判は、「1年間経過」したとしても、
過去の実績から、監護親が父子が会うことを認めるとは考えられず、
つまり「新たに合意」が成立する可能性はなく、
また、将来もこのような状態
(監護親の拒否、子どもたちへのPASの浸透、養子縁組)
が改善されない中で、家裁が面会交流を認める審判を出す可能性もなく、
この審判により父子間の人間関係は絶たれ、実質的に将来に向けても絶たれました。
この時、父子の関係を破壊するものだとして高裁まで抗告をしましたが、
棄却されました。


その後2回、平成16年と平成19年に、水戸家裁へ面会交流の申立てをしました。
平成19年のときは、長年全く子どもたちの消息も知らされないため、
消息を知らせて欲しいを、申し立てに追加しました。
しかし裁判所で一度決定したものを変えるのは難しく、
養子縁組した養親らの平穏な監護養育と子の福祉、
および、すでに15歳になっていた子どもたちの拒否を理由に
(家事審判規則第54条:子が満15歳以上であるときは、
家庭裁判所は、子の監護者の指定その他子の監護に関する審判をする前に、
その子の陳述を聴かなければならない。)、
2回とも棄却されました。
子どもの発言内容から、「実父の悪い思い出は無い」と言いながら、
実父と会うことを自分意志だとして強く拒否する等、
誤った父親像を持たされたまま、子どもたちは意味もなく反対しているようでした。
最高裁へ抗告をしましたが、三行決定で棄却されました。
途中、家裁調査官報告書から、長女が拒食症になっていることを知りました。


結局、平成12年の水戸家裁の審判は、
子どもたち3人が全て成人となり面会交流の対象が終了する、
平成21年5月まで、長年にわたり効力をもち続け、
実の親子の接触を禁止し続けました。
よほど野蛮な国の裁判所があったとしても、
ここまでひどいことはしないと思います。


現在、子どもたちは、長女25歳、次女22歳、長男21歳となり、
面会交流の対象となる時期も過ぎました。
子どもたちが突然に消えてから、17年5か月が経ちました。
子どもたちは、どうしているのでしょうか。
幼いときの姿しか思い浮かばず、とても心配です。
このままでは、死ぬまで親子生き別れとなる可能性が大きいです。



さらに詳しくは、http://plaza.rakuten.co.jp/paintbox/5000  をご覧ください。


夜中激しく言い争いをした際、「実家へ帰って、僕らのこと、家族のことをじっくり考えてきてくれ」と、妻に言ったのは僕自身だった。互いの対話不能は隠し切れなかった。僕ら二人が夫婦としてやっていけるのか、冷静に話し合わなければならなかった。子どもが産まれて、これから益々夫婦間の話し合いが必要になるとき、将来がとても不安に思えた。


 約1週間後の土曜日、僕らは話し合いの約束をした。約束の日、妻が一人戻ってきた。2時間ほどだったろうか、話をした結果やり直そうと約束し合った。彼女は(心をきれいさっぱり)出直してくると言った。僕は子どもを連れ戻しに直ぐ妻の実家へ迎えに行くと言った。子どもに会いたくておかしくなりそうだったのだ。また、ご両親にも挨拶する必要があった。彼女はそれを断った。4日後の水曜日、僕は会社を休む予定にしていたので、その日に迎えに行くことになった。


 ところが、翌日の日曜日、携帯をサイレントにしていた午後3時間ほどで彼女から電話とメールが携帯に何度も入っていたことに気づいた。メールの文面から彼女の様子が変だと分った。うろたえていた。嫌な予感がした。直ぐ電話した。彼女は、両親が納得していない、今すぐ来て欲しい、と言った。(あの時の彼女はまだ僕の味方だった、というより味方であろうとしていた)。僕は電車に飛び乗り彼女の実家へ向かった。1時間半ほど、車中で、僕の胸の内では得体の知れない恐怖感が膨らんでいった。


 実家に着いて僕を待っていたのは彼女の両親からの批難だった。彼女も自分を見失っていた。僕は両親を完全に敵にしてしまった。


 帰りの車中、僕は大事なものを失くしてしまう恐ろしさと不安と懸命に闘った。起きていることを受け入れられず悪い夢を見ているようだった。途中で彼女からメールが来た。「僕の味方だから」という内容だった。家に着いて直ぐ彼女に電話した。確かめたかった。悪い夢を終わらせたかった。彼女は僕を安心させることを言い、僕は休むことが出来た。


 それから2日後、彼女は区役所で子どもの転出届を出し、住民票を勝手に移した。僕が子どもに会いに行くと父親がついてきて僕をストーカー呼ばわりした。子どもと会えなくなった。夫婦間の話し合いも拒否され続けた。態度が威圧的に変化していく彼女。保育園入園の申し込みに必要な就労証明書、保険証の遠隔手続き、彼女の荷物送りのことなど、脅されるまま、僕は向こうの要求を呑み続けた。12月中旬、準備を終えた彼女ははっきりと離婚と親権を口にし、僕へ宣戦布告をしたのだ。


 子どもには月に2回会うと決めたが、3月に向こうの母親が僕に難癖をつけ、妻に出鱈目を報告して子どもを連れてこなくなった。
数えれば9ヶ月ほど、現実感のない、気が狂いながらの日々が続いている。調停と子どもに会う為の(弁護士を介しての)交渉の日々。相手方弁護士からのファックスに心臓が止まる思いをし、子どもから引き離されまいと鬼のような怒りで反論書面を書いて日々を過ごしていると、自分が化け物になってしまったような気がする。可愛い子どもに顔向けできない恐怖が襲う。


 あの子は今どうしているのか、何を思っているのか、「パパ」「お父さん」の言葉も知らず、僕はどうやって絆を作っていけるのだ。あの子の将来にとって何が一番いいかなんて、一体どうすれば分るんだっ。居ても立ってもいられない。


 闘いたいのではなくて、僕はただ自分の子どもと向き合いたいだけなのに。

娘を出産して2年半。息子と会えなくなり2年半……

出産という一大事を終えて家族が一人増え、4人家族をスタートするはずでした。
しかし、私は帰れなくなったのです。
里帰り出産をしたらそのまま私と娘は放り出されました。


里帰りの時も「まだ就学前だし、息子と共にお産を迎えたい。」
と何度も夫に交渉しましたが、
「幼稚園を休ませるわけにはいかない」と、
私には訳の分からない理由で結局一人で帰省し出産。
夫一人なら面倒なんて看られるわけがありません。
そう、階下には義父母と同居だったのです。
帰ってくるなと言われましたが、帰ってみると鍵が変えてあり、
裏戸から納屋までそれは見事でした。
幼稚園には早々に「離婚して親権は父親である」と言いにいったらしく、
私は何もとりあってもらえませんでした。
息子を知らぬ間に裏から返していたのです。
私が出産で「息子をよろしく……」と言った時は
「一緒に連れて帰らないの? 心配しないで元気な赤ちゃんを早く見せてね」
などと言っていた保育士達までもに、あきれました。

「離婚した」などと言っているようですが、
相手方は調停を起こすわけでもなく、協議するわけでもなく。
こちらから調停を申し立てました。
しかし地方での調停は何も進みません。
婚姻費用、面会、荷物の運搬。全て「離婚したら応じてやる」でした。
グズグズと10回もの調停。
息子と全く会えない為、面接交渉の為の審判。
審判と言いながら、家裁には8回も足を運び、調停の延長としか思えません。
相手側は既成事実を作る為にのらりくらりしていたのでしょう。
調停中は言わなかった「本人が会いたくないと言っている」発言。
「離婚したら息子に年に3回会わせてやる。」と調停中は言っており、審判になってから、すりかえられました。


実際本人を試行面接室に連れてくるように言ったところで、
ナンダカンダと文句をつけ相手方は連れてきません。
一度、連れてきましたがそれっきり。
しかも、私はその様子を録画したビデオで見せられ、なんだか屈辱的でした。
結局相手は「ほら、本人が会いたくないって言ってるの、嘘じゃないでしょ?」
って証拠を撮る為に連れてきただけなのです。
相手方は今まで娘に対して何の音沙汰もありません。
子どもが可愛いなんて嘘です!
子どもが可愛ければ下の子を放っておくことは出来ないはず。
ただただ跡取りとして、長男だけが居れば良い、それだけのこと。
夫血族は血縁関係で何かと協力し合う家でした。
益々強力な体制を整え、一丸となって息子を拉致しているのです。
子どもの人権なんてないのです。
子どもを何だと思っているのか、
私を何だと思っているのか腹立たしいを越えて呆れます。

夫婦は終わっても、親子に終わりはありません。
私のお腹を痛めた最愛の子どもです。
私には長男も長女もどちらも同じに愛おしく、大事なのです。
親子の断絶なんて有り得ないと思っていましたが、
この日本では
「会えなくても仕方ないね。きっと息子さんにも将来ちゃんと分かる日が来るよ」
って家裁が言っています。
そんなことで良いのでしょうか?
会う前提での話には全くなりません。
親だからこそ会えない……なんとも不思議な世の中です。
家裁が何の為にあって、何の為に話し合いの場を作っているのか、
時間とお金の無駄としか思えません。
結局「持ってるモノ勝ちです」「相手が悪かったねぇ」と弁護士にも言われる始末。
私の味方じゃないの?! って思う事が多々あります。

共同親権になって共同養育していけるようにしなければ、
この問題は何も解決しないようです。
このような体験は色々な事を考えさせられ、勉強にもなりました。
でもこんな体験は必要ありません。

普通の親子がしているように、
一緒に笑って過ごせる日々を一日も早く実現したいだけなのに……

別居親になって約10ヶ月が経過した。
当時4歳(現在5歳)の息子の親権は当方が持つ事、毎週末、子供が当方の家に泊まりに来るとの取決めをした上での離婚。当初は、約束通り、毎週末を子供と過ごし、連休は連泊もしていた。

数ヶ月が経ち、連休の連泊は止めにして欲しいとの申し出が元妻からあった。
子供と遊ぶ時間が全くなくなるとの事であり了解をした。そして離婚から半年ほど経過後、元妻から週末子供と過ごす時間が欲しいとの申し出あり。毎週末、当方の家に子供を連れて行かれるので、子供との関わりが平日の世話だけになっている。一緒に生活をしているのが意味がないと。

離婚時の約束であり、連休の連泊に対してこちらは譲歩したのだから毎週末は譲れないと反発はした。
しかし、逆の立場になれば同じ事を感じるだろうとの思いから、月一度は迎えに行かない週をつくる事で合意。
 そのルール決めから数ヶ月が経過しているが、落ち着かない。
子供を迎えに行く前日の金曜日の夜は、会社の行事も断り、翌日の子供との食事の買出しをして帰宅する。帰宅後は、家の掃除をする。
疲れていても翌日子供に会える事を思うと楽しい。
月一度の会えない週末を迎える数日は、気持ちが沈む。

会えない週が月一度だけであるのが、より一層寂しさを募らせる。
当方での外泊時の生活が平日と同様に出来なかった事があると、元妻から酷く責められる。
週末に当方の家に外泊に来る事は生活の延長なので、ちゃんと面倒をみれないのであれば外泊はさせないと。
まだ、幼い子供なので、当方での外泊に限らず、平日の生活習慣が完全に同じく出来ない日もあるだろうが。
当方に会わせたくないとの本音からの嫌がらせなのか。
ただ、生活の延長であると云われれば、共同監護である事を認めているのだと良い方に解釈し詫びるに限る。しかし、ストレスを感じる。
 月に1度以外の週末に面会出来ているので恵まれているとは思う。しかし、更に面会頻度を減らす様な申し出をしてくるのではないか。今のままの親子関係が継続出来るのか。不安で落ち着かない日々を過ごしている。
 親権を持ち、頻繁に面会交流が出来ていても、同居親、別居親が法的に平等にならない限り、この不安は解消できないであろう。
ふと、「親子のかたち」っていったい何だろうなぁ……と思い巡らせてみました。
 戦争で子どもを失った親が、子どもが死んでからも生涯愛し続ける姿。交通被害により、意思の疎通ができなくなってしまった子どもを懸命に介護する親の姿。ケンカして飛び出して行ったきり、音信不通で所在さえわからなくなった子どもに「どうか無事生きて帰ってくれますように……と祈る親の姿。
 さまざまな親の姿(子の姿)のその底に、それぞれの「親子のかたち」があるのかもしれません。しかしそれは、ひと言で「親子のかたち」と言ってしまうには理不尽な人生の現実かもしれません。
 ぼくにとっての親子のかたちは、“学校帰りの親子”でした。離婚後、元ツレアイから子どもとひきはなされたぼくは、裁判をすることは選択せず、直接子どもに会いにいくことを最優先にしていきました。学校の帰り道や土日の部活動の練習風景やら、声をかけるタイミングがあれば、「元気にしているの? 学校はどう?」といった会話をしてきました。ほんの数分の時間でしたがぼくにとっては、生きている存在価値と同等かそれ以上の大切な時間でした。
 しかし、子どもとひきはなされたぼくにとって、子どもに会いに行くというのはとてもつらいことでした。子どもは同居の母親から、「お父ちゃんは、あなたを棄てたんだよ」と言われ続けて生きているわけです。母親にみつかれば子どもが問い詰められることを思うと、誕生日プレゼントも直接わたせません。学校帰り、ぼくの姿をみつけると、身をよじるようにして避けようとする子どもを目の当たりにするのはとてつもなくつらいことです。月日を重ねるにつれて、元ツレアイのぼくに対する怒りや憎しみが、子どもに伝染していくのが、手にとるようにわかるのです。それでも子どもの顔をみて、「ああ、今日も生きていてくれたんだね。また会いたいよ」という思いの方がカミソリで切りつけられるような心の痛みよりも勝っていて、会いにいっていたのです。
 子どもが14歳の頃に、「もう来ないで」とハッキリ言われ、会いにいくのをやめたのですが、ぼくにとっては学校帰りにほんの数分会うことが、「親子のかたち」だったのでした。会ってはつらい思いをし、自宅に帰って泣き、会いたいから泣いてはまた明日、心をふりしぼって会いにいく。それが、ぼくの子どもとの生活だったような気がします。
 確かに、子どもといっしょに暮らせない、会えないという現実は、自分が望んだものでは決してありませんでした。けれども、その一方で、子どもといっしょに暮らせない、会えない、けれども愛して愛して、天にも届くほどの祈りでもって、子どもを愛する親の姿……。それもまたひとつの「親子のかたち」だと思うのです。
 ひきはなされて20年がたち、子どもが成人し、連絡をとったり会えるようになったのが4年前。それ以来、折に触れて会ったりしていますが、時間の空白は埋めようがありません。「あの人と会っても、何も話すことがない……」。子どもは母親にそう言うといいます。
 奪われてしまった子どもとともに暮らす時間を、嘆き続けることもぼくにはできますが、しかし今のぼくには、いっしょに暮らせなかった時間は、すでに人生の一部になっています。ならばその体験から、多くを学ぶことのほうがかけがえのない人生をより豊かに生きていけるような気がします。どんなに過去を嘆こうとも、奪われた時間の空白を取り戻そうと努力しても、それは土台、無理なことなのです。

 子どもとひきはなされた体験は、幸いなことにぼくに他の多くの“当事者”の存在を気づかせてくれました。先住民の子どもたちは、和人や白人の同化政策の下、侵略者の言語、文化を“教育”するために幼い頃から親とひきはなされてきた歴史を持ちます。障害を持つ子どもたちもまた、医療という優性思想の下、現代でも親とひきはなされ、隔離収容施設に入れられています。(物質的に)貧しい国々では、貧困により、子どもを育てられず養子縁組に出したり、子どもの人身売買をせざるをえない親がいます。
 離婚により、子どもとひきさかれた人々はもちろんのこと、世界中のそういった人々の存在に気づき、自分と同じような苦しみ、悲しみを背負って生きている人々の存在そのものが、今のぼくの生きる希望となっているのです。
「拉致被害者家族と言うのはこんな心持なのだろうな…。」子どもが帰らない夜から、
『今にも、普通の顔して帰ってくるような気がして…。』
『悪い夢を見ているに違いない。』
『一日も子どものことを思わなかったことはない。』
どれも、現実のものとして実感しています。
私たちの場合の相違点は、拉致したのが実の親で、少し前まで共に子どもを育てていた、信頼していた相手であること。
公平に直接話しあうべきものを、人質をとるとは『卑怯』極まりない。
まさか、家族にこんな目に遭わされるとは…。
子どもを拉致されて、私は絶望と憤りに苛まれる日々が続くこととなりました。
そして約2年が過ぎ、いまいましい、『面接交渉』と言う名の父子の交流が再開しました。
数ヶ月に1度、数時間の交流では、子どもたちにとって私は『知り合い』になるのがせいぜいでした。
せっかく馴染んでくるとお別れ。そして次に会うときには元の他人に戻るのです。
これを親子と呼ぶのでしょうか…?
この程度の父子の交流が、監護親からすれば望ましいものなのです。安心なのです。
監護親が子どもに見捨てられる心配が少なく感じるからです。

その後、宿泊を伴った交流をした途端、見る見る父子の絆は回復していきました。
子どもたちが、父親としての私にあまえる様子がはっきりと感じ取れました。子どもたちのその表情は間違いなく、傍目から観ても幸せそうに写ったでしょう。
そして、より多くのこの時を過ごしたいと、子どもたちは要求をし始めたのです。

すると、面白くないのは監護親です。
子どもたちが父親と楽しい時間を過ごすことが面白くないのです。
…でも、これって、一般的には望ましいことではないでしょうか?

次第に、監護親は理解ある人間を装うためにも、『会わせたいのだけど会わせられない』と言える環境をつくるのに躍起になりはじめます。
つまり、私との交流を拒む理由を子どもに求めるのです。
習い事だったり、イベントだったり、洗脳だったり…。
「会わせたいと考えているのだけど、子どもたちが会いたがらなくって…」というように。

監護親の支配下では、子どもは、子ども自らの意思で私には会いたくないのだと主張します。ところが、監護親の支配下から逃れると、そのことを否定するのです。
次第に、子どもは私への申しわけなさから、私への対応に困ります。
これが無視であり、逃亡です。

そして今、私の相手方は、調停での面会交流の取り決めを平気で反故にします。
相手方が私と話し合うことはありません。
子どもが、自分の意思で会わないのだということを、一方的に伝えてくるのみです。
子どもにとってこれは、不本意な正義の行動なのです。

あたかも
「○○ちゃん(お父さん)は悪い子(人)だから、一緒に遊ぶと悪い子になるから遊んじゃだめよ。」と言いつけられている子どものようです。
「母さんがなんと思おうと、ぼくは○○ちゃん(お父さん)が好きだから、○○ちゃん(お父さん)と遊びたいのに…。」
日常的に接する時間の多い監護親の存在は、子どもにとっては絶対の権力です。いつしか、大好きだった○○ちゃん(父さん)は、本当に悪い人に思えてしまうものです。
いえ、子どもにとって、諦めきれない大好きな父親を諦めるためには理由が必要なんです。
例えそれがどんなに幼稚で不合理なものでも、父親を嫌っても良い理由が…。
その理由は、子どもたちが逆らうことのできない、監護親が与えてくれるのです。
それは、大好きな人を嫌うに嫌い切れず、悩んでいる子どもにとっては渡りに船なんですね。

子どもらのこの葛藤を『不安定』として、非監護親との面会交流を監護親主体で制限し、非監護親との自由な交流を諦めさせることによって安定させるのか、それとも、非監護親との自由な交流を子どもの権利として保障し、監護親の、子どもへの過剰な支配を制限するのか。
3組に1組が離婚するに至った日本…。先進諸国に倣って舵を切れるのはいつなのでしょうか。