2009年06月24日

永井路子氏 茨城大学講演会のお知らせ

テーマ:文学
図書館展示「茨城の富士山信仰-永井路子の家伝書から」と
 講演会を開催します(本館)

歴史小説家の永井路子氏の本家(茨城県古河市)に伝わる古文書を茨城大学に寄贈し
ていただきました。
古河市で幼少時代を過ごした直木賞作家の永井路子氏(84)が、茨城大学(水戸市文京)を訪れ、永井家に伝わる江戸時代の古文書を寄贈した。永井氏は「幕末の庶民が地域を越えてまとまり、時代の変革を求めていった様子がわかる」と話し、研究に役立つよう期待している。
 寄贈されたのは江戸時代後期に国学などの影響を受け、関東を中心に広がった富士山を信仰する山岳宗教「不二講」に関する書簡や書物、短冊など約100点。
 不二講は、努力の必要性を説く思想で、永井さんの祖先にあたる商人の初代・八郎治が、六代目教祖の弟子だった。八郎治は古河のリーダーとして地域で学問や思想を教えていたと伝えられ、当時の史料が永井家で代々保管されてきた。史料からは、地方商人の経済実態のほか、藩を越えた文化や学問の交流、庶民と朝廷との結びつきなどが忍ばれるという。
これを受け、茨城大学図書館では、図書館コーナー展示「茨城の
富士山信仰-永井路子の家伝書から」を開催します。また、永井路子氏をお招きし、
江戸時代後期に広がった富士山信仰である富士講(ふじこう)について講演会を開催
いたします。展示、講演会とも、一般の方もご自由にご覧いただけます。お気軽にご
来場ください。

展示
会期:7月10日(金)~27日(月)10:00~17:00(ただし7月20日
は休館)
会場:茨城大学図書館1階展示コーナー(入場無料)

講演会
期日:7月12日(日)13:30~
会場:茨城大学人文学部10番教室 入場無料・事前申込不要

「私の先祖八郎治」 永井 路子(歴史小説家、直木賞など多数受賞)
「江戸時代後期における農村荒廃の復興」 小野寺 淳(茨城大学教授)
「徳川時代の富士信仰と不二道」 梅澤 ふみ子(恵泉女学園大学教授)
会場で永井路子氏の著書を販売いたします。また、ご来場の方に図書館オリジナル
グッズをさしあげます。

参考:茨城大学の開催案内ポスターと交通案内
http://www.lib.ibaraki.ac.jp/news/2009/0623/fujiko090623.pdf



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2009年05月19日

永井路子講演「今、鎌倉をかえりみて」

テーマ:文学
永井路子講演「今、鎌倉をかえりみて」

~衣張山のふもとの景観と釈迦堂口遺跡~

いざかまくらトラストと、大町6・7丁目自治会、
鎌倉世界遺産登録推進協議会の共催企画です。

大町6丁目で発掘調査中の釈迦堂口遺跡は、「北条氏名越亭跡」と推定され、中世の
面影が色濃いまほろばの地です。

永井路子さんは、NHK大河ドラマで人気を博した「草萌える」をこの場所で構想さ
れました。

思い出深いこの地が史跡指定されることを願って、永井さんに鎌倉の歴史文化につい
てお話しいただきます。

皆様のご参加をおまちしています。

とき/平成21年5月24日(日)14時~15時30分時(開場13時30分)

ところ/きらら鎌倉ホール(JR鎌倉駅東口徒歩1分)

定員/250名(先着順)  

TEL 0467-44-3863(越野)
FAX 0467-25-3443(佐藤)
メールアドレス kamatora8@yahoo.co.jp
参加費 参加費1000円(当日・前売り有、高校生以下無料)
備考 定員250名(先着順)

後援/鎌倉市教育委員会
鎌倉市教育委員会 教育総務部 学務課 学務担当
〒248-8686 鎌倉市御成町18番10号
TEL 0467(23)3000

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2006年10月14日

永井路子の講演会から

テーマ:文学
先日、永井路子さんの講演会に行って来ました。
永井さんのお話はラジオやテレビで何度も聞いているので、
その語り口は知っていましたが実際に聞いて見ると、
話は大変にうまく、内容もしっかりしています。
時々、冗談を話されるのでラジオやテレビとは違う親しみが感じられ、
永井さんの歴史文学とは違う面白さでありました。

演題「女帝の流れをうけついで」
10月10日(火) 新宿住友ビル7階 朝日カルチャーセンター

奈良時代、道鏡を愛した孝謙(称徳)女帝の死を最後に女帝は永い間消えてしまう。
江戸時代、二人の女帝が出現するが、彼女たちは歴史の主役にはなれなかった。
では女帝が消えてから、日本の女性は政治の場から遠ざけられたのか、
全く無力だったのかと言うと決してそうではない。
母系、双系社会から、平安時代に父系制社会が確立すると、
歴史の表舞台から、女性が姿を消したように考えるが、それは間違いである。
第一に天皇の母としての「国母(こくも)」が歴史に重要な役割を果たした
第二に幼い天皇の養育から成人後の政治・政略に預かる「乳母(めのと)」として、
歴史の表舞台に影響を与え、女の歴史はしっかりと続いていた。
①「国母」の例として、第64代円融天皇に嫁いだ
藤原兼家の娘 詮子(せんし)女御を取り上げた。
皇太后詮子は長兄の関白藤原道隆が死んだ時、
順当なら、道隆の息子伊周(これちか)が関白になるのに、
当代一条天皇の母として、息子に助言、次兄の藤原道長を推薦した。
道長が関白の位に就き、伊周は左遷された。
②第66代一条天皇のお后には藤原道隆の娘、定子と藤原道長の娘、彰子がいた。
皇后定子には清少納言、中宮彰子には紫式部・和泉式部が教育係として仕え、
平安文学が花開いた。
③紫式部は大変な教育ママで、夫藤原宣孝との間にもうけた一人娘を
最初、中宮彰子に仕えさせた。彰子の妹嬉子が親王を生むと乳母を務め、
高階成章と結婚した。25年後、親王が後冷泉天皇に即位すると、
夫高階成章は太宰大弐という大宰府の次官に就任した。
太宰大弐という役職はお金の儲かる職位で、大金持ちになって都に帰ってきた。
以上




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2005年11月11日

永井路子講演会のお知らせ

テーマ:文学

永井路子さんの講演会のお知らせ
    Memorial Museum「 海音寺潮五郎記念館」主催

講師:作家 永井 路子 氏
演題:女性の日本史 ―そのプロフィールを覗く―
日時:11月26日(土)    
      午後1時30分   開場
      午後2時       開演 
        (午後4時  閉会) 

場所:東京品川区上大崎
         三州倶楽部 2階ホール

参加費: 無料(定員200名 先着順)

問合わせ先  (財) 海音寺潮五郎記念館
   住所  東京都世田谷区経堂2-12-9
   電話  03-3429-1338          
   FAX  03-3426-5145     
 詳しくは↓
http://www.geocities.jp/mayako_0684/nagaimichikokouennkai.htm

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2005年09月17日

十五夜と十三夜

テーマ:文学
9月17日の夕方の空には明日の十五夜に
負けない位きれいな月が出ていました。
暑さ寒さも彼岸までの言葉のとおり、
この二・三日、東京も涼しくなり、
毎日、クーラーを点けていたのが嘘のよう、
彼岸花もまだ赤い花は開いていないけれども、
薄緑色の筆のような姿の蕾を何本も見る事が出来ます。

ここで河竹黙阿弥作「三人吉三」のお嬢吉三のセリフから

  月もおぼろに 塵まみれ、ネオンも霞む 秋の空
  つめてえ風も ほろ酔いに、心持ちよく うかうかと
  浮かれ烏がただ一人、ねぐらへ帰る 道すがら
  ちょと立ち寄り 生ビール、こいつがあるから生きられる

  ほんに明日は十五夜か

  西の空より 闇のなか、落ちた夕日は厄落とし
  泡のしぼんだ生ビール,グイと一杯 飲むうちに

  これで,明日は縁起がいいわえ、

河竹登志夫先生、ごめんなさい

『十五夜』というのは旧暦8月15日の満月の日で
その28日後の旧暦9月13日の名月の日を『十三夜』と言います。
今年の十五夜は9月18日(日曜日)で、
十三夜は10月15日(土曜日)、満月の日は10月17日です。
今年の10月17日の満月の晩には夜8時半頃から始まり、
9時頃には欠ける部分が最大6.8%という部分月食があります。
8月15日の十五夜の満月にたいして、
十三夜の名月は「後の月」「豆名月」「栗名月」と呼ばれます。

十五夜の月を見て祝う習慣は中国から来たそうですが、
 『十三夜』は菅原道真を重用した宇多天皇(867~931)が
旧暦9月13日の晩に見ていた月に感激して、「無双」と賞し、
「名月の夜」を定めたと藤原宗忠の日記『中右記』に書いてあります。
十五夜の満月よりも、十三夜という少し欠けた月に美を見出した所に
「わびさび」に通じる日本の美意識の原型を見るような気がします。

ももしきの大宮ながら八十島をみる心地する秋の夜の月 『躬恒集』

 宇多天皇の息子 醍醐天皇(885~930)の作った歌が
 日本で十三夜を歌った一番最初の歌と言われています。

江戸時代頃から、庶民の間にも
旧暦の9月の名月を祝う習慣が出来ました。
しかも、十五夜を祝った時は十三夜も祝わないと
『片月見」といって縁起が悪いそうです。

樋口一葉の『十三夜』にもこの事が書いてあります。

ふとした縁で、高級官僚に見初められて、
望まれて嫁に行った娘が亭主の浮気癖に耐えかね、
ひとり息子を家に置いたまま、旧暦の9月13日の晩に
実家に帰って来た所から,小説は始まります。
両親は十五夜・十三夜の晩に団子を作り、
ささやかなお祝いをしていました。
この団子を嫁に行った娘が好きだった事を思い出し、
娘の家に届けたいと思っている所に娘が帰ってきます。

『今宵は舊暦の十三夜、舊弊なれどお月見の眞似事に
 團子をこしらへてお月樣にお備へ申せし、
 これはお前も好物なれば少々なりとも
 亥之助に持たせて上やうと思ふたれど、
 亥之助も何か極りを惡るがつて其樣な物はお止なされと言ふし、
 十五夜にあげなんだから片月見に成つても惡るし、
 喰べさせたいと思ひながら思ふばかりで上る事が出來なんだに、
 今夜來て呉れるとは夢の樣な、
 ほんに心が屆いたのであらう。』と両親は喜びます。
樋口一葉『十三夜』から

「十三夜」は新派の芝居にもなりました。
この後、帰りたがたらない娘は「もう、戻らない決心だ」と打ち明けます。
父親は 『女がいつたん嫁に行き、実家に戻ってくれば、
     自分の生んだ子供には一生会わない覚悟がいる。
     我が子と呼べず泣くよりも、
     そばにいて不幸に泣いた方がましではないか』と諭します。

思い直して実家をあとにする娘は月がほのかに照らす道で、
人力車をひろい、今の鶯谷から駿河台の家に向います。
丁度、上野新坂上まで乗って来た時、
突然、車夫は「気が進まないから、降りてくれ」と言い出します。
十三夜の月明りで見た車夫は幼馴染の変わりはてた姿でした。

樋口一葉の小説は京都大学の電子図書で読む事が出来ます。
画面が横文字なので読みにくいのですが
HTML と PDFファイル と二つの方式です。
PDFファイルのほうがルビ付きで読みやすいです。

http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_bookview.cgi/BB00000022/Contents/hi_cont.html

『十五夜』の月を見て思い出した歌

木のまより もりくる月の影見れば 心づくしの秋は来にけり
               「古今集」 読み人知らず

花と言えば桜、桜と言えば西行ですが、
西行は月の歌を沢山詠んだのでも有名です。
秋の風を聞くとしばらく、ブラームスが聞きたくなり、
西行の「山家集」を読みたくなります。
西行の月の歌は失恋や追憶の歌もありますが
孤独の中に心の平安を求めた歌が多いです。

玉にぬく露はこぼれてむさしのの草の葉むすぶ秋のはつかぜ
わづかなる庭の小草の白露をもとめて宿る秋の夜の月
行くへなく月に心のすみすみて果てはいかにかならんとすらん
            「山家集」  西行(1118~1190) 

この歌を読んでいると3年ほど前、立松和平作「道元の月」を
歌舞伎座で、坂東三津五郎が演じた芝居を思い出します。

『十三夜』の歌から

さらしなや姨捨山に旅寝して今宵の月を昔みしかな 「能因集」
                 能因法師(998~1050?)

こよひはと所えがほにすむ月の光もてなす菊の白露
雲消えし秋のなかばの空よりも月は今宵ぞ名におへりける
              「山家集」  西行(1118~1190) 

名月や銭金いはぬ世が恋し  永井荷風

粋なお姉さんのブログに載っていた「十三夜の歌」
http://blog.k-office.org/?day=20050808

河岸の柳の 行きずりに
ふと見合せる 顔と顔
立止まり 懐しいやら 嬉しやら
青い月夜の 十三夜

夢の昔よ 別れては
面影ばかり 遠い人
話すにも 何から話す 振袖を 
抱いて泣きたい 十三夜

空を千鳥が 飛んでいる
今更泣いて なんとしょう
さよならと こよない言葉 かけました 
青い月夜の 十三夜
以上
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2005年06月13日

樋口一葉 日記「塵の中」序文

テーマ:文学

一葉と桜5 桜の花との決別
第一章 日記「塵の中」の序文
 明治26年初夏、一葉は22歳 、父が亡くなってから、まる4年が経ち、
裁縫等の賃仕事だけで、一家三人が食べてゆくには収入が足りなかった。
樋口家の貧困から脱出する方法として、一葉は職業作家になるという,
たぶん、日本で最初の無謀な決意をした女性となった。
雑誌に一葉の小説は掲載されたが、期待するほどのお金にならなかった。

明治26年7月から書き始めた日記「塵の中」の序文に一葉は書いている。
「人 常の産なければ常の心なし。
手をふところにして月花に憧れぬとも、
塩噌なくして天寿を終らるべきものならず。
かつや文学は糊口の為になすべき物ならず。
思ひの馳するまゝ、心の趣くまゝにこそ筆は取らめ。
いでや、是れより糊口的文学の道をかへて、
浮世を算盤の玉の汗に商ひといふ事始めばや。
 もとより桜かざして遊びたる大宮人のまどゐなどは、
昨日の春の夢と忘れて、
志賀の都のふりにし事を言はず、
さざなみならぬ波銭小銭、厘が毛なる利をもとめんとす。」
と「塵の中」日記に書いた。

簡単な意訳?
人は一定の収入がなければ、平常心ではいられない、
働かないで、月よ花よという暮らしに憧れていても、
食べ物がなければ、まともな一生を終える事はできない。
又、文学は「糊口(糊=かゆ=生計)のために書くものではない、
自分の書きたい事をそのまま書くのが本当の姿ではないだろうか。
さあー これからは職業作家を目指していた道を捨て、
算盤を片手に、商いという事を始めよう。
もう,桜を見て、歌を詠む雲上人の真似のような事は春の夢と忘れて、
「さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」 とも歌わず、
           千載和歌集. 読み人知らず(平忠度)
さざ浪ではないが浪銭小銭の一厘という、わずかな儲けを求めていこう。
と「塵まみれ」日記に書いた。

第二章 桜の花との決別
日記「塵の中」の序文から、当時の一葉の気持ちが読み取る事が出来る。
1、歌塾「萩の舎」の世界との決別
①一葉は古文や和歌を学ぶ事が好きで、萩の舎では優秀な生徒であった。
 萩の舎という限られた世界で、一葉は精神的な優位性を持つことが出来た。
②一葉は将来、歌や書道の先生になろうと考えていた。
③一葉は父が亡くなってから,5ヶ月程、萩の舎に住み込み、
 師の中島歌子の内弟子兼女中のような生活をしていた。
 中島歌子に付き添い上流階級の家に出稽古に行くなかで、
 上流階級の家の裏側を見てしまうとその贅沢な暮らしぶりに憧れる反面、
 妻妾同居のような乱れた家庭生活に違和感を憶えた。(注1)
 又、中島歌子の私生活を見て、歌塾の実態を知り幻滅してしまう。
④萩の舎は上流階級のお嬢様におべんちゃらを使い機嫌を取る世界だった。
 和歌の勉強方法も,あらかじめ歌の題を決め、古歌を真似る方法だった。
 一葉は萩の舎の花鳥風月的な作風に疑問を持ち、批判を持つようになった。
⑤半井桃水との交際を中島歌子や親友の伊東夏子に反対されてしまう。
  桃水との事で、萩の舎の仲間達の棘のある噂話に一葉は傷ついた。
⑥一葉は生涯に渡り、「萩の舎」を心のよりどころにしていたと思われるが
 この時は「萩の舎」の世界から離れようと考えた。
(注1)後に、一葉は23歳の時、小説「十三夜」で上流階級に嫁いだ女姓が
    必ずしも、幸せになるとは限らないという物語を書いた。

2、半井桃水が教えてくれた「売れる小説」への疑問
①明治時代,男でも職業作家として,生きてゆくことは難しかった。
②半井桃水は一葉に「売れる小説」の書き方を教えた。
  読者は物語の筋に関心を寄せるから、筋の展開を面白くしろと言う。
③桃水の指導方法は萩の舎の和歌の勉強方法と同じように
  先ず、売れる小説を書くために小説の趣向、組み立てプランを考える。
  そのプランについて桃水に相談し、それから作文という方法である。
  学生が卒業論文を書く時のような指導方法だった。
④一葉は桃水の読者に媚びる小説の書き方に疑問を持つた。

3、一葉の考える文学の目的
①一葉は桃水から売れる小説を書く訓練を受けている内に、
 売れる小説を書くために、小説の筋や趣向を凝らす事よりも、
 文章の中に自分の気持ちを吐露して、自分の悩み、人生の問題を
 取り上げる事が、文学にとって大切なことだと考えるようになった。
②一葉が19歳の時に書いた最初の小説「闇桜」は片思いの女性、
 すなわち一葉の桃水に対する気持ちを反映する小説を書いた。

現在、台東区の一葉博物館にある「闇桜」の一葉自筆の原稿を
桃水は「字があまりにもきれいだったから」と大切に保管していた。

4、戸主として、母や妹を養う責任・金銭問題
①一葉は上野の図書館に通い、桃水のもとで、小説書きの勉強をした。
②桃水の創刊した「武蔵野」に最初の小説「闇桜」を発表してから
  萩の舎の先輩三宅花圃の紹介で「都の花」に、又「文学界」にも執筆したが
 当時の原稿料システムでは多額の収入に結びつく事は難しかった。 
③半井桃水はその頃、神田三崎町で葉茶屋「松涛軒」という店を開いた。
④一葉もどこかで商売を始めよう。そして、生活が落ち着いたら、  
 商売の合間に自分の本当に書きたい文章・文学を書いて行こうと
 今までの職業作家を目指す生活と決別する事を決意する。

第三章 作家一葉の誕生
Ⅰ下谷竜泉町に小間物屋開店まで
明治26年6月29日の日記で
家、ますます困窮し、遂に借金をするあてもなくなるような貧乏生活から、
脱出する為、母と妹三人で「此夜一同熱議 実業につかん事に決す」と
小商いの小間物屋を開く事を決意した。
そうと決まれば一葉と妹の邦子は素早く行動する
早速、物件探し、二人で牛込,神楽坂,飯田橋,御茶ノ水まで探すが
家賃が安くて、しかも知り合いの居ない所は中々無かった。
最後にたどり着いた場所は遊郭吉原の裏にある二軒長屋の店だった。
内容は、下谷龍泉町(現住所:台東区竜泉3-15-2)
間口3間、奥行き6間の二軒長屋の片方、
店は6畳、他に5畳、3畳、敷金3円 家賃1円50銭

明治26年7月20日、一家は本郷菊坂の家から、竜泉の家に引越した。
萩の舎の親友、伊東夏子には「竜泉の家に来たら、絶交よ。」と知らせ、
明治26年8月6日、荒物や駄菓子を売る小間物屋を開いた。
店を開いた直後は物珍しさも手伝って,お客も来た。
1日40銭から60銭の売上で、一ヶ月5円くらいの利益しかならなかった。
年が明けると、近所に同業者の店が出来,店の売上は減ってしまう、
竜泉の店は開店から10ヶ月で閉店してしまう事になる。

Ⅱ 作家一葉の誕生
1、異文化体験
 一葉がそれまで住んでいた上野、高輪、本郷は住宅地である。
 家には門があり、庭のある生活で外から家庭を覗く事は出来難い。
 竜泉の家は一日中、車や人通りが途切れない町のなかで、
 壁一つ隔てて、隣の生活を伺うことが出来る生活であった。
 人間の素顔が丸出し、丸見えの生活環境に変わる事となった。

2、主客の立場が逆転する。
それまで、一葉一家は客として、商人に接していた。
竜泉では立場が変わり、どのような人でも、店に来る人は客となった。
彼らの機嫌を損ねないようにしなければならなくなった。
今まで、接する機会のなかつたかも知れない人に客として接する体験は
個人の立場からだけでなく、相手の立場から人を見る事になった。

3、様々な階層の人々の生活実態を知る。
①一葉は僅かな期間にいろいろな階層の生活実態を見る機会が出来た。
1.一葉は萩の舎の内弟子時代、上流階級の家庭を覗く機会があつた。
2.竜泉で商いをしているうちに働いても働いても楽にならない
 庶民の生活を実際に肌で感じるようになった。
3.遊郭は祭りの日に女子供でも門の中に入る事が出来、遊郭内を見学出来た。
 遊郭の洗張り裁縫の賃仕事を得るために遊郭内(苦界)に入る体験をする。
 遊女という最下層の人間の惨めさを実際に知る事が出来た。

吉原遊郭の裏町に住む人々の開けっぴろげな生活を見ているうちに、
一葉は社会の底辺に住む人にも目をむけるようになり、
そこから、人間の本質を見つめることができるようになった。

②遊郭(苦界)の中に入り、女性の惨めな生活の実態を知る。
1.遊女という社会の底辺で暮らす女性たちと話をするようになる。
2.正義感の強い一葉は逃げ出した遊女を助けたいと巡査に相談した事もあった。
 
一葉は吉原の遊郭の遊女の話を聞き、彼女たちの姿から女の生き方を考え、
一葉の関心が個人の問題から社会問題へと向う事になった。

③子供の目線でものが見られるようになる。
一葉は店先に立ちながら、子供の会話や一人ひとりの気性を観察した。
店に来る子供を相手にしている内に,子供の世界に興味を覚えた。
やがて、自分の子供の頃の事を思い出していた。

④明治27年2月23日に天啓顕真術会本部を尋ね、久佐賀義孝に相談に行く。
 占い師久佐賀義孝に借金の申込に行った事について、様々な説がある。
 一葉は「相場の予想が必ず当り、金が儲かる」と言う新聞の広告を見て、
 彼から元金を借り、相場を貼り、儲けで、遊女達の一時避難所を作る資金に、
 又、先輩の田辺花圃が歌塾を開く事を聞き、自分の歌塾を作るための資金が
 出来るのではないか言うと甘い夢を持って尋ねたのではないだろうか?
 久佐賀義孝にしても、若い娘が真面目な顔で金を借りにきたのだから、
 「まあ、話を聞こうではないか」となるだろう、しかし,詳細は今だに不明。

素人商法は開店から10ヶ月で、店を閉めてしまうような事になった。
商いの為に投資した元手はほとんど回収できなかつたが、
竜泉町での商いの経験は、名作「たけくらべ」が生まれるきっかけになった。
作家一葉から見れば、大きな利益を得る事が出来たのである。

第四章 「塵の中」から,見つけだした「宝石」

「たけくらべの世界」
美登利:子供仲間の女王で吉原一の売れっ子遊女の妹。
長吉 :横町組のがき大将で鳶職の息子、
正太 :表町組のがき大将で質屋の孫、
真如 :寺の跡取り息子の真如
三五郎:貧しい車引きの子 

小学校で机を並べている級友が学校から一歩出ると、
横町組と表町組とに分れ、子供同士のけんか仲間として対立している。
吉原遊郭の裏町の子供達の日常生活の一断面を鮮やかに切り取り、
美登利に思いを寄せる少年たちの心の動きを中心に、
少年少女の個性を一人ひとり実に豊に、生き生きと描き、
子供から大人への微妙な心の変化を筆の力で表現する事が出来た。

「たけくらべ」は吉原の裏町の子供達の日常の世界を描いている。
誰でも、このような子供の頃の懐かしく美しい思い出を持っている、
自分だけの思い出として心の奥に大切に保管している。
時々、取り出す事はあつても、ほとんど誰にも見せないでいる。
一葉はこの誰もが持っている子供の頃の思い出という原石を
擬古文という日本語で磨いて、読む者に共感を与える事が出来る、
「たけくらべ」という宝石に磨き上げる事が出来た。
「たけくらべ」は源氏物語などの古典文学の最終点であり、
日本近代文学の出発点となる小説となった。

明治27年5月1日一家はたけくらべの舞台になった下谷龍泉寺町から
一葉終焉の地、本郷丸山福山町(文京区西片1-17)に転居した。
以上



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2005年06月07日

太宰治「桜桃忌」

テーマ:文学

桜桃忌
太宰治は昭和23年6月13日深夜、山崎富栄と
三鷹市の山本有三の家の近くの玉川上水に入水した。
二人の遺体は6月19日に、入水場所から1キロ程下った所の
橋げたに絡んでいたのが発見された。
二人の遺体の発見された6月19日を記念して、
彼のお墓のある東京・三鷹の禅林寺では毎年、法要が催され、
沢山の太宰ファンが訪れる。
この日を「桜桃忌」というのは死の直前に発表された彼の短編「桜桃」による。
尚、太宰治の生誕地、青森県金木町では太宰の誕生日が
奇しくも遺体発見日と同じ、6月19日であった事から、
最近、桜桃忌から、「生誕記念祭」と名前を変えて開かれている。

東京・三鷹の禅林寺の太宰治の墓の斜め前には
明治の文豪森鴎外のお墓がある。
又、瀬戸内寂聴が昭和20年代、夫と別れて、
一人で暮らしていた下宿も禅林寺の近所である。

5年程前、二人が入水したと推定される場所に

自然石の記念碑が建てられた。
20年程前までは太宰治に縁のある建物が

三鷹市に残っていたが今はほとんどない。
山崎富栄が下宿していた葬儀屋も建て直されている。
太宰がよく訪ねたという「美登利寿司」も一昨年、春に閉店した。
以上


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2005年06月03日

宇野千代展 「書いた,恋した、生きた」

テーマ:文学
「宇野千代展ー書いた、恋した、生きた。」
  「書いた、恋した、生きた」はスタンダールの墓碑銘です。
会期:平成17年4月29日~6月12日
場所:東京・世田谷文学館
年譜:明治31年(1897)11月28日 山口県岩国市生まれ
    平成8年(1996)6月10日 98歳で永眠

世田谷文学館HP宇野千代のページ
http://www.setabun.or.jp/unochiyo.htm
世田谷文学館見学者の感想
http://www.setabun.or.jp/chiyo_report1.htm
宇野千代さんの生家のHP
http://www.joho-yamaguchi.or.jp/mac/040114-unochiyo-seika.htm
宇野さんというと晩年の着物姿を思い浮かべますが
昭和11年6月 39歳の時に、スタイル社を設立して、
日本最初のファツション雑誌「スタイル」を創刊しました。
当時は珍しい、お洒落に関する記事が評判となり、人気がありました。
宇野さん自身もモデルとして雑誌に登場しています。
スタイル社は昭和34年(1959)4月に倒産。
若い頃の洋装の宇野さんも素敵です。
女優の藤真利子さんに面影が似ています。
会場には宇野千代さんが大好きだった
桜模様の和服が沢山展示されていました。
桜に対する宇野さんの文章から、
1、書いた  いくつもの恋
     モデル    作品
   ①父親    「おはん」「風の音」
   ②尾崎士郎 瀬戸内寂聴に「尾崎さんが一番好き」と告白
   ③東郷青児 「色ざんげ」
   ④北原武夫 「刺す」「雨の音」
   ⑤自叙伝  「或る一人の女の話」「生きてゆく私」
「私は夢を見るのが上手」から
 いくつもの恋をした。そしてそれと同じ数だけ失恋したのであつた。
いつの場合も経緯は同じであつた。
私の恋は、考へる隙のないほど素早く始まり、そして終はるのであつた。
 好きな人が目の前に現はれると,私は忽ちにして、その人のとりこになり、
前後もなく考へずに行動を開始するのだった。
何を逡巡する事があらう,私はその人の目を真つすぐみて、
「私はあなたが好きです。」と言った。
好きだと言はれて不愉快に思ふ人はゐなかつた。恋は成就した。
             平成4年(1992)「私は夢を見るのが上手」
ファツション雑誌「スタイル」の協力者、北原武夫との出会いから
別れまでの日々をもとに小説「刺す」「雨の音」を書きました。
「雨の音」から
 或るとき、私の作った着物が、世にも美しく染め上ったと思われ、
思わず私はそれを、吉村のいる所へ持って行って、見せないではいられなかった。
「ね、同じ花びらだけを,繰り返して置いたものなのよ。」と説明した。
私が美しいと思ったものが、そのまま吉村にも伝わらない筈がない、
と思ってでもいたのだろうか。
「きれいだね。配色が美しい。」吉村はちらと見て、
さう言ったが、それはただ、隣人の批評でしかなかった。
私はすぐに、そのことを了解した。
                昭和49年(1974)「雨の音」
「刺す」
 私たちの別離は、極く自然に行われた。
秋になって、木の葉がその枝から落ちるのと同じように。
そのことに苦悩があったとしても、それは木の葉の枝から離れる瞬間の、
あの、微かな痛みに似たものであった。
             昭和41年(1966)「刺す」より
2、恋した   桜模様
「私は夢を見るのが上手」
 私は桜が大好きである。その単純明快な形が好きである。
いつのまにか私の本はさくらの装丁が多くなった。
又,私のデザインする着物,ハンカチ,陶器も、桜の模様が特徴になつてゐる。
 さくらの単純明快な形が、その組み合わせによって、
さまざまな表情を生み出す面白さ、その美しさ、
そこに私は尽きることのない魅力を感じるのである。
              平成4年(1992)「私は夢を見るのが上手」
3、生きた  「根尾村の薄墨桜」
http://www.mirai.ne.jp/~hasegawa/usuzumi/
宇野さんは昭和42年、小林秀雄の紹介で
岐阜県根尾村に「薄墨の桜」を見に行きました。
その頃の薄墨桜は枝が二つに裂け、見るも無残な姿でした。
それを見た宇野さんは何とかして、桜を助けたいと、
桜の惨めな姿を本に書いたり、色々な人に相談しました。
やがて、沢山の人々で桜を守るための協力体制ができ、
薄墨桜は再び美しい姿に生まれ変わりました。
その後、映画監督の羽田澄子さんが「薄墨桜」の
記録映画を撮りました。
「薄墨の桜」
 春の日には珍しく、雲ひとつない青空の下でした。
私たちは思わずそこに立停まりました。枝はのびのびと拡がっていました。
どの小枝の先にもぎっしりと、薄墨色の花がもぶれついて、
二反歩の空間を埋め尽くしている壮観は,見事でした。
それはあの、老婆の非業の死によって、
私たちの念願が勝利をしめした事の、その結果だと言えましょうか。
        昭和50年(1975) 「薄墨の桜」
 おまけ 
① 恋愛するにも「練習」が必要です。
②今、あなたの上にあらわれている能力は
 氷山の一角 真の能力は、水中深く深く隠されている。
③幸福は、遠くにあるものでも、
 人が運んでくるものでもない
 自分の心の中にある
④能力というものは
  天与のものではなく
  自分で作るものである
⑤自分の幸福も 人の幸福も 同じように
 念願する境地まで歩いて行きたい
⑥好奇心は人間を生き生きさせる。
⑦一握りの仕合せを求めて、生きるのが人間である。
⑧人生はいつだって、今が最高のときなのです。
⑨この頃、思うんですけどね、
  何だか私 死なないやうな気がするんですよ  
   は は は は は
           宇野千代 95歳
番外 「私は過去を振り返らない、反省するけど、後悔はしない」
                                       テレビ番組のインタビューで
以上
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2005年05月02日

一葉の肖像

テーマ:文学
5月2日は樋口一葉の133回目の誕生日です。
昨年、暮れから、一葉の日記を読み、
一葉の事を考えていたので
一葉さんが昔のクラスメートのような気がします。


4月17日のメールで私は下記のように書きました。

明治5年(1872)3月25日(新暦では5月2日)
    樋口一葉は東京府構内砲地の武家長屋で生まれた。
    現在の「千代田区内幸町 現日比谷シテイ辺り」
    (昔、NHK放送会館.三井物産があった辺り)
    父41歳、母37歳新緑の美しい頃で「なつ」と名付けられた。

この記述は間違いでした。
今年、旧暦で一葉の誕生日に当たる3月25日に
樋口一葉の生誕地である内幸町に記念碑が建てられました。
一葉の生誕地は東京府構内の武家長屋で
現在の千代田区内幸町1-5-2とあります。

http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/news/release/20050325/0325_2.htm
http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/tokusyu/chiiki/koujimachi/20050414/0414.htm
わたしの持っている多くの本が一葉の生誕地について、
日比谷公園の近く、日比谷シティあたりと書いてあります。
それで良く調べずに記述してしまいました。
まだ、実際に今年できた一葉の記念碑を見ていないのですが
内幸町1丁目5番地2は山の手線の新橋駅の近く、
第一ホテルと東京電力本社の間にある
T&Dファイナンシャル生命本社ビルのあたりのようです。

去年の秋、新5000円札は新渡戸稲造から一葉に変わりました。
5000円札の一葉の肖像を見た時、
普段見慣れている一葉の顔に比べて、
一葉の顔があまりにも痩せていてびっくりしました。
田中優子さんが去年出された本の題名のように、
「お金の肖像だけでも嫌なのに、私ではない いやだ」と
天国でさけんでいるような気がしました。

去年の秋、新5000円札が発行された時、
メールや雑誌で話題になったのは
第一は樋口一葉の肖像の事でした。
第二は一葉の男女関係でした。

①一葉の肖像については
半井桃水や一葉の家に遊びに行っていた「文学界」の仲間の人たちは
追悼文で一葉よりも、妹の邦子さんのほうがきれいだったと書いています。
皆様、家庭を持つ男の身ですから、何となく、わかりますが、
これでは一葉がかわいそうです。
一葉の写真は現在、10枚くらい残っています。
どれも、それほど不美人とは思えません。

医者で歌人の太田正雄(木下杢太郎)のお姉さん太田たけ子と一緒に撮った
おさげ髪に袴の女学生スタイルの一葉が一番現実の一葉に近いと思います。

新5000円札の肖像画は下記の写真3枚の合成のようです。
樋口一葉の肖像
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/ichiyou_2photos.html

下村為山「一葉像 落花」明治30年
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/10.html

今でも5000円札の一葉の肖像画になじめません。
私は下村為山が書いた「一葉像」を
そのまま、お札の肖像画にすればよかったと思います。

一万円札の福澤諭吉先生の肖像画は素敵なのですが
私にあまりいついてくれません。
先生にはどうも見捨てられたようです。

②一葉の男女関係について、
これについて、メールや雑誌でいろいろ書かれているのを読みました。
ひどいのは一葉が売春に近い事までしていたという記述もありました。
それまで読んでいた本でつぎのような意見があるのも知っていました。
1、多くの学者は男女の関係はなかった。
2、瀬戸内寂聴さんはあったという、
3、森まゆみさんはあつたかなかったかわからないがあったらよかったのに、
4、田中優子さんはそれが女性に対する偏見であり、女性蔑視、差別だ。
5、田辺聖子さんはそれには触れずにそこまでの過程を上品に詳しく書いています。

瀬戸内寂聴さんの本を読んだ時の印象は強烈でした。

前から一葉に感心があつたので
昨年、暮れから一葉の日記を読み始めました。
私の結論は男女関係はなかったように思います。、
一葉の日記を読んでいると男性や世間に対する評価が
あまりにも原則的できびしいように思うからです。
異性を愛する経験をすればもう少し心に余裕が生まれ
他人に優しくなるのではないかと思うからです。
以上
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2005年03月19日

樋口一葉と桜(塩山市・慈雲寺の垂れ桜)

テーマ:文学
一葉と桜1塩山市「慈雲寺のシダレザクラ」

 大菩薩峠に近い、山梨県塩山市の「慈雲寺」には
樹齢300年以上の見事な枝垂桜がある。
 今から、160年前、小説家樋口一葉の両親は
この寺で農閑期に開かれていた寺子屋で学んでいた。
 160年前、この枝垂れ桜は樹齢150年を超えていたから、
二人が出会った頃も、江戸への駆け落ちに悩んでいた時も
現在と同じように美しく花開いていたに違いない。
そして、東京に住んでいた一葉の両親は折に触れ、
故郷の枝垂れ桜の美しさを子供に語ったのではないだろうか。
 大正5年(1916)一葉の妹邦子が先祖の墓参りをした時、
邦子と故郷の人の間で、一葉の記念碑を建てる話が出た、
樋口家の菩提寺は同じ村の法正寺なのに、
大正11年(1922)10月、慈雲寺境内に、一葉の記念碑が建てられた。

山梨県塩山市「慈雲寺」の枝垂れ桜
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/jiunji/index.htm

 樋口一葉の父(大吉)は山梨郡中萩村(現塩山市)の
重郎原の農家樋口八左衛門の長男として、
天保元年(1830)年11月28日に生まれた。
 一葉の母(あやめ)は同じ中萩村の青南組で地主格の農家
古屋安兵衛の長女として、天保5年(1834)5月14日に生まれた。
(江戸時代、農民は原則として姓を名乗らなかったが記録は残っている)
 
 その頃の日本の出来事
嘉永6年(1853)6月3日 ペリー提督が浦賀沖に来航
安政元年(1854)4月   日米和親条約12か条を調印
安政2年(1855)11月   江戸は安政の大地震
安政3年(1856)3月   それまでの洋学所を蕃所調所と改称した。
  蕃所調所は幕府直轄の西洋学術学校で、
  幕臣の子弟を集めて外国語を学ばせていた。
  勝海舟、村田蔵六(大村益次郎)、西周等が籍を置き、
  福澤諭吉も辞書をみるために一日だけ入学した。
  後に江戸に来たハリス一行と会議する場所にもなった。
  同郷の先輩真下専之丞が蕃所取調役として勤めていた。
  一年後、江戸に出てきた一葉の父大吉が真下の世話で、
  小使として、最初に勤めた所でもある。
  大吉が勤めた頃、ハリス一行が江戸に来ていた。

    同年   9月    米総領事ハリスが伊豆下田着任した。

 今から150年前、安政4年(1857)旧暦4月6日
村一番の秀才であった一葉の父大吉(26歳)は
自らの蔵書150冊を売り3両の金を工面,
村一番の器量良しと言われた、妊娠8ヶ月のあやめ(23歳)を連れて、
両親に無断で故郷の村を棄てた。
 二人は追手を逃れて、通常の青梅街道で江戸に出る事を避け、
御坂峠を越え、川口吉田から小田原に抜けた。東海道を東に、
藤沢の遊行寺、鎌倉、川崎大師、羽田弁天にお参りしながら、
村を出てから7日目の4月13日に
郷里の先輩真下専之丞を頼って、江戸に着いた。

 一葉の両親が村を捨て、江戸に駆け落ちをした理由について、
つぎのような事が考えられる。

理由1、母方の親が二人の結婚に反対した。
 ①母方の家は地主格の農家で両家の家格が違っていと考えた。
 ②両親はあやめが村一番の器量良しであるから、大吉の家より
   もっと良い家に嫁に行けると考えていた。
 ③樋口家は代々、らい病や結核の家系であったという。
 ②一葉の祖父八左衛門は嘉永4年(1851)村で水争いが起きた時、
   百姓惣代として、江戸に行き、老中阿部正弘に駕籠訴し、捕まった。
   その為、半年間、江戸、小伝馬町の牢に投獄された後に無罪になる。
   理由が如何であれ、大吉は投獄された人の長男であった。
 ③ 大吉は江戸に出る時、蔵書150冊を売り、3両の金を工面している。
   大吉は生来農を好まず、寺子屋では秀才で読書好きであった。 
   投獄された祖父も、学問好きで漢詩や俳句を嗜んでいた。
    母方は畑仕事に熱心でない父方の家風を嫌ったのではないか?
    これは明治になってからの話であるが
    一葉は学校の成績が良かったのに11歳、高等科4級で退学した。
   父親は一葉を進級させようとしたし、一葉も進級を希望していたが、
   母の「女に学問はいらない」という強硬な反対で進級できず、
   学業を途中で止めさせられた。
    (後に小学校中退という学歴は一葉を苦しませた。)

理由2.父方は大吉の江戸行きをそれほど反対ではなかったのではないか?
   一葉の祖父八左衛門は同郷の同輩益田藤助(真下専之丞)が
   江戸に出て、幕府直参にまで出世したのがうらやましかった。
   その夢を寺子屋で成績の良かった長男大吉に託したのではないか。
   小さい時から、江戸に出て、侍になれと父に言われていた。

理由3.一葉の母あやめが妊娠してしまった。
     村に居ずらくなったあやめが大吉に江戸行きをけしかけた。

(両親の駆け落ちという苦い思い出は一葉の結婚観にも影響している。)


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