バルハラ、フレンズ、マイク

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 皆さんは国民的中継「毒蝮三太夫のミュージックプレゼント」を聞いたことがあるだろうか?TBSラジオで朝に放送されているわずか10分ほどのコーナーなのだが、今年で四十八年目を迎えるという超・ご長寿コーナーでもある。四十八年って……ほぼ半世紀である。こうやって俺が説明するのなんてちゃんちゃらおかしくなる歴史の重みがある……。

 

 

 

 コーナーもご長寿だがリポーターを務める毒蝮さんも八十歳であり、ご自身の名前を冠したコーナーが約半世紀続いているんだから当然といえば当然なのだが、ご長寿の域である。だが放送を聞いている分には耳を疑う位に元気で、お得意の毒舌で「おいババア!」なんて話しかけた相手が毒蝮さんより年下だったりするから凄まじい。しかもその年下の「ババア」よりもハキハキと喋っていらっしゃるもんだから益々凄まじい。

 

 

 わざわざblogに書き込むほどなので皆様お察しだと思うが、俺は「毒蝮三太夫のミュージックプレゼント」がとても好きだ。ほぼ毎朝聞いているのだが、いつも何かしらの感動を俺に届けてくれる。コーナーの間中、ラジオからは笑い声が絶えない。皆んな毒蝮さんに会うことにドキドキしているし、マイクに向かって喋ることに対してワクワクしている。元祖ジャパリパーク(けものフレンズ終わっちゃうよぎゃー!!)と言っても過言ではないであろうキラキラした世界観が中継先から伝わって来る。「ミュージックプレゼント」なのに曲は結構ないがしろにされがちな感じとか、そこらへんの適度なお行儀の悪さも好きだ。そして何よりも俺の耳を引くのは、死に対するコメディ感である。

 

 

 毒蝮さんが「いくつ〜?」と質問する。すると相手は「八十二(歳)です」などと答える。すると毒蝮さんは「そうか、あと二、三日だなあ」とか、結構どぎついブラックジョークを放つ。すると中継先は、その質問をされた相手も含めて待ってましたとばかりに大爆笑するのである。これには参った。今の俺など到底及ばない領域でコメディが展開されている。

 

 

 

 俺は半ばテンプレと化したこのやりとりを聞いていつも笑ってしまう、と同時に、ひどくジーンとしてしまうのだ。人間は当たり前だが死ぬまで生きる。そう考えるとなんだか切ないが、地域の商店街にある畳屋さんや銭湯で、その死ですら笑飛ばしている人々が集まっている事実は「天国あるぜー」と嘯かれるより(あったらごめん。死んでみないと分からないけど)よっぽど実践的に励まされる。バルハラの門なんて毒蝮さんが毎朝開いている。俺はそう訴えたい。

 

 

 先日の放送で「この曲を誰に送るの?」という毒蝮さんの質問に「上京してきたときの自分に」と答えた方がいた。それは素晴らしい人生だなと思った。将来、頑張っていた時の自分に向けて素敵な曲が送れるなんて、頑張っている最中の自分は気づきもしなかったろう。そしてそのエールに気づくのはあくまで将来の自分なのだ。八十歳で人々を幸せにできる毒蝮さんがその可能性を証明してくれている。って俺は思いながらまた「毒蝮三太夫のミュージックプレゼント」を聴く。

 

 

 

 

 

 

 

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電子、淘汰、石鹸

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 お久しぶりの人間ぶろぐです……。

 

 

 今日久々に固形石鹸を手にした。しかもちょっと古いタイプのだ。早速水で濡らしこちょこちょ手でこすって泡立てると、すっごく懐かしい匂いがした。恐らくかなりの人々がこの匂いを「おばあちゃん(あるいはおじいちゃん)ちの匂い」と形容する気がする……そういえば、子供の頃の石鹸ってそんなに良い匂いしなかったよなあ……そんなことを思った時、俺は「当たり前」のことに気付いてほのかにゾッとした。

 

 

 そう、最近の石鹸はとても匂いが良い。かといって別に昔の石鹸が臭かったという訳では無い。それでは今の石鹸の匂いはなんなのかというと、石鹸が石鹸であることを過剰に主張しているのである。

 

 

 石鹸の効能は実は良く分からない。「汚れを落とす」のが石鹸の効能であるのは疑う余地が無いはずだが、手を洗うたび、例えば電子顕微鏡などで手に付いた雑菌の死骸や指紋にめり込んだ油分を神経質に調べて石鹸の効能を実証する人って一般社会には中々いない。製品開発に携わったメーカーの宣伝文句を素直に信頼するか、あるいは消費者センターによる検証を待つしか消費者には石鹸の効能を知る術は無いのだ。

 

 

 そこで石鹸は、生き残るために匂った。洗浄後に良い匂いがすることは実は汚れが落ちることとは関係が無い。ていうか寧ろ、匂い成分の付着って汚れとどう定義が違うのか線引きが難しい気すらするのだが……とにかく「きれいに洗われた感じの分かり易さ」としての良い匂いがするように、俺たちの石鹸は進化を遂げ、消費を促し淘汰を繰り返してきたのだ。

 

 

 そういえば、柔軟剤も「柔軟」の意味丸投げで「良く匂う」ようになっている。中には定番で「石鹸の香り」もあり、それは「手を洗う石鹸の様な匂い」がするのだけど、その「手を洗う石鹸の様な匂い」が既に「『きれいに洗われた感じの分かり易さ』としての良い匂い」であって、虚構が虚構を呼ぶシミュラークルな世界が展開されているのである。しかも俺たちの体には「石鹸の香り」を嗅ぐと、「石鹸の香りだ!」ってちゃんと判断できる程に数多くの記号が付着しまくっている。便利になる、それは「世界が科学的に進歩する」ということだけではなく、「人間が科学的になっていく」ということでもあるのだ。

 

 

 信頼できないことの多い世の中で、せめて自分のことだけは信じていきたいものだが、その自分が目の前に覆いかぶせている世界観そのものが曖昧になっている場合もある、というか常に曖昧なものしかないんじゃないかな……俺にここまで思わせた固形石鹸はもう、エイリアンの卵にしか見えない、俺の目には。

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虫が、物騒、ただの石

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 俺が現在暮らしている町は神社が多く、寺もあり、庚申塔にも未だお供え物がされていてなんだかのどかである。商店街も現役の店が多く、昔ながらの喫茶店もあれば若い人向けのオシャレなカフェもあったりする。ただ自転車で走っているだけで人の日常生活が感じられて、それでいて割と都心にもアクセスし易く、はっきり言って俺は今住んでいる場所が大好きである。

 

 

 なので、先日、家から歩いて1分ほどの場所にある庚申塔が破壊されていたのには強い衝撃を受けた。久々に悲しかったし、素直に頭にきた。

 

 俺は昼に覚えた道でも夜暗くなるとどこにいるのか分からなくなる困った性質を持っている。だから引っ越した当初は自分家の近くまで来て文字通り路頭に迷うことがしばしばあったのだが、その際何度その庚申塔に助けられたことか。塔、と言ったってそりゃみざるきかざるいわざるの掘られた石に過ぎないかもしれない、しかし俺はその石に感情移入して見守られている気になっていたのだ。俺の勝手といえば勝手だが、本当に悲しい。

 

 

 神社巡りをしてる時に道端でたまに見かける庚申塔に興味が湧いた。もともとは中国から伝わった民間信仰で約二カ月に一度、体の中の虫が神様に悪事をチクリに行く云々……と、以外とそのルーツは面白く親しみが湧いた。そうなってくると不思議なもので、世間のいたるところで今まで目に入らなかった庚申塔が目に入るようになった。そもそも庚申塔に興味を持たずに生活していればここまで悲しい気持ちにならずに済んだのだろう。ある日庚申塔がぶち折れて道路に横たわり、お供え物がKEEP OUTのテープで囲まれていても「へえ、物騒」位のもんだったろう。しかし一度改変された意識というのは中々元に戻すことは出来ず、俺は庚申塔のある世界から抜け出せない。

 

 

 なにかムシャクシャすることがあったのか、力を解放するのがただ面白かったのか、あるいは信条の問題なのか、それは分からない。だがあんな優しいものが地面に叩きつけられているのはあんまりである。お供えはされているけど、庚申塔は特別に何もしない。ていうか、多分ただの石なんだけど、大事にしたい人が勝手に大事にする、それだけの存在だ。だからこそ鼻に付くのか、滑稽なのか、なんでも良くてたまたま庚申塔だっただけなのか、それも分からないが、いちいち無駄な、単細胞な暴力を加えるのは一体なんなんだろうか。全く面白くない、つまらない、ダサい、ヌルいやり方だよ。

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