三浦半島そぞろ歩き第2弾、
翌8月16日、観音崎灯台から走水神社までの真夏のウォーキング、よくやりますよね~。


いつものよう金沢文庫駅スタートAM11時、本日も天気真夏日でした。


30分ぐらいで終点の浦賀駅、この時間帯だと遅いのか人の流れがゆったりとしています。


浦賀駅ちょっとした高台にあり。


浦賀駅


観音崎の岬までは路線バスで約10分、スタートが遅いのでえらく空いてます。



観音崎案内図


終点のターミナルから、海水浴の行楽客やバーベキューをしている楽しい人達の間を抜けて、
ゆっくり歩いて15分位で観音崎灯台に到着します。



観音崎海辺


途中の無縁仏群です。



無縁仏群


墓石群のそばに寂光土と名のついた説明書きが目につきました。


寂光土





急な坂道は鬱蒼と茂った木々に囲まれ、その道をエンエンと登ると目の前にポッコリ現れたのは、粋でスマートで灯台の貴婦人のような、観音崎灯台です。






観音崎灯台





展望台からの遠望、眺望です。





遠望



眺望



狭い灯台の中の螺旋階段の壁には、日本中の名のある灯台の写真で一杯です。


その中でもやっぱり観音崎は群を抜いて天下一品、最高の貴婦人です。


室戸岬灯台写真です。






室戸崎灯台


あの美空ひばりの歌で有名な塩屋崎灯台です。



塩屋崎灯台


見てください、やっぱし観音崎灯台は立派でした。



観音崎灯台



帰り道、この観音崎にゆかりの深い、視覚の詩人といわれた西脇順三郎の石碑、”燈台に続く道”ゆっくりと御賞味あれ。



燈台に続く道



西脇順三郎
 


早速燈台を後にして、今年の春にオープンした横須賀美術館に向かいます。

歩いて10分、ちょうどすぐ近くのリゾートホテル、京急観音崎ホテルの真向かいに瀟洒な建物です。


横須賀美術館


予想以上に結構大きな美術館です。

ちょうど特別展として、イギリスの海に生きた素朴の画家として有名な”アルフレッド・ウォリス展が展示されて、初めてでしたが十分に閲覧しました。

船乗りとして前半生を海の上に暮らした後、60歳を過ぎてから描き始めた異色の画家です。



一見稚拙ながら生命力にあふれた作品の魅力を紹介していました。


ただし、自分としてはどの絵を見ても暗い彩色を多用していて、残念ながら次も見たいという気にはならなかったですね。

常設館として別館には、週刊新潮の表紙絵として有名な谷内六郎館があります。

ちょうど今は1958~1959の表紙絵を展示していました。

週刊新潮の素朴な表紙絵を知らない人はまずいないと思いますが、チャンスが有ったら一度必見に値します。


その青木繁三郎とか結構有名画人や、横須賀や観音崎のように海のゆかりに深い人達の絵が多いです。

お腹が空いたので時間を見たら2時40分、1時頃入館したのでもう十分、昼飯を食う為走水神社へと向かいます。

美術館より、バス停2個分先歩きます、意外と近いです。


走水神社の鳥居です。



走水神社


横須賀風物詩百選には次のような事が書かれていました。

走水の地名はすでに古事記(712年)や日本書紀(720年)のなかに現れています。

走水神社の祭神は、日本武尊とその后、弟橘媛の命の2柱です。



fuubutusi



入り口に水琴窟あり。
今時、めったに見れない代物です。



水琴窟



竹筒に耳を血被けると、かなりオクターブの高いキン、コン、キーンと甲高い音色がなんとも爽やかさが、このこの糞暑い暑気醒ましにピッタリでした。

皆さん、走水神社の名水、ご存知ですか?

元をただせば富士山の伏流水を源として、関東近県にも名を轟く名水として知られています。



走水の名水場


この名水と一緒に美味しい美味しいおにぎりをを頂き、上の祠で参拝しました。

昨年の8月16日に我々は、今回と逆のコースで走水神社に来ました。


ちょうど三浦半島そぞろ歩きの中のバックナンバーに詳しく走水神社の由来とか写真を沢山つけていますので、一度バックナンバーからご覧下さいませ。

近くの京急の馬堀海岸駅までは、ここから路線バスで10分位です。

今回も、5時には金沢文庫の我がオフィスに戻れ、近くて楽しい見るところ沢山の三浦半島そぞろ歩き、また挑戦したいと思います。

ご期待下さい。

また御機嫌よう。

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暫くご無沙汰でした。


ブログの更新、少々体調悪く、少々ご無沙汰でした。

それにもめげず、恒例のお盆休みの三浦半島そぞろ歩き、再び挑戦しました。


聞いてください、どうぞ見てやって下さい。


8月の15日、旧盆の真っ盛りの中、いつものよう金沢文庫の駅を我が連れ合いと二人で、ゆっくりと11時頃スタートしました。


天気は上々でも、本日も真夏日の35度を越える滅茶苦茶暑く、歩きには少々きついですね。


あっという間の30分で終点の三崎口到着です。



三崎口駅




確か4年前の2003年の5月頃、三崎口からキャベツ畑やスイカ畑の間を歩きながら、荒崎まで3時間ぐらいかけて歩いた事が有りました。


その時、今回の目的地ソレイユの丘は未だ出来てなく、その予定地の間を通って荒崎に着いたのですが、あの頃は3~4時間歩いても元気だったんですね。


三崎口のバスロータリーをすぐ右折し、ただひたすらに路線バス通りを歩く事約1時間と30分で、ソレイユの丘入り口到着です。


途中ただ歩くのも面白くないので、綺麗な花を見つけては休みやすみです。



赤い花


ヒマワリ


前回歩いたルートとはかなり違い、134号線沿いにソレイユの丘入り口と新しい近道の表示が出ていました。


さあ、ソレイユの丘ゲートです。



ソレイユの丘ゲート


無料ですのでご安心を。

さあ、早速中を案内しましょうと思いましたが、おなかが空いたので海と夕日の広場の休憩所で、途中コンビニで仕入れたおにぎりを補給です。

またこれがうまい事うまい事、たまりません。

暑さもピークに達したので熱中症に注意し、既にスポーツ飲料1リッターは飲きました。

最初にすぐキッチンガーデンがあり、ハーブなどの香りやサイト色とりどりの花が、、、、、、


キッチンガーデン


唐辛子



続いて乗馬場、気軽に馬との触れ合い、乗馬体験も出来けっこうよさそうです。



乗馬場


ここでチュウチュウトレインの登場です。



チュウチュウトレイン




場内唯一の交通手段です。
派手にポーッ、ポーッと音楽と合わせて通っていきました。


次は水の広場です。


ちっちゃな子供たちが遊ぶジャブジャブ池、推進5~30cmの池は、子供たちの天国です。


スワン型の足漕ぎボートは、親子ペアで一杯です。



スワンボート


時刻は2時半、突如水上ステージで音もたからにフラダンスのアトラクションが始まりました。


さあ、フラガール・オン・ステージです。



フラガール1




フラガール2


1時間ほどフラガールの笑顔とセクシーなフラダンスを堪能し、キッズガーデンに戻りました。




中々カラフルです。



キッズガーデン


最後に彩り農園の野菜畑を通り一周して終了です。
はい、キャベツ畑の自分の奥さんです。


キャベツ畑



これで最終、


4時過ぎの路線バスで帰ると、金沢文庫のマイオフィス到着5時でした。


ほんと!京急沿線はスタート遅くても帰りは早く、しっかり堪能出来ました。


三浦半島そぞろ歩き、万歳!万歳!


次回も連載で三浦半島そぞろ歩き、お伝えします。


お楽しみに。


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「うたの呼吸を壊す事。これが今の私のテーマなんです。」


この衝撃的なタイトルに、一発でひきつけられました。



4月8日、日経新聞載っていた、あの有名な演歌歌手”石川さゆりさん”の”究める”詩歌・教養の欄のタイトルです。



思わず聞き返しました。


「壊す」という事はどういうことか。

 

「生活している時の呼吸は決して一定じゃないのにうたの呼吸は規則正しい。


驚けばハッと息をのむし、うれしい時、悲しい時、いろんな呼吸がある。


声、呼吸でもっと生々しく歌えるんじゃないか、そろそろきれいに収めるだけじゃなく。正直なもpのをポーンと出せるんじゃないかな」



出だしがこんな感じで始まった新聞記事を目にした時、いつもの演歌歌手とは何か違うフレシュな瑞々しさ、爽やかさを感じました。




早速、ご紹介します。



石川さゆり
 



自分でなるほど、そうかそうか、うんうんといいながら紹介する始末となりました。


何卒、聞いてみてやってください。



デビュー三十五年。「狭霧の宿」でシングル百曲となったベテランは、自ら歩みそのものに挑んでいるかのようだ、


「耐え忍ぶ女」ではなく、強い意志を持ち自ら生き方を切り開く女性像が良く似合う。


シングルマザーとして生きてきた私生活にも通じるものがあるのではないか。



こう水を向けると、一瞬意外そうな表情をしたが、


すぐ、『津軽海峡・冬景色』からして{『さよならあなた・私はかえります』ですね}とうなずいた。



極め付きは「あなあたを殺していいですか」とすごんだ『天城越え』(86年)。



それまでの清純派イメージから白や水色でなく、赤いドレスを着て歌っただけで苦情が来た。



「それでも引っ張ってきたんですよ」。


イメージでなく、歌そのものの力でヒットにつなげた自信をのぞかせる。



『風邪の盆恋歌』(89年)以降は、自ら制作にかかわってきた。


「自分が何を表現したいか、意識して感じられる自分でいるために、心身のコンデションを維持するのが課題かな」


こうして呼吸するように歌い続けるのだろう。



余談になりますが、あなた殺していいですかの”天城越え”は発売された当時、表現の過激さに大きな反響を呼びました。



数少ない自分の大好きなレパートリの一つです。


一度、真夏に自分の奥さんと一緒に河津七滝を登って、旧道からワサビ沢から寒天橋をとおり、旧天城トンネルを抜け、浄蓮の滝の手前まで、約6時間、エンエンといって伊豆の踊り子コースを、逆方向に歩いた事を思い出しました。



風の盆恋歌は、越中おわら節の哀切感に満ちた旋律にのって、坂が多い街の道筋で、無言の踊り手たちが洗練されたおどりと、悲しげな音色を奏でる呼吸の調べが、聴く者を魅了してやみません。



石川さゆりさん、後世に残る大名曲に栄光あれ。


なかなか結構な新聞コラムでした。



次回もしっかり送りますので、


お楽しみに。



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日経新聞の中で、矢沢永吉氏の記事を見つけました。


4月29日、詩歌・教養欄の“究める”のページです。


すごく意外感あり、日経の中で矢沢の永チャンを取り上げるなんて、かっこいいすね。


書き出しはこんな感じです。



『団塊世代が退職したら、郊外に移り住んで悠々自適だって言うじゃない。



冗談じゃないよ。


リタイアなんてしたら本当に屍になっちゃう」


五十七歳の矢沢永吉の闘争宣言だ。



「歳をとったからこそ、単純なガッツが必要だ」




相変わらずかっこいいすね~。


キマッテイルもんね。




何故、矢沢の永ちゃんを取り上げたかというと、実は自分、昔から根っからのファンだったのでした。



広島から夜汽車で上京して、”成り上がり”スーパースターの名をほしいままにした。



年齢を重ね「まいったなー」と頭をかいてもサマになる男。



そんな矢沢を支えてきたのは、ある種の臆病さだ。



『屍になる」というように、時々の不安と対峙してきた。



キャロル結成まで、



1968年、高校を卒業と同時に広島から、トランクとギターとアルバイトで貯めた5万円を握り締めて最終の夜行で上京。




が横浜で途中下車。(ビートルズが港町の出身で、横浜も港町ということで途中下車したとは、本人談)。




チャイナタウンなどで働きながらバンド活動を始める。



横浜、横須賀、川崎などのライブハウスやキャバレー、兵隊の集まるゴーゴーークラブで歌う。



余談になりますが、中区横浜スタジアムから大桟橋にいく大通り沿いに、”洋食 梅香亭”というレトロ風の洋食屋があります。



裁判所の真向かいの、本当に昭和のにおいがプンプンの、洋食屋さんです。




中には古いウイスキーのポスターや、カレーライスやハヤシライスを食べながら一杯飲るというような、
知る人ぞ知るという、横浜でも隠れた名所でもあります。


十何年か前、オーナーの名物おばあちゃんに聞いた事が有りました。


このレストランの二階に、キャロル時代の永ちゃんが何年か下宿していたそうです。




いつも飲みに行くと、外国旅行の大好きなオーナーの美代子おばあちゃんが、楽しそうに永ちゃんの思い出話をしてくれました。


名物おばあちゃんも今は亡くなり、少し寂しいです。




横浜って中々いけるでしょう、、、、このような話をさりげなくするんだもんね。


日経新聞、”究める”記事の紹介です。
拡大にしてご覧下さい・


矢沢永吉


いまさら矢沢の永ちゃんのこと、紹介するまでもありませんが、こんな事を思い出しました。

かなり昔の話になりますが、仕事で車を運転しているとき、ラジオのディスクジョッキーが曲紹介している最中に、


突然矢沢の永ちゃんのかなりトッポイトーンで、ビッグにいこうぜ、ビッグ、ビッグだぞと、ガナリ立てていたこと、強く印象に残っています。


確かその時、未だキャロルをデビューして間もない頃だったと思いますが、十メートル先のタバコやにも、キャでラックで行って、ハイライト一個をぴゅっとかえるぐらいの男になりたいですね、といってた有名語録を思い出しました。


最後に、

どこまで走り続けるのか。

「不器用だからね。

うまく止まれないんですよ。

転んじゃいそうで」


週に三度は、「べろんべろんになるまで」酒を飲む。

「明るいうちからホテルのバーでドライマティーニ、最高だね」

長距離走者にも休息は必要だ。


最後の最後までかっこいいすね~、シビレマスワ。

矢沢の永ちゃん、

ハートに汗して、永遠のスーパースターに乾杯。

いつまでもビッグでね。


次回もまた熱いやつを送りますので、乞う、ご期待!

お楽しみに。

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1960年代に本格的な登山ブームがやってきた。


スキーや登山用品のエバニューという会社は、有望市場としてトップクライマーの芳野さんや、人気スキーヤーの三浦雄一郎さんを講師に迎え「山としキー映画の夕べ」を全国展開をした。


ちょうど1964年この頃、高校生だった自分は三浦雄一郎氏の講演を聞きに行った事を思い出しました。

三浦雄一郎さんは、その頃今のように有名ではなく、あるスピードスキー世界大会で170km位か、すごい記録出して知る人ぞ知る、世界の人でした。

非常に懐かしいですね。


「五文足のアルピニスト」と言われる、新田次郎の小説「栄光の岸壁」のモデルとなった芳野満彦氏のコラム第5弾、最終回です。


日経新聞3月16日の夕刊、ひとスクランブル、「人間発見」のコラムです。


芳野満彦氏 山岳画展 ギャラリーです。
非常に綺麗なパステル画です。
是非ご覧下さい。

http://www.gallery-eizo.gr.jp/artists/yoshino/index.html



1968年から72年にかけて、新田仁郎の小説「栄光の岸壁」が雑誌「山と渓谷」に連載された時期でもあります。

日経新聞3月16日の夕刊、ひとスクランブル、「人間発見」のコラムの紹介です。



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第一線を退いた吉野さんは、アフリカ(キリマンジャロに7回登攀)やヒマラヤのトレッキングガイドを勤める傍ら、詩と絵の世界に没頭していきます。

絵には山で逝った友への鎮魂の思いがこめられていた。


芳野満彦氏 山岳画展 ギャラリーです。
非常に綺麗なパステル画です。
是非ご覧下さい。

http://www.gallery-eizo.gr.jp/artists/yoshino/index.html




「ホットタウン」1997年7月号に、このような記事が載っていました。


芳野さんは山の絵も有名です。


「絵が好きで、芸大を目指しました。不合格でしたが、今も絵筆を握り、山岳雑誌『岳人』の表紙絵を描いています。

展覧会も地元や東京で開催、5月も六本木のギャラリー東京映像で開きました。

絵は山で見つけたものです。

仲間には星、花の研究家になったものもいます。

山に何かがあるということは、こうしたことです」


これからの夢は、外国の山の見えるところで暮らす事。


「今はネパールのカトマンズで小さな家を仮、一年のうち、4ヶ月暮らしています。

生活費が安いのも魅力です。

日本の山とスケールの違うヒマラヤなどは、見るだけでもいいですね」


登山への注意は。


「無理しない事。
山は決して逃げません。
また、山登りを楽しむのも大切。
準備で資料を読んでワクワクしたり、帰って来て写真屋絵の整理したりと、一生楽しめます。」


吉野さんならでの良い言葉ですね~。


重度の障害を持ちながら雪と岸壁に青春を燃やし、世界に踏み出したその生き方は、次の世代に引き継がれ、

植村 直己(エベレスト日本人初登頂、マッキンレー冬期単独初登頂語消息を絶つ)

長谷川 恒男(史上初のアルプス三大北壁冬期単独完登、ウルタル2峰登攀中ナダレに巻き込まれ遭難死)

加藤 保男(第2次RCC同人、冬期エベレスト世界初登頂語遭難死)

今井 通子(女性初のアルプス三大北壁完登)

田部井 淳子(女子登攀クラブ、女性として初のエベレスト登頂者)さんらが世界に羽ばたいていった。


青春譜『山靴の音」は長く読み継がれる。

現在は、「新編 山靴の音」の文庫本が発行されているので読みやすいです。


今回、新聞で偶然芳野満彦氏の記事を見つけ、四十数年ぶりに昔の恋人を見つけたような感覚でした。

それから堰を切ったように、昔の山の本を物置の中から探し出しては読む毎日でした。

おかげでブログの更新もさっぱりせず、仕事もそっちのけで山の本を貪り読む始末でした。

一辺で昔の青春の山に行ってた日々が、竜巻のようによみがえって来ました。

自分も体は昔のように動きませんが、近くの丘や野にハイキングに行ったりはしています。


話に聞くと、吉野さんも8年前に脳梗塞を患ったり、腫瘍の手術もされたと聞いていますが、

しかし、僅かな痕跡を残す程度で、水戸の住まいと東京を一人で往復するなど、障害を乗り越えた闘志は今でも健在です。

画人としても、無為自然の山頭火の境地を行くが如しです。


芳野満彦氏、永遠に栄光あれ。


最後に、吉野さんの言葉、
山には青春のにおいがある。

次回も面白い記事を探してきて発表しますので、ご期待乞う!

楽しみにして下さい。



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1956年、槙有恒隊のヒマラヤ山系マナスル初登頂の成功に触発され、にわかに登山者が増加した。


何故山に登るのかの問いに登山家ジョージ・マロリーは「山がそこにあるから」と言ったが、吉野さんの答えは明快だ。


「そこに希望があるからだ。だから僕は、涙して歩く」と。


「五文足のアルピニスト」と言われる、新田次郎の小説「栄光の岸壁」のモデルとなった芳野満彦氏のコラム第4弾です。


日経新聞3月15日の夕刊、ひとスクランブル、「人間発見」のコラムです。



1950年から徳沢園冬季山小屋番を始めてから、吉野氏はその徳沢園を足場に穂高蓮峰で徹底的に岩にくらいついた。


積雪期の岸壁が嬉しくてしょうがない。
岩登りは3点確保が基本、片足は使わない場合が多い。


腕は人の数倍も鍛えていたので、小さな足でもさほど苦労はない。


彼はこの時期、北アルプスの岸壁を積雪期を含め、次々に初登攀しています。


1957年3月、前穂高四峰正面岩壁、積雪期初登攀。

パーティー、前園陽太郎、久野泰山、加藤幸彦、高田光政、芳野満彦。


1957年8月、北穂高滝谷グレポン、初登攀。
パーティー、中村保、中村正、芳野満彦。


井上靖の「氷壁」でのステージにもなった、あの有名な滝谷です。


1958年1月、北岳バットレス中央稜、積雪期初登攀。
パーティー、奥山章、甘利仁郎、吉野弘、小板橋徹、芳野満彦。


1958年3月、剣岳チンネ正面岩壁、積雪期初登攀。
パーティー、吉野弘、田中浩司、芳野満彦。


1958年12月、前穂高北尾根屏風岩中央カンテ、積雪期初登攀。
パーティ、吉野弘、小板橋徹、吉野満彦。


パーティーのメンバーをみると、この時代のそうそうたるトップメンバーです。
特に吉野弘氏とは3回組んでますが、「垂直に挑む男」の著書で有名な吉野弘氏です。


日経新聞3月15日の夕刊、ひとスクランブル、「人間発見」のコラムの紹介す。



芳野4-1


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1962年に結婚し(苗字が服部と変わります)、妻に「山に行く事だけは許して欲しい」と釘を刺した。

国内の岸壁を登り尽くすと翌年、身重の妻を残しヨーロッパアルプスのアイガー北壁へ日本人で初めて挑戦する事になった。

アイガーというのは、スイスのベルナー・オーバーランドにある標高3974mの山。

アルプスの中では、それほど高い山ではないが、その北面の岸壁は、標高差実に1800m、頂上から山麓まで文字通りナタで抉り取ったような凹上の垂直となっていて、夏でも雪と氷で武装した第岸壁である。


更にこの岩壁の大きさと険しさは、アルプスの中でも有数のもので、同じくスイスのブァリスにあるマッターホルンの北壁、フランス・アルプスのグランド・ジョラスの腹壁と並んで「アルプスの三大北壁」といわれています。


最初の年、1963年大倉大八氏とパートナーを組1000m附近まで達したが悪天候の為撤退、
翌年も悪天候で撤退、三度目となる65年は、渡辺恒明氏と組み最初はアイガーを目指したが、
目標を急遽マッターホルンに変更した。


アイガーは登頂を目指す日本人がひしめき、彼らと先人を争って登るのが嫌いだったからだ。

芳野満彦氏の著書「われ北壁に成功せり」に詳しく書かれています。



我北壁に成功1


日本人のだれも成しえなかったアルプス三大北壁の一つの山頂に、2日間のビバークを経て達したのです。


二人とも後から後から流れ出る涙を止めることが出来なかった
8月6日の午前10時45分、55時間25分の苦闘だった。


妻に電報を打った。


当時流行の007映画「ロシアから愛をこめて」をもじって、
「ツェルマットより愛をこめて、我北壁に成功せり」


かっこいいですね、奥さんと2歳になる娘さん、美穂さんあてに感謝の気持ちを込めて。


パートナーの渡辺恒明氏は、この困難なマッターホルンの1200mの氷の壁をほとんど一人でトップを引き受けて、芳野氏の痛めた足をカバーしてくれたそうです。


芳野氏は昔の凍傷で切断した足先から、血が噴出してきていて、歩いて降りてくるのも大変だったのです。


それでも最後頂上まで20、30mのところで、「芳野さん疲れたから代わってください」と言って
自分を立ててくれたのが、とても嬉しかったそうです。


その一週間後の悲報だった。

このあと、芳野氏は足の負傷が酷いのでアイガー行きを断念、渡辺恒明氏はあらたに高田光政氏とパートナーを組んでアイガー北壁に挑戦しました。


快調に登っていた二人でしたが、頂上も間近で渡辺氏が滑落、高田氏も負傷したが、高田氏一人徹夜で救助を求めに降りたが、残念ながら間に合わず渡辺氏は墜落して亡くなりました。


偉大なアルピニストに、合掌!!!ご冥福をお祈りします。

マッターホルン登りながらで渡辺氏が撮った芳野満彦氏の写真です。



我北壁に成功2


芳野満彦氏のマッターホルンのスケッチと、頂上のウィンパー十字架をご紹介します。


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今回はココまでですが、次回、芳野満彦氏シリーズ最終回となります。

「五文足のアルピニスト」内容濃くやりますので、お楽しみに。

久し振りに山の本を読み返しています。

芳野満彦氏 山岳画展 ギャラリーです。

非常に綺麗なパステル画です。

是非ご覧下さい。


http://www.gallery-eizo.gr.jp/artists/yoshino/index.html



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芳野満彦さんの原点である冬の八ケ岳遭難から2年後の1950年11月、彼は上高地にいた。


山への憧憬(しょうけい)はやまない。


高校を休学し涸沢の玄関口、徳沢園の冬季小屋で小屋番として半年間、社会と隔絶された孤独な生活に入る事を選んだ。


「五文足のアルピニスト」と言われる、新田次郎の小説「栄光の岸壁」のモデルとなった芳野満彦氏のコラム第3弾です。


日経新聞3月14日の夕刊、ひとスクランブル、「人間発見」のコラムです。


今回は、来たアルプス上高地からほど近い、山男たちのベースキャンプとなった徳沢園冬季小屋の小屋番を、晩秋から初夏までフルで三度、途中を含めると11回、やらせてもらった。


芳野光彦氏の著書「山靴の音」やっと見つけました。



山靴の音



山靴の音2



山靴の音3



本の中の一節、小屋に入った最初の日、、


11月18日


徳沢園の人々は小屋じまいをすませて小雨を降る中を里に下っていった。
私はこの日の来るのを長い間じっと待っていた。


この日から本当の小屋番となったのだ。


犬と共に囲炉裏端に座り、じっと榾火を見つめ小屋晩生活第一日目は静かに暮れていった。
18日夕刻より降り続いた雪はとうとう根雪となり、徳沢園の小屋の周囲はまったく白銀の世界と化した。


この「山靴の音」は、我ら若き日頃の山やのバイブルでした。


本の中にもあるように、吉野氏はまれに見る絵心を持ったアルピニストで、素敵なスケッチと散文詩は、読むものの心を強く揺り動かしたのです。


1月15日


あまりの寒さに思わず飛び起きてしまった。


水銀柱は氷点下28度示している。
室外は32度だ。


久方ぶりに見るモルゲンロート(朝焼け)、神の生まれ出る姿、ただ一面に氷と雪、そして大雪原が、氷の岩峰が一瞬にして形容のしがたい美しい真紅の絵具で塗りつぶされる。


その瞬間は何人といえども頭が下がるだろう。
いったいこの景色を何人の人が知っているだろう。
おそらくこの姿に接した人は数える人しかいないと思う。


私にはこの神々しいまでに美しく厳かな光景を、人目でも見せたい人がいる。
いつも私が山に出かける時、心配そうな顔をして必ず家の門まで贈ってくれる母親だ。


いつも心配してくるる母親にこのモルゲンロートの一瞬間を見せたら、いったい何と言うだろう。
一度でいいから見せたいものだ。


中々名文ですね~。
何度読んでも新たな感動がこみ上げてきます。



何はともあれ新聞記事を紹介します。


芳野9



芳野10


芳野11


芳野12


芳野13



厳冬期の越冬生活が「山に生きる」不屈の精神を鍛えていった。


山小屋で大学の山岳部や山岳会の仲間と心を通じ、冬の穂高を自らも登った。
長い孤独を一匹の犬「ゴンベー」が癒してくれた。


「ゴンベーと雪崩」-犬とアンザイレンした話ー



ゴンベーは駄犬である。
だがゴンベーは大したものである。
ぼくはゴンベーが大好きだ。

で始まるエッセイは、芳野満彦氏とゴンベーの心暖まるジョークの効いたお話です。


前穂高三峰フェースに挑む時、一緒ついてきた。

ちょっとした不注意でザイルがゴンベーに引っかかり、標高差300m、距離にして1000mも転落してしまった。


死んだと思った。
ところが一つの黒点がまっしぐらに駆け上がってくる。
ゴンベーは生きていた。

人なら一日かかるところを15分で登ってきた。
荒い息に痛々しい姿に「勘弁してくれ、な、ゴンベー」僕は謝った。


そのあとゴンベーと一緒に縦走を続け、、今度は表層雪崩に巻き込まれた。

いくらゴンベーと読んで探しても見つからず、今度こそは本当に駄目かと思って、上高地の徳沢園の親父に報告すると、


「おれはナ、ナダレに会って死ぬような犬は飼わないようにしているんだッ!」
「え?じゃゴンベーは?」
「いま、おれの前でピンピンしているワ」


-僕は体がヘタヘタト崩れそうに嬉しかった。

ゴンベーは駄犬である。
だがゴンベーは大したものである。
ぼくはゴンベーが大好きだ。

中々 いいでしょう。

満彦君とゴンベーの心暖まるお話でした。


次回も「五文足のアルピニスト」第4弾、いきまっせ!!
乞う!ご期待。


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三浦半島そぞろ歩きシリーズです。


連休の真ん中、5月4日に行ったんですが、その後連日出勤とアフィリのメルマガ申請で目一杯時間を取られ、アップロードが遅れました。


このような紀行文は、すぐアップロードしなくちゃいけないのに御免なさい。



今回もうちの奥さんと二人一緒のそぞろ歩きです。

金沢文庫駅スタートなので、朝は超ゆっくりの11時半過ぎ、お昼頃でした。


本日も快晴で最高のそぞろ歩き日和です。

さあ、出発しましょう。


逗子駅行きの電車で文庫駅から三つ目、神武寺駅で降ります。




神武寺駅


本当に近いですね、途中いろんなものを見てゆっくり歩いて約30分です。


山の手前の老人ホームで沢山の鯉のぼりを見ました。

多分、お孫さんからの差し入れでしょうね。


皐月空に沢山の元気よく泳ぐ姿は、まさに壮観です。

これだけ沢山有ると自分も元気付けられ、嬉しくなりました。



鯉のぼり     鯉のぼり2


沢沿いに山に入って行き、しばらくして神武寺の山門に到着します。



山の中腹に立つ神武寺は、創建724年、かなり古いです。




神武寺駅から神武寺の山の中まで行くには、表参道と裏参道二通りの山道があります。


今回は山の風情の多い裏参道を行く事にしました。


京急の線路に沿っていくと神武寺行きのたて看板が有りました。



タテ看板


本当に近いですね、途中いろんなものを見ながらゆっくり歩いて約30分です。

山の手前の老人ホームで、沢山の鯉のぼりを見ました。

多分、お孫さんからの差し入れでしょうね。


皐月空に沢山の元気よく泳ぐ姿は、まさに壮観です。
これだけ沢山有ると自分も元気付けられ、嬉しくなりました。



鯉のぼり     鯉のぼり2


急に山肌が狭り沢道沿いにいくと、急に深山幽谷の態の山相に吃驚します。
住宅の密集する神奈川県のさなかにこんな空間があるとは、、、、


しばらくして神武寺の山門に到着します。


山の中腹に立つ神武寺は、創建724年、かなり古いです。

簡単に神武寺をご紹介しましょう。



神武寺説明版



医王山来迎神武寺は天台宗、高取山登山道の中腹に建てられています。


古くは、鎌倉時代に編纂された「吾妻鏡」にも源実朝が参拝した事が書かれています。
関東でも比較的由緒の古い名刹であり、自然環境のよく保たれた山岳寺院の面影をとどめています。


本堂は薬師堂で、室町末期の様式を持つ建築です。


神奈川県の重要文化財にお指定され、堂内の厨子には薬師如来坐像・日光菩薩像・月光菩薩像が納められ、他に十二神将像が祭られています。


薬師堂です、立派でしょう。



薬師堂



三浦半島八景でも有名な神武寺の晩鐘を紹介します。



神武寺の鐘楼


三浦八景



ここから小1時間、気持ちのいい尾根道を鷹取山山頂の展望台目指して歩きます。


途中、横浜横須賀道路のトンネルの上を通り、山頂間近の岩場には結構長い鎖が下がり、吃驚しました。


頂上そばの砕石場跡には、ロッククライマーが数人岩場にぶら下がっていました。
ロッククライミングの格好なゲレンデなのでしょう。


ロッククライミング1



ロッククライミング2


ロッククライミング3



岩場にはハーケンによる無数の穴が残り、湘南の海に近いとは思えない、一種独特な風景でした。


展望台広場で1時間かけて昼食を取りました。
浦賀の海を見ながらのおにぎりが、とっても美味しかったです。


前回約1時間かけて京急田浦駅方面を歩いたので、
今回帰り道は、磨崖仏をを通って京急追浜駅に向かいます。


20分位で磨崖仏に到着します。


昔の石切り場に作られた磨き崖仏(弥勒大菩薩像)は、昭和40年頃厨子の彫刻家によって彫られたそうです。



磨崖仏



磨崖仏説明晩



ここからは、追浜駅にまっしぐらです。


約20分ぐらいで山を降り、湘南鷹取団地の街中を歩き続けると追浜駅となります。


12時に出発し、4時頃には帰れる本当に身近な三浦半島そぞろ歩きでした。


三浦半島、万歳!!!


次回、またのお楽しみに!

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昨年11月以来、久方ぶりの三浦半島そぞろ歩きです。


昨日4月29日、天気快晴で最高のそぞろ歩き日和でした。
いつものよう、うちの奥さんと二人で、自分とこの会社の事務所を11時頃出発し、京急金沢文庫駅から約30分ぐらいで津久井浜駅に到着します。


三崎口駅の2個手前です。
三浦半島はいつ行ってもアプローチ時間が短いので、朝のスタートがゆっくり出来非常に楽珍です。


津久井浜駅前です。



津久井浜駅       駅看板




津久井浜駅より約2時間位で、標高約200M位の武山の山頂に到着します。


山頂には武山不動院が祭ってあり、江戸時代に回線問屋の船頭から浦賀水道に入る目印になり、漁師には漁場の位置を確認する「山たて」の場所として、三浦半島一帯の人々から「武山のお不動さん」と厚く信仰されてきました。


早速歩いてみましょうね。

駅からすぐかぼちゃ畑や、ソラマメの畑の間をゆっくり進みます。
畑の中を歩くのも、中々乙なものですよ。


道の脇に古ぼけた赤い鳥居があり、その奥にちょこっと座った祠に静けさを感じます。


赤い鳥居     鳥居の祠



暫く歩くと道端に道祖神の石仏群が有りました。


古い時代の馬頭観音、庚申塚と思います。


石仏1



石仏2


馬頭観音



途中、津久井浜観光農園のハウスで、今が旬のイチゴ狩り、真っ最中でした。
6月、7月はスイカ狩りや、メロン狩りが十分楽しめます。


山の分け入る口にこんな変わった赤マント地蔵を見つけました。
可愛さと何か不思議な感じを受けました。


赤マント地蔵



こんな低い山でもこのような急な登りが約10分間続きます。
山の中は気温が5℃位低く、ヒヤァッと寒いくらいです。


急な登り



さあ、頂上です、武山不動にお参りしましょう。
静かな山の中から急に俗世界に戻った感じでにぎやかになりました。



山門道


武山不動


不動説明版


また武山不動は2000本のつつじでも有名で、4月の連休はいつも咲き見ごろとなりますが、今年は早めに咲き終わりの花になっていました。



つつじ1


つつじ2


展望台からの眺望は三浦海岸をはじめ、遠く房総、伊豆、大島等一望できる絶景でした。



眺望1



これから更に30分くらい尾根沿いに歩くと、砲台山(204m)三浦富士(183m)に到着します。
三浦富士は富士山に見立てた山岳信仰で、7月8日には江戸時代から伝わる伝統行事「お焚き上げ」が行われ、武山と共に、漁師たちの会場からの道標で有りました。
三浦富士の頂上です。



三浦富士1


三浦富士2



ここから約1時間、急坂を転がるように降りていくと、京急長沢駅に到着しました。
途中、急なため降りる際ロープの張っている場所もあり、なかなかもものでした。


長沢駅



実質3時間半の山歩き、すぐ自宅に帰れる便利さ、これからも病み付きになりそうです。
次回もお楽しみにして下さい。


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前回、センセーショナルの見出しでご紹介した、新田次郎の小説「栄光の岸壁」のモデルとなった芳野満彦氏のコラム第2弾です。


日経新聞3月12日の夕刊ひとスクランブル、「人間発見」のコラムです。


17歳の芳野満彦氏の少年が、八ヶ岳から九死に一生を得て生還したが、両足のつま先を切断、つま先よりかかとの骨のほうが出っ張って見える12センチの足になってしまった。


吉野氏のかの有名な通称「五文足のアルピニスト」と言われる所以です。


早速自宅の古い本をあたって見たら、見つけました。



栄光の岸壁


昔の本はブックカバーに入っていたんだと、改めて思いました。

そういえば現在ブックカバーを使用している本、中々見当たりませんです。


肝心の芳野満彦著の「山靴の音」はどこへ行ったか見つけられません。

この本は何度も読み直して、いわば自分の山のバイブルみたいなものでした。


残念です。


でもこんな本も有りました。



氷壁



風雪のビバーク


「風雪のビバーク」は、松濤明氏の遺稿集です。


芳野光彦氏が八ッ岳で遭難したすぐ後、槍ケ岳の北鎌尾根を縦走中に二人で遭難死します。

その時松濤明氏が死の直前まで手帳に「足が凍え腰まで凍ってきた」と「風雪のビバーク」という遺稿集を残しました。


上記三冊は、神田神保町の古本屋街で見つけたものです。

当時自分は20代の前半位で、いつも懐寂しく、ピーピーしてました。


芳野光彦氏はつま先切断後、今から考えると信じられない位の超特訓を重ね、半年後にはやっとフラフラしながら外に出る事が出来たそうです。


1年後の5月、弟と谷川岳に行き、思い通りに行かなかったので帰って徹底的に歩行訓練をしました。

その夏には兄貴と白馬岳に行き、頂上まで登れたそうです。


まさに超人ですね、今時この様な事をしたら、超人ではなく多分狂人と呼ばれんじゃないでしょうか?


何はともあれ、芳野満彦氏の「山で育てた不屈の闘志、第2弾」をゆっくりご覧下さい。


新聞記事が横に長く、デジカメで要領よく取れなくて何枚にもなりました。

多少醜いですが、クリックして拡大してご覧下さい。



芳野満彦4



芳野満彦5



芳野満彦6



芳野満彦7



芳野満彦8


父は早大商学部教授でワンダーフォーゲルの部長、男5人兄弟の2番目で、末弟は東京五輪でボートのコックス、他はみな山男という山一家だったそうです。


これからは凄まじい限りの吉野氏の山歩きが始まります。


我ら青春の1ページを飾った、「五文足のアルピニスト」芳野満彦氏の山歩きを堪能してください。


次回も気合を入れて書きますので、お楽しみに。


乞う、ご期待!!!


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