電車や地下鉄に乗ると、つり革広告が目に入る。企業など広告主が広告代理店を通じて一定期間、「枠」を購入して広告を展示しているものだ。電車は「公的」なスペースであるのに、一方的にさまざまなメッセージにさらされるばかりで、別の意見をいえないというのはおかしいのではないだろうか。週刊誌の出派亀な・肉感的な・人の粗探しをするばかりの・偏見を助長する見出しを見続けて育つ子どもが、社会に失望してすさんだ気持ちにならないほうが不思議だと思う。

広告の強すぎる「教育効果」に対して、お金を出して広告スペースを買ったものには利用する人は耐えるしかないのだろうか? 公的な場所を使う広告にはその場所を使うための、皆にとってのルールがあってしかるべきではないか。

そこで「広告フィードバック法」(案)を提案する。この法では、広告主が広告スペースを購入するとき、数%の「スペース」分を「広告フィードバック意見掲示」のために一緒に購入しなければならない。

ある広告(すべての広告にIDナンバーがついているとする)を見て、見た人がその番号を元にネットなどから意見や感想をどんどん書き込み、それらの意見(ほめる意見も、よけいなメッセージの刷り込みをしかる意見も)が一定期間、できれば該当の広告の隣の「広告意見スペース」に掲示される。人は広告を見、隣の意見を見て考え、自分の意見も手持ちの携帯電話メールから送るだろう。広告は、常に意見を待つものに変わる。広告代理店や新聞社主催の広告賞の選び方も変わり、関係者ではなく、消費者や利用者からどれだか活発な意見を引き出し、よい評価を得られたかが話題になるだろう。

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「うち」と「そと」

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 公私の別について、しばらく考えてみたが、子ども(次世代)に「これが公だ」と教えることがおぼつかない。公私の別をどのように教わってきたか、私には思い浮かばない。まさか、教わったことがないわけでは・・・。 
 「うち」と「そと」あるいは「よそ」との区別については、家でも学校でも職場でも、くりかえし叩き込まれてきたと思う。「よそ」は「うち」とははっきり区別され、関係ないところ、自分が参加しないところ、という「閉じたかかわりあい」を感じる。よその家、よその学校、他社、海外。「そと(よそ)向けの発言」といえば、(うちなる)真意・本音を隠すという意味あいだ。
 しかし、「うち」と「そと」をつなぐ、「人前」という言葉があると思った。人前での振るまい、人前で発言する。「人前」には「うち」の延長線上に「そと」に向かう姿勢があると感じる。
 「公」は自分も他も参加する社会のことだと思う。「うち」は関係ない、とはいえない。「うち」(自分の思い)を「そと」に発することがなければ、他の人の意見に出会ったり意見の折り合いをつけたりができず、できた結論に従うこともむずかしい。

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2004年6月に自民党憲法改正プロジェクトチームが出していた「論点整理(案)」を読んでいたら、と気になることがありました。現憲法の「公共の福祉」という言葉を変更したほうがよい、ということです。 「『公共の利益』あるいは『公益』とすべき」と提案されていました。


 「福祉」と「利益」ではおおいなる違いがあるのではないかと思いました。 「福祉」を手元の辞書でひいてみると「人々の幸福」「幸せな環境」 と出ます。「公共の福祉」という言葉が、読んですぐ意味がわからないことが問題なのでは?と思いました。もし、憲法の項目に「人々の幸福」という言葉が使われていたら、「論点整理(案)」での提案はちょっと無理なのでは? 

 


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