真実の実は苦い

無知蒙昧な中年男が、悪魔に食べさせられた真実の実。月の女神が示した絵のない絵本のページをめくる。


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昔、Ladyから聞いたことがある。

「刀」というものが日本に伝えられたのは、かなり古い時代で、イギリスからだったそうだ。一般には知られていないが、古代のイギリスに、「Katana」という武器があったらしい。どんなものだったのか、私自身は知らない。
因みに、「剣」と「刀」という言葉はゴッチャになって使われることが多いが、厳密に言うと「剣」は両刃で、「刀」は片刃のものを指す。
ただ、「小烏丸」という形式の刀は、刃先の方だけ両刃になっていて下半分は片刃なので、モノによっては分類しづらい場合もある。

日本刀は作られた時代で大まかに「古々刀」「古刀」「新刀」「新々刀」「現代刀」に分類される。
平安~室町前期に作られたものが古刀、それ以前が古々刀、室町後期~絵時に作られたものが新刀、幕末以降が新々刀だそうだ。戦後に作られたものは現代刀と言うらしい。
昭和刀というものもあるが、これは戦前の軍人からの需要に合わせて急造されたもので、型に流し込んで作ってあり、日本刀とはいえない。切れ味も大きなペーパーナイフといった程度だ。
戦前、ある軍人が自分の昭和刀の切れ味を確かめようと、遺体の手首を斬り落とそうと試みたが、上手くいかなかった。彼は、「日本刀は三人斬ったら血のりで斬れなくなる」と書き残しており、今日でもそれを信じている人が多い。

Lady「20人斬ったら、一度は布で拭きたいね。戦ってる最中は、倒れている相手の着物で拭うんだよ。」

因みに、Ladyの経験では一対多で戦う場合、斬り合いであろうと素手での殴り合いであろうと、3人というのがボーダーラインらしい。4人以上になると、何人を相手にしても戦い方は同じだという。


鎌倉時代の初期のこと。
晩年の静御前は「キヌ」と名乗り、幕府軍の追っ手から全国を逃げ回っていた。が、遂には、常陸国(ひたちのくに)の川辺で二千人の敵兵に囲まれてしまった。逃げ疲れていた彼女は、ここで遂にキレた。

「『キヌ』とは、鬼が怒ると書くのですっ!」

そう言い放ち、彼女は二千人の兵に突っ込んでいった。二刀流抜刀術の剣が、次々と敵を斬り倒していく。そうして、最後の一人である大男の武者と相打ちとなり、絶命したと伝えられる。
川は彼女が斬った二千人の兵士の血で真っ赤に染まった。その後、その川は「鬼怒川」と呼ばれるようになった。
その後も子孫により面々と伝えられてきた剣技は、常に一対多の戦いを意識して練られてきた。


生産品ではなく、熟練した刀匠が魂を込めた刀を打つ場合、必ず二振りが打たれ、出来の良い方は白木の鞘に収められ、神社に御神刀として奉納される。これを「真打(しんうち)」と言う。芝居などで「真打登場」などという言葉はここから生まれた。残りの刀を「陰打(かげうち)」と言い、発注者へばこちらが納品される。

先に述べたとおり、古刀と新刀の分かれ目は室町期の途中とされているのだが、この時代に南蛮との交易が始まり、南蛮鉄が国内に持ち困れるようになった。それまでの刀は国産の蹉跌(さてつ)を原料としていたが、この時点から南蛮鉄が混ぜられるようになり、その違いから古刀・新刀に分けているようだ。
一説に、戦国期の新刀がもっとも切れ味が良いと言われている。何故だろう?
茨城県に現代の名刀匠が存在する。本人も居合いの達人である。その現代の名刀匠が、答えを教えてくれた。
戦国大名たちが盛んに行った南蛮貿易により、南蛮鉄と西洋甲冑の技術が国内に持ち込まれるようになると、我が国の甲冑にも改良が加えられた。より丈夫になり、刀や槍、鉄砲玉などを通し難くなったのだ。
古武術の技の基本としては、甲冑の継ぎ目や隙間を狙って突いたり斬ったりする。が、甲冑ごと斬り裂くという剛の技も少なくない。有名なところでは柳生新陰流の「兜割り」がそうだし、佐々木小次郎の「燕(つばめ)返し」もそうだった。
燕返しは背中に隠すように構えた長刀を大きく振りかぶり、敵の肩口から鎧ごと斬り裂き、刃先が地面に突く直前に返して、敵の股間を斬り上げる。

Ladyの弟子に、燕返しを習っている女性がいる。私もよく受け太刀ををやるが、全身のバネを使って振り下ろす木刀の衝撃は強烈極まりない。受ける瞬間に自分の木刀を引いてやらないと、こちらの木刀が折れてしまう。

戦国期に甲冑が丈夫になったため、刀の方は南蛮鉄を超える材質が求められた。そこで刀匠たちが用いたのが、地球外の物質「隕石」だった。隕石から抽出した金属を蹉跌に混ぜ、刀を打ったのだ。この隕石金属をLadyは「隕鉄(いんてつ)」と呼び、現代の刀匠は「天鋼(あまはがね)」と称す。
まさに「ルパン3世」に登場する石川五右衛門が使う斬鉄剣(斬鉄剣は隕石から作られ、鉄をも斬り裂くという設定)である。
当然、原料が限られている分、天鋼製の刀は数が少ない。

現代刀匠も天鋼の太刀を作っている。刀匠は自分が作った刀を、座っているLadyに手渡した。それはズシリと重く、あわや取り落としそうになった。70kgあるそうだ。

Lady「普通に持つと持てないね。居合いの持ち方すると持てるけどさ。居合いのときは、丹田に氣を込めて持つんだよ。」

戦国期の刀には、信じられないほど重いものが存在する。
織田信長の筆頭家老であった柴田勝家の豪剣が残っているそうだ。重さ230kg。柄には指の痕が付いており、刃には人間の脂が付着している。つまり、かなり使い込まれ、何度も人を斬っていたということである。しかも、指痕の状態から、片手で振り回していたと考えられている。
因みに、重量挙げの世界最高記録は263kgだそうだ。

Lady「人間にそんなことはできない、っていう学者は多いよ。でも、そんなヤツらにかぎって、木刀一本振り回したことないからね。机上の空論を信じちゃダメだよ。」

昔、Ladyが取材した伊賀の忍者資料館で、重量50kgの鎖帷子を見せてもらったことがあるそうだ。

学芸員「記録では、これを着て木の枝に飛び乗って、敵を待ち伏せしたりしていたみたいですね。現代人からは考えられませんが、人間の能力ってスゴイですよね。まあ、否定する学者のセンセイ方も多いですが(笑)」

Ladyの海外の従妹に、「300kgくらいのバーベルなら片手で持ち上げられるよ」という女性がいる。彼女は、実家の城に代々伝わる、重さ90kgの大剣・クレイモアで、大岩を一撃で真っ二つにする。

Lady「学者にはさぁ、氣を練るってことが、どんなことかわかんないんだよ。」

私にはまだできない技がある。
Ladyは私の両手首を両手で掴むと、その手をクルっと回転させる。私の身体は大きく弧を描き、逆さになって投げ飛ばされる。まったく抵抗はできない。Ladyは力を込めたわけでもなく、足を掛けたわけでもない。ただ、氣を練ったのだ。
初めてこれをやられた相手は、何が起きたかわからずに呆然となるので、見ていて面白い。

私が不思議だったのは、戦国刀がいくら分厚いにせよ、一本の刀が何故230kgもの重さになるのかということだった。同じ重量のバーベルなら、デカいウエイト(重り)が両側に何枚も並ぶはずだ。
これも、現代の刀匠が答えをくれた。
日本刀は熱した地金を槌で叩いて作る。打つ作業は二人以上で行われ、合いの手と呼ばれる者たちが大きな槌で地金を伸ばし、刀工が小さな槌で整えていく。「合いの手を入れる」という言葉はここから発生した。
この、打つ作業の中で、材料となる鉄の密度を高めていくのだそうだ。つまり、比重をありえないくらい高めることで、同じ容積でも重い刀ができあがるのである。
これが、真の意味での「刀を鍛える」ということらしい。
刀工なら誰でもできるわけでなく、かなり特別な技術だという。現代の刀匠が鍛えた70kgの刀も、日本刀としてはかなり重い方である。Ladyの刀には二桁のものも少なくないが、通常は数kg程度のものが多い。


さて、実戦においては、斬った後に「血振り」という所作が行われる。時代劇などでもたまに見る、刀を小さく振って、血のりをピッと飛ばすアレだ。血振りを行うことによって、刀の斬れ味が鈍るのを抑えるのである。
血振りは流派によって型があり、やり方が違う。Ladyの抜刀術では、抜刀→斬る→血振り→納刀という動きがひとつになっており、抜いたと思った瞬間に敵は斬られており、敵が倒れる前に刀は鞘に収まっている。

下の動画は香取神道流の実演だが、神道流の血振りは独特である。

http://youtu.be/6L_jGZbbAqI

動きが速くてわかり難いが、納刀の前に左手の中で刀を一回転させ、柄をトンッと叩く。これが神道流の血振りである。
神道流は古くから主に神職を中心に伝えられてきた。私と息子はこれを体得するよう言われているが、この年になってからでは厳しいものがある。

Lady「千葉周作だって五十過ぎてから、隠居後の趣味として剣術に取り組みだして、道場を開くまでになったんだよ。大丈夫だよ。」

いや、あの当時ですから、五十過ぎて初めて剣を持ったわけではないはずだ。武士のたしなみとして、子どもの頃から稽古はしていたでしょう( ̄▽ ̄;

下は、香取神道流を紹介した動画である。神道流の動きは速い。立会いの稽古は、空手で言う「約束組手」ではなく、全て「自由組手」なのだそうだ。木刀を使い、防具は使わない(使えない)ので、当然寸止めである。
初心者の剣術の稽古においては、寸止めも必ず上手くいくものではない。止まらなくて打ち込んでしまうのはよくあること。なので、通常の流派では初心者の受け太刀は、師範か師範代が行うことが多い。
受け太刀をやっていても、受けた木刀が鍔(つば)を越えて当たることも多く、右手の指は怪我が絶えない。幸いにも私はまだ、骨折に至ったことはないが。

http://youtu.be/ArctusLd4_0

動画の1分45秒辺りから、神道流の開祖・飯篠長威斎(いいざさちょういさい)や、歴代の皆伝者たちの墓が紹介されている。どの墓石も大きな自然石で作られているが、スッパリと斬られているのがわかる。神道流の免許を皆伝する者は、剣客(けんかく)の心構えとして生前に自分の墓を造り、その墓石を一刀で斬り落とさなくてはならないそうだ。墓石が上手く斬れないと、最終的に免許が受理されなかったらしい。

神道流の奥義は剣を抜かずして勝つこと。「鞘の中で勝つ」というヤツだ。
これに関してはいろいろと精神論などを唱える人もいるが、自分を襲おうとする相手に対して、実際に戦わなくとも「コイツには勝てない」と思わせるだけの剣気をまとう、ということなのだそうだ。

Lady「アンタも、それくらいになりぃや。」
私「カンベンして・・・・・orz」


もうひとつ、別の流派の動画を紹介しよう。
肥後人吉藩の剣術指南役だった丸目蔵人(まるめくらんど)が創立した、タイ捨流(たいしゃりゅう)を地元TV局がかなり以前に紹介したものだ。
丸目蔵人は、新陰流の開祖で剣聖と謳(うた)われた上泉信綱(かみいずみのぶつな)の四天王だった人で、信綱が将軍・足利義輝に剣術披露をしたとき、受け太刀を務めたことで知られる。信綱の弟子には柳生流開祖・柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)などもいた。
蔵人は新陰流から、独自のタイ捨新陰流を確立させるが、石舟斎の息子で徳川将軍指南役となった柳生宗矩(むねのり)が柳生新陰流を立ち上げ、「日本(ひのもと)一」と名乗ったことに立腹。「勝手に新陰流を名乗るは心外。この上はどちらが日本一か、真剣にての立会いを所望」と申し出た。慌てた宗矩は師匠の信綱に泣きつき、信綱は「まあまあ、宗矩は東日本一、蔵人は西日本一ということで良いではないか」と取り成した。師匠にそう言われては蔵人も引き下がるしかなかったが、それ以降は「タイ捨新陰流」から新陰流を外し、「タイ捨流」とした。

タイ捨流は現在も熊本県人吉市に伝わっているが、動画に出てくる師範は丸目蔵人の子孫ではない。直系子孫の丸目氏は別にいるが、剣術はたしなんでいないらしい。
Ladyは昔、この師範と三本勝負で立ち会ったことがあるそうだ。結果はあえて伏せておく。
因みに、Ladyはいろんな現代の剣術家と試合をしているが、一本目は相手が100%油断しており、「ちょっと待って、女の子と思って手加減してた」となるらしい。二本目で少し本気を出し、三本目は完全に本気になるというのがパターンのようだ。

http://youtu.be/xTM-2BcV1aE

タイ捨流は実戦的な剣術で、動画にもあるように蹴ったり、投げたり、何でもやる。他の古武術でもそうだが、棍(棒)や手裏剣など、用いる武器も多彩である。タイ捨流に至っては鎖鎌(くさりがま)まである。
かつては九州一円に普及し、薩摩でも示現流が台頭してくるまではタイ捨流が用いられていた。宮崎県の山間部の村には、今でも奉納武芸として木刀と棍によるタイ捨流の型が残っていたりする。

動画の冒頭部分で師範が何か唱えているが、これは摩利支天(まりしてん)に祈りを捧げているのだ。タイ捨流では稽古の前に、必ずこれを行う。
稽古でも真剣が使われるため、参加者は、「稽古中に何が起きても問題としません」といった内容の念書を事前に書くそうだ。動画の最初の方で、師範が軽やかに跳んで相手の太刀をかわしているが、これにも真剣が使われているということだ。師範は年配者とは思えないほどの身軽さを見せているが、失敗すれば足がなくなってしまう。
また、相手の抜刀を制して、手刀で目潰しをする技が紹介されているが、これは敵の戦闘能力を奪うことで、命を取らずに済ませるという意味もあるのだそうだ。
陰流にも目潰しの技があるが、こちらは下のように指の関節をめり込ませる。

目潰し

実戦においては、鍔迫り合い(つばぜりあい)が生死の分かれ目となるケースが多い。血振りと同じく、鍔迫り合いにも流派ごとの対処法がある。
たとえば示現流では、強く押し込んだ上で前蹴りを放ち、相手のバランスを崩してから斬る剛タイプ。これに対しタイ捨流では、柔よく剛を制すやり方だ。
一旦押し込んでおいて、相手が押し返してきた瞬間に力を抜き、相手が前のめりにつんのめって来たのをサラリとかわして、背後から斬り伏せる。

動画の終わりの方に出てくるが、タイ捨流の極意は「水急不流月(すいきゅうふりゅうづき)」にある。どれだけ水の流れが急であっても、そこに映る月の影が流れていくことはない。どれだけ敵の攻撃が激しくとも、決して己を乱してはならない。「不動心」であれ、ということである。

若い日の宮本武蔵が、剣聖・塚原卜伝(つかはらぼくでん)の庵を急襲し、いきなり木刀で撃ちかかったものの、卜伝が鍋の蓋で難なく受け止めたため、「まいりました」となった話は有名である。
が、武蔵が丸目蔵人相手に腕試ししようとしたことはあまり知られていない。

晩年の蔵人はせっせと農作業にいそしんでいた。畑仕事をしている彼の前に、若き武蔵が現れ、「一手ご指南を」と所望した。
蔵人は聞こえない振りをして、取りとめもないことを話すだけで、野良仕事をやめようとしない。何度勝負を挑んでも、はぐらかされた。
武蔵が業を煮やしていると、手を休めて腰を伸ばした蔵人は「ふーっ」と大きく息を整えると、「ま、せっかくおこしになられたんじゃ、粥でも食っていきなさらんか?」と誘った。
武蔵は案内されるまま蔵人の庵に上がり込み、粥を相伴になった。
相変わらず蔵人は間の抜けた会話しかしなかった。
一服した蔵人は「どっこらせ」と立ち上がり、外に出ると畑の方へと歩き出した。武蔵はどうやって勝負を受けさせようかと思案しながら後を追った。
納屋と納屋の間の狭い通路を二人が通り抜けていたとき、蔵人は突然振り向くと、持っていた大きな鉈(なた)を振り上げた。
不意をつかれた武蔵は、慌てながら刀を抜こうとしたが、通路が狭いため太刀が抜けない。踵を返し、一目散に広い場所へと逃げ出した。そこで振り返ると、抜刀して構えた。
蔵人はと言えば、何事もなかったかのように畑の方へと歩いていた。
武蔵に急襲された塚原卜伝は「水急不流月」足りえたが、若い武蔵はそれに至らなかったわけだ。
しばし呆然としていた武蔵だったが、刀を納めると深々と一礼し、「ご教授ありがとうございましたっ!」と叫び、去っていった。

蔵人がこのとき使った自作の鉈は現存している。柄が長く、真っ直ぐの長い刃が付いている。十分、刀代わりに使えそうなものである。晩年の蔵人は刀を差さず、この鉈を持ち歩いていたという。
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