いわき震災通信vol.90です。
長いですが、よかったら読んでみてください。


【2016年7月2日号】
皆様、
梅雨の合間。
昨日今日で、どうやら軒先の洗濯物がやっと乾きそうです。
この時期、集中豪雨に悩まされる地域があれば、空梅雨の先を案じる地域もある。
自然界の微妙なバランスのうえで暮らしを営んでいることを、私たちは自覚しなければならないのでしょう。

6月30日、双葉郡広野町二ツ沼総合公園の中にあるガラス張りの三角屋根の建物に、11名のメンバーが集まり
ました。
東京から4人。いわきから3人。そして、残りは広野町内から。
それは、「広野わいわいプロジェクト」のキックオフミーティングのためでした。
双葉郡広野町では、東日本大震災と原発事故のための避難が解除されても、なかなか住民の帰還が進まない状
況にあります。
これまでに帰還したのは5000人強の町民の約半数ほど。
今、町には震災前とほぼ同数の人が住んでいますが、その半数は原発事故の収束や除染、復興工事関係で入っ
てきた作業員の方々です。
町の日常は震災前と随分変わったといいます。
来春には仮設住宅が閉鎖になることから、状況は再度変化するものと見られています。
しかし、その後どうなるのか、まだまだ読みきれてはいません。
こうした状況は、昨年帰還宣言を出した楢葉町など、そのほかの避難町村にとっても注目しているところです。
その広野町に賑わいや交流、新たな手仕事を生み出そうと立ち上がった取り組みが、昨年度始まった「広野わい
わいプロジェクト」です。
いわき市内の仮設住宅で催された太陽光パネルの手作り教室や、広野町浅見川沿いの農地で始まったコットン栽
培がきっかけとなり、いわきに住む私たちと首都圏からの応援者とが広野町民の方々に手を貸す形で始まった取
り組みでした。
昨年度、復興庁「新しい東北先導モデル事業」としての採択を受け、1年間3つの事業を実施してきました。
二ツ沼総合公園での広野パークフェスの開催。
防災緑地へのプレゼントツリーの仕組みを使った植樹と育樹。
オリーブやコットンといった広野の財を生かした女性の手仕事による産品づくり。
それぞれが一定の成果を残しましたが、一番の成果は広野町民主体によるNPO法人「広野わいわいプロジェクト」
が設立できたことでした。
広野町の方たちの意見を伺いながら外部からの私たちが事業を組み立てていた形は、広野町民が自主運営する組
織の事業を私たちが応援させていただく形へと変わったのです。
そして、2年目のプロジェクト。
今年度の事業は、福島県「ふるさと・きずな維持・再生支援事業」に採択いただき、昨年度の取り組みを更に前
に進めることになりました。
プロジェクト第2幕の開幕です。
キックオフミーティングの司会は、これまでとは違いNPO法人「広野わいわいプロジェクト」事務局長が務めま
した。
そして、そのミーティングの場には広野町の女性たちが3人顔を揃え、それぞれの意見を述べました。
昨年度の取り組み以降のそれぞれの事業の進捗状況が報告され、今年度の事業の進め方についての議論が交わさ
れました。
そして、今回のメインとなる協議テーマは、7月24日に催されることになった今年度第1回の広野町へのボラバ
スの運行についてでした。
首都圏から参加してくださる方をもっと広く募りたいと、意見を交わしました。
コットン畑での農作業に、防災緑地での下草刈り。
昼食は侍ジャパンのお抱えシェフ、西シェフのアルパインローズのお弁当。
そして極め付きは、作業終了後汗を流していただくために楢葉町の天神岬にあるはまかぜ荘での温泉入浴。
ここは、リニューアルオープンしたばかりで、オーシャンビューが楽しめます。
そして、楢葉町に今も残されている除染後のフレコンバッグも…。
広野町の方々のアイデアで組み立てられたボラバスツアーです。
是非、首都圏在住の方にご参加いただきたいです。
詳細は、以下からご覧下さい。
https://www.facebook.com/events/1743417235874520/
広野町民の手で、広野町の未来を描く。
お手伝い役にも、胸が躍ります。

6月半ば、タイに出向いてきました。
ザ・ピープルが奨学金を供与してきたモン族の青年のチェンマイ大学卒業が決まったことを受けて、今後につい
ての話し合いをするためでした。
彼の育ったナーン県で、私たちは教育支援の事業を2001年から行ってきていました。
子供センターの整備や通学寮の建設などを県内の各地で行う中で、ある中学校の校長先生から「貧しい家庭の子
だがとても成績の優秀な生徒がいて、高校に通わせてやりたい。何とか資金を供与してもらえないか?」との依
頼を受けたのが、彼との出会いでした。
ナーン県内の高校で学んだあと、大学に進学したいとの希望を受け、7年間彼をサポートしてきました。
チェンマイ大学で政治学を学び、公務員としてナーン県に戻ることを目指してくれています。
震災前には、彼の後輩たちにも奨学金を…と、計画していましたが、震災後地域での活動のボリュームが膨大に
なった為、計画を前に進めないままにこれまできていました。
その彼が大学卒業という時期を迎えたことで、今後彼自身がどうするのか、そして私たちの支援をどうするのか、
それを検討するための渡航でした。
彼と話をすると、彼自身、自分が就職して収入を得られるようになったなら、自分が受け取ってきた奨学金を彼
の出身中学の後輩たちに提供してあげたいとの希望を語ってくれました。
急遽、チャンマイからナーン県まで車を飛ばして、中学の校長先生と彼を交えて計画を立てることになりました。
校長先生は、震災前にお会いしていた方が、そのまま変わらずにその職にあって、震災時ずっと私たちのことを
案じ、いつか奨学金の計画が再開されることを願って下さっていたのでした。
実は、タイでは、公務員は世襲に近かったり有力者のコネが必要だったりと、決してハードルが低くありません。
彼が公務員になれるかどうかは、わかりません。
でも、きっと彼は何らかの職業に就いて、彼の後輩たちを支援することだけは行ってくれるものと信じています。
支援される側から、支援する側に、彼はその立ち位置を自らの意思で変えたのですから…。
大きな手応えを感じた瞬間でした。

いつもながら、長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。