2006年02月07日(火)

山田一家の紹介

テーマ:戦前の深川
yamadaikka
長男哲弘(当時24歳)

生まれた当時は山田家にも余裕があったらしく、
この頃の深川ではめずらしく幼稚園に通ったらしい、
ほんとかなあ?
それが小学校出た途端に日本橋の煮豆屋に住み込み奉公にだされる。
時代が悪かったのかと思う。
関東大震災で深川あたりは一度壊滅しちゃったからねえ。
大人たち特に男衆はショックから立ち直れずに、
酒浸りになったりしたんだと思うよ。
ま、うちのじいちゃんもその口だね。
とてもしらふでは生きて行けなかったんだな。
そして東京大空襲!
人生のうちに2度も地獄を見せられちゃ、惚けるしかないよな。
戦後じいちゃんは一斎金になる仕事には付かなかった。
哲弘から大震災の話はじかに聞いたことないけど、
生き残った者は生き残った者でそうとう苦労したらしい。
満州に出征後まもなく右ふくらはぎ貫通銃創で帰国、
名誉の負傷!ってやつだね、なにが名誉か知らないけどひどい話です。
戦況が悪化してくるとまた満州に出征させられて現地で終戦を迎える。
彼にとって幸いなのは、大空襲の時深川にいなかったことぐらいだね。
戦後どういう訳か三越本店に勤務でき隠居するまで三越一筋の人でした。
平成15年7月他界。
長生きして孫に囲まれ後年はいい時間を過ごしたと私は思いたいです。
2005年11月20日(日)

山田一家の紹介

テーマ:戦前の深川

写真の説明


山田 さと (当時44歳)




私のお婆ちゃんです。


当時としては結構余裕のある家庭で育ったらしい、若い頃着物の虫干しをしていると近所の人たちが見学に来るほどだったそうな。


左利きだったらしく、あまり包丁、はさみなどは人前で使わなかったらしい。したがって料理は苦手、考えるに結婚するまでは上膳据膳だったんでしょう。


それが、順次みたいな男に惚れちゃったばっかりに、たけのこ生活をしいられ、引っ越すたびに家が小さくなり、あげくの果ては長屋住い、家業は鉄屑屋。10人の子供を出産し苦労の連続!まっ、人生なんてそんなもんだ。


昭和37年2月他界
2005年11月08日(火)

山田家の跡地

テーマ:戦前の深川
山田家跡地
今日、初めて戦前に母達が住んでいた深川に行ってきました。
写真は山田一家が住んでいた長屋跡地です。哲弘出征記念写真もここで撮ったものです。
現在の住所は江東区森下5丁目6番地。墨田工業高校のすぐ東側です。
公園になっているところをみると、大空襲の時に大家(地主)さん一族も全員行方不明になったのでしょう。
南に小名木川があり、帰りは川沿いに隅田川まで歩いてみました。芭蕉庵のあたりの景色は最高です。
2005年11月04日(金)

山田一家の紹介

テーマ:戦前の深川
写真の説明
長男哲弘出征記念の撮影年月は昭和12年8月と判明しました。
年齢は当時のもの、五女房子が私の母です。
母と六女要子はまだしぶとく生きておりますが、2人以外の兄弟はすでに他界しています。

山田 順次
私からみればお爺ちゃんですが当時48歳、どうも新潟の出らしいけどよく判りません。
継母に育てられたらしくあまりふるさとの話はしなかったようです。
軍服を着てさっそうと歩いてる若い頃の順次の様子がいいので、
お婆ちゃんさとが一目惚れしてしまったようです。
でも本当に軍人だったのかなあ?まったく怪しいヤツです。
昭和37年5月他界
2005年11月02日(水)

山田家長男出征記念

テーマ:戦前の深川
山田家昭和12年7月
おそらく昭和12年7月頃だと思われる。
ただいま調査中です。
2005年03月09日(水)

語り継がねばならぬこと

テーマ:戦前の深川

戦前の深川のことを
ぼちぼちと書いていきたいと思います。
何でかって言うと、早く聞き取り調査を
しとかないと
みんな高齢なのでボケたり死んじゃったり
しちゃうからね。



私の母の家は高橋(たかばし)5丁目にあったらしい。
現墨田工業高校の東側すぐのあたりだと思われる。
ちょうど60年前の3月10日、午前0時08分頃から
約2時間半にわたって、とんでもない量の焼夷弾による
爆撃が東京のいわゆる下町にあった。



死者10万人以上、行方不明者は
それ以上とも云われている。
約100万人が家を失い焼け出された
この惨状を
私は後世に語り継がねばならないと
思っている。
叔母が14歳の時に実際に体験した地獄絵の
聞き書きを中心に書きつづけるつもりだ!




・・・つづく

Amebaおすすめキーワード