7月9日は鴎外忌
鴎外忌
1862年2月17日(文久2年1月19日)– 1922年(大正11年)7月9日)
大正11年7月9日没。享年60。
1862年2月17日(文久2年1月19日)– 1922年(大正11年)7月9日)
大正11年7月9日没。享年60。
文化人切手
医学博士・文学博士・小説家・評論家・翻訳家・陸軍軍医・官僚の森鴎外の忌日。
本名は森 林太郎(もり りんたろう)
大学卒業後・陸軍軍医になり陸軍省派遣留学生としてドイツで4年過ごした。
帰国後・訳詩編「於母影」・小説「舞姫」・翻訳「即興詩人」を発表する一方同人たちと
文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。
その後・日清戦争出征や小倉転勤などにより一時期創作活動から遠ざかったものの
その後・日清戦争出征や小倉転勤などにより一時期創作活動から遠ざかったものの
『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。
乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後「阿部一族」「高瀬舟」など
乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後「阿部一族」「高瀬舟」など
歴史小説や史伝「澁江抽斎」等も執筆した。
晩年、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や
帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任した。
「俳句と云ふもの」森鴎外
秋風や白木の弓に弦張らん 去来
と云ふ句がひどく気に入つて、こんな句がして見たいと思つた。その後俳句を少しして見たが、
と云ふ句がひどく気に入つて、こんな句がして見たいと思つた。その後俳句を少しして見たが、
かう云ふ向きの句は一つも出来たことがない。何事によらず、自分の出来ない方角のものに
感服してゐて、それが出来ずじまひになるのが、性分であるらしい。
底本:「日本の名随筆 別巻25 俳句」作品社
1993年(平成5年)3月25日第1刷発行
底本の親本:「鴎外全集 第二六巻」岩波書店
1973(昭和48)年12月
初出:「俳味」
1912(明治45)年1月号
1993年(平成5年)3月25日第1刷発行
底本の親本:「鴎外全集 第二六巻」岩波書店
1973(昭和48)年12月
初出:「俳味」
1912(明治45)年1月号
鴎外の俳句
かど松の壕の口にも立てられし
元日や葉巻の箱をこぢあける
元日や葉巻の箱をこぢあける
畑打つや中の一人は赤い帯
馬上十里黄なるてふてふ一つ見し
馬上十里黄なるてふてふ一つ見し
衣かへ金もかくして身の軽き
句を錬るや酒杯に沈む蚊幾疋
句を錬るや酒杯に沈む蚊幾疋
口髭の一すじ白し今朝の秋
米足らで粥に切りこむ南瓜かな
米足らで粥に切りこむ南瓜かな
埋火の燃え尽くしたる窪みかな
から鮭は留守に喰へとて立ちにけり
から鮭は留守に喰へとて立ちにけり
「青年」の道ぶらぶらと鴎外忌
鴎外忌千住花畑ぶらり旅