オッサン、そこは便所じゃねーぜ! -23ページ目
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もぐもぐ歌へ君が代

最近サッカーの国際試合が続いている。
昨日は(とゆーか今朝方は)ワールドユースの日本対モロッコを観てた。
ちょこっとだけ観て寝るはずだったんだよね。深夜3時過ぎからの試合だったし、
このごろ早めの(といっても11時ごろだけど)出社を心がけてる私としては、
睡眠時間を逆算するとアウトだったから。
しかし、結局ロスタイムに撃沈するまで観ちまったんだなぁ、これが。
今日もこれからコンフェデだ。こいつはブラジルとだから、観ないわけにはいくまい。
しかしキックオフ4時近くだから、最後まで観たらほとんど寝れんわな…。

サッカーってゆーのは、応援するモチベーションがわかりやすくてヨイ。
ま、代表選に限ったことだけど、国の名前を出されると、ナゼだかあらがえない。
べつにナショナリストでもないんだけどねー。
「ケンカしている若と貴のどっちがスキ?」なんてわけのわからない質問は答えに窮するが、
サッカーの国際試合に関しては、そーゆー質問をしてくるヤツは皆無。
せいぜい「今日はモンガギリソベスとだね。勝てるかな?」ってなもんだ。

んでもって、国歌である(こーゆー呼び名はキライな人もいるでしょうが)。
いちおー日本の場合、君が代、ってことになってる。
で、私も、若い頃は「もっと戦闘意欲が高まるよーな歌にならねーもんかな!」とか
思ってたわけですよ。よーするにモッタリした感じがキライだったのね。

ところが、である。サッカーに限らず、多くの国際試合を観る経験を積んでいくと、
「あー、これはこれでいいもんだなー」なんて、カンタンに前言を撤回してしまった。
他のどこにも似ていない。オリジナリティの固まりみたいな曲なんだなぁ。
たとえば、アフリカの国々の国歌って、申し訳ないけどやっぱ旧植民地って感じでしょ。
太鼓の音だけボンボコボン!で国歌です、なんて国はないもんなぁ。
聴いている限り、ほとんどのが「似てる」と言っても過言じゃない。
楽器の編成とかもほとんど同じみたいだから、まぁ無理もないけどねー。
違いを感じるのは中東の国くらいかもしれない(薄っぺらい知識の中では)。

だからかなんか知らんが、最近は多くの選手がもぐもぐ程度だけど歌っているよね、君が代。
「オレたちゃ意外と強いぜ!日本だぜ!」みたいな意識が芽生えつつあるのかも。
ホントに日本が世界に認められるくらい強くなったら、君が代もカッコイー曲に聴こえるのかもしれないなぁ。
中田、俊輔、歌えよ?(意外と口は動かしてるのだが) アレックスだって歌ってるぞ!
小笠原は歌わないんだよなー。
ジーコさんはブラジルの、を歌うつもりだそうですが…。

ちなみに岡晴夫師匠によると「『さざれ~石のォ』の間は息を切っちゃダメなんです」と。
ひとつの言葉だから、だって。勉強になりますね。

沖縄には風呂から行け!

一日の中で、何がもっとも大切な時間か?

と問われれば、ワタシは風呂の時間と答える。
その昔は2時間くらいヘーキで入っていたからなぁ。
ろくに身体も洗わず、ただただボーーーーーッとしている。そんな時間が好きなのさ。

で、最近はそんなバスタイムを充実させてくれるグッズも増えていて、これはうれしい限り。
各種入浴剤はもちろん、「風呂で読むナントカ」みたいな本も出てて、うちは15冊くらい揃えてる。短歌だ俳句だ詩集だなんてラインナップだけど、まぁつまみ読みできて風呂には最適なんじゃないかな。
音響関係の方も、ここ数年でいろんなのが出てきたね。昔からいろんな機材で実験を繰り返してきたけど、おととしくらいにソニー製のシャワーCDプレイヤーだっけ?を買って、ここんとこ落ち着いている。

しかし、問題は中身だな。クラシックから童謡・唱歌、ハワイアン、もちろん各種ロック、ポップスなどいろいろ試したけど、個人的に一番まったりするのは沖縄音楽である!と結論づけた。

ロックやポップス系は、なんか血圧が上がる感じがあるから、これは妙にハイテンションのとき以外は疲れちゃう。クラシックもまったりした選曲でいくと和むんだが、曲が長すぎたり強弱がありすぎたりで、次点。童謡や唱歌も意外といいけど、これも次点。水つながり、ってことで、ハワイアンやカリブ系なども試したけど、想像してたほどしっくりはこない。イージーリスニング系やナチュラルトリップ系も、風呂の電気を消して瞑想モードに入ってみたときはハマったけど、毎日するって感じじゃない。落語もしっかり聞いちゃいられない。

とゆーことで、沖縄音楽が一番ヨカッタ。さて、今日はまったりするぞ!ってときには、ほぼ必ず選んでいる。

とくに丸福レコードのシリーズがいいみたい。お気に入りは芭蕉布が一曲目に入っているオムニバス。

あの独特の音階。その中に、海と土と人の息づかいとゆーか、日本人の血に呼応するナニカがある。素朴で無防備な感じとゆーか。そこらへんは文字にしづらいな。

まだ沖縄ブームが続いているけど、その、現代日本人に訴えかけるモノがあるってことだろうね。

お風呂に窓があるとなおヨイ。今の家はないんだけど、昔住んでたところでは、変わり行く窓の外の色と絶妙にシンクロしてて何とも言えないキブンでしたね。

しかし、間違ってもやっちゃいけないのはテレビ鑑賞。お風呂では、なるべく感覚器のスイッチを多く入れないで過ごすこと。ただでさえ日常は忙しいんだから、お風呂くらいではぼんやりする時間をもちましょーね。

ときめきレクイエム(1)

約10年前、すでに妻子持ちの30代になっていたとゆーのに、ある恋愛シミュレーションゲームにどハマりしておりました…(苦笑)。

広告とかつくる仕事をしているから、いちおー恋愛小説とか映画とかマンガとか、それなりに幅広く観たり読んだりするんだけど、オレはどこか醒めてるタイプかもしれない。そんなに深く入り込む経験ってなかった。ってゆーか、自分の様子をうかがっているもうひとりの自分の手前、恥ずかしかったわけよ。

ところが、ですよ。あるとき、ふと「オレ、最近、感情がパサついてるんじゃなかろーか?」という恐怖心に突然捕らわれたのね。

創作意欲を突き動かすナニカが決定的に不足してるんじゃねーか?と。その意味で死活問題でもあったわけで。しかし、それ以上に、人間として大切なナニカを置き去りにしているかも?と、映画の新聞広告とかによくある「感動しました!」なんてコメントを見て「おめでたいなぁ」とか毒づきつつ、ボンヤリとした喪失感みたいなモノが自分を取り巻いているよーな気もしてて。

で、あるとき、「ときめき」とゆー単語が突然降りてきて、そこで上記の結果につながった、という…。

アホですね。完全に萌え狂ってました。

ゲームだから!なんて言い訳を自分にもしてました。

ときめきなんてものはセーシュンの一時期のお祭りみたいなもんだ。なんてうそぶいて日常に安穏とすることは、まぁ、できるんですよ。そーゆー感情に「んなトシでもないか…」とか自答したりして。その方が精神的にも平和だったりするし。

でも、ね。そう簡単に片づけられないのですよ、オイラの場合。

良寛とゆー俳人がいますな。枯れた風流人なんて認識をされていたりもする。けど、あのオッサン、40歳も年下の貞心尼とゆー女性(にょしょう、と読もう)とラブレターを交換したりしてたんですからね。うーん、あなどれない。

ときめく感情にレクイエムを贈るのは、もっと先にしたい。ようやくここでタイトルにつながった(つづく、かもしんない)。

コナミ
ときめきメモリアル~Forever with you~

オバケは、ちゃんと怖がること!

オバケ、ちゃんと怖いですかぁ?
最近みんな怖がらないんだよねー。あれ、科学的にありえませんから、なんてさ。
ちぇっ。つまんねーの。
私はオッサンだけど、ちゃんと怖いですよ。オバケ。
そーゆー話になると年甲斐もなく耳とかふさいじゃったりします。
とゆーか、積極的に怖がらなくてはイカン!とすら思う。
えーとね。科学的にどーだ、なんてのは、どーでもいいんですよ。
カール・セーガンって科学者の本とかには、そんな非科学的な現象?に
右往左往することがいかに馬鹿げているか、ってことが懇切丁寧に書かれてたりする。
「アメリカの田舎町で宇宙船に誘拐されたって人が続出してるって?フン」
人間の想像力を科学なんかで否定するな!ってーの。

オバケってのは、人間の想像力が産んだリスクヘッジだと思う。

最近都会とかじゃめったにお目にかかれないけれど、
むかしは「闇」ってのがあったわけですよ。
夜、ひとりで村はずれの道を歩いている。コンビニなんてないから当然まっ暗。
あるのはわずかな月明かりだけ。ときどき木々の葉が風にあおられて
ヒューッと音を立てたりする。緊張感ビンビンです。
自然、踏み出す一歩一歩にも注意が行き渡る。周囲の状況に気が回る。
もしここで「オバケなんていないもーん!」なんて調子でいてごらんなさい。
道の脇にある沼に気がつかず、足を取られて御陀仏…なんてことにもなりかねない。
オバケを生み出した想像力は、危険を察知するための動物的な本能を、
言葉によって具体的なイメージにしたものといえる。
河童伝説なんてのは、その典型だと思うけどね。
危険な池や沼に近づかないようにさせるために生まれた物語。
荒れた海に出る海坊主も同じような仕組み。
いや、ほんとうにいて、愚かな人間が罠にかかるのを待っているのかもしれないが。
私は見たことがないので断定なんてできませんがね。
以上がその1。

2つめは、自然を敬うための装置、なんて考えもできるね。
とゆーか、こちらの場合は「神」に立場が変わるけど。
今年は豊作だ。田の神様に感謝しなきゃ。凶作だったら来年の豊作を祈らなきゃ。
その他、海の神様、山の神様、竈の神様…と八百万(やおよろず)の神が存在する。
日本はきわめて自然に恵まれた国だから、こういう信仰が生まれたんだろう。
そんな神様が怒ると、か弱い人間に災いが降りかかる。
だから歯向かわないようにしよう。大切にしよう。そんなモラルが生まれる。

まだあるね。殺生をしちゃいけないよ、とゆー倫理観からの存在。
猫を殺したら化け猫になる。人を殺したらユーレイになる。
そんなおっかないものに出られたらたまらないからねー。やめとくべし。

ま、3つめを除いては、やっぱり自然と共生してきた東洋的な発想ですね。
対して自然を征服しないと生きていけなかった西洋とはちと違う。
そのへんのことはまた今度、とゆーことで。

お子さんのいる方は、ちゃんとオバケを怖がるようにしつけた方がいいですよ。

なんていろいろ屁理屈つけてるけど、ほんとうに怖いんだよー、オバケ!

カール セーガン, Carl Edward Sagen, 青木 薫
カール・セーガン 科学と悪霊を語る

「いい加減」が正しいッ!

私が日ごろ浴びせられている罵声に「いい加減なヤツだなぁ」というのがある。


そこには「ダメな」とか「困った」とか、ネガティブなニュアンスが含まれているのがふつう。


類義語に「テキトーな」ってのもありますな。


なんか下を向いてプチ罪悪感にかられてしまう。気を抜くと思わず「ゴメンネ」なんて小声で言ってしまいそうになる。


けどさ。疑問に思うんだけど、これって本来は肯定的な意味ではなかっただろーか。


古典的な漫才では、ツッコミ役のヒトが「いい加減にしなさい!」とボケ役をはたいてチャンチャンとなりますね。これは正しい意味で使われている例。


やりすぎですよ!と、たしなめられているわけです。


それが、いつしか否定的な意味で使われるよーになった。これはナゼなんだ。


いい加減を否定する社会は、古典漫才でたしなめられていた「やりすぎ」を肯定する社会。


それが日本を経済大国にしたのかもしれないけど、それで幸せになったヤツは、いったいどのくらいいるのか。私は毎日を楽しんでまーす!なんて元気にヌケヌケと言えるヤツが、この日本にどのくらいいるのか。


過労死なんて言葉、最近ニュースでも聞かなくなったけど、あーゆーことが起きてしまう世の中ってなんだろ。


中国には、それこそ「中庸」って考え方があって、菜根譚とゆー書物にあったけど、「ま、何事もほどほどにしなさいな」ってことらしい。やりすぎはよくないよ、って。


ミヒャエル・エンデ氏の「モモ」にも、グレーのスーツを着た時間泥棒が出てきて、そいつらは完璧に悪役だった(あんま記憶が定かではないが)。


最近よく聞く「ユルい」とか「ヌルい」とか。あれ、好きだなー。どこか肯定的なニュアンスがあって、若い世代から正常に戻ろうとしているのね!と応援したくなる。


「いい加減」を復権させよう。「テキトー」でいいじゃないか。


もうすぐ夏なんだし、あんまりみんなが暑苦しいと気温も上がりそうだからさー。





守屋 洋, 洪 自誠

新釈菜根譚




大島 かおり, ミヒャエル・エンデ, Michael Ende

モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語




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