ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。

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 桃山志野の「玉川」を写した作。これまで幾度か紹介してきた山田洋樹さんにお願いしてつくって頂いた。本歌は、元は向付で、薄く引かれた器胎と輪高台が、茶碗としてつくられた他の志野らと一線を画す。むしろ、黄瀬戸の造形に近いといっていい。うっすらとかけられた釉薬のために全体に現れた火色や、その志野釉の向こうに幻想的に見え隠れする筍が印象的な名品である。山田さんの志野の造形は、どちらかといえば、「他の志野」を追っている傾向が強い。これまで紹介した作品は、いずれも破格に近い志野の造形に、異なる釉調を乗せたものだった。毎年この時期になると、奈良のギャラリーで冬の酒器展があって、山田さんも出品される。その度にこの方の志野を心待ちにしているのだが、今年は少し無理をいって、ずっと憧れている筍絵茶碗を御本人に直接注文してみた。格式張らない志野を専らとする山田さんが、この格の高い造形をどう仕上げるか、そこにどんな釉調を合わせてくるか。そんな楽しみを、まだギラギラがやまない酷暑の頃から抱いていた。

 「玉川」の写しといえば、荒川豊蔵の「随縁」がまず想い浮かぶ。それまで瀬戸で焼かれたとされていた志野の陶片を美濃の窯跡から発見した豊蔵の話は、夙に名高い。そのきっかけとなったのが「玉川」だった。当時、鎌倉にある魯山人の星岡窯を手伝っていた豊蔵は、魯山人の個展のお供で、名古屋を訪れていた。星岡窯ではまだ志野の再現に成功例はなく、豊蔵はといえば桃山志野そのものを観たことすらなかった。ちょうど当地の骨董屋が赤志野の肴鉢を所持していることを魯山人が知っていて、これをみせてもらうことになった。そのとき、骨董屋が気を利かせて、問題の肴鉢の他に、当地の素封家の元にあった同じく赤志野の香炉と絵志野茶碗「玉川」を借りてきてくれた。後者こそが、豊蔵が初めて出会った志野茶碗である。豊蔵は、高台内の輪トチンの土質が赤いのをみて、志野が瀬戸で焼かれたという通説に疑問を抱く。瀬戸では輪トチンに赤土を用いない。それはむしろ美濃でよくみかける土だった。よほどその疑念は強かったのだろう、翌日には、魯山人から休暇をもらって、名古屋を発ち、早々に美濃に向かっている。

 それまで瀬戸の古窯から志野の陶片が発掘されていなかったことや、自身の体験として、美濃の古窯跡で織部らしき緑色の陶片をみかけたことが、豊蔵の背中を押した。その推測どおり、美濃は大萱の牟田洞谷で、ついに志野の陶片を発見する。それが、名古屋で観た「玉川」と同じ筍絵が描かれた陶片だったというから、出来過ぎた話である。窯跡からは、志野の他にも黄瀬戸や瀬戸黒も発掘され、豊蔵は、これらを携えて魯山人の元へと急いだ。名古屋で「玉川」を観たあとも、志野瀬戸産説を譲らなかった魯山人も、この発見を喜んで、自身の運営する星岡茶寮で記者発表を前後二回にわたって開催した。当時の大騒ぎぶりが伺える。余談だが、魯山人は、この発見をあたかも自身がしたかのように振る舞ったという。個性の塊だったこの巨星の暗部をみるようなエピソードだが、反面、当時豊蔵は星岡窯の一使用人にすぎず、魯山人がその代表として振る舞ったのもわからなくはない。

 これをきっかけに、美濃全体の古窯の調査に取り組んだ豊蔵だったが、平行して、窯場についての歴史も研究した。その過程で、自分の母方の祖先が美濃焼の陶祖と呼ばれる加藤与三右衛門景久であり、その次男の景成が、16世紀の終わり頃に、豊蔵が志野の陶片を発見した牟田洞に窯を築いて志野の良品を焼いたことを知る。陶片が筍絵だったことも出来過ぎた話であるが、祖先の窯の偉業を子孫が掘り起こすこちらの話もまた出来過ぎている。豊蔵は、この一件からようやく三十年にして、「玉川」を想わせる筍絵茶碗を完成させる。完成までにそれほどの歳月を費やしたことに、豊蔵のこの茶碗に対する深い思いが伝わってくる。銘を「随縁」としたのも、その出来過ぎた話を含めて、この茶碗が完成するまでに積み重ねられた幾重もの縁(えにし)を想ってのことだろう。いずれにせよ、「随縁」が豊蔵の創作の中心にあることはまず間違いない。(続く)
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