ゆるしへの道 ひとすじの光

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少し前に本屋で、イマキュレー イリバギザという人の「ゆるしへの道」という本を立ち読みし
た。

内戦の中見つからないように狭い所に隠れ、生きのびたことが書かれている内容で。


きちんと読んではないけれど、印象に残ったことは。

普通なら憎む相手への、限りない赦しで。


絶えず神に、憎しみを赦さしてくだい、消してくださいと頼り委ねていた感じで。

奇跡のコースの聖霊に頼み、赦しをするのと同じなんだと思った。


自分は不登校で、あまり小学校通わなかったから、そのことで叱られ叩かれてしまうので、
押し入れに隠れたりした過去あり。
攻撃されるから、狭いとこに隠れるってことをちょっと経験した。


イマキュレー イリバギザさんの体験に比べたら苦しみ度が全然超小さいし、比較するものでもないけれど。
そのことの記憶を浮かべた。
その記憶は昨日のことのようでもあるし、前世なみに過去な気もする。


そして今現在、生きてて抱えてしまった、自分の様々な憎しみも、この本での憎しみと赦しに比べたら、とても小さい。
と思うけれど、その小さい憎しみが自分の中で肥大させ囚われてたりする。



話し戻って、本の最後には、イマキュレー イリバギザさんが本を出版出来るようになった経緯が書かれていて。
ウェインダイアーさんとの出逢いによってみたいで、奇跡のようで良かったと感じた。

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そんな感じかもな愛

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映画、インターステラーを見た。

愛は時間も空間も次元も越えるという感じの台詞が、なんか良かった。

との台詞はうろ覚えで、正確ではないのだけれど、そんな感じで。

ちょっと間違ってるかもだけれど。



愛は胸にわく、エネルギーかも。

そのエネルギーを発するとして、なんらかの人物、対象、好きな人に対しての価値判断を失ってしまうような。



例えば、好きだった人がいて、なんらかの理由でその相手を嫌う、憎むとしても。

かすかに残った胸の愛エネルギーを意識すれば、その相手がああしたから、そうしてくれなかったから嫌った、不信という、思考、記憶、判断が、消え。

ただ愛にだけなれるような。

憎む、嫌うもかなり味わえる?ものかもだけれど、愛が疲れず、苦しまない選択で、なにより自身を救うものかもね。



って、愛です、と声高々にあまり言えるような人物ではないけれど。

愛ってエネルギーのようなもので、否定や不信、愛されたい欲求等はの判断を緩め、ただありのままの力強いニュートラルにさせるのかもしれないと思っている。
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神聖な魂

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聖霊より、神聖な魂の方がしっくりする気がする、私的に。

聖霊は妖精や悪霊的な種類のイメージに無意識化で若干なってしまうような。



ホーリースピリット、ハイヤーセルフ、潜在意識と、言葉でそれを言い表すのは様々で、人の感性で捉えるものだはすで。

言葉という形づくるもので、それが何を言い表すものか、何を意図とするか、個人で選択、思っていいものだはずね。





聖霊よ、赦さしてください、との言葉で、最近は憎しみを消している。



聖霊、自分の中の神聖な魂が、罪悪感や憎しみを薄めてゆくのは実感してきてると思う。



ほんと前より、罪悪感や憎しみの気持ちの継続度が減ってきている。



過去の、誰かにき拒絶された逆憎み?などの記憶を、現在に呼び覚まし、くそーってなったりした時に、あの人を、聖霊よ、赦さしてください、で消してゆく感じで。



日々あの人が自分に対して、このような扱いをする(もしくは勝手にそう受け取った、思い込んだ)、だから自分はよくない存在なんだと思うような時も。



彼を彼女を、誰々をあの人を、私の神聖な魂、赦さしてください。
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エンジンキーを引っこ抜く

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憎しみ、怒りに呑まれる日々。
自分の中にある怒りや他者への攻撃心を一瞬で膨らませる。

自分の場合、怒りを持つと、人生で悪いことが起きる気がする。
怒ったら、後から良くないことが、みたいな。
それでも怒りのパワーのようなものを拡大、増大してしまう。

それは自分を守っているようなものかもね、
人からの自分を良くない存在と思わされた(勝手に思い込んだ)自身の心を防衛する為に。
それでもその怒りのエネルギーは自身の中が一番の中心だから、一番の被害は自分が被るのかもで。

怒りというモチベーション?アクセルを踏み続けていたり、それを抑えようと良心的ブレーキを踏んだり、あれこれ思い込んだりというハンドルを回しながら、自我という車体が制御不能になる。

もう駄目、そんな繰り返し嫌だということで、怒りも聖霊が取り消してくれるということを再度検証。
聖霊ー、憎しみ消してください、そんな弱々しい言葉で意図する。

そしたらその瞬間確かになくなる、リセット、その怒りそのものが消えるような。
それはブレーキやハンドルさばきでどうにかしようとしていたものを、いつの間にかエンジンキーを、引っこ抜き、エンジンを停止させ瞬時に何もないニュートラルの場所へ落ち着かせるような感じで。

という例えイメージが思い浮かんだので文章にしてみた。

またいつの間にかエンジン始動させ憎しみアクセル踏んでる自分もいるけれど、また聖霊~にそうする意図託し、二ュートラル地点に戻す。
見えないけれど、ちゃんと聖霊は奇跡のコースに書かれている通り、憎しみを取り消しているのかもしれない。
今はまだかもしれないとしか記入できないけれど、確実にそうと思えるようになれたら、信頼出来たら。

ダスカロス

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奇跡のコースはどう感じますか?と聞いてみたい人物、ナンバーワンはダスカロス。

ダスカロスが奇跡のコースを読んだらどう思うんだろうと、良く考える。

素晴らしい書物と言うのかな。
前世はキリストの一番若い弟子で、今世でももう亡くなられているけれど。

地元で、十年前前後ぐらいにダスカロスの勉強会が行われて。
主催者と自分の二人と人数は少なかったですが。

その時頂いた、ダスカロスのお弟子さんのハラランボスさんのテキストは、すごく良くて。
ダスカロスの教えや知識は今でも深めてゆきたいと思う。


今はノンデュアリティが流行りというか、教え(ではないことになるのだろうけど)が最高みたいな風潮があるような。
トニーパーソンズおじぃーさんや大和田菜穂ねーねーさんとかで。
私に出来ることはない、私はいないなど。
それもひとつの指し示し?で解放?に繋がるのだろうけれど。
ダスカロスじいさんのような、マインドの探求、向上等のアプローチからしてくれる人物の方が、自分にとっては好きかもしれない。
ダスカロスもこの世にはなんの意味もないんだよ(間違ってたらすいません)的な発言しているはずだから、ノンデュアル的視点は持っていたのかもしれないなと思う。

愛があれば、赦しは必要ないとダスカロスは言った言葉が印象残る。
赦せない対象に愛を向ければ、赦せないそのものが元からないようなものになるのかもしれないね。

奇跡のコースの赦しのように、兄弟からされたと思ったことは起こってなかったという視点、認識に居られるはずで、愛で、愛の中で。

神の愛の中で何々を赦す。
その神の愛が赦しの推進剤?として必須か。
私は自分一人の孤独の心で、赦すなんて無理なのかもで。
神の愛に包まれ、それを認識した状態で、赦しのプロセス始めるのが無難、やりやすいのだろう。
神の愛を、それある!って自分はわかる状態ではないのだけれど。