なぜ日本にこんなに多くの原発があるのか        -日本原発導入史- | 政治とメタルと網膜剥離

なぜ日本にこんなに多くの原発があるのか        -日本原発導入史-

日本の原子力発電機の数は54基と米仏に継ぐ世界第三位で、建設中・計画中のものを含めると69基と第二位である(2010.1.1時点)。国土面積あたりの基数は主要国の中では最多であろう。


世界唯一の被爆国である日本で、しかも地震の被害が当初から懸念されていた原子力発電が、安全が確保されないままなぜここまで普及したのか。それには導入当初の特殊な政治的事情を振り返ってみる必要がある。


ここでは大正力」「原子力の父」といわれた正力松太郎オーナーであった読売新聞同時期に原発推進に動いた中曽根康弘の動きを中心に見てみたい。


当時正力は読売グループのオーナーとして創設間もない日本テレビを含め全権を掌握していたが、かねてからの政界進出の夢を諦めきれずにいた。原子力を武器に一気に首相の座まで狙っていたと言われている。中曽根は55年の保守合同で旧民主党から河野派入りするまで野党暮らしが続いていたが、この原発推進過程で正力に接近し、正力派の立ち上げに動いている。渡邊恒雄との接点ができたのもこのころである。


1953.7   中曽根康弘が、米政府関係者の勧めによりヘンリー・キッシンジャー

      (後国務長官)主催のハーバ ード大インターナショナルセミナーに参加。

       原子力施設を見学(~11月まで)

       中曽根の回想(東奥日報HP)

12.8  国連総会において、アイセンハワー大統領が「アトムズ・フォー・

    ピース」演説。原子力の平和利用提唱

1954.1.21 ジェネラル・ダイナミクス社建造所にて原子力潜水艦ノーチラス

      進水。同社社長兼会長のジョン・Jホプキンスが挨拶

   3.1   ビキニ環礁で水爆実験(キャッスル作戦ブラボー実験)。第五福竜

    丸が被爆

   3.3    中曽根康弘、稲葉修らが原子炉築造費を含めた研究予算要求を国

         会へ提出し、可決

   3.14   第五福竜丸焼津へ帰港。被爆を最初にスクープしたのは読売

        新聞だった。

   3.15   被爆したマグロ等が築地に入荷。以降、日本全国で850隻の

        漁船から460tの放射能汚染に侵された魚が見つかる。

        以降、原水爆禁止運動が急速に拡大し、三千万人の反核

       署名を集める戦後最大の反米運動に発展

   4.22  米・国家安全保障会議の作戦調整委員会(OCB)が「水爆や関

      連する開発への日本人の好ましくない態度を相殺するための米政府

       の行動リスト」を起草。福竜丸乗員の死亡を予測し、死因を放射能によ

       るものではない、と主張する方針を策定
7
8 読売新聞、新宿伊勢丹で「誰にでも分かる原子力展」開催。第五福竜

      丸の船体を展示

  8.30  米において原子力法成立。米国企業の原子炉輸出が可能に
  9.23  第五福竜丸久保山無線長、放射能症で死去。米国は4月の方針通り

      水爆実験との関連を否定
1955.1.1 読売新聞が「米の原子力平和使節ホプキンス氏招待

      告知。以降5月の来日まで大々的にキャンペーンを展開

       (詳細は下記リンク参照)

    MATRIXさんのブログ「近代日本と欧米諸国(4)原子力発電

   2.27  正力松太郎衆議院議員初当選

  11.1  読売新聞、原子力博覧会を開催(12.12まで。約37万人が来場)

11.27 正力松太郎、北海道開発庁長官として初入閣


(第三次鳩山内閣。 70歳)


12.19  原子力基本法成立

1956.1.1  正力松太郎原子力委員会初代委員長就任

    5.19 正力松太郎科学技術庁初代長官就任

      「5年以内に原子発電を行なう。」と提唱

    6   茨城県東海村に特殊法人日本原子力研究所発足(財団法人と

       しは前年11月から)

   12.23 正力松太郎、科学技術庁長官、原子力委員会委員長を退任

      (鳩山内閣退陣による)

1957.5  九電力社長会で、九社出資による「原子力発電振興会社」説立

が出される(民間主導案)。

   7.10 正力松太郎、 国務大臣国家公安委員長の兼務として原子

      力委員会委員長に復帰(第一次岸内閣)

   7    電源開発株式会社が原子力発電は政府主導でと主張する意見

       書提出。経済企画庁長官だった河野一郎がこの方針を支持し、

       と対立。中曽根は正力から離反

       (電源開発出資割合は政府66.67%、九電力33.33%)

1957.11.1  茨城県東海村に日本原子力発電株式会社発足(九電力80%、

        政府20%出資)

        中曽根康弘は強硬に地元群馬県への誘致を目指し、正力に

かけていたという。

    (柴田秀利著「戦後マスコミ回遊記」より。柴田は日本テレビ元専務)

       このころ、正力松太郎は原発の早期開発のため英国炉の導入

       を推進し、米国とその意向を恐れる外務省、財界の反発を招く。

1958.6.12 正力松太郎、原子力委員会委員長他を退任し、閣外へ

        (岸内閣改造による)

1959.6.18 中曽根康弘科学技術庁長官兼原子力委員会委員長就任

       (41歳。第二次岸改造内閣1960.7.19まで)

1960.1    東海原子力発電所着工

(正力主導により英国製原子炉を導入したが、英国製輸入は

 これが最初で最後)

1961      原子力損害賠償法成立

1963.10.26  日本原子力研究所の試験炉が、日本初の原子力発電に成功

1965.5.4   東海原子力発電所、初臨界に到達

1964~65  中曽根康弘、渡邊恒雄、児玉誉士夫と共に九頭竜ダム(水力

        発電所)疑惑に関与

1966     中曽根派結成
1967.9 福島第一原発着工



これを見ると、


・原子力発電の供与を同盟国つなぎとめの手段としようとした米国

・米国と結び、原子力により政界進出を図ったが、その後離反し英国炉の導入に奔った正力

・米国の示唆で原子力発電推進に取り組み、一度は正力と手を握ったが、離反し原発の主導権を握った中曽根


これらの思惑が錯綜しているのが分かる(もちろん、これ以外に電力確保やエネルギー源の分散化など

様々な思惑が錯綜しているのだが)。米国は一旦は日本への原子炉提供に積極的になるも、原子炉を持たせることによる核武装の可能性には怯えて、自国で管理できない英国炉の導入に奔る正力を切ることになる。一方中曽根は、原発推進を通じて一度は正力派の立ち上げに動いたとも言われるが、米国に逆らう正力の暴走を見て離反し、河野一郎の下へ戻っていった。その結果、正力退任の一年後、科学技術庁長官兼原子力委員会委員長の座を射止める。これをきっかけに力を付け、九頭竜ダム疑惑に関与する一方、河野の死の翌年にはついに中曽根派を結成する。


原子力発電については1954年にソ連が先鞭をつけ、以降米英が続いた。西側諸国内でも米英は競争関係にあった。そのため、58年に科学技術庁長官に復帰した正力が早期開発のため英国炉の導入を図ると、米側の猛烈な巻き返しにあい、ついにはその座を追われることになる。このあたり、田中角栄が濃縮ウラン導入を巡って英仏に接近し、原油確保のためのアラブ寄り外交政策も含め米国に忌避されることになった事情にも似ている。


正力はCIAのエージェントだったとも言われるが、彼の行動が全て米国の意に沿ったものであったわけではない。もちろん、一気に首相の座を射止めたかったという彼の野心もあったろうが、原子力の持つ力が日本の発展に役立つということに加え、日本も核武装したいという思いもあったのだろう。


しかし、地震の多い日本で、十分な検討、確証もないまま原発導入を強引に進めたのは、やはり早計ではなかったか。当初正力は、米国の戦略どおり読売グループをフルに活用して原子力の宣伝に努めた。日本テレビでも頻繁に原発PR番組を放映し、ディズニー製作の原発PR映画まで放送している。このような強引な宣伝がなければ、日本への原発の導入はもっと遅れ、結果ここまでの数にはなっていなかったのではないか


確かに未来の予見は困難である。しかし政治家は結果責任を負わなければいけない。日本史上において、大正力と中曽根の負った罪は、非常に大きい。