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2010-03-29

マーティ・ブラウン

テーマ:助っ人列伝
助っ人外国人列伝
私ごとですが、4月5日より新しい職場で勤務することが決まりました。小さな出版社なのですが、企画力つまりアイディアに満ちあふれた、チームワークのすばらしい会社で、野球で言えば「スモール・ベースボール」を体現するようなところです。

さて、本日紹介するのは、そんなスモール・ベースボールを、
今期から監督に就任する楽天ゴールデンイーグルスで目指す、マーティ・ブラウン監督です。昨年まで広島東洋カープで4年間監督を勤めたブラウン監督でしたが、初来日は1992年、選手としてでした。来日1年目は荒っぽい打撃が目立った上、低打率に陥り、助っ人選手の入れ替えを積極的に行えないという、カープ球団の財政上の背景がなければ、解雇は免れなかったであろうほどの成績しかのこせませんでした(打率.233、本塁打19本)。 それでも、攻守に及ぶガッツ溢れるプレーは、ファンの間では高い評価を受けており、現在監督として選手を鼓舞する際に見せる「闘将」ぶりは、このあたりに起源を見ることができます。そして来日2年目は、日本の野球になじもうという真摯な姿勢が功を奏したのでしょうか。シーズンをとおしてチームの主軸を担い、打率.276、本塁打27本と、前年の汚名を払拭する活躍を見せたのでした。

結局、秀でた成績はこの1年しかのこせなかったのですが、来日3年間の経験が以後の指導者としての活躍の礎となったことは確かでしょう。1997年の引退後、ただちに指導者としての才能を発揮し、おもにマイナーリーグの監督として辣腕を揮います。2004年にはマイナーリーグの最優秀監督に選出されるなど、その活躍は海を越えて著者の耳にも入ってきました。しかし、どちらかというと緻密なプレーが求められるメジャーリーグの監督業を、日本的な「熱血漢」を体現するようなブラウン選手が勤めていることは、俄に信じがたいものがありました。そんなおり飛び込んできたのが
2006年の監督としての再来日のニュースでした。

広島での成績は、5位3回、4位1回と、際立ったものはのこせませんでしたが、薄い選手層のなか、若手選手をやりくりしながら見せるスモール・ベースボールは、資金が潤沢な上位球団を苦しめ続けました。また、かの有名な「ベース投げ事件」や、「内野5人シフト」などのあっと驚く珍事件の数々は、話題性の乏しいカープ球団にとって、とても貴重なものでした。そして、選手時代から見せる野球に対する真摯な姿勢は、日本野球を小バカにする態度を取ることが珍しくない助っ人外国人選手のなかにあって、より際立つものでした。今回の楽天監督就任は、
とりもなおさず彼の優れた人柄が導いたものと言えるでしょう。
所属(選手として)
広島東洋カープ(1992-1994年)
通算成績
918打数235安打。打率.256本塁打50打点165盗塁4
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2010-03-19

ターメル・スレッジ

テーマ:助っ人列伝
助っ人外国人列伝
たまには、新しい選手を紹介してみようと思い、ひさしぶりにカードショップへ行ってきました。最近では「MLBカード・来日選手コーナー」などが設けられており、煩雑に並べられたカードなかから、一枚一枚をあたって探すような苦労も、すっかり過去の話となりました。

ちなみにこの分野、それなりの需要があるらしく、ネットオークションなどでも来日歴のある選手のカードが高値で販売されています。著者が現在探しているランディ・バース選手のカードなどは、1枚4000円ほどの値がついており、高値の花として当然購入には至っていません。

そんななかから今回チョイスしたのが、1枚400円のスレッジ選手のカードです。スレッジ選手は、本年(2010年)より横浜ベイスターズでプレイすることが決まっていますが、来日は2008年、北海道日本ハム・ファイターズの選手としてでした。2004年度に、モントリオール・エキスポズ(現・ワシントン・ナショナルズ)で15本の本塁打を放った長打力を買われての来日でしたが、同年は打率.289、本塁打16本と、助っ人としては及第点の成績とはいいがたいものでした。しかし昨年は、打率こそ下げたものの27本のホームランを放ち、迫力不足の日本ハム打線のなかにあって、唯一の大砲として大活躍しました。なかでも、楽天とのクライマックスシリーズ第2ステージでは、初戦で「サヨナラ逆転満塁ホームラン」の離れ業をやってのけるなど、チームの日本シリーズ進出に大きく貢献し、シリーズMVPを獲得しました。

そして、数字に見えない部分で注目すべきは、1年間、若手のホープ・中田翔選手の1軍定着を阻みつづけた点でしょう。中田選手の30ホームランというイースタン・リーグ新となる記録も、スレッジ選手のここぞの一発の魅力の前においては、ただの珍記録として扱われてしまったわけです。

スレッジ選手を手にした万年Bクラス・ベイスターズは、はたしてAクラスに「そり」のように
に滑り込む(sledgeはそりの意味)ことができるか。今後の行方に注目です。
所属(2010年2月現在)
北海道日本ハム・ファイターズ(2008-2009年)>横浜ベイスターズ(2010年-)
通算成績
813打数225安打。打率.277本塁打43打点157盗塁1
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2010-03-15

メル・ホール

テーマ:助っ人列伝
助っ人外国人列伝
職を辞する話を昨夏いたしましたが、おかげさまで次の仕事場が決まりました。人づてに紹介を受けた職ですが、また自分のやりたい仕事ができるのも、これまでまじめに勤め上げてきたことが根底にあるのだろうと、我がことながら思います。そんなわけで、今回紹介するのは、その真摯なプレイぶりが語りぐさとなったメル・ホール選手です。

ホール選手は1993年、川崎から千葉に本拠地を移して2年目、まだ、ピンクを基調とするユニフォームを採用していたころの千葉ロッテ・マリーンズにやってきた外国人選手です。来日前は、低迷期ではあったものの、名門・ヤンキースの4番として活躍していましたが、成績自体は打率2割8分そこそこ、ホームランも17-8本と、2億を超える破格の条件でやってきた助っ人としては、いまひとつパンチに欠けるものでした。

ところが、来日1年目から万年Bクラスのチームにあって、チーム4冠王となる活躍を見せます。なかでも、メジャー時代は2桁盗塁の経験がなく、セールスポイントとして見られていなかった走力でしたが、21盗塁を記録。そして、2塁進塁時に見せるヘッドスライディングなど、随所に見せるハッスルプレーは、日本に出稼ぎ気分でやってきては単年で去っていく、不真面目な助っ人たちとは異なり、野球に対するひたむきさを感じさせるものでした。

2年目は、打率.296>.277、本塁打30>22、打点92>80と、1年目から軒並み成績を落としてしまいますが、13の盗塁を記録するなど、その全力プレイの数々には光るものがあり、まだまだチームの主戦力として欠かせない存在でした。しかし、同年オフに就任した、ボビー・バレンタイン監督の構想から外れ、世間の予想に反し、契約を解除されてしまいます。その後、中日ドラゴンズからのオファーを受け、1年間セ・リーグでプレイしますが、持病であった両膝の故障により大きな活躍は見せられませんでした。

ときは過ぎ、すっかりホール選手の存在が、人々の頭の隅に追いやられてしまった2007年、著者は海の向こうで起きた、とんでもないニュースを耳にすることになります。ホール選手が、未成年に対するわいせつ罪で禁固刑を受けたのです。真摯に野球に取り組む当時の姿からは想像がつかないニュースに、著者はあっけにとられました。ホール選手だけに、よい思い出にすっぽりと大きな穴(ホール)を空けられたような思いがしたものでした。
所属
千葉ロッテ・マリーンズ(1993-1994年)>中日ドラゴンズ(1995年)
通算成績
1117打数311安打。打率.278本塁打64打点207盗塁36
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2010-02-08

ジャック・ハウエル

テーマ:助っ人列伝
助っ人外国人列伝
さて、本日紹介するのは、ヤクルト・スワローズや読売ジャイアンツで活躍した、ジャック・ハウエル選手です。

1987年と89年に年間20本以上の本塁打を放つなど、来日外国人としてはそこそこの実績をのこし、1992年、スワローズの新助っ人としてやって来たハウエル選手でしたが、入団時の評価はそれほど高いものではありませんでした。来日後もオールスターまでは8本のホームランしか打てず、当時は、大きな体の割りには迫力のないスイングばかりが、世間で脚光を浴びていました。

ところがオールスターが明けると、その打棒は一気に爆発します。後半戦だけで30本塁打し、ホームラン王を獲得。くわえて3割3分1厘で首位打者のタイトルまで獲得し、ついには同年の最優秀選手(MVP)の栄誉も手中に収めます。翌年も、サヨナラホームラン5本の日本記録を打ち立てるなど、チャンスに強い打撃でチームのリーグ2連覇に大きく貢献しました。家庭問題などの影響で3年目以降は成績を落としてしまいましたが、その後読売ジャイアンツを経て、古巣のエンゼルスに復帰。1997年には14本塁打を放つなど、1999年までメジャーリーグの第一線で活躍しつづけました。

おもしろいのがこのハウエル選手、はじめてメジャーに定着したときは、ダグ・デシンセイという正三塁手を押しのけレギュラーの座についたのですが、じつはこのデシンセイ選手も最晩年をスワローズで過ごしているのです。38歳という高年齢がネックとなり、1988年の1年限りで解雇されてしまいましたが、19本放った本塁打はほとんどが前半戦のもので、一時はホームランダービーを独走するほどでした。そして特筆すべきは、東京ドーム公式戦第1号ホームランの記録者である点です。

このほかにも、翌89年に来日し、ホームラン王を獲得した「ワニ食男」ことラリー・パリッシュ
選手、同じくホームラン王を獲得し、その明るいキャラクターで人気となったドウェイン・ホージー選手、活躍ぶりとともにその複雑な家庭環境が話題となった二冠王・ロベルト・ペタジーニ選手、そして、現在のジャイアンツの主砲・アレックス・ラミレス選手など、1980年代後半から00年台前半に計5回のリーグ優勝をはたしたスワローズですが、この頃のチームには、好プレイと話題性の2つの面で球界に貢献した、人びとの思い出に色濃くのこる名助っ人選手がたくさん在籍していました。ハウエル選手も、そんなスワローズ「助っ人黄金時代」を代表するひとりだったわけです。

ちなみにこのころのスワローズは、このハウエル選手をはじめパリッシュ
選手、ペタジーニ選手、ラミレス選手など、多くの助っ人が他球団へと移籍してしまい、古巣相手に恩返しとばかり一撃食らわされる場面が多く見られました。まさにスワローズだけに「燕返し」といったところでしょうか。
所属
ヤクルト・スワローズ(1992-1994年)>読売ジャイアンツ(1995年)
通算成績
1365打数397安打。打率.291本塁打100打点272盗塁11
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2010-02-04

ラリー・シーツ

テーマ:助っ人列伝
助っ人外国人列伝
ブログ連載のいいだしっぺが更新できず、まことにすいません。ようやく仕事が一段落したので更新します。

今日紹介するのは、横浜大洋ホエールズで活躍した、ラリー・シーツ選手です。

1970年代から90年代の大洋(後年の横浜)は、牛込惟浩という辣腕・スカウトの存在もあって、助っ人・獲得術に長けた球団でした。ざっとあげただけでも、2冠王に輝いたカルロス・ポンセに阪神でも活躍したジェームス・パチョレック、史上最強の助っ人のひとりとして名高いロバート・ローズ、過去の連載でも取り上げた怪力・グレン・ブラッグスなどがいます。1998年、38年ぶり日本一に輝くまで、Bクラスを定位置とし、低迷を続けていた大洋球団でしたが、このようにきら星のように輝く「高レベル」助っ人選手たちが、ゴロゴロと在籍していたのです。

そんななかシーツ選手も、1987年にボルティモア・オリオールズで3割30本塁打を達成したスラッガーとして、その実力を遺憾なく発揮します。1992年の1年間、4番打者としてはたらき、打率.308、26本塁打、100打点の成績をのこし、打点王にも輝きました。ところが、このシーツ選手、同年オフに退団し、はやばやとアメリカへと帰国してしまいました。当時、球団が報道をとおしてのこしたコメントは、「もっとホームランの打てるバッターが欲しかった」という贅沢きわまりない内容。どうも後年の情報によれば、単に金銭面的に契約がまとまらなかったから、というのが正しい理由のようですが、3割20本を達成しながらこうも簡単に解雇という決断ができたのも、上記のようなコンスタントに優良助っ人を獲得できるバックボーンがあってのことでしょう。

1年間ながらも、シーツという名だけに、球団の話題を温め続けてくれた、記憶にのこる優良外国人選手です。
所属
横浜大洋ホエールズ(1992年)
通算成績
487打数150安打。打率.308本塁打26打点100盗塁1

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