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2006-07-28 00:24:57

遠藤恭正 神奈川県商店街振興組合連合会理事長 70歳

テーマ:経済


本名・遠藤恭正=えんどう・やすまさ



神奈川県商店街振興組合連合会理事長,中華料理 天龍 24日、
多臓器不全のため死去


故人は、64年に中華料理「天龍」を開店しました。そのご店は
名店となり、現在まで続いています。しかし故人は、常に弱いもの
あるいは勇気あるもののそばにいました。20年以上に渡って保護司
を続け、青少年の構成に尽くしました。


その後2004年には、その功績により法務大臣表彰を受賞されました。

 
 ・ 川崎駅周辺総合整備計画策定協議会委員
 ・ 川崎市ホームレス自立支援推進市民協議会長
 ・ 前川崎商工会議所副会頭
 ・ 川崎駅周辺環境改善連絡協議会会長


ご冥福をお祈りします



葬儀


 7月31日午前11時~、
 
 〒 212-0022

 神奈川県川崎市幸区神明町1-72
 
 平和会館さいわい
 
 電話番号 044-520-1001 




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2006-07-25 01:24:55

堀井数男 元南海ホークス外野手 82歳

テーマ:スポーツ


本名・堀井数男=ほりい・かずお



元南海ホークス外野手 24日、肺炎のため死去



南海ホークスという球団名を知らない世代が今の10代
20代前半には多くいます。しかし非常に記憶に残る
選手が多かったことは確かです。


故人が活躍されたのは、南海ホークスの黄金期ともいうべき
1950年代でした。1リーグ制から2リーグ制に移行し、その
パリーグは7球団でした。そしてセリーグは巨人が最強を
誇っていました。故人はその中で走攻守で活躍、南海の3連覇
に貢献。1953年には、オールスターでの最高殊勲選手(MVP)
に選ばれています。また1946年の戦後プロ野球再開の第1回目
の優勝は南海で、その当時は5番でクリーンナップとして
活躍されたのは、有名な話です。



大阪府日新商業高校時代には、1941年春、甲子園出場。
その後、南海ホークスに入団。現役16年間(45年を除く)で
通算1513安打、生涯打率は2割7分2厘。チャンスに強く
走攻守三拍子揃ったプレイヤーでした。


ご冥福をお祈りします


葬儀


 7月27日午後1時~ 
 
 大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋4-19-115
 
 やすらぎ天空館
 
 電話番号 06-6656-6381



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2006-07-22 20:59:25

清水九兵衛 現代彫刻家 84歳

テーマ:伝統芸能


本名・清水九兵衛=きよみず・きゅうべえ



現代彫刻家 21日、腎がんのため死去



故人は、京都の京焼(清水焼)の名門の清水家にて
陶芸作品を制作、清水洋として日展などへ出品されて
いました。

その後1967年に作陶を中止し、清水九兵衛として現代
彫刻家として活動を展開されていました。伝統的な
世界から非常に前衛的な彫刻家への転進は、成功を収め
数々の作品と各国より賞賛されました。


以下は故人の略歴です
 
 1963年 京都市立芸術大学助教授 任官
 
 1968年 京都市立芸術大学大学教授 任官
 
 1969~70年 イタリアに留学
 
 1974年 第4回須磨離宮公園現代彫刻展で神戸市教育委員会賞受賞
 
 1975年 第6回現代日本彫刻展で毎日新聞社賞・東京国立近代美術館賞受賞、

第6回中原悌二郎賞優秀賞受賞
 
 1976年 第17回毎日芸術賞受賞


 1977年 第3回彫刻の森美術館大賞受賞、第6回現代日本彫刻展

群馬県立近代美術館賞受賞、第9回日本芸術大賞受賞
 
 1978年 第6回長野市野外彫刻賞
 
 1979年 第1回へンリー・ムア大賞展優秀賞受賞
 
 1980年 第7回須磨離宮公園現代彫刻大賞受賞
 
 1985年 第10回吉田五十八賞 彫刻の4人
 
 1987年 第七代清水六兵衛と襲名
 
 1988年 京都府文化功労賞 ソウルオリンピック野外彫刻展
 
 1990年 紫綬褒章

1994年 京都府文化賞特別功労賞。
  
故人は、1987年に再び陶芸作品の制作を再開されました。長らく不通であった
土との関係が戻った瞬間なのでしょうか。現在はご子息の清水柾博氏が第8代
を襲名されております。



ご冥福をお祈りいたします。


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2006-07-21 21:00:10

白土吾夫 日中文化交流協会代表理事専務理事 79歳

テーマ:経済


本名・白土吾夫=しらと・のりお



日中文化交流協会代表理事専務理事 19日、心肺不全のため死去


外交というのは常に難しいものではないでしょうか?国の威信あるいは
権益と必ずしも理路整然とすることはない目的を達成する。そんな試み
であると思います。その中で国と国の間にたつ人たちは非常に苦労される。
特にその相手が因縁浅からぬ場合には、さらにではないでしょうか。


故人は1956年に日中文化交流協会の創立メンバーとして参加され
ました。参加メンバーは中島健蔵、千田是也、井上靖、団伊玖磨など。
文化人と呼ばれる方々が参加されるなかで、時に事務局長として、そして
専務理事として実務面でのサポートと活躍されました。そのため訪中回数
はゆうに100回を超え、延べ131回。その中には毛沢東、周恩来など
要人とも会談をもたれています。



そして会の創立から16年後、1972年の日中国交正常化に貢献されました。



故人が心血を注いで運営された日中文化交流協会については、その活動が
認められ、下記の四賞を受賞しました。
 
 
 1973年 朝日新聞社より朝日賞
 
 1985年 国際交流基金より国際交流奨励賞
 
 1987年 中日新聞社より中日文化賞
 
 1997年 井上靖記念文化財団より井上靖文化賞
 

なお、故人は当サイトにて過去一番中国サイトでの掲載が多かったことを
残すものであります。


ご冥福をお祈りいたします。


参考サイト


 日中文化交流協会
 http://www.kanlema.com/inpaku/events/jiaoliuxiehui/index.html



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2006-07-19 14:25:54

勝忠男 松竹芸能代表取締役会長 80歳

テーマ:芸能

本名・勝忠男=かつ・ただお



松竹芸能代表取締役会長 17日、肺炎のため死去。


大衆芸能という言葉があります。芸人とそれを見ている
観客が舞台を作っていく。会場で笑いがおこり、合いの手
が入っていく。TVが娯楽の王座につく以前では、あたり
前のようにあったエンターテイメントのかたち。



故人は、戦後の上方落語界を支えた演芸場「戎橋松竹」の
支配人として活躍され、その後出演していた芸人を引き連れ
新生プロダクションを設立。そして当時上方を代表する
漫才作家であり演芸人だった秋田實氏が設立した上方芸能と
合併。そこに松竹が資本参加して松竹芸能の前身である
松竹新演芸が生まれます。以下は略歴の一部です。



1958年 松竹芸能を設立


1964年 代表取締役社長に就任


2004年 代表取締役社長を退任
      代表取締役会長に就任


上方演芸界の2大プロダクションのひとつとして、多くの
タレントを有しています。またライブ場に出演していた
タレントのブレークもあり、一時開いた吉本興行との差も
徐々に埋めているのは、故人の面目躍如ではないでしょうか



ご冥福をお祈りいたします。



※ 故人については略歴が情報が非常に少なく、今後継続的に
  更新いたします。



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2006-07-19 12:57:56

原稿落としました

テーマ:お知らせ

昨日きわめて私ごとの事情により、記事の更新ができない状態となっておりました。

読者の皆様に、ご迷惑をおかけしましたことを、深くお詫び申し上げます。




2006-07-16 18:26:05

篠原一男 建築家 81歳

テーマ:文化

本名・篠原一男=しのはら・かずお



建築家、東京工業大名誉教授 15日、死去。


日本人が街並みという言葉の重要性に気づいたのは、おそらく
高度経済成長期が終わったあとではないでしょうか。無秩序に
作られた商店街。そして張り巡らされた電線。規制のない看板
やハリガミ。つまり街並みにという公共性、そしてその公共性
が時に街並みに経済価値をつける。


故人の代表作は

 白の家(1966年)
 ハウス・イン・ヨコハマ(1984年)
 東京工業大学百年記念館(1987年)
 
など多数あり、教壇に立つ傍ら数多くの建築の現場に立ち会われて
います。故人の略歴は以下の通りです。


 1953年 東京工業大学建築学科卒業後、同大学助手
 
 1962年 東京工業大学助教授
 
 1967年 「日本建築の空間構成の研究」にて工学博士
 
 1970年 東京工業大学教授
 
 1972年 日本建築学会賞を受賞
 
 1984年 イェール大学客員教授
 
 1986年 東京工業大学名誉教授、ウィーン工科大学客員教授


 1988年 アメリカ建築家協会名誉会員(HFAIA)


 1989年 芸術選奨文部大臣賞を受賞

 
 1990年 紫綬褒章を受賞
 
 1997年 毎日芸術賞特別賞を受賞
 
 2000年 旭日中綬章を受賞


また建築に関する優れた著作も残されております。


 ・ アフォリズム・篠原一男の空間言説
 ・ 篠原一男経由 東京発東京論
 ・ 住宅論



ご冥福をお祈りいたします。

2006-07-15 16:27:27

小谷輝二 元衆院議員 67歳

テーマ:政治


本名・小谷輝二=こたに・てるじ



元衆院議員 13日舌がんで死去。


残念ながらインターネットでは、故人の情報はほとんど残って
いません。そこでわずかに残された足跡をたどりたいと思います。



1983年に行われた、第37回衆議院議員選挙にて旧大阪1区(当時は
中選挙区制)、公明党より立候補。初当選されました。その後1993年
までの3期10年に渡り勤められました。


1983年は、自民党が選挙で惨敗。


政局は、いわゆる与野党伯仲・社公民路線。しかし最後まで自民党の
牙城を崩すまでにはいたりませんでした。そして1993年の衆議院選挙で

与野党逆転で公明党は初めて与党となりますが、個人の姿はそこには

ありませんでした。



故人が体験したであろう政治的な事件をいくつか上げてみたいと思います。


 ・ 1984年12月20日 電電公社民営化法案成立(現在のNTT)


 ・ 1985年 5月17日 男女雇用機会均等法が成立


 ・ 1986年 7月 6日 衆参同時選挙


 ・ 1986年 9月 6日 土井たか子が日本社会党委員長に就任。主要政党で日本初の女性党首に


 ・ 1987年 1月 1日 北京大生ら天安門広場でデモ そのご天安門事件へ


 ・ 1988年12月 9日 宮澤蔵相がリクルート疑惑で辞任。


 ・ 1989年 4月 1日 消費税開始。税率は 3%。


 ・ 1990年 2月18日 第39回衆議院議員選挙。自由民主党275議席の安定多数確保


 ・ 1991年12月25日 ソビエト連邦崩壊。ゴルバチョフ大統領辞任。


 ・ 1992年 6月15日 PKO協力法成立


 ・ 1993年 6月18日 衆議院解散(嘘つき解散、政治改革解散)



バブル景気とその崩壊や冷戦構造の崩壊など変化の時代であり、その難しい局面を野党
という立場で政治家であり続けた故人。



ちなみに故人が初当選された1983年、今のインターネットが生まれました。
それから20年がたち、本サイトで故人の略歴を残すことができました。その
ことの意味を今一度考えてみたいと思います。


ご冥福をお祈りいたします。



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2006-07-14 20:02:33

坪内滄明 日本画家 67歳

テーマ:文化


本名・坪内完剛=みやた・さだよし



日本画家 13日、死去。



一般的に絵画というものは、芸術作品であり伝統芸能で
あります。故人は日本がの伝統的な技法を取得し、いわゆる
花鳥画なども得意とされます。



日本の四季の美しさは西洋画で描かれるそれと違い静謐で
緻密でありながら、ダイナミズにあふれているといわれます。
残念ながら本サイトでは、故人の作品について語ることが
できません。



まず故人の略歴を簡単に説明いたします。

 
1958年 中村岳陵の内弟子となる


1960年 日展初入選


1965年 日展特選・白寿賞 山種賞(山種美術館買上げ)


1974年 第1回個展


1980年 明日の日本画展出品
個展(大阪大丸)


1981年 次代への日本画展(~82年) 個展


1983年 個展、二人展


1986年 岡信孝・牧進と三人展(日本橋三越)
個展(東京・大阪・京都・島屋、名古屋丸栄)


故人が弟子入りしたのは中村岳陵(昭和44年没)でした。
土佐派に師事しつつも、様々な種類の画題に挑戦しており、
故人も大きく影響をうけたのではないでしょうか。その後
1960年の日展入選以降は、日本画の第一人者として活躍され
ました。


故人は戦前戦後と日本の風景や風俗を画家の目から見られ
どのような感慨であったでしょうか。




ご冥福をお祈りいたします。



参考ホームページ
 
 http://www.shinnihonbijyutsu.co.jp/tsubouchi-5.htm
 


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2006-07-13 21:07:02

宮田征典 元巨人軍投手 『8時半の男』 66歳

テーマ:スポーツ


本名・宮田征典=みやた・ゆきのり



元プロ野球選手、コーチ 9日、肝不全のため死去。



1点リードの8回裏、監督は投手の交代を告げる。

『今日も8時半だ』

一人の投手が、マウンドに向かって歩いてくる。



故人は、『8時半の男』と呼ばれた球界随一のリリーフ
でした。現在のように野球が分担制になるまえの時代
かれは、まさに試合に蓋をするストッパーでした。
しかし当時の投手には連投があたりまえ、自然試合数も
多く、そのつけはイヤでも肘や肩を蝕みます。そして持病
の心臓疾患により選手生命は必ずしも長くはありません
でした。


通算成績は、267試合 45勝30敗 防御率2.63 1965年には
リリーフでありながら20賞をあげています。現在の成績に
なおすと40SPとなり全盛時佐々木投手に相当します。

引退後は野球解説者として、あるいは投手コーチとして
巨人、日本ハム、 西武、 中日と後進の育成に尽くしました


故人は、その野球哲学そして投手論についていくつか著作を
遺されていますので、ここでご紹介します。


 ・ 図解コーチ 野球・投手編 (文庫)


 ・ 一流投手を育てる
 
 ・ 雪辱―王が泣いたファンが泣いた (新書)



ご冥福をお祈りいたします。



参考
 
 読売巨人軍公式サイト
 http://www.giants.jp/G/museum/history/retsuden/miyata.html




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