極端な考え
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多分この頃から、僕は極端な考えを持つようになった。
大人が決めた規則や、正しい生徒の姿
というものに、反発を覚え、
更に、従わないと罰を与えるぞ、という力でねじ伏せる教師。
そして、それに付き従う同輩。
いつ頃からか、大人に不信感を感じ、
その大人達に褒められても、うれしくなくなり、
大人が示す模範的生徒には好感が持てず、
トイレで偶然居合わせたヤンキー連中の方が、
ましに思えた。
別に明確に模範的生徒、というのがいたわけではないだろうが、
この頃というのは、悪ぶるのがかっこいい、という感覚があって、
同輩にはかっこつけたいので、、
教師やヤンキーはに目をつけられない程度に悪ぶり、
強いものに頭が上がらない自分へのいらだちから弱いものをいじめ、
ただ強い者に媚びているような輩。
それよりは、
大人を恐れず、全力で悪ぶる(笑)ヤンキー連中の方が、
潔く見えた。
まぁ、もちろん何一ついいことはしていないのだが、
いい事をしていないから、いい顔をしない、
という方が、リアルで男らしいと感じたものだ。
今でも近い感覚を持っている。
ある人が、言っていた。
人に「あの人優しいよね」と言われる人なんて、
本当に優しい人じゃない。
僕は、自分はいい人だ、優しい人だ、と、
主張を感じる人間に、魅力を感じない。
そうだと、感じた試が無いから。
と言うよりは、
誰にだって、いい所、優しさを持っている。
と、同時に、汚い所、ずるい所、憎悪だってある。
「いや、自分は汚いずるい人間です。」
と言っている方が、正直な人だなと思う。
そこから逃げずに向き合っているのだから。
自分に厳しい人ほど、
「いや、自分はまだまだ甘いです。」
と言うのと似ている。
たとえ話だが、
歩いている人がいて、
その人が歩く先に、その人がつまずきそうな石がある。
その石をその人の為にどけてあげて、
「君のために石どけてあげたからね」
と、言う。
その行動自体は別に優しさではないと思っている。
石をどけるところまではいい。
だが、それを発表するのは、べつに優しさではなく、
「僕は君に感謝されるような行動をしてあげたよ」
「君が安心して歩けるのは、僕のおかげだよ」
という報告をしているに過ぎない。
どちらかというと、宣伝だ。
これを怠らない人が、世間的には優しい人になれるのかもしれない。
だがそこには、
宣伝にならないのならば、しても意味が無い、
という気持ちを感じさせる輩も多く、
なんだったら、自分がしたんじゃないのに感謝されてラッキーだから、
したことにしておこう・・なんてのもある。
そんな者がまかり通る人達の口から、「君はやさしくないね」
なんて言われても、
「うん、俺は極悪だぜ♪」
と、言ってやりたくなる。
本当の優しさは、その人に知られなくても、賞賛を得られなくても、
そっと石をどけてあげること、だと思っている。
なんだったら、知られるためにやった、と思われないために、
全力で見つからないようにやる。
そんな美徳感がどこかにある。
さらには、
どうしても知られてしまうケースであれば、やらない(笑)
それくらい、「知らせる為の優しさ」というものに、嫌悪感があるようだ。
まぁ人間社会、人とのつながりが大事、
人に対する印象、社交辞令やお世辞も必要。
優しさを受けたほうとしては、相手がどういう意図でやってこようが、
どちらにしてもありがたいんだから、意図なんてどうでもいいかもしれない。
賞賛目当てにでも、優しい行動が増えた方が、
優しい世の中になるのかもしれない。
そんな中で先のような嫌悪感を貫き通していたら、
世捨て人になってしまう(笑)
ある程度、バランスをとってやっているつもりだが。
腹黒さから自分は善人だ!と言っている人間に対する嫌悪感
↓
俺はあんなふうにはなりたくない!
↓
完全に自分の中に悪が全く無い!と言い切れない限りは、
善人面をすべきでは無い!
↓
だったら、自分は悪だ!と言う方がまだましだ。
↓
「俺は悪だー!!!!」
当時の不良連中の意識は、
どこかこんな流れがあったのかもしれないな・・・
いや、、
ただかっこつけたかっただけかな・・(笑)








