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2010-02-09 07:27:18

昭和二年生まれのひとりごと 第168回 出征兵士

テーマ:想い出日記

【第168回】
   2008年4月20日

   《出征兵士》 
「支那事変」が始まって1年、世間は戦時色が強くなって、色々な規制が厳しくなってきました。それと、この頃の平均寿命が、男45歳、女47歳だったそうです。今から思うとすごく寿命が短いですね。
昭和13年には、東京上野で国防博覧会が開かれるとか、メーデーが禁止され、綿製品の製造販売の制限法が公布されたので、百貨店や小売店にお母さん達が押し寄せましたが、多くの店が売り惜しみをするようになり、「ヤミ」とか「物々交換」などと云う言葉が流行語になったそうです。又、銭湯では朝湯が禁止され、各地で防空演習が始まり、女性のパーマネントが禁止され、三つ編みに頭をぐるりと巻いた「鉄兜巻」が登場したと云います。

お母さん達は、「愛国婦人会」や「国防婦人会」に駆り立てられ、毎日のように「出征兵士」を送る行事に参加しなければならなくなりました。

  『出征兵士を送る歌』唄・林 伊左緒 
此の唄は#6まであります。

   ♪ わが大君に召されたる
     生命光栄ある朝ぼらけ
     讃えて送る一億の
     歓呼は高く天を衝く
     いざ征けつわもの日本男児  ♪

出征兵士は「赤紙」と云われた「召集令状」を受け取ると、何月何日までに指定された部隊に否応なく、強制的に行かなければなりません。もし、行かなければ刑事罰が待っています。犯罪者になってしまうし、当時の風潮とすれば、行かなければ「国賊」と云う汚名を着せられ、世間からは白い目で見られ、自分は逮捕されて刑務所に行かなければならないと云う時代でした。一般的には國のために戦うのは、国民としての義務・・と云うことが当たり前の時代でしたからね。
ですから、出征兵士は、出征するときは家族は勿論、親戚縁者や町内会の連中が、一席設けて「送る会」を開くのが通例でした。自分の父、夫、わが子、恋人である人と、もしかしたら一生の別れになるかも知れませんから、表面的には「お国のため」と云うことで、賑やかに宴会をしていたけれど、其の心中は複雑な思いがあったと思いますよ。

徴兵検査は、20歳となれば必ず受けなければならない国民の義務でしたが、戦争が激しくなると、徴兵検査だけでは足らなくなるために、此の「招集令状」が突然来るのです。この場合は年齢制限もないし、徴兵検査を受けたときに「甲種」「乙種」「丙種」と認定されますから、「甲種合格」は問題ありませんが、「乙種合格」は多少欠陥があっても兵隊として使える・・と云うことでしたが「丙種」は身体に故障があるか、病気があるか、ですから兵役免除になりました。
ですから当時は日本男子は「甲種合格」と云うことを自慢していました。
ところが、「日中戦争」が激しくなり、世界情勢も風雲急を告げる情勢になって来ましたから、兵役免除であった筈の「丙種」まで徴兵されるようになりました。ですから軍人としての「質」も落ちて来たようです。

又、「招集令状」が来る年齢も良く分かりませんが、昭和12、13年頃は、私の父は35歳くらいであった筈なのに、「招集」はされませんでした。それに6歳年下の弟は行きませんでしたが、20代であった其の下の二人の弟は招集され、結果ですが一人は戦死しました。
それに当時の日本は「家族制度」の国家で「家」と云うものがあり、必ず「家督相続」をされた人が、其の家の「家長」であったので、「招集」はされなかったようです。

出征兵士は「別れの宴会」が終わると、次の日は出発です。決まって「国民服」に「巻脚絆」「戦闘帽」に「名前を書いた襷がけ」と云う姿で、家の前の「ミカン箱」に乗って、送りに来た人に挨拶して、「万歳・万歳」の声に送られて出発となります。前を書いた「のぼり」を立て、其の後ろに、エプロンにもんぺ姿の愛国婦人会や国防婦人会の襷をかけたおかぁさん達が小さな日の丸の小旗を振って、近所の人も交えて20人くらいの行列を作って、歌を歌いながら行進して駅まで見送ります。
大抵歌って送る歌は、次の二曲が多かったようです。

  『日本陸軍』
  ♪ 天に代わりて 不義を撃つ
    忠勇無双の 我が兵は
    歓呼の声に送られて
    今ぞ出で立つ 父母の国
    勝たずば生きて帰らじと
    誓う心の 勇ましさ   ♪

  『露営の歌』
  ♪ 勝って来るぞと 勇ましく
    誓って故郷を 出たからは
    手柄立てずに 死なりょうか
    進軍ラッパ 聴くたびに
    まぶたに浮かぶ 旗の波   ♪

大体以上のどちらかの歌を歌って、日の丸の小旗を振り振り「出征兵士」を見送っていましたが、列車の出発する駅のホームでは、親族の人達は、泣いて騒いで一生の別れを惜しんでいたようです。列車が走り出すと、「万歳・万歳」と見送りの人達は叫んでいましたが、端で見ていると、何だか「空しい」気分になりました。


2010-02-08 07:44:21

昭和二年生まれのひとりごと 第167回 生活環境と世相

テーマ:想い出日記

【第167回】

「生活環境と世相」

【生活環境と世相】

学校生活は結構楽しかったですが、世の中は騒がしくなってきました。この頃の物価はどうであったか、少し調べて見ました。

「豚肉・中上・100匁・55銭」「牛乳・1合・7銭7厘」「バター・半ポンド・1円8銭」「清酒2級・1升・1円90銭」「化粧石鹸・1個・9銭」「洋傘・男子用・綿無地・2円20銭」「タクシー料金・東京上野から銀座・30銭」「市内電車・7銭」「乗合自動車・5銭」「うどん・そばカケ・1杯・8銭」「うどん・そば種物・12銭」「大福・1個・1銭5厘」「今川焼き・1個・1銭5厘」「並せんべい・1枚・1銭~2銭」
紙巻きたばこ類。
「敷島・18銭」「朝日・15銭」「カメリヤ・10銭」「不二・25銭」「國華・30銭」「やよい・18銭」「スター・15銭」「オリエント・30銭」「ほまれ・7銭」「ゴールデンバット・7銭」「胡蝶・6銭」「アルマ・40銭」「エアーシップ・12銭」「みのり・15銭」
以下は刻み煙草で5匁単位。
「福寿草・25銭」「白梅・18銭」「さつき・12銭」「あやめ・10銭」「はぎ・7銭」「なでしこ・5銭」

実際煙草の種類がこんなにあるとは知りませんでした。父が吸っていた煙草は、「朝日」で、此の煙草は吸い口が付いていました。後はキセルを使って刻み煙草でした。キセルは毎日コヨリを作って掃除していましたよ。月に一回くらいは笛を鳴らしながら流してくる「ラオ屋」と言う、キセルの手入れ屋に頼むようでしたね。

当時は尺貫法の時代ですから、1匁=3.75gですから、5匁=18.75gだし、100匁=375g です。

その他、夜になると「支那そば屋」がチャルメラを吹きながら流して来たようですが、待っていたように群がつて食べているのは住み込みの小僧さんが多かったですね。子供達は躾が厳しかったから、それはしません。らーめんとは云いません。支那そばです。1杯10銭ぐらいだったでしょう。

子供達の世界でも、此の昭和13年までが平和だったと思いますよ。次第に戦時色が強まって来たし、物価も統制を受けるようになり、又物資も不足するようになって来ましたから、子供にも当然影響が出て来ます。
第一若い女性の、パーマネントを掛けて、ワンピースを着た姿を見れたのはこの年が最後でした。

私の遊び友達の中に二三人の「悪ガキ」がいました。毎日遊んでいた仲間で、相撲でも水泳でも何時も一緒でした。でも学校はそれぞれ違います。「悪ガキ」と言っても別に悪いことをするわけではなく、いたずらが過ぎるかな・・と云う程度です。

其の友達と云うのは「大月」と「中村」と云う同じ年の仲間でしたが、こんなこともありました。3人で夏休みに豊島園のプールに泳ぎに行ったときです。裸になってプールに走って出て行ったのですが、突然プール脇に倒れるように寝ころんだのです。此のプールは50mプールで、周りには観覧席のように階段で高くなっています。
当時は戦時中ですから、若い女性のスカートをはいた姿は普段見られなくなっていました。ところが其の階段に若い女性が座っていたんです。連れの「悪ガキ」は其の下に寝ころんで、其の女性のスカートの中を覗き込んでいたんです。「此のバカ野郎・何してるんだ」と怒鳴ると「へへへ・絶景、絶景」だって
云ってへらへら笑いながら立ち上がったのです。11歳くらいのガキがこんな事をするんですね。


2010-02-07 07:27:09

昭和二年生まれのひとりごと 第166回 水泳大会

テーマ:想い出日記

【第166回】

   《水泳大会》
泳げない「赤帽」なんて言う奴は海国日本の恥だ・・がんばれ・・此の当時は全然泳げない者は真っ赤な帽子を被されていました。
『われは海の子』文部省唱歌・・作詞作曲者不詳
此の歌は#7までありますが、今の柔弱なお偉いさんが#4以降をカットしてしまいましたので、現在の教科書には載っていませんが、我々の時代は「質実剛健」の時代ですから、勿論大海に向かって大声で#7まで歌いました。此処では今は幻になった歌詞を敢えて載せることにしました。

 ① ♪ 我は海の子白浪の 
     さわぐ磯辺の松原に
煙たなびくとまやこそ 
     我がなつかしき住家なれ ♪

 ② ♪ 生まれてしおに浴(ゆあみ)して
      波を子守の歌と聞き
      千里広島寄せくる海の気を
      吸いてわらべとなりにけり ♪

 ③ ♪ 高く鼻つくいその香に
     不断の花のかおりあり
     なぎさの松に吹く風を
     いみじき楽と我は聞く   ♪

 ④ ♪ 丈余のろかい操りて
     行く手定めぬ浪まくら
     百尋千尋の海の底
     遊びなれたる庭広し    ♪
 ⑤ ♪ 幾年ここにきたえある
     鐵より堅きかいなあり
     吹く潮風に黒みたる
     はだは赤銅さながらに   ♪

 ⑥ ♪ 浪にただよう氷山も
     来たらば来たれ恐れんや
     海まき上ぐるたつまきも
     起らば起これ驚かじ    ♪

 ⑦ ♪ いで大船に乗り出して
     我は拾わん海の富
     いで軍艦に乗り組みて
     我は護らん海の國     ♪

歌は此処までですが、此の歌の何処が不味いのですかね? 軍艦ですか? 如何に時代は変わっても、自分の國を守るのは自国民だと言うことは変わらないと思いますがねぇ・・・

前にもお話ししたように、明化小学校にはプールがありました。巾8m、長さ25mのものです。五年生の時に「六級」を取ったことはお話ししましたね。六級は白帽に黒線が一本入ります。
アップアップの泳げない者は「赤帽」で、プールの横幅8m泳げば「白帽」となります。「級」は六級からで、25mを泳がなくては六級はくれません。もし級を取れれば「認定証」を貰えます。

今年は明化小学校の最後の六年生です。どうしても「五級」になりたかったです。取れれば「白帽に黒線二本」です。
水泳には自信がありました。小さいときから寮のあった「出州海岸」で泳ぎ、大きくなるに連れては「豊島園」のプールで泳いでいました。
ですけど検定大会で大勢の人が見ている前で、今度は50mを泳がなくてはなりませんからね。緊張します。
そして夏休みのある日その日がやって来ました。軽く事前体操して、順番を待ちました。「五級」の検定ですから、泳げない者はいません。泳ぎ方はどんなものでも良いんです。唯50mを泳げば良いのですから。
勢いよく飛び込んで、25mでターンして50mを何とか泳ぎ切りました。見ている人は一斉に拍手です。みんな父兄の人でしたが、家の人は誰も来てはくれませんでした。でも「五級」になれたんです。    

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