笑顔。

テーマ:
ご無沙汰しております。


授業をしていて、気づいたこと。
今年の自分は、笑顔がない。のかもしれない。


去年の、とある生徒に言われたことがあります。
「先生、授業中いつも笑ってるね。」
一度このブログにも書いたことがあるような気がするのですが、なんだかほんわかうれしかったような気がします。


さて、今年の授業。
2年目ということで、いろいろ考えながら、試行錯誤しながら、授業をしています。
が、必ずしも反応がよくはない。
何が原因なのだろう?とたまに考えてはみているのですが。

ひょっとしたら、自分に笑顔がないというのが、単調な授業になっている原因かもしれない、と思い当たりました。
自分が授業中笑えているとすれば、ギャグを言ったときか?
いやいや、そういうことではないはず。
たぶん、生徒に自分の考えをうまく説明できたときなんかは、自然と顔がほころんでいたのかもしれない。
あるいは、もっと生徒の考えを言わせていたのかもしれない。

今年は今年で、去年のようにはできない政治的事情があったりはするのですが、ちょっと昨年度のことを思い出して、自分が笑顔になれるような授業を心がけてみようと、ちょっと思った水曜日の夜でした。

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テーマ(3) 言葉遣いに注意!

私も常々注意しているのですが、言葉遣いの問題です。

教師は役者でもあるというのはよく言ったもので、特にイメージのわきづらい歴史の授業では、教師が声色や身振り手振りを使うことが効果的だったりします。
でもそのときに気をつけなければいけないのが言葉遣い。
注意しなければいけないのは、難しい言葉を使うときなのです。

「ローマ教会は聖像を用いて布教した」
という言葉も、
「ローマきょうかいはせいぞうをもちいてふきょうした」
と聞けば、生徒の頭の中は???という状態でしょう。
つまり、教師の側がわかっている言葉でも、生徒のほうはわかっていないというケースが多々あるのだということ。

高校の授業のための教材研究は、それこそ歴史にまつわる本を読まなければいけませんので、それなりにカタイ本になるわけですよね。
そうすると、ついついその難しい単語、熟語が言葉をついて出てしまう。
難しい言葉を理解させることもそれはそれで大事なのだけれど、はじめからそれは、無理。
それにたいていこちらが難しい言葉を使ってしまうときは、こちらもよくわかっていないというケースが多いような気がします。
難しい言葉の響きで誤魔化す、とでもいいますかね。

歴史の授業ですので、前回言ったような「イメージ化」と同時に、難しい歴史的概念や理論もそれはそれで考えさせなければならないんだ、ということを、最近参加した研究会で再認識しました。
ただ、その前提となる「日本語の力」の問題も、意識しなければならないのだと思います。

個人的には、社会科系教科と国語の授業って、もっと連携できたらいいのになぁ、なんて思っていたりもします。


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もはや夏休みも終盤ですが、そしてずいぶんお久しぶりですが、そんなことは気にせずにいきましょう。


テーマ(2) 歴史の授業のイメージ化


前にも似たようなテーマで書いたことがあるような気がするのですが…


世界史の授業というのは難しいのです。
なぜなら、まったくイメージのつかない世界を想像するところから授業が始まるからです。
日本のことならともかく、何せ相手は「世界」という茫漠たる存在であり、それぞれの個別具体的な事象もまったく異なる文化、まったく異なる価値観を持っているわけで、そういうものを理解するのは非常に難しい。
まぁだからこそ勉強する意味があるのですけどね。

だからこそ、まずは生徒にシンプルなストーリーを提示しなくてはいけない。

ストーリーというのは物語とも言い換えられる。
誤解を恐れず言えば、歴史というのは、おしなべて皆「物語」であると私は思います。
歴史家は客観的な歴史叙述を目指すけれども、それとて現在の価値観から自由ではありえず、また一方で歴史に「意味」を見出せなければ人間は歴史に魅力を感じることはない。それが理由です。

ちょっと話がそれましたが、結局わけわからない世界の話を理解させなくてはいけないわけですから、生徒にとってわかりやすい、捉えやすい「構図」をはじめに提供しなければならないような気がします。
例えば、「大航海時代とは、ポルトガルやスペインなどのヨーロッパの国々が、アジアやアフリカ、アメリカに勢力を拡大した、そんな時代なんだ!」といったところでしょうか。
やりかたはいろいろあると思うのですが、生徒の手の届くところでまずは話をしてあげなくてはならないかな、と。
その上で、細かな話をつけたしたり、エピソードを挿入したり、実物資料を見せたり、などのことが意味を持つのではないかと思うのです。
基本的なストーリーが理解できぬまま細かなことが進んでいくのは、苦痛。

時代が下っていけば、2学期ともなれば、それまでの既習事項を手がかりに考えることもできるようになりましょう。
もちろん、それができるための手助けをするのが授業であるというわけですね。
予備校の授業がおもしろいと感じるのは、どんなに学校の授業がつまらなくとも、学校で一度聞いた話をおもしろくもう一度聞けるからではないかと思うのです。
つまり、自分の力でストーリーを再構成することが容易になった状態が作れている、ということ。
何もない状態で予備校の授業を聞いても、たぶんチンプンカンプンなのではないかと想像します。

教育実習生にも、まずはシンプルなストーリを、どういう形で提示できるか、ということを考えてほしかったので、いろいろ言ってしまいました。
こちらはどうもうまく伝わらなかったようですが…。

いずれにしても、ストーリーをイメージ化すること、そしてそれにさまざまな知識やイメージや後から学んだことをリンクさせていけるか、これが授業で考えねばならないことの一つであるように思います。


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高校の担任。

テーマ:
とある人から、こんな質問をいただきました。


高校の担任ができることは限られている
というのはどういう意味ですか、と。


私は、小学校の教員と高校の教員は、ある意味ではまったく違う職業であるような気がしています。
小学校では、6歳から12歳までの子どもに対し、多くはクラス担任がすべての授業を持つ。
ここで子どもが学ぶは、人間として生活していく上での多くのスキルではないかと思うのです。
コミュニケーションスキル。善悪の判断力。道徳。常識。社会で生きていくための多様な経験。読み書きそろばん。
こういったものって、多くの時間を接している担任の先生であるからこそ、そしてまだまだ未成熟な人間が相手だからこそ、教育として成り立つのだと思います。

一方高校では、相手は自我が芽生えた人間に対し、担任は一日15分しか接しておらず、あとは授業だけ。
授業は当然教科担任制。
自ずから担任と生徒が接する時間は短くなるし、生徒は生徒で教師の言うことになんか耳を傾けなかったりする。
高校の「担任」が為すべきは、生徒の自立を促すことだと私は思っています。
自分の将来を考えたり、高校での生活に自覚的になったり、友達関係を考えたり、その他なんでもある種の勉強。
だけど、これらは教師から教わるものではなく、自分で考えるものです。

もちろん、昼休みに教室の様子を見に行ったり、HRの前に様子を見たり話をしたりしますが、やはり40人相手に限られた時間のなかでコミュニケーションをとるのは非常に難しいです。
だから何もやらないという意味ではなく、生徒に「生きるヒント」を与えられるような距離感を探っているというような感じでしょうか。
そういう意味で、学級日誌への教師のコメントだったり、何気ない連絡事項の中だったり、教室掲示だったり、そういうちょっとしたところで、生徒が何かを考えはじめるきっかけ作りができないかなぁと、私は常々考えています。
無論忙しくてなかなか実行できなかったりしますけどね。
「ああしなさい、こうしなさい」からではない学びをしてくれたらと思っています。
もちろんHRのなかで「これを考えなさい!」ということもありますが、徒労に終わったとしても、教師から提示をし続けることだけはやっていきたいと思っています。
「教師の仕掛け」に対するアクションを直接的に期待するかしないか、そういう意味では、小学校と高校は違うような気がしているのです。
(まぁ、私が教育者でありながら教育の成果に対して穿った見方をしてるのもあるのかもしれませんが)


といっても、生徒は予想以上に「ガキ」です。
高校生も小学生も、そんなに変わらないかもしれない。
でも、大人への移行期間である高校生に為すべきことは、小学生に対して為すべきこととは違うんだろうと、それは間違いのないことだと思っています。
(そして、高校生をある種「小学生扱い」する勤務校のやり方に疑問を抱くこともあったりします)

そして、だからこそ、「担任」も大事ですが、私は何より「授業」を大事にしようと思っていたりします。



ご無沙汰しております。
ようやく期末試験も一段落し、多少はゆとりがもてるようになってきました。



さて、先だって5月の終わりから6月にかけて教育実習生がきておりました。
数年前の自分を思い起こし、なんだか新鮮なようなむず痒いような、不思議な感覚に襲われつつも、しっかりと指導してあげました(笑)
やさしくも、厳しく指導したつもりだったりします。

でも、毎回実習生に授業を見られるというのはキツイ。
下手な授業できませんからね。
授業をする立場としても、実習生を指導する立場としても、とにかくこちらがたくさん勉強させていただきました。
そういう意味では、実習生に感謝です。
実習生に言う言葉は、そのまま自分に跳ね返ってくる。



ということで、実習生に学ばせてもらったことを、防備録的に、ここにメモをしておこうかなぁなんて思うわけです。



テーマ(1) いかに生徒の目を見るか。

高校の講義形式の授業ですので、なかなか普段生徒の立場に立って意識することが難しいという現状がありました。
こなさなければならない内容が多いなかで、いかに内容を精選し、いかに伝えるかということに目がいきがち。
でも、学ぶ生徒の側に立ってみれば、1時間目とお昼の後の5時間目では気分が違うし、体育の後は教室が制汗スプレーくさい。
同じ講義をするでも、コンディションの違いによって、話の仕方や問いを通じたコミュニケーションのとり方を考えなくてはいけない。

そのために、生徒の目を見る。

生徒の目が死んでいれば、原因は生徒か教師かどちらかにある。
生徒のコンディションが悪いか。教師の授業が悪いか。
授業の展開の悪さに原因があるならば、その場で計画を修正して展開を変えることも必要。
(私はこの手のアドリブはけっこうやってしまいます。もちろん裏目に出ることもありますが…)
生徒のコンディションに原因があるならば、うまく気をそらしたり気をこちらに向けたりという工夫が必要。
こちらは教育の本質的な問題というよりも、一種のテクニックなのかもしれない。

いずれにしても、生徒の目、手の動き具合、顔の上がり具合なんかを見ながら、授業の微調整をするのがプロの技なんだろうなと思うのです。

自分でやってて、うまくいったなという授業には二種類あります。
一つは、授業の構成がうまくいったとき。
もう一つは、上記の微調整がうまくいったとき。

当面授業では、講義中心にしながらも、その講義を聴きながらいかに生徒の思考を促すことができるか、ということを考えていきたいと思っています。
そういう意味では、生徒を見ることが大切。

小学校の先生が見たら、そんなの当たり前だよって思うかもしれませんが、自分の感情を出すでもなく、授業という限られた接点しか持たず、しかもテスト毎にクラス替えがある私の高校では、なかなか大変なことなのです。
(もともと名前を覚えるのが苦手ってのもあるんですが…)

正直、以前は生徒の顔色見て授業を調整するなんて、まったくできませんでした。
そんな余裕がないというか。
でも今年は、少しそれができてきたような気がしています。

そしてそのことに自覚的になれたのは、実習生のおかげ。
感謝しなくてはいけませんね。




ということで、第一弾はここまで。




道徳を教える(2)

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でも一方で、学校でも家庭でもどこでも、「道徳を教える」ということは日常的に行われていることでもあるわけで。

「チームのために自分が今何ができるかを考えなさい」
「自分にできることを一生懸命精一杯やったのか?」
「チームをまとめていくためには、まず自分が率先して頑張る姿を見せないと、まわりは絶対についてこないよ。まわりはリーダーがどこまでやって、どこまでなら手を抜いていいのか、無意識に見てるんだから。」
「他の人に迷惑をかけることは、絶対にしたらだめ。もっと他人のことを思いやりなさい。」
「自分が果たす役割を過小評価するな。お前がサボったら、誰がその穴を埋めるんだ?だったら最初から役割を任されるんじゃない。」

学校でよくあるお説教のパターン。




これって、道徳教育ですよね。
そもそも道徳は「道徳の時間」だけでなく、学校教育全般を通して行われる、ということになっているハズ。
人間としてこう考えるべきなんじゃないの?その行動ってみんなで行動してるときにどうなのよ?とかっていうのは、生活のあらゆる場面で出会うことだし、教師だろうが親だろうが、子どもに対してそういうことを投げかけずにはいられないハズだと、思うんですよ、本来は。

でも、これが機能しないことを、教育再生会議は指摘してるんでしょうね。
半分は当たってると思う。




でも、だからって、道徳を教科にすればいいかっていうと、そんな単純なものではないでしょう。
教材がどうとか、教科書がどうとか、言っているみたいですが、共通の教材と共通の教育方法を以って、共通の価値観を植えつけようとしているのだとすれば、恐ろしいことですね。

確かに、多くの人が共通して持っている「価値観」というのは世の中にたくさん存在するでしょう。
平和は大事、とか。
人に迷惑をかけるな、とか。
けど、それを絶対的真理として上から与えられ、身につけたかどうかを「評価」されるのは、ちょっと違うと思う。

学校にも家庭にも社会にも、すごくいろんな人がいて。
怒りっぽい人も、おとなしい人も、おもしろい人も、おしゃべりな人も、思いやりの気持ちの強い人も、自分勝手な人も、いる。
いろんな人がいるなかで、多くの人が共通して大事に思っていることが、本当の「道徳」なんじゃなかろうか。
学校の教員にもいろんな人がいて、いろんな生徒がいるから合う合わないもあったりするけれど、いろんな先生から教わることで、いろんな考え方も知ることができるし、一方で共通して必ず怒られることがあって、それはやっぱり守らなければいけないんだということを自然に学ぶことができる。



教科として「道徳を教える」ことは、結論としての絶対的真理を、
ドン!
と目の前に積み上げられた感じ。

子どもにとって、説得力をもつかなぁ?



まぁ、教科になったらなったで、教員はそれなりにうまく工夫して授業はできるでしょう。
評価だけ難しいけど、授業自体は、おもしろいと思う。
現実に道徳の授業研究だって行われているわけだし、専門家もいるし。
高校に「道徳」ができて、それを担任が授業できるなら、それはそれでおもしろいのかも。
小学校の先生にしてみたら、もうすでにやっていることなわけで、成績つけるだのなんだの余計な仕事が増えるだけでたまらないと思いますが。




子どもの中に、みんなのために、とか、チームのために、とか、国のために、とか、そういう意識が希薄になっているのは事実。
「国」に「公」を矮小化されるのはたまらないけど、大人が子どものために、もっともっと理想や正義を語らなくてはいけないのは、事実だろうと思います。




…なんだかまとまらなくなってしまいましたが…


道徳を教える(1)

テーマ:
「道徳」を「教科」にするという話ですが。


戦前の「皇民化」教育といいましょうか、軍国主義教育といいましょうか、その一翼を担ったのが「修身」という「教科」。
 (←これも当時にしてみれば立派な「社会化」教育ですね)
戦後、教育改革の中で、民主主義と主権者を育てる教育を行おうとしたわけで、そんななかで「修身」は廃止された、、はず。
しかし、逆コース、といっていい時期かは微妙だけれど、1958年に「道徳」が設置される。
当然、「修身」の復活じゃあないの!?という批判がある。
だから、「『教科』じゃないもん!『道徳の時間』だもん!評価はしないから、思想の強制にはならないもんね」とうまくごまかした。


すみません、私教育史ってあんまり得意じゃないんで。
でも、私の「道徳の時間」設置に関する知識はこんなもんです。
もし間違ってたら、教えてください。







もしあってるとすると、、、

要は「修身」を復活させるってことだよね。
彼らわかってんのかなぁ?


教育再生会議ではどんなことが議論されたのでしょう?
議事録見てないのでなんともいえないけれど、教科の内容は?教育の方法は??評価の方法は???
???だらけですが、教科に格上げということだけは意見が一致する。
結論ありきなんだかかんだかよくわからんけれど、、、

「世の中、みんな公共心がないよね。」
「そうそう、国のことを考えようとしてないよね。」
 (←「公」と「国」がすりかえられる)
「やっぱり愛国心は大事だよ。無意識に国を愛してくれるには、、、『美しい』文化、歴史、そういったものを大事にしなきゃ。」
「よし!愛国心とか公共心とかを養うための『道徳』を教科に格上げしよう!」

なんて軽いノリで決めたんじゃないかと疑いたくなります。



大切なのは、学校では何を教えるのかということ。
「道徳を教科にする」というわかりづらいことではなく、もっと中身に踏み込んで議論をしてもらいたいものですが。
受け持っている生徒に、文学好きな女の子がいて、その子におもしろい本をいろいろ紹介してもらいました。

第一弾は…


伊坂幸太郎『重力ピエロ』


中身についての感想はひとまず措いておくとして…


大学時代はほとんど文学作品には触れていませんでした。
同じく人文科学に分類される歴史関係の本が中心でしたね。
ま、当時は歴史学は社会科学だと信じて疑っていませんでしたが。

振り返ってみると、本格的に文学作品に触れたのは、高校の現代文の授業で『こころ』を読んだのを除けば、ほとんど小学校以来だったと思う。

小学校のころは、本当にたくさん本を読んだ。
ズッコケシリーズからガンバの冒険まで、推理モノやファンタジー、児童文学ばかりだけれど、本当によく読んだと思う。
なんでそんなに本を読んでいたのかはわからないけど、一つだけ確かなのは、小学校二年生のときに江戸川乱歩を叔父に買ってもらってはまったこと。
いわゆる怪人二十面相シリーズですね。
以来駄々こねて本を買ってもらったような気がします。

でもこれ、本当に叔父と親とに感謝しなくてはと思います。
自分の日本語力の基礎はこれでついたな、と。



逆に言うと、自分の日本語力は、小学校六年生でストップしたままなのかもしれない、とも思うのです。



これを感じたのが『重力ピエロ』を読んだとき。
おもしろいんですよ。
話の中身も理解できるんですよ。
伊坂の知性や知識に驚かされたり、様々な伏線のつながりに感心したり、人の感情の描写に感動したりすることもできるんですよ。
だけど、こういった作品を評価する言葉を、私は知らないのです。
「おもしろい」という言葉しか、知らないんです。


どう「おもしろい」のかを、うまく説明できない。
ストーリーを説明しても何の意味もないわけですよね。
もちろんストーリーを楽しめればそれでよいのかもしれないし、(おもしろくない国語の授業のような)過度の文芸批評は他人の文章を切り刻んで無味乾燥なものにしているだけなのかもしれない。


それでも、私は、この本を読んで自分が感じたことをうまく日本語で表現できなかったことに、悔しさと焦りを感じました。


自分の教え子には負けていられません。
自分の感性を磨くためにも、そして自分の教育活動に活かしていくためにも、文学作品に再びチャレンジしていこうと思いました。

高校生と小学生。

テーマ:
羽田へ向かう電車にて。



はじめに乗っていた高校生。
大声で、

壁を蹴ってガラスにひびを入れた、とか
彼女がどうとか、クラスの女子がどうとか、
先生に反抗するとか、授業中に寝るとか、
そんな話をしている。

なんか、かわいいな、と思う。
一方、ウチの学校は平和なんだな、とも思う。




品川で、制服姿の小学生が乗ってくる。
座っている高校生の前に陣取り、

教育費にお金をかけたほうがいいよね、とか

そんな話をしている。

高校生は、小学生を見て、あっけにとられたり、笑ったりしている。
でも確実に声は小さくなった。



そんな光景を見て、思わずニヤリとしてしまった、朝なのでした。

アリバイづくり。

テーマ:
世知辛い世の中になったもんです。


今日NHKで教師が追い詰められている、なんて特集が組まれてました。
半分納得、半分はどうかなぁと。


なんというか、世の中の「おおらかさ」がなくなってきている気がする。
いいことかもしれないし、悪いことかもしれない。
よく言えば「おおらかさ」。
悪く言えば「いい加減さ」。


生徒が怪我しました。
ちょっと前→ウチの息子がご迷惑かけて申し訳ありません。
今→ウチの息子が怪我したのは学校の安全管理が不十分だからだ。賠償しろ。


ラグビーなんか、怪我してナンボ。
怪我を恐れずプレーするからこそ、得られるものがたくさんあるはず。
でもそんなのやってる人じゃなきゃわからない。


確かに、規則にのっとって、かちっとやるのも大事なこと。
いわば法家の思想ね。
だけど、規則は規則として、現実にあわせて柔軟に対応することも大事な気がする。
規則規則に縛られることは、結局一番大切な目標を見失うことにつながるのだから。


今日のHNKの特集では学芸大の小林先生が出てました(社会科教育の小林先生ではありません)。
そりゃ先生にもいろんなひとがいて、いい加減な人もいれば、まじめすぎて追い詰められていく人もいる。
保護者にもいろんなひとがいて、学校に理解がある人もいれば、学校をここぞとばかりに追及しようとする人もいる。


「おおらかさ」が社会全体から失われてしまったのだとすれば、学校はかちっと規則どおりの対応をせざるを得ない。
だって、ちょっとでも外れたことをすれば、揚げ足を取られて、追及されて、裁判にされて、やめさせられてしまうのだから。
規則でなくたって、親に「気に入らない」と思わせてしまったら、もうアウト。
結果、親の目を気にしながら、親に怒られないようにしながら、ほんとはおかしいとおもいながら、萎縮しながら、子どもと接しなくてはならなくなってしまう。


今私は高校生を相手にしてますが、想像以上に家庭への電話連絡の機会が多い。
理由だって、「今日まだ学校にきてないようですが」「今日お休みだったので、明日の時程の確認を」「頭髪の指導で嫌気が差しているようですが、家庭ではいかがですか」…
お前は小学生か!!とも言いたくなる。


よく言えば、決め細やかな指導。家庭との綿密な連携。
悪く言えば、親からクレームきたときに何も言われないための、言質を取る。


「おおらかさ」がなくなったことによって、教師は子どもをどのように育てるか、ということよりも、いかに親からクレームをもらわないか、ということを気にせざるを得ない。
確かに、かっちり規則どおりは大事だよ。大事だけど。


これは学校でやりましたよ、というアリバイづくり。
親からクレームつけられたときのための、アリバイづくり。


ちょっと悲しい。
これって、教育なのだろうか。
アメリカの電子レンジ猫を思い出してしまう。







世知辛い世の中になったもんです。