それでは具体的にどうすればよいか。やるべきことは当然、教育内容の改革です。

別にドヤ顔して言うほどのことではありませんが、業務(研究)実績と教授・教育能力に相関関係はありません。もちろん、教えるためには知識と経験は必要なので、少なくとも司法修習と多少の実務経験は必要かと思いますが、よほど特殊な分野でもないかぎり、こと教えるのにそれ以上の能力は不要です。小生のように、弁護士になってから事件処理よりも教育業務に傾注していても、十分業務として成り立っていることから、そのことはじゅうぶんいえるわけです。

つまり、弁護士であれば法科大学院等の教壇に立つ最低限度の資格はあるわけです。

その上で、法科大学院教員に求められるのは、学生のニーズ、社会のニーズにこたえること、もちろん司法試験合格のノウハウも重要ですが、それよりも法律学の基礎をきちんと教えられることだと思います。

よく勘違いされる方がいるのですが、「基礎」って言うほど簡単ではありません。ベテランでも、「基礎」の上っ面は知っていても、その真の理解をしている人はそれほど多くないと思います。

基礎の理解とは、当該概念の趣旨を理解することです。えっ?それって教科書に書いてあることでしょ?確かに教科書に書いてある通りです。しかし、それを自分の頭で映像化、イメージとして理解していますか?単に、言葉を暗記しているだけではないのですか?

小生の講義や問答では、頻繁に趣旨、理由を聞いています。暗記している人は、すらすらと答えますし、そうでない人は必死になって教科書に書いたあったことを思い出そうとします。たとえば、表現の自由だと「自己実現、自己統治云々」ですよね。そこで、「自己実現ってなんですか?」って聞くと、そこで詰まってしまう人もいますが、少し勉強した人だと「自己の人格を発展させる手段」などと答えます。それならば、単に事実を伝達する報道の自由などはどうなんですか?事実の伝達に「自己の人格発展」などありませんよね、と聞くと途端に詰まってしまいます。金儲けのための営利的表現の自由はどうなんですか?

自己実現や自己統治を上っ面だけで暗記していると、こういった問いに対処できなくなってしまいます。報道の自由や営利的表現の自由のように、どの教科書でも書かれていることであればよいのですが、教科書にも載っていないようなことで表現の自由が問題になるようケースだとたちまち説明に窮してしまいます。説明に窮するだけならよいですが、重大な論理矛盾等をしてしまうこともありえます。司法試験はこうした教科書に載っていないような自由・人権について出題されることが多いため、上っ面な暗記では到底太刀打ちできないことになります。

そこで、教科書に載っていない場合に備えて、普段から基礎的知識の深化、理解に努めるのであればよいのですが、何を血迷ってか文献あさりに奔走し、「この問題は、○○という論文(参考書)に載っていますよ」などと言う人もいます。

その文献調査能力は実務家や研究者になるにあたって重要であることは否定できませんが、何か出るかわからない司法試験の問題に対して、星の数ほどある文献を漁るというのは非効率以外の何物でもありません。基礎をしっかりと押さえていれば、どんな問題でも対処できます。換言すると、問題みてまったくわからない、手が出ない、というのは基礎ができていない証拠です

こうした基礎力をしっかり教えられる人が、今後法科大学院(に限らず、法学教育全般)に必要なのではないかと思います。