この記事は2年前に掲載したものを
修正したものです


実は、昨日の投稿で
星野源さんをご紹介したさい
YMOを出したのですが
基本的にYMOは好きです。

 

私たちの世代(50代前後)って
YMOがブレイクした
1980年代にリアルに体感した世代でしょ?

 

今から思えば
あの80年代で小学生から大学生まで
何故YMOに熱狂できたか。
それは時代背景にも原因がありました


高度成長期が終わり
それまでの価値観が何となく
制度疲労を起こしていたというか
皆、飽きてきてたんだと思うのです。

 

そこに細野晴臣が持ち込んだのが
①最先端である「電子音楽(狭義のテクノ)」の導入
②最先端の音楽に当時はダサいと考えられてた
 「アジア」風を前面に出してきた。
 (全く真逆のものをくっつける)
③アルバム毎に作風を変え、ファンを裏切る


そして細野晴臣が持っていたもの
①先見の目
②大ヒット後のお金
③ファンや会社に媚びない思考

あの時代をともにした方なら分かるかも知れませんが

 

その経過を追っていくと

①先見の目
 電子音楽を大々的に導入する
 1枚目は「アメリカ向け」に作成されたが
 氏曰く「アメリカがあれほどダサいとは思わなかった」
 との理由により大ヒットする2枚目以降は
 完全にヨーロッパ指向とする。
 最先端と発展途上であったアジアを融合することで
 意表をついた。

 

 

②お金
 ①での成功により売れに売れまくったため
 「ファン切り離し政策」と呼んで
 中期作品は重く、暗くなる。
 (皮肉なことにこれらが後に最高傑作と呼ばれる)

 

 

③作風
 カッコヨサ→重く暗い→アイドル路線
 一見するとファンを馬鹿にしている

 

 

普通、売れたら立場を守るため
もう少し「保守的」になるものだんだけど
どんどんスタイルを変化させていく
細野晴臣は本当に怖くなかったのでしょうか?

 

プロデューサーである細野晴臣氏が
変化に対する「怖れ」を克服出来る
要因ってなんだったんでしょう

 


氏の発言で興味深いものがあるんです。
あるインタビューで
テクノというジャンルにおいて
クラフトワークがスタンダードにならず
YMOがスタンダードになったことについて
「彼らはスタンダードになることを目指して
あまり形態を変化させなかったけど
僕らはそんなこと考えてなかった(笑)」

 

 

また1992年頃の時点で
テクノが復活してきた背景を受けて
「これからは誰が発信したか
わからないけど、良い音楽というものが
流行ると思う。特定ではなく誰が発信しても良い。」
これって、今のネットがソーシャル化することで
個々が発信源になりつつあることと
似ているんですよね。

 

 

細野晴臣はかなり最初期から
音楽の中に
スピチュアルな部分を追求していました

 

 

彼が変化を恐れずに行動できたのは
自分の音楽活動を
商売という視点よりも
「精神活動」の実験の場として
捉えてたからではないですか?

 

 


だから売れようが売れまいが
コアなファンだけを相手にすればよい・・・
ある意味、「大衆」に媚びない
その姿勢が氏を自由にしていると思います。

 

 


そういえば
最高傑作と言われてる「BGM」には
氏の曲で「MASS」ってあって
単品ではこれが最高だという人も多い
(僕もそう)

 

 


「MASS」って「大衆」そして「黒ミサ」の
意味ですものね

AD