最後の忠臣蔵 <追記あり 後半ネタバレしてます> | 銀河の魚の気ままに備忘録

最後の忠臣蔵 <追記あり 後半ネタバレしてます>

年末にふさわしい映画として「最後の忠臣蔵」 を観てきました。



銀河の魚の気ままに備忘録

忠臣蔵に纏わる映画は数多ある中で、四十七士以外の生き残り、逐電した赤穂浪士物も作られていましたが、この作品もその流れの一作品になります。


物語の主軸は、大石内蔵助の用人瀬尾孫左衛門と可音という少女であり、そこに四十七士の生き残り寺坂吉右衛門が絡んで物語が進行する。


基本は武士道と討ち入りの後、逐電という汚名を着せられた男/武士と切腹という名誉と許されなかった男/武士の物語。


役所広司、佐藤浩市という名優に絡む桜庭ななみがしっとりとした魅力と凛とした清らかさが素敵な作品です。


武士という面目を貫き通すことの美学と現代から観るとばからしさの二律背反を感じさせる作品ですが、どうしても瀬尾孫左衛門に纏わる最後の場面だけは納得いかない。

彼にとって、預けられた可音より、内藏助への忠義が勝っていた事になりますが、全編に流れる可音への愛情の流れとは沿わず違和感が残りました。


原作の小説を尊重した作品故しかたないのでしょうか。


それとも、随所に挿入される文楽「曽根崎心中」が暗喩する可音と孫左衛門との二人の想いの未結実としての現れなのか・・・。忠義故に、武士として執らざるを得なかったとするならば、なんと悲しい物語なのでしょうか・・・。


私の理解としては後者であり、それ故に悲しい物語です。


映画の中盤までに、既に頬を熱いモノが流れましたが後半では幾度も溢れるモノは止められませんでした。



ここから、追記


と、書いた後にパンフレットを読んでいると、役所さんが私の理解を裏付けることを語ってくれていました。

私が感じた違和感は、私が当時の武士の美学に沿っていなかったことの証でもある訳です。

主について死に至ることが美学の到達点であり、当初預けられた可音を育て商家に嫁がせ、主の後を追う事で達せられるはずであった。

しかし、育てている間に可音に対して感じる恋情が近松の浄瑠璃として表現されて行く。

一方の可音は、男として見てふれてきた孫左衛門に対して、男や父としての愛情を感じそれを孫左衛門に十六歳の少女としてぶつける。それが、孫左衛門をある意味惑わせ苦しめてしまうことに繋がってしまうことになっています。


最終的に、大石内藏助の位牌の前で、孫左衛門として嫁がせたことの報告をしながら、罪な主に何も言えなかった用人の哀愁の背中の演技を役所さんはおこなっていたのでしょう。


この作品も、その役所さんの演技を見直す必要があります。