つづき 「ニッポンは誤解されている」朝鮮人の蛮行を許すな、日本は韓国に謝罪と賠償を求めろ! | ニチョらのブログ

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■ 「ニッポンは誤解されている」 日本教文社 1988 年 アルフレッド・スムラー著
                                     (フランスの雑誌リマッチ特派員)

 別に日本人戦犯の責任を軽減するつもりは毛頭ないが、
占領地域で最も嫌われたのは、このころ日本国籍を持っていた朝鮮人だったことに注意しておかなければならない。
その多くは憲兵隊に属し、のち戦犯に指定された。
 たとえば戦後十年たってインドネシアで現地民の証人たちが私に話してくれたところによると、彼らは当時これらの警察官から自分たちを保護してくれた点では日本の陸、海軍に感謝しているそうだ。

月刊誌「DATUMS」1995 年10 号 キヤンガン、山下将軍降伏の地―フィリピンの心象風景 色平 哲郎 内科医
http://www.net-ric.com/advocacy/datums/95_10irohira.html

インドネシアで現地人を虐待していた朝鮮人憲兵 (二鬼子 www) その2

 山では仲間どうしの信頼関係が全てだ。 韓比日の3人で風雨の中、ピークを踏む寸前のこと、小休止のときアンがコリアンと知らないフィリピン人の彼が言った
日本の占領下で最も残虐だったのはコリアンだった。
赤ん坊を投げて銃剣でうけたのも彼らだった。
皆がそう信じている。
 一気に遭難しそうになったパーティを何とか支えつつ、私はキアンガンの将軍の亡霊を見たような心持だった。その日も各地でこの噂のような言説をきくたびに、愛国者たるアンの胸中が想われてならない
http://megalodon.jp/2013-0320-0808-04/resistance333.web.fc2.com/html/japanese_army_and_misunderstanding.htm
中国人による二鬼子についての証言  中国人は真実を知っている

「日本軍は香港で何をしたか」  著者 謝永光    翻訳 森幹夫 社会評論社 1993 年 36~37頁

 九龍が占領された翌朝、農夫の姿に変装した二人の女性が、有名な作家侶倫(原名李林風)の家の門を叩いた。
頭巾をとると、鑽石山(ダイヤモンド・ヒル)の某映画製作所に避難していた女優であることが分かった。 彼女たちは恐怖に引きつった表情で、日本軍の馬丁に暴行された昨夜の出来事を打明けた。
 当時の鑽石山はまだ一面の荒れ山で、未完成の映画制作所があるだけだった。 製作所の経営者は避難してきた彼の会社の管轄下の職員や俳優をかくまっていた。 最初の数日間は平穏無事で、「皇軍」の姿は全くみられなかった。 ところがある日、突然五、六人の‘獣兵‘が現れ、麻雀をしていた四人の女優を輪姦したという。 前述の女優は日本軍の馬丁に暴行されたが、この馬丁とは恐らく朝鮮人に違いなかった。
 当時朝鮮は亡国の運命を辿り、台湾も日本の植民地であった。 日本は兵力不足のため、大量の朝鮮人や台湾人が戦場に駆り出されていた。
香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、 日本の正規軍よりももっと凶暴だった。
このとき民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、 ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。 当時香港住民は日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた。
http://megalodon.jp/2013-0320-0808-04/resistance333.web.fc2.com/html/japanese_army_and_misunderstanding.htm
中国人による二鬼子についての証言 中国人は真実を知っている その2

「日本軍は香港で何をしたか」 著者 謝永光 翻訳 森幹夫 社会評論社 1993 年 142頁

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 (日本軍占領下の香港では)   アヘン販売や売春市場は、朝鮮人が中心となって取り仕切っていた。
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『古野直也著 朝鮮軍司令部 1904/1945 国書刊行会』p.132-133
 昔から日本人は語学が拙ない。 地理・世情に不案内で朝鮮語がわからないから、どうしても朝鮮人の警官や憲兵補助員に頼ることになる。 ところがこれらの連中に不良が多く、住民を脅して私腹を肥すやら、女に手を出すやらの悪徳ぶりで、日本側はその取締りに忙しかったという。(略) 日中戦争中でも中国語が堪能な日本軍人はいないから、中隊単位で朝鮮人の通訳を雇う事になるのだが、この通訳は中国人を生かすも殺すも自由自在に裁量できるから蓄財に励む悪者が多く、日本軍が中国民衆に怨まれる大きな原因となった。
 通訳の中には、日本人の名前の標札を持ち歩いて中国人の門に打ち付けて豪邸を占拠する者がいたし、スパイだといって逮捕し、釈放するといって身代金を取ったりして連隊の中の高額所得者は朝鮮人通訳だった例が多い。
 中には雇いもしないのに軍隊の後方をのこのことついて歩く偽通訳もいた。 便利だからと使用してみると、いつの間にか日本軍の制服を貰って住み着いてしまうのだった。
http://megalodon.jp/2013-0320-0808-04/resistance333.web.fc2.com/html/japanese_army_and_misunderstanding.htm
強制連行は徴用の歪曲  日本にいる朝鮮人は100%本人の意思で来日

1938年 国家総動員法 (国民徴用令は1939年)が成立
→ 日本、台湾  15~45歳までの男子、16~25歳までの女子が徴用
→ 朝鮮    徴用の代わりに、内地の企業による求人活動が許可される
1942年 人手不足により、「官斡旋」による募集が始まる
 → 日本、台湾   既に徴用済み
 → 朝鮮    日本企業への就職が斡旋される。しかし、雇用先を辞めても罰則なし。
1944年 朝鮮に初めて徴用令発布 (実質、六ヶ月間で終了)
 → 日本、台湾   既に徴用済み
 → 朝鮮  ★本人の意志を優先した★為、達成率は79%に留まる。
         → 徴用で来日し、戦後残留した朝鮮人はわずか245 人 (外務省公式発表、朝日新聞報道済)
参考)「教科書が教えない歴史 (4)」 藤岡信勝 平成9年 扶桑社 http://resistance333.web.fc2.com/html/corea_living_in_japan.htm
在日の正体    米国公文書の秘密文書を調査したブルース・カミングス・シカゴ大学教授

 戦前は、一大畜産地・済州島で牛の疫病が発生して生活難に陥った島民が、当時 存在した済阪航路に乗って大阪に大量流入し、その後全国に広がった。
大阪や東京では7割ぐらいを同島出身者が占めていた。
戦後も在日ネットワークを頼って1970年頃まで韓国人の日本への密入国が続いた。
 在日における済州島出身者の比率の異常な大きさと、朝鮮半島の総人口に占める同島民の比率の小ささを考えると、朝鮮総督府の土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく来日したというのも嘘だとわかる。
今日の在日韓国・朝鮮人には、戦後の密入国者とその子孫がかなりの比率を占めている。
日本政府は、在日の永住権を巡る韓国政府との外交交渉で、密入国者に関しても寛大に扱った。
http://resistance333.web.fc2.com/html/corea_living_in_japan.htm
目を覆う画像がありますので、心の準備をしてからどうぞ
http://megalodon.jp/2013-0430-0029-31/www.destroy-china.jp/index55j.htm
満州はソ連軍に蹂躙された

 ソビエト連邦にしろ中華人民共和国にしろ、共産主義が残したものは強姦と虐殺と食人だけです。1945年8月8日、ソ連は広島の原爆のうちに、日本と満洲国に宣戦したとんたに満洲に侵入した。15日の天皇陛下の玉音放送から数日の後、ソ連軍が満州の首都入城となった。ソ連軍は新京市内に入れず、日本軍と交戦していない部隊を入城させたというソ連司令部の話しだったが、
虐殺、強姦、掠奪は日常茶飯事だった。
家に押し入ってきたソ連兵が父母の面前で娘をレイプしようとする。それを止めに入った父親に“ダダダダッ”とマンドリン(ソ連製自動小銃)が火を噴く。母親も標的にされる―戦争の悲惨な姿が、一夜にして崩壊した満州帝国の首都で、絶え間なく展開されたのだった。
これから、満州では、大通りの真ん中で、日本人、満洲人と中国人女性がソ連兵に 強姦されたり、収容所で、多くの人々の前で強姦された、女性も居ました。
 現在は人口約700万人といわれ、ハルビン市、大連市と並ぶ満州屈指の大都市、瀋陽市にソ連軍が侵攻してきたのは8月19日である。
すぐにハルビン市、長春市と全く同様にソ連軍兵士たちのレイプ(強姦)凶暴・暴行・殺戮・略奪が始まった。
 中国国防大学教官の徐焔(シュ・イェン)大佐は著書の『1945年 満州進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略』(朱建栄(ツウ・ジェン・ロン)訳 三五館 1993年8月発行)第223頁~第229頁からで次のように述べている。
「ソ連軍が満州に入った時点から、その相当数の将兵は直ちに、横暴な行為を露骨に現した。彼らは敗戦した日本人に強奪と暴行を振るっただけでなく、
同盟国であるはずの中国の庶民に対しても悪事をさんざん働いた。
特に強奪と婦女暴行の二つは満州の大衆に深い恐怖感を与えた。
100万以上の満州に出動したソ連軍兵士の中では、犯罪者は少数というべきだが各地で残した悪影響は極めて深刻なものだった。」
 満州でのソ連軍の軍紀の乱れは目に余るものがあった。彼らは白昼堂々と倉庫の中のものを盗み出し、町で売りさばき、得た金を着服した。夜になると泥酔状態で臭気をまき散らしながら、町中「マダム」を捜し回った。恐れおののく庶民はドアと窓を締め切り、ソ連軍が一日も早く帰ることを内心に祈っていた。満州の各大都市はどこも同じような状況で、夜になるとソ連軍兵士が街角に現れ、通行人を止めては携帯物品を強奪し、女性を追い回し、時には銃をもって民家に押しかけることもよくあった。
 瀋陽の町ではソ連軍警備司令部の憲兵がトラックで巡行するのをよく見かけた。酔っ払いと軍紀違反者が多すぎるため、トラックで大量に収容するからだ。逮捕されたら厳しい処罰を受けるが、それでも軍紀違反者が後を絶たない。
 ソ連軍の軍紀退廃についての中国側の最初の報告は、満州に進出した八路軍の一番手の部隊が延安の党中央に送った電報だ。1945年9月初めに山海関を出て瀋陽に到着した部隊は、ソ連軍兵士による強奪事件を目撃し、また多くの中国人市民から訴えを受けた。
 しかしソ連軍側はまた、その原因を、兵士のファシストに対する敵愾心に帰し、ドイツでも同じ行動をしたと弁明した。この回答に八路軍は屈しなければならなく、中共はソ連の傀儡政権ですからだろう!
ソ連軍は中共軍とともに満州や北朝鮮の人々を強姦、略奪および虐殺の行為が始まった

 その後、中共はソ連に媚びへつらうために、ソ連軍の命令を従り、ソ連の「義挙」を賛成した。
彼らはソ連軍とともに満州や北朝鮮の人々を強姦しまくっていた。
 日本の連合軍への降伏により、日本軍は38度線を境に、南鮮はアメリカ軍、北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。
南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引き揚げたが、
北鮮では約31~2万の日本人がそのまま残っていた。
もともと北鮮に住んでいた27~8万と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。
北鮮にはいってきたソ連軍と中共軍は、満州におけると同様、
略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、
在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。
白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍と中共軍のトラックで集団的にら致された。反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された。
 満州奥地から引き揚げて来た人、ソ連軍と中共軍の侵攻と引き揚げが重なった人たちは悲惨だった。
ソ連兵、中共軍や現地の中国人は無抵抗の日本の民間人に掠奪と暴行の限りを加えた。
集団は散り散りになり、飢えと疾病で多くの人の命が失われた。
中でも日本人婦女子の惨状は想像を絶するものがあった。
特にソ連兵は日本人の女性とみれば見さかいなく襲いかかった。殆どが銃口を突きつけての強姦、輪姦であり、その実態についての記録は数多く残されている。
ソ連兵は満州だけでなく欧州においても、現地の住民を対象にしたレイプで性欲を処理するのが慣行であった。
ようやく満州から陸路朝鮮に入り、半島を南下するに際し
ここで再び現地人男性による凌辱が繰り返されたのである。

不法妊娠者の数から医師の試算するところでは、被害者は少女から中年婦人に至るまで約5,000人に及んだと推定される。

■ 福岡の旧二日市保養所、看護婦が体験を証言
 終戦直後、中国大陸から引き揚げ途中に旧ソ連軍と中共軍から暴行を受け妊娠した女性の堕胎処置が行われた福岡県筑紫野市武蔵の「旧二日市保養所」跡地で十二日、供養が行われた。当時、看護婦として同保養所で働いた村石正子さん(71)が初めて参列し、自らの体験を涙ながらに語り、隠れた引き揚げ史を証言した。
 「博多引揚援護局史」などによると、旧二日市保養所は一九四六年三月に開設。患者総数は三百八十人、閉鎖までの治療日数は延べ七千九百八十一日を数えた。堕胎は、当時非合法だったこともあり、保養所の歴史はあまり語られず、引き揚げ史の中でも実態は詳しく分かっていない。
 日赤看護婦だった村石さんは、四六年、同保養所で約三カ月勤務。「堕胎は違法と知っていたが、心ならず妊娠した女性は故郷にも帰れなかった。ただ救いたい、という一心だった」と当時の様子を証言した。
 処置後、「悔しい」という言葉を残して亡くなった十七歳の師範学校女生徒のことなどを思いだすにつけ、村石さんは自分の過去に苦しめられたが、五十年余りがたち「歴史の一ページとして証言しなければならない」と思ったという。
 現在特別養護老人ホームがある同保養所跡には八一年、福岡市の医師が石碑を建立。以来、ホーム側が毎年、供養を続けている。証言を聞いた住民グループ「戦後五十年筑紫野語ろう会」の田辺幸子代表は「万感迫るものを感じた。ほかの引き揚げ地でも同じことがあったはず」と指摘。
 供養を主催した一人の済生会二日市病院の水田耕二院長らは「悲惨な歴史を明らかにすることが、生まれてこなかった子供たちのためにもなる」として、旧二日市保養所の実態解明を続けることにしている。
尼港(ニコライエフスク港)事件について

(前略)ところが結局この121名は投獄され、食事もろくに与えられず日本の救援軍に対する防御陣地構築に駆り出された後、零下30度のアドミラル河岸で両手を針金で後ろ手に縛られたまま共産軍によって次々と虐殺された。残された在留日本人も(この人達は当時商社などに勤めていた一般市民である)、多くが共産パルチザンの手で惨殺された。
この惨殺には、中国人と朝鮮人も加わり、日本人の死体の指を切り落として指輪を奪い、斧を振るって頭部を砕き金歯を奪って行ったと言う。

以上は、中国人の妻となっていたため難を逃れた日本女性など生き残った人の証言、及び救援軍によって掘り出された戦没将兵の手帳にある戦闘記録による。
 また誌面に限りがあるので書ききれないが、
満州から引き上げてくる無防備な日本開拓団の人々に対し、

ロシア兵も八路軍(中国共産党軍)も朝鮮八路軍(注)も暴虐の限りを尽くしている。

後からやって来た国民党の正規軍も格好は良かったが、
賄賂や婦女暴行は日常茶飯事だったという。
筆者の親戚に何度か捕らえられたが脱走し、最後には親切な中国人にかくまわれて奇跡的に一命を取り留めた人がおり、詳しい手記を残している。
 日本女性を連れ去って強姦する、それから中国残留孤児には「父親とはぐれ」と言うのが良くあるが、
これははぐれたのではない。父親は連行されて虐殺されたのである。
この親戚は、中国共産党軍が、開拓団の団長や日本の官吏であった人々を、川原に引き出して銃で撃った上、銃剣で蜂の巣のように突き刺したり、首だけ出して生き埋めにしておいて、死ぬまで軍靴で顔面を蹴り、なぶり殺しにする所をその目で見たと書いている(原文には犠牲者の名前も書いてある)。
中共兵に強姦された女性

「敗戦の翌年の2月、ソ連兵が日本軍の捕虜を連れて引き上げると、入れ代わりに国民党が共産軍と戦うために入ってきて、またしても戦争です。大勢の日本女性が殴られ、仕方なく妓女にされました。私は国民党軍の師団長に脅迫されてとらわれの身となり、乱暴されました。」
(「女たちの太平洋戦争Ⅰ」 朝日新聞社)
「列車は臨時停車し、そのたびに八路軍兵士が復員者の携帯している貴重品などを強奪する。・・・そして、彼女らは兵士に列車から引き降ろされて、・・・
連行されたところは元の天津で、『妓女戸』と呼ばれる慰安所であった。彼女たちはここで約2年、八路軍兵士のために、日夜働かされた・」
(富沢繁編「女たちの戦争よもやま物語」光人社)
「応城でのこと、一人の慰安婦が新四軍(中共軍)に拉致された。だが、運よく、日本憲兵隊で抑留していた新四軍の中隊長の妹と、その慰安婦を交換する交渉がまとまり、新溝かどこかの橋の上で相互に引き渡された。その折、慰安婦の話によると、向こう側でもやはり慰安婦をやらされたそうである。中共兵は行列を作って順番を待っているので一体、何人やらされるのかと勘定したが、30人ほど教えて面倒臭くなってよしたそうだ。中共兵は切符制なのに比べて、日本兵の場合はお金がないと遊べないから可哀想だと思ったという」
(長沢健一著「漢口慰安所」)
長春包囲戦

 長春包囲戦とは、中国国民党軍によって守られた長春市(新京)に対して中共軍によって行われた包囲作戦(兵糧攻め)のことである。1947年5月23日から10月19日までの150日間続いた。長春包囲戦は遼瀋戦役の一部であり、長春の陥落は遼瀋戦役の第一段階の終了を意味していた。
 1947年5月23日、中共軍は国民党軍に守られた長春に対して包囲を敷き始め、空輸を停止した。包囲の間、中共軍は林彪によって指揮されていた。林ははじめ、4月に長春を攻撃するつもりであったが包囲が完成した後は彼の注意は他の都市へと移った。林は最終的に10月には長春を陥落させるつもりだった。毛沢東は林に先の都市では5カ月もかからなかったと林を嘲笑する電報を送り、林に錦州を攻めるよう命令した。
 その後錦州陥落の情報が長春に届き、国民党軍の指揮官の鄭洞国は大部分の幹部と共に中共軍に投降した。この国民党軍第60軍および新第7軍の投降によって1947年10月19日に中共軍が長春に入り、150日に及ぶ包囲戦は終了した。鄭洞国らは毛個人の命令で中共軍のポストが与えられた。
 包囲の間、中共軍は役に立つ人以外は一切外に出さず、密輸者は即座に銃殺するほど徹底的に兵糧攻め作戦を行い、その結果市内では餓死者が続出した。最終的な餓死者は33万人に達し、国民党軍が降伏する間の5か月間に50万人だった市内の人口は17万人にまで減少した。共産党の軍隊が市内に初めて入って見た光景は餓死者の死体の山だったという。
 1989年8月、六四天安門事件の2カ月後に張正隆中佐が執筆した雪白血紅という本が「中国人民解放軍出版社」によって出版された。この本によると、長春包囲戦の間に150,000人の一般市民が餓死し、市から脱出しようとした一般人は国民党軍への食糧供給に圧力をかけるために追い返されたと記している。張中佐は中国革命が「コストに見合う価値がない」と考え、林彪軍の技術を毛沢東よりも優れていると称賛した。彼はまた、
中国共産党幹部は国共内戦の間にアヘン取引で私腹を肥やしたと主張した。
楊尚昆は雪白血紅が「共産党を侮辱している」と述べ、1990年の春に雪白血紅を発禁とした。
結論
統計による、強姦された中国人、日本人、満洲人と朝鮮人女性は三十万以上に至った。
内戦のとき、共産党軍に残害された中国人は一億以上にいたったかもしれない。しかし、これは共産党山積の暴行の一部だけです。
89 - 衆 - 本会議 - 3 号(回) 昭和20年11月29日

福家俊一君  
 諸君、私は復員兵の一人として不幸にして生きて還つて參りました、茲に再び本院の議席を汚すに至りまして、復員兵たる私の立場上已むに已まれない氣持の下に、大體四點の質疑を總理大臣、陸海軍大臣、其の他關係諸大臣に質したいと存ずるのであります
 質疑の第三は滿洲、關東州、北鮮、樺太に於ける同胞の救出に關する問題であります、此處には百萬近い軍隊と、百六十萬を超ゆる居留民が、終戰「ラツパ」と共にどう云ふ生活に陷つて居るかと云ふことは、私が説明するまでもなく政府が一番能く御存じの筈であります、現に恐怖に戰慄き、饑餓と寒さに喘いで居るに拘らず、今にして其の救援の手が伸びず、復員の時期に對しても見透しが付かないと云ふ實情であるのでありますか、若し斯かる事實であるならば、政府の怠慢甚だしいと言ふべきであります(拍手)
 我が方に於きましては「マッカーサー」元帥自らが米國民に放送せられたる如く一君の下萬民擧げて「ポツダム」宣言の忠實なる履行に專念し、武裝解除も時短日の間に完了し、而も國内の政治、經濟、社會各界に亙る民主主義化の努力も、今や着々其の成果を擧げつつあると申されて居りますが、此の復員問題を解決せずして何の民主主義かと私は言ひたいのであります(拍手)
 國運を賭して戰つた將兵、千里に使ひした軍屬竝に其の居留民にして、尚ほ異境の空に取殘されて何等の恩典に浴さないやうでは、國内の建直りが果して出來るでせうか、成程「アメリカ」軍占領下に於ける武裝解除後の我が將兵に對する待遇を聞きますと、其の道義的にして好意ある處置に對しては我我國民として洵に感謝して居ります、而して復員軍隊は速かに其の家庭に歸らしめ、決して日本人を奴隸の境地に置かないと言明され、著々と復員されつつありますに拘らず、「ソ」聯軍の占領下にあつては果してどうでありませう、我が復員軍隊は今尚ほ現地に抑留された上、苦役の鞭に呻吟し、寒さと飢ゑに迫られて居るのです、又
在留同胞は暴行、掠奪、強姦等、聞くも怖しき目に遭はされ、奴隷にも劣る取扱ひを受けつつあるのである、
如何に敗戰したとは云へ、民族的誇りを持つ私共日本人としては、果して耐え得られるでせうか、現地を脱して歸還した同胞の語る所に依りますと、錦州では二十幾名の同胞が生埋めにせられ、奉天、安東、鳳凰城に於ては、相當の曝し首を見たと云ふことであります、又
北鮮の端川地區に於ては最も掠奪強姦が酷く、
いたいけな十二三歳の少女まで犯されるに至り、聞くも哀れな話でありますが、
其の母や或は未亡人は申合せて自ら慰安婦人會を組織して、どうか私共は「ソ」聯兵の犧牲になりますから、皆さんは一刻も速く此の娘を連れて逃げ伸びて下さいと、此の慘劇の中に母は娘の犠牲となつて敢然と殘留して居ると云ふことであります、
洵に涙なくしては聞けぬ暗黒地獄の出來事としか想像出來ませぬ、果して斯かる非合法な、非人道的鬼畜行爲が許されるでせうか、私は「ポツダム」宣言は人權尊重の上に立つて、民主的にして而も道義的世界の建直しを目指して居るのだと思ひます(拍手) 
 私は敢て此の場合「ポツダム」宣言を批判したくはありませぬが、日本は既に此の宣言を忠實に履行して居るに拘らず、「ソ」聯軍の占領下にあつては、此の精神は蹂躙せられ、或は泥濘の中に踏み躙られて居るのではないでせうか、此の事實に對して一體政府はどう御考へになつて居られますか、國際正義に照し、且又人道の上からも、一日と雖も看過すべからざる問題であると存じます、尤も政府では「スエーデン」を通じ「ソ」聯に對し、是が解決方を交渉したと聞及んで居ります、然るに「ソ」聯は終戰後利益代表國たる資格が消滅して居るとの理由で、我が方の申出を取合はぬと拒絶されて居るのみならず、日本人の生命財産の保障は、一方的に之を處理する旨の囘答に接して居ると云ふことでありまするが、此の眞僞は事實でありますかどうか、政府は斯く申せば必ず外交上何等の機能を有せざる我が國の現状では、如何ともなすべき方法がないと御答へになると思ひますが、併し是は餘りにも官僚的な言ひ逃れであつて、責任轉化論に過ぎませぬ、斯樣な説明では全國民が承服致し兼ねると私は信じます(拍手)
 宜しく政府は此の問題解決に對し、今後如何なる方針を持つて居るか、七千萬同胞に對し責任ある答辯をすべきであります、先づ其の所見を伺ひたいのであります