「兵法家は・・・・・・」

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「兵法家は、常に孤独。誰かに頼ろうとする心は、死につながる」

 

 

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 子供の頃に読んだ、中央コミックス『中国の歴史・1・戦国の兵法家―「孫子と戦国時代」―』の中に出てくる、台詞の一節です。(従って、この言葉自体は、物語上のフィクションです。・・・・・・近い言葉はあるらしいですが)

 

 遥か、**年前に読んだというのに、この言葉だけが、脳に刻み込まれています。

 

 僕は、「兵法家」でも何でもありませんし、現時点、「頼れるところに関しては、人や物などに頼っても、何ら恥じることもないし、それどころか、ぜんぜんOK」というスタンスですので、何故この言葉が印象に残っているのか、良く分かりません。

 

 この言葉の意味を理解するには、どういう文脈で、(あくまで、史実を基にした、漫画の中の話ですけれども)この言葉が出てきたのか、少し、説明が必要かと思います。

 

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 中国では、春秋時代に次いで、各国が覇権を争う戦国時代に突入し、紀元前403年に、「晋(しん)」が、「韓(かん)」、「魏(ぎ)」、「趙(ちょう)」の三国に分裂してから、紀元前221年に、「秦(しん)」の始皇帝による、中国統一がなされるまで、代表的な7つの国が抗争する、混沌とした戦争の時代が、約200年に渡って続きました。

 

 そうした中で、「諸子百家」と呼ばれるように、様々な思想家が生まれるのですが、「軍略」と「政略」について唱えた「兵家(へいか)」の人物の代表的存在が、「孫武」、「孫臏(そんぴん)」などであり、「孫子」と称されています(「孫武」の兵法書を『孫子』ともいいます)。

 

 今で言えば、「軍事参謀」のようなものですが、現在に至るまで大きな影響を残した、その「軍事」についての根本的な思想を確立した存在です。

 

 この、紀元前500年、春秋時代に活躍した、「孫武」の子孫か、その系統を引くとされるのが、紀元前400年頃、戦国時代の「孫臏」とされます。

 

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 ものすごく、ざっくりと説明しますと、「斉(せい)」の国の人であり、人材登用を図っていた「斉」に集まった学者の一人、「鬼谷子(きこくし)」の下で、「孫臏(そんぴん)」と、「龐涓(ほうけん)」という、二人の優れた人物が兵法を学んでいました。

 

 先んじて、「魏」の国に士官し、将軍に登用されていた「龐涓(ほうけん)」は、「孫臏(そんぴん)」もまた、「魏」に士官するに当たり、その才能によって、自分の地位を脅かされる事態を恐れ、冤罪を科して、かつての、同門であった、「孫臏(そんぴん)」を、「臏」刑(足切りの刑)、「黥」刑(顔の額などに、罪人を示す「入れ墨(=黥・げい)」)に処します。(「魏」におびき寄せたとも言われます)

 

 いずれも、古代中国の極めて厳しい、5つの刑罰の1つなのですが、「孫臏(そんぴん)」は死刑を免れ、或いは、生かしたまま、ある意味で死刑よりも苦しい罰に処せられ、「斉」の国に亡命することになります。

 

 そこで、「斉」の「威王」(B.C.356-B.C.319)に抜擢され、将軍「田忌(でんき)」の軍師として、「魏」が、「韓」の首都を包囲して攻めたときには、「魏」の首都を狙うと見せかけて、慌てて包囲網を解き、強行軍で引き返そうとする「魏」軍を待ち伏せて破ります。→「桂陵の戦い」

 

 次いで、B.C.341「馬陵の戦い」では、「龐涓(ほうけん)」を将軍とする「魏」が、今度は「韓」を攻め、「斉」は、将軍「田忌(でんき)」と「孫臏(そんぴん)」に、救援に向かわせます。「魏」軍は、前回の敗退を教訓として、「韓」の攻略部隊と、本国とに精強な兵を置き、挟み撃ちにしようと試み、「斉」軍は撤退しますが、その際に、駐屯地の「竈(かまど)」の数を半分ずつに減らしていき、その跡を見た「魏」軍に、「斉」軍の脱走兵が増えていると思い込ませます。

 

 これを機会とみた「龐涓(ほうけん)」は、少数の騎馬兵で、撤退する「斉」軍を追撃しますが、「隘路(狭い道)」の両側に伏兵を潜ませた「孫臏(そんぴん)」は、木に、”「龐涓(ほうけん)」この樹の下に死せん(「龐涓(ほうけん)」は、この樹の下で死ぬであろう)”と記し、夜半に到着し、松明を焚いて、その字を見ようとした「龐涓(ほうけん)」と「魏」軍に矢を射かけ、敗走させると共に、「龐涓(ほうけん)」もまた、「遂に豎子の名を成さしむ(ついに、あの小僧っ子に名声を上げさせてしまった)」との言葉を残し、自害します。

 

 この「馬陵の戦い」以降、「魏」は衰退し、「秦」と「斉」の二大勢力が並び立つ構図になります。

 

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 ざっくりのはずが、随分、長くなってしまいました。

 

 この冒頭の台詞は、「孫臏」が、同門の友から裏切られ、屈辱を味わい彷徨う最中、(祖先?)「孫武」の幻影が、安易に「龐涓(ほうけん)」を頼った「孫臏」を戒め、それを心に刻む為、「臏」という足切りの刑を受けたことを名乗るという、ドラマチックな展開として描写されたものです。

 

 いわゆる、『孫子』という兵法書は、「三国志」で有名な、「曹操」による編纂と略解によるもの(『魏武注孫子』)とされ、「孫武」、「孫臏」の存在は、長らく、実在の人物であるのかどうか論争されていたのですが、1972年、山東省の銀雀県の墓跡から、別々の人物による「竹簡(ちくかん・竹に記した文書)」が発見され、「孫武」による『孫子兵法』十三編、「孫臏」による『孫臏兵法』、それぞれの写本であり、現在に伝わる『孫子』と内容がほぼ一致することから、「孫武」の実在が確認されたと見なされています。(竹簡の名称は、各々の「写本(写した竹簡書)」に付けられたもの)

 

 「孫臏」の本来の名前が何であるのか、何故、「馬陵の戦い」後、歴史から忽然と姿を消したのか、どこまでが史実で、どこからが脚色なのか、謎はつきないのですが、これを本格的に調べようとしたら、大事業となってしまいますので(しかも、新しい「考古資料」が発見されて、定説が覆ることもある。遡れば、それらを今に伝える『史記』を史料とするほかないが、南宋時代、1196年の写本が最古のものとされるので、これを考証しだしたらきりがない)、ブログというくだけた文章でゆるされる範囲内のことを書いてみました。

 

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 冒頭に戻ります。

 

 「兵法家は、常に孤独。誰かに頼ろうとする心は、死につながる」

 

 実際問題、戦乱の渦中にある「兵法家」以外、ここまでの覚悟をもって事に当たるのは、まずもって難しいと思うのですが、何故、少年「O」の心に、そこまで響いたのか、分かりません。

 

 それも、フィクションでのことですし、本自体、専門の研究者が監修に当たったものでもないと、今なら分かります。

 

 それでも、何か、心に響いたのは、そこに、常に、例えではなく、刃の上をわたり続ける生を送った人々がいたことを、どこかで感じ取っていたからなのかもしれません。

 

 まあ・・・・・・僕には、そのような生き方は出来ませんし、しようとも思わないのですが・・・・・・。

 

 それが出来ないが故の、「敬意」・・・・・・とも言い切れない・・・・・・「黒い炎の様な覚悟への畏怖」の念を感じます。(そういう感覚は、表に出ている日常のそれとは、正反対の、何か、です)

 

 つまり、「孫臏」のようにはなりたくはないが、その才略にどこかで憧れていたのでしょうね。

 

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 何故か、ふと、思い立って、子供の頃に読んだ、たった一言の歴史漫画の台詞から、長々と文章を書いてしまいました。

 

 文中、不正確なところも多々あるかとは思いますが、その点はどうぞご容赦下さい。

 

 それでは、また。

 

 「O」でした。

 

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