2009-11-10 15:51:52
山下絹代、インタビュー(日本語版)
テーマ:メンバー掲載メディア情報
http://www.originalsoundversion.com/?p=5413
パートナーシップ提携先でもあるアメリカのゲーム音楽専門サイト「ORIGINAL SOUND VERSION」にて悪魔城ドラキュラ音楽の生みの親である山下絹代さんのインタビューが掲載されていましたが、海外のサイトなので英語で読めないよ~!!という日本のファンの皆様へ、日本語版を公開します!
OSV:
山下さん、OSVインタビューの為に時間を頂きありがとうございます。先ず最初に、山下さんがゲーム音楽業界に入る以前の話を聞かせて下さい。小さかった頃の夢や、将来やりたかった事は何でしたか?
Yamashita:
こちらこそありがとうございます。私は親の意志で4歳からピアノを習い始めました。クラシックピアノを弾くことです。少し弾けるようになってきたら、かわいい服を着せてもらって、毎年発表会に出ていました。ただ私が弾く曲目は先生が選んでいました。私はその曲が気に入らない時もありました。私は小学校のころバレーボール部で活躍していました。しかし、球技には突き指がつきものです。ピアノの先生には反対されていました。でも私は小学校を卒業するまでバレーボールを続けました。もちろんピアノもレッスンにも通っていました。ピアノは短大を卒業するまで習っていました。中学、高校と通して好きだった科目は数学です。私は高校生の時、診療検査技師や数学の先生になりたいと思っていました。しかし、私は高校3年の時に進路を間違えました。私の高校は高校3年で文系、理系にクラスが別れます。私は間違って文系を選択してしまいました。それは致命的です。なぜなら、理系の大学を受ける為に必要な数Ⅲという授業が文系のクラスにはありません。しかし、私は推薦入試で理系の大学を受けました。奇跡的に受かりました!。それは短大と言って2年生の大学です。しかし、大学に入ってから大変です。みんなは数Ⅲを勉強済みです。私は自力で数Ⅲを勉強しました。大学で勉強したことは、電子工学、電気工学などです。
OSV:
その頃に良く聴いていた音楽やインスピレーションは何でしたか?
Yamashita:
実は私はあまり音楽を聴いていませんでした。唯一聴いていたというと、TVから流れるJ-POPだけです。私の家はピアノの横にTVが置いてありました。私はTVをつけたままピアノを弾いていました。TVから音楽が流れると、それと同時にピアノでその曲を弾いていました。私には自然と絶対音感が身についていたみたいです。インスピレーション。やはり、パッと曲を聴いて、この曲好き、この曲はあんまり好きじゃない・・・など感じる物はありました。しかし、曲を聴いて、そこから何かを発想して、曲を作曲するといったことはありませんでした。この時、私はまだ作曲などしたことがありませんでした。しかし、私は高校生の時、合唱コンクールの曲を選択して、その曲を4部構成の合唱曲に編曲し、クラスのみんなに指導し、みんなが歌い私はピアノを弾きました。その曲は入賞しました。また体育祭で踊る曲を数曲選んでそれをミックスしました。高校生のころ「音楽」。じゃあ、山下に頼もうと、みんなからあてにされていました。
OSV:
何がきっかけでゲームを始めたんでしょうか?その出会いは衝撃的でしたか?
Yamashita:
実は私はコナミに入るまで、ゲームをしたことがありませんでした。私とゲームの衝撃的な出会いはコナミに入ってからになります。
OSV:
どの様にしてコナミさんから?コナミでの仕事経験はどうでしたか?確か2年程働かれていましたよね。
Yamashita:
私は大学で就職先を探す時期が来ました。就職課という、就職について相談にのってくれる課があったので私はそこに行きました。私は楽器のハード設計をしたいと思い、そういう仕事を探して貰いました。しかし女子の求人はありませんでした。逆に就職課の先生から、コナミを紹介されました。「音楽の部署が求人を探しているから」、と。恥ずかしながら私はまだこの時コナミについて、あまり知りませんでした。しかし、音楽の仕事が出来るのならと、コナミを受けることにしました。コナミの入社試験は難関でした。確か4次試験まであったと思います。私はそれを突破して、コナミの社員となることが出来ました。音響効果研究室(同時の名前)をいうところに配属になりました。私はそこで初めてファミリーコンピューターと出会い、数々のゲームに振れました。私が入社して初めて担当したゲームが「悪魔城ドラキュラディスクシステム」でした。私はここで初めて作曲をすることとなりました。悪魔城ドラキュラの誕生と共に、作曲家山下絹代は誕生しました。この当時、コナミには作曲が出来る者は数名しかいませんでした。私は何本ものゲームの曲を作り、それをデータに変換しました。また効果音も作りました。またサウンドプログラムも作りました。私は1人で1本の、サウンドプログラム、効果音、曲の作成をしました。コナミには2年半ほど居ました。このころの仕事の状態はオーバーワークでした。私は体を壊し去ることにしました。コナミでの仕事、サウンドプログラム、効果音、曲の作成は私の貴重な財産となりました。
OSV:
それと悪魔城ドラキュラが山下さんの処女作でしたよね。 この作品の事について聞かせて下さい。 この作品の音楽が、今の様に有名になると思っていましたか?
Yamashita:
はい処女作です。今のように世界中で有名になるなんて思ってもいませんでした。私は頭に思い浮かんだメロディーをポータブルキーボードで弾き、上司に聴いてもらい、OKが出るとデータ化していました。その曲が今、世界中で有名になってることを、大変うれしく思います。でも、悪魔城ドラキュラはシステムプログラムもいいし、ゲームとしての出来はいい、と私は曲を制作中に思っていました。音楽が有名になったのは、プログラム、キャラクターデザイン、それぞれが優れていたからだと思います。 プログラム、キャラクターデザインが優れ いなければ、ユーザーはゲームに興味を持ちません。
OSV:
山下さんはゲーム音楽家の仕事を始めた時、ファミコンとMSX両方の仕事をしていました。 普段はピアノやシンセの音で曲を考えると思いますが、それとは全く違う音のゲームの音源で音楽を作って行くという作業は、やはり難しかったでしょうか?
Yamashita:
最初はやはり難しいと思いました。曲のデータは16進数でデータを入力します。でも私は数字が好きでした。いろいろ試行錯誤しながら、よりよい音を出す研究をしました。前より音の響きがよくなるのがうれしくて、データを入力するのは苦ではありませんでした。データに少し工夫を加えると、音はより響きます。データを作成する作業は作曲家というより、技術職人です。またファミコンもMSXもまずはポータブルキーボードで作曲していました。データの入力方法が違うだけで、最初の作曲作業は同じでした。
OSV:
山下さんが手掛けた有名なMSXにUsas, ガリウスの迷宮、ナイトメア2、ネメシス3、やKing's Valley IIがあります。これらの作品に特別な思い入れはありますか?
Yamashita:
MSXはファミコンと違い、より表現が難しくなります。少ない音数で音楽を作るのには技術がいります。私がMSX部門に異動したころは、すでに、ファミコンで多くの作品を作っていたので、私が出来る限りの技(笑)を使い、音楽を表現しています。そう言った意味では苦労した覚えがありますが、作品が仕上がった時の喜びは、その苦労を消し去ります。今でもファンの皆様からシャロムやその当時のMSXの音楽のファンです。と言って頂けるのはうれしいことです。
OSV:
コナミ退社後、フリーランスになりタイトーとお仕事をされていましたよね。 どういった経緯でタイトーさんとお仕事をする事になったんでしょうか? 正社員ではなく、フリーランスとしてタイトーと働いた理由は何でしょうか?
Yamashita:
コナミを退社する時、あるゲームプロジェクトに誘われました。それはゲーム会社ではなく、普通の会社が、1プロジェクトだけゲームを作成する部署でした。私はそこの社員になりました。そこには2年半ほど居ました。プロジェクトが解散するというので、タイトーの社員にならないか?と言われましたが、私は断り、会社を辞め、フリーランスとなりました。下記にある「パワー・ブレイザー」はそこの社員の時に作った物です。あてもなくフリーランスなった訳ですが、私の友人が、またその友人に私のことを話して、そこからゲームの作曲の仕事の依頼が来ました。また別の私を知る人からもゲームの作曲の仕事の依頼が来ました。その中にタイトーの作品もありました。それで私はタイトーの作品も作曲させて頂いていました。
OSV:
1990年にタイトーのファミコン作品「パワー・ブレイザー」の音楽を手掛けられましたが、その音楽はファミコン史上もっとも優れたサントラの1つだと言われています。 この作品についての思い出や、音楽製作中の事等を聞かせて下さい。
Yamashita:
本当ですか!?。私が作曲した「パワー・ブレイザー」がそのように言われてることを今まで知りませんでした。とてもうれしく思います!。ありがとうございます。「パワー・ブレイザー」に限らず、いつも心がけていることは、ゲームに合ったイメージ、ゲームのプレイヤーのスピード(歩くRPG、走るアクション)に合った曲をまず考えます。そしてゲームの背景などを見て作曲出来る場合は、もっとイメージを広げます。「パワー・ブレイザー」はプログラム、キャラクター、音楽、すべてが同時進行でした。それらが一体化してゲームを仕上げていったのを思い出します。もちろん私自身も何度もプレイしました。
OSV:
パワー・ブレイザー北米版は名称が「バワー・ブレイド」になり、キャラクターや世界観が変更されていますが、その事はタイトーから事前に知らされていましたか?
Yamashita:
はい、タイトーから知らされました。そしてキャラクターの姿の変更により、私は効果音を作り直しました。Power Blazerに使っていた効果音より、よりリアルに近い音に作り替えました。効果音はそのゲームのキャラクターや世界観にあっていないといけないので。
OSV:
他にもPCエンジン作品「鼻高々」を手掛けられましたよね? PCエンジンでの作業は他のゲーム機と違いましたか? この作品は多種多様な音楽(日本の伝統音楽や明るいポップ調の曲など)をバックグラウンドに、空飛ぶアヒルを操作するというとても変わったシューティングゲームでしたよね。
Yamashita:
やはりハードが変わると、音楽のデータの打ち込み方が変わって来ます。「はなた~かだか!?」 の音楽は、私の自由気ままに思いつく曲を作曲していきました。だから今までのように背景に合った曲を、と言うよりかは、私の思いつくままにいろいろなジャンルの曲を作曲しました。「はなた~かだか!?」というゲームにはそれが許されると思ったからです。「はなた~かだか!?」をご存知とは、ビックリしました。
OSV:
スーパーファミコンの時代、山下さんが色々なゲームにクレジットされていましたが、関わった内容の説明があまり詳しくされていませんでした。特に「ロックマンX3」や「奇々怪々」ではどのような仕事をなされたんでしょうか?
Yamashita:
「ロックマンX3」も「奇々怪々」もフリーランスの時に作りました。依頼主は別々の会社です。「ロックマンX3」は全曲作曲し、データ化までしました。データ化するにあたり、依頼主の会社から、専用のハードを家に持ち帰ってデータを作っていました。「奇々怪々」はほとんど作曲しました。しかし最終的に納品先の会社が、他の人の曲も使用したかどうかは私にはわかりません。
OSV:
スーパーファミコンが発売された頃、山下さんは既にフリーランス作曲家として働いていましたか? 私達の情報によると、ナツメで正社員として働いていたらしいのですが。
Yamashita:
それは間違った情報です。私はナツメの社員になったことはありません。私がフリーランスでナツメからたくさんのゲームの曲の作曲の依頼を受けていました。
OSV:
後々「メダロット」の仕事を始めるまで、90年代半ば頃は山下さんはゲーム音楽業界から遠ざかっていました。その頃は一体何をなさっていたんでしょうか? ハニー・ハニーというバンドを組んでいた、という話も聞きましたが。
Yamashita:
メダロット を作曲する以前にも、ゲームの作曲は続けていました。ただそのゲームがあまり有名になってないだけで・・・。それと確かに、私はゲームの作曲の仕事をしていなかった時期も少しあったかもしれません。私は営業をしないので、依頼があれば作曲するといった仕事ぶりだったので。それと、1998年の8/15にテニスをしてる最中に私は倒れ、救急車で病院へ運ばれ、危篤状態となり、くも膜下出血と診断されました。手術は行われました。しかしその1週間後、病院のICUに居る時、2度目のくも膜下出血が起こりました。私の生存の確率はより下がりました。また手術が行われ、私の命は助かりました。入院中は右半身に軽い麻痺があり記憶の損失などありましたが、徐々にそれも回復し、そして無事退院しました。何の後遺症もなく。しかし、それから半年ほどは仕事はしていませんでした。作曲家としての復帰作はメダロットシリーズだったと思います。Honey Honeyというデュオを組んでいたのは確かです。R&B、Jazzなどのカバーをしていました。私はピアノを弾き、時にはサックスを吹き、コーラスを担当していました。ピアノだけでは寂しいので、バックのカラオケとなる部分の打ち込みもしていました。そしてライブ活動を行っていました。それは90年代前半だったと思います。
OSV:
メダロットシリーズ作品ほぼ全てで山下さんの名前を見る事が出来ますが、このシリーズにはどのようにして関わるようになったのでしょうか?このシリーズの仕事はどうでしたか?
Yamashita:
メダロットの作曲依頼がナツメよりありました。全曲です。私はそれを受けました。その初回メダロットが好評だったので、次回作もオーダーがありました。そしてその次も・・・。メダロットシリーズ1~5はすべて私が作曲しています。最初は曲数も少なかったのですが、だんだん1本50曲と曲が増えていきます。そして戦闘曲が好評だと聞きました。私は毎回、前よりももっといい曲を、ファンの期待を裏切らないように、と力を入れてました。他のメダロットと名の付くタイトルの曲もほぼ私が作曲しています。しかし、これもナツメからのオーダーだったので、他の作曲家が参加したかどうか、私にはわかりません。そしてこのシリーズには、私はバグチェックとしても加わりました。主にサウンドの部分で。「ここの効果音が鳴っていない」、「ここの曲はフェードインで鳴らすように」など、私はたくさん意見を言いました。
メダロットシリーズは私の代表作の1つです。
OSV:
ナツメではスーパーファミコンやゲームボーイのプロレスゲームの作曲をなされていました。そういう男らしいスポーツゲームの仕事をするのは気が引けましたか?
Yamashita:
いいえ、特に気が引けるということはありませんでした。
OSV:
現在はDSのゲームを専門に手掛けていますよね。今後は家庭用ゲーム機の仕事もやっていくおつもりですか?それとも今の様に携帯用ゲーム機の仕事の方中心にやっていく予定ですか?
Yamashita:
DSのゲームを専門に手がけてるということではありません。オーダーがあればどんなハードの曲でも書くつもりです。最近では、コナミのWalk It Out!(Wil)の曲を作曲しましたし、まだ未発表ですがWindows用のゲームを作り終えたところです。私は家庭用ゲーム機、携帯用ゲーム機、どちらかを中心にやっていくか、という思いはありません。
OSV:
山下さんは最近「怒首領蜂 大往生」の編曲を手掛けられました。この作品に関わるようになったきっかけは何ですか? この作品での仕事の方はどうでしたか?
Yamashita:
「怒首領蜂 大往生」のプロデューサーの浅田さんから、突然メールを頂きました。私は浅田さんに尋ねました。「なぜ私に?」すると浅田さんは、「私は山下さんの作ったエスパードリームのファンです」。「怒首領蜂 大往生のアレンジCDには、自分の好きな作家さんに参加して頂きたい、だから山下さんに、ぜひ参加して貰いたい」とおっしゃいました。私は引き受けました。しかし人の曲をアレンジするというのは初めてでした。また私が担当したStage4の元曲は独特な雰囲気でした。プロデューサーの浅田さんが望んでいるのは「私らしさ」だと思い、作曲パートを追加し、曲に起承転結みたいな物をつけました。少しかわらしい部分があるかな、と思ったら、ドラキュラの用な雰囲気になったり。アレンジの仕事は初めてでしたが、いい勉強になりました。機会があればまた参加したいと思っています。
OSV:
過去に「ジェームズ・バナナ」や「チャーミング・ヤマコ」等の名前を使っていました。自分で名付けたんでしょうか? ジェームス・バナナ等は女性には変わった名前だと思いますが、名前に何か意味はあるんでしょうか?
Yamashita:
これは自分で付けた訳ではありません。「ジェームズ・バナナ」!?。私の名前が「ジェームズ・バナナ」になってるのを見て驚きました。私も意味が知りたいです。誰がつけたか知りたいです。コナミで働いてた当時は本名を出すことが許されていませんでした。だからプログラマーが、適当に名前をつけていました。
OSV:
マイスペースやフェイスブックを頻繁に更新されて、世界中のファンと交流しています。こんなにたくさんのファンが世界中にいると知った時は驚きましたか?
Yamashita:
もちろん驚きました!!!。それまでもパーソナルサイトをオープンしていたので、たまに海外の方からメールを頂いたりしていました。しかしマイスペースを初めて約1年半、それからはもっと世界が身近に感じられるようになり、 いろいろな方と交流出来るようになりました。悪魔城ドラキュラ(Castlevania)、ロックマンX3(Mega Man X3)、パワーブレイザー(POWER BLADE)などのファンが多いことにも気づきました。
OSV:
それと最近ビデオ・ゲームズ・ライブのコンサートでゲストとして招待されましたよね。 トミー・タラリコ氏とお会いしてどうでしたか? 山下さんは世界中で自分の作品が演奏されるという事に興奮されていますか?
Yamashita:
Tommyとは6月に東京で1度会っていました。その時、Tommyは紳士的でよく気がまわり、VGLに熱い思いを持って、そしてアニマル好きだと言うことがわかりました。その後、TommyにVGLに来て欲しいと言われて、とてもうれしく思いました。TommyのVGL日本公演に対する思いは前から聞いて知っていました。私は役に立ちたいと思いました。VGLで演奏されるCastlevaniaロックヴァージョンはとても好きです。それが世界中で演奏されてることを知り、とても幸せに思い、もちろん興奮しています。CastlevaniaロックヴァージョンのYouTubeのビデオを観ながら、Tommyと共に「Oh, Oh, Oh」と手を振り上げています。
OSV:
同じく女性ゲーム音楽家の山根ミチルさん、下村陽子さん、佐宗綾子さんと会う機会がありましたね。数少ない女性ゲーム音楽家の一人として、やはり近いものを感じましたか?
Yamashita:
近い物というか、みなさんしっかりしているなぁと思いました。日本の女性作曲家が世界で有名になることはとても光栄に思います。
OSV:
もし可能なら、これからゲーム音楽家として関わる予定のプロジェクトを教えて下さい。 他にゲーム外でのプロジェクトもあれば教えて下さい。
Yamashita:
今ちょうどWindowsのゲームプロジェクトが終わったところです。新しいプロジェクトはありません。(理由は渡米の準備の為)私自身の予定では、 Castlevaniaの曲をピアノで弾いて、マイスペースやYouTubeにUPしようと考えています。すぐに、とはいきませんが。またVGLで今度はピアニストとして参加したいという夢があります。Martinとも約束しました。ゲーム外ではアーティストへの曲の提供を行いたいと思っています。
OSV:
自分の作品の中で、個人的に特に気に入っている作品はありますか?
Yamashita:
すべてです!。と言ってしまえば終わってしまうので、作品を日本名で書きます。悪魔城ドラキュラ、エスパードリーム、アルマナの奇跡、パロディウス、パワーブレーザー、ロックマンX3、メダロットシリーズ、モンスターズ・インク、などです。
OSV:
山下さんはモデル等もなさっていると聞きましたが、こんなに美しい方がゲーム音楽家として職場に行くと、驚かれませんか?
Yamashita:
やさしい言葉をありがとうございます。納品先の会社に行く機会などあまりありませんが(今はすべてメールでやりとりしているので)、行った時には、私の作ったゲームのファンの方が社員で居ることがあります。 その時は私も照れてしまいます。
OSV:
インタビューに時間を頂き、ありがとうございました! 最後になりますが、ファンに何か一言お願いします。
Yamashita:
私が悪魔城ドラキュラでデビューして、今までゲーム音楽を作曲し続けてこれたのは、ファンの皆様のお陰です。曲が出来なくて落ち込む時もあります。その時ファンの皆様から頂いたメールやコメントを読むと、力がわいてきます。私を支えてくれてるのは、私を応援してくれてる皆様のお陰です。ありがとうございます。心から感謝しています。私は新しい土地(ニュージャージ)で、来年から作曲活動を再開します。 私はこれからもがんばります!インタビューをどうもありがとうございました。
パートナーシップ提携先でもあるアメリカのゲーム音楽専門サイト「ORIGINAL SOUND VERSION」にて悪魔城ドラキュラ音楽の生みの親である山下絹代さんのインタビューが掲載されていましたが、海外のサイトなので英語で読めないよ~!!という日本のファンの皆様へ、日本語版を公開します!
OSV:
山下さん、OSVインタビューの為に時間を頂きありがとうございます。先ず最初に、山下さんがゲーム音楽業界に入る以前の話を聞かせて下さい。小さかった頃の夢や、将来やりたかった事は何でしたか?
Yamashita:
こちらこそありがとうございます。私は親の意志で4歳からピアノを習い始めました。クラシックピアノを弾くことです。少し弾けるようになってきたら、かわいい服を着せてもらって、毎年発表会に出ていました。ただ私が弾く曲目は先生が選んでいました。私はその曲が気に入らない時もありました。私は小学校のころバレーボール部で活躍していました。しかし、球技には突き指がつきものです。ピアノの先生には反対されていました。でも私は小学校を卒業するまでバレーボールを続けました。もちろんピアノもレッスンにも通っていました。ピアノは短大を卒業するまで習っていました。中学、高校と通して好きだった科目は数学です。私は高校生の時、診療検査技師や数学の先生になりたいと思っていました。しかし、私は高校3年の時に進路を間違えました。私の高校は高校3年で文系、理系にクラスが別れます。私は間違って文系を選択してしまいました。それは致命的です。なぜなら、理系の大学を受ける為に必要な数Ⅲという授業が文系のクラスにはありません。しかし、私は推薦入試で理系の大学を受けました。奇跡的に受かりました!。それは短大と言って2年生の大学です。しかし、大学に入ってから大変です。みんなは数Ⅲを勉強済みです。私は自力で数Ⅲを勉強しました。大学で勉強したことは、電子工学、電気工学などです。
OSV:
その頃に良く聴いていた音楽やインスピレーションは何でしたか?
Yamashita:
実は私はあまり音楽を聴いていませんでした。唯一聴いていたというと、TVから流れるJ-POPだけです。私の家はピアノの横にTVが置いてありました。私はTVをつけたままピアノを弾いていました。TVから音楽が流れると、それと同時にピアノでその曲を弾いていました。私には自然と絶対音感が身についていたみたいです。インスピレーション。やはり、パッと曲を聴いて、この曲好き、この曲はあんまり好きじゃない・・・など感じる物はありました。しかし、曲を聴いて、そこから何かを発想して、曲を作曲するといったことはありませんでした。この時、私はまだ作曲などしたことがありませんでした。しかし、私は高校生の時、合唱コンクールの曲を選択して、その曲を4部構成の合唱曲に編曲し、クラスのみんなに指導し、みんなが歌い私はピアノを弾きました。その曲は入賞しました。また体育祭で踊る曲を数曲選んでそれをミックスしました。高校生のころ「音楽」。じゃあ、山下に頼もうと、みんなからあてにされていました。
OSV:
何がきっかけでゲームを始めたんでしょうか?その出会いは衝撃的でしたか?
Yamashita:
実は私はコナミに入るまで、ゲームをしたことがありませんでした。私とゲームの衝撃的な出会いはコナミに入ってからになります。
OSV:
どの様にしてコナミさんから?コナミでの仕事経験はどうでしたか?確か2年程働かれていましたよね。
Yamashita:
私は大学で就職先を探す時期が来ました。就職課という、就職について相談にのってくれる課があったので私はそこに行きました。私は楽器のハード設計をしたいと思い、そういう仕事を探して貰いました。しかし女子の求人はありませんでした。逆に就職課の先生から、コナミを紹介されました。「音楽の部署が求人を探しているから」、と。恥ずかしながら私はまだこの時コナミについて、あまり知りませんでした。しかし、音楽の仕事が出来るのならと、コナミを受けることにしました。コナミの入社試験は難関でした。確か4次試験まであったと思います。私はそれを突破して、コナミの社員となることが出来ました。音響効果研究室(同時の名前)をいうところに配属になりました。私はそこで初めてファミリーコンピューターと出会い、数々のゲームに振れました。私が入社して初めて担当したゲームが「悪魔城ドラキュラディスクシステム」でした。私はここで初めて作曲をすることとなりました。悪魔城ドラキュラの誕生と共に、作曲家山下絹代は誕生しました。この当時、コナミには作曲が出来る者は数名しかいませんでした。私は何本ものゲームの曲を作り、それをデータに変換しました。また効果音も作りました。またサウンドプログラムも作りました。私は1人で1本の、サウンドプログラム、効果音、曲の作成をしました。コナミには2年半ほど居ました。このころの仕事の状態はオーバーワークでした。私は体を壊し去ることにしました。コナミでの仕事、サウンドプログラム、効果音、曲の作成は私の貴重な財産となりました。
OSV:
それと悪魔城ドラキュラが山下さんの処女作でしたよね。 この作品の事について聞かせて下さい。 この作品の音楽が、今の様に有名になると思っていましたか?
Yamashita:
はい処女作です。今のように世界中で有名になるなんて思ってもいませんでした。私は頭に思い浮かんだメロディーをポータブルキーボードで弾き、上司に聴いてもらい、OKが出るとデータ化していました。その曲が今、世界中で有名になってることを、大変うれしく思います。でも、悪魔城ドラキュラはシステムプログラムもいいし、ゲームとしての出来はいい、と私は曲を制作中に思っていました。音楽が有名になったのは、プログラム、キャラクターデザイン、それぞれが優れていたからだと思います。 プログラム、キャラクターデザインが優れ いなければ、ユーザーはゲームに興味を持ちません。
OSV:
山下さんはゲーム音楽家の仕事を始めた時、ファミコンとMSX両方の仕事をしていました。 普段はピアノやシンセの音で曲を考えると思いますが、それとは全く違う音のゲームの音源で音楽を作って行くという作業は、やはり難しかったでしょうか?
Yamashita:
最初はやはり難しいと思いました。曲のデータは16進数でデータを入力します。でも私は数字が好きでした。いろいろ試行錯誤しながら、よりよい音を出す研究をしました。前より音の響きがよくなるのがうれしくて、データを入力するのは苦ではありませんでした。データに少し工夫を加えると、音はより響きます。データを作成する作業は作曲家というより、技術職人です。またファミコンもMSXもまずはポータブルキーボードで作曲していました。データの入力方法が違うだけで、最初の作曲作業は同じでした。
OSV:
山下さんが手掛けた有名なMSXにUsas, ガリウスの迷宮、ナイトメア2、ネメシス3、やKing's Valley IIがあります。これらの作品に特別な思い入れはありますか?
Yamashita:
MSXはファミコンと違い、より表現が難しくなります。少ない音数で音楽を作るのには技術がいります。私がMSX部門に異動したころは、すでに、ファミコンで多くの作品を作っていたので、私が出来る限りの技(笑)を使い、音楽を表現しています。そう言った意味では苦労した覚えがありますが、作品が仕上がった時の喜びは、その苦労を消し去ります。今でもファンの皆様からシャロムやその当時のMSXの音楽のファンです。と言って頂けるのはうれしいことです。
OSV:
コナミ退社後、フリーランスになりタイトーとお仕事をされていましたよね。 どういった経緯でタイトーさんとお仕事をする事になったんでしょうか? 正社員ではなく、フリーランスとしてタイトーと働いた理由は何でしょうか?
Yamashita:
コナミを退社する時、あるゲームプロジェクトに誘われました。それはゲーム会社ではなく、普通の会社が、1プロジェクトだけゲームを作成する部署でした。私はそこの社員になりました。そこには2年半ほど居ました。プロジェクトが解散するというので、タイトーの社員にならないか?と言われましたが、私は断り、会社を辞め、フリーランスとなりました。下記にある「パワー・ブレイザー」はそこの社員の時に作った物です。あてもなくフリーランスなった訳ですが、私の友人が、またその友人に私のことを話して、そこからゲームの作曲の仕事の依頼が来ました。また別の私を知る人からもゲームの作曲の仕事の依頼が来ました。その中にタイトーの作品もありました。それで私はタイトーの作品も作曲させて頂いていました。
OSV:
1990年にタイトーのファミコン作品「パワー・ブレイザー」の音楽を手掛けられましたが、その音楽はファミコン史上もっとも優れたサントラの1つだと言われています。 この作品についての思い出や、音楽製作中の事等を聞かせて下さい。
Yamashita:
本当ですか!?。私が作曲した「パワー・ブレイザー」がそのように言われてることを今まで知りませんでした。とてもうれしく思います!。ありがとうございます。「パワー・ブレイザー」に限らず、いつも心がけていることは、ゲームに合ったイメージ、ゲームのプレイヤーのスピード(歩くRPG、走るアクション)に合った曲をまず考えます。そしてゲームの背景などを見て作曲出来る場合は、もっとイメージを広げます。「パワー・ブレイザー」はプログラム、キャラクター、音楽、すべてが同時進行でした。それらが一体化してゲームを仕上げていったのを思い出します。もちろん私自身も何度もプレイしました。
OSV:
パワー・ブレイザー北米版は名称が「バワー・ブレイド」になり、キャラクターや世界観が変更されていますが、その事はタイトーから事前に知らされていましたか?
Yamashita:
はい、タイトーから知らされました。そしてキャラクターの姿の変更により、私は効果音を作り直しました。Power Blazerに使っていた効果音より、よりリアルに近い音に作り替えました。効果音はそのゲームのキャラクターや世界観にあっていないといけないので。
OSV:
他にもPCエンジン作品「鼻高々」を手掛けられましたよね? PCエンジンでの作業は他のゲーム機と違いましたか? この作品は多種多様な音楽(日本の伝統音楽や明るいポップ調の曲など)をバックグラウンドに、空飛ぶアヒルを操作するというとても変わったシューティングゲームでしたよね。
Yamashita:
やはりハードが変わると、音楽のデータの打ち込み方が変わって来ます。「はなた~かだか!?」 の音楽は、私の自由気ままに思いつく曲を作曲していきました。だから今までのように背景に合った曲を、と言うよりかは、私の思いつくままにいろいろなジャンルの曲を作曲しました。「はなた~かだか!?」というゲームにはそれが許されると思ったからです。「はなた~かだか!?」をご存知とは、ビックリしました。
OSV:
スーパーファミコンの時代、山下さんが色々なゲームにクレジットされていましたが、関わった内容の説明があまり詳しくされていませんでした。特に「ロックマンX3」や「奇々怪々」ではどのような仕事をなされたんでしょうか?
Yamashita:
「ロックマンX3」も「奇々怪々」もフリーランスの時に作りました。依頼主は別々の会社です。「ロックマンX3」は全曲作曲し、データ化までしました。データ化するにあたり、依頼主の会社から、専用のハードを家に持ち帰ってデータを作っていました。「奇々怪々」はほとんど作曲しました。しかし最終的に納品先の会社が、他の人の曲も使用したかどうかは私にはわかりません。
OSV:
スーパーファミコンが発売された頃、山下さんは既にフリーランス作曲家として働いていましたか? 私達の情報によると、ナツメで正社員として働いていたらしいのですが。
Yamashita:
それは間違った情報です。私はナツメの社員になったことはありません。私がフリーランスでナツメからたくさんのゲームの曲の作曲の依頼を受けていました。
OSV:
後々「メダロット」の仕事を始めるまで、90年代半ば頃は山下さんはゲーム音楽業界から遠ざかっていました。その頃は一体何をなさっていたんでしょうか? ハニー・ハニーというバンドを組んでいた、という話も聞きましたが。
Yamashita:
メダロット を作曲する以前にも、ゲームの作曲は続けていました。ただそのゲームがあまり有名になってないだけで・・・。それと確かに、私はゲームの作曲の仕事をしていなかった時期も少しあったかもしれません。私は営業をしないので、依頼があれば作曲するといった仕事ぶりだったので。それと、1998年の8/15にテニスをしてる最中に私は倒れ、救急車で病院へ運ばれ、危篤状態となり、くも膜下出血と診断されました。手術は行われました。しかしその1週間後、病院のICUに居る時、2度目のくも膜下出血が起こりました。私の生存の確率はより下がりました。また手術が行われ、私の命は助かりました。入院中は右半身に軽い麻痺があり記憶の損失などありましたが、徐々にそれも回復し、そして無事退院しました。何の後遺症もなく。しかし、それから半年ほどは仕事はしていませんでした。作曲家としての復帰作はメダロットシリーズだったと思います。Honey Honeyというデュオを組んでいたのは確かです。R&B、Jazzなどのカバーをしていました。私はピアノを弾き、時にはサックスを吹き、コーラスを担当していました。ピアノだけでは寂しいので、バックのカラオケとなる部分の打ち込みもしていました。そしてライブ活動を行っていました。それは90年代前半だったと思います。
OSV:
メダロットシリーズ作品ほぼ全てで山下さんの名前を見る事が出来ますが、このシリーズにはどのようにして関わるようになったのでしょうか?このシリーズの仕事はどうでしたか?
Yamashita:
メダロットの作曲依頼がナツメよりありました。全曲です。私はそれを受けました。その初回メダロットが好評だったので、次回作もオーダーがありました。そしてその次も・・・。メダロットシリーズ1~5はすべて私が作曲しています。最初は曲数も少なかったのですが、だんだん1本50曲と曲が増えていきます。そして戦闘曲が好評だと聞きました。私は毎回、前よりももっといい曲を、ファンの期待を裏切らないように、と力を入れてました。他のメダロットと名の付くタイトルの曲もほぼ私が作曲しています。しかし、これもナツメからのオーダーだったので、他の作曲家が参加したかどうか、私にはわかりません。そしてこのシリーズには、私はバグチェックとしても加わりました。主にサウンドの部分で。「ここの効果音が鳴っていない」、「ここの曲はフェードインで鳴らすように」など、私はたくさん意見を言いました。
メダロットシリーズは私の代表作の1つです。
OSV:
ナツメではスーパーファミコンやゲームボーイのプロレスゲームの作曲をなされていました。そういう男らしいスポーツゲームの仕事をするのは気が引けましたか?
Yamashita:
いいえ、特に気が引けるということはありませんでした。
OSV:
現在はDSのゲームを専門に手掛けていますよね。今後は家庭用ゲーム機の仕事もやっていくおつもりですか?それとも今の様に携帯用ゲーム機の仕事の方中心にやっていく予定ですか?
Yamashita:
DSのゲームを専門に手がけてるということではありません。オーダーがあればどんなハードの曲でも書くつもりです。最近では、コナミのWalk It Out!(Wil)の曲を作曲しましたし、まだ未発表ですがWindows用のゲームを作り終えたところです。私は家庭用ゲーム機、携帯用ゲーム機、どちらかを中心にやっていくか、という思いはありません。
OSV:
山下さんは最近「怒首領蜂 大往生」の編曲を手掛けられました。この作品に関わるようになったきっかけは何ですか? この作品での仕事の方はどうでしたか?
Yamashita:
「怒首領蜂 大往生」のプロデューサーの浅田さんから、突然メールを頂きました。私は浅田さんに尋ねました。「なぜ私に?」すると浅田さんは、「私は山下さんの作ったエスパードリームのファンです」。「怒首領蜂 大往生のアレンジCDには、自分の好きな作家さんに参加して頂きたい、だから山下さんに、ぜひ参加して貰いたい」とおっしゃいました。私は引き受けました。しかし人の曲をアレンジするというのは初めてでした。また私が担当したStage4の元曲は独特な雰囲気でした。プロデューサーの浅田さんが望んでいるのは「私らしさ」だと思い、作曲パートを追加し、曲に起承転結みたいな物をつけました。少しかわらしい部分があるかな、と思ったら、ドラキュラの用な雰囲気になったり。アレンジの仕事は初めてでしたが、いい勉強になりました。機会があればまた参加したいと思っています。
OSV:
過去に「ジェームズ・バナナ」や「チャーミング・ヤマコ」等の名前を使っていました。自分で名付けたんでしょうか? ジェームス・バナナ等は女性には変わった名前だと思いますが、名前に何か意味はあるんでしょうか?
Yamashita:
これは自分で付けた訳ではありません。「ジェームズ・バナナ」!?。私の名前が「ジェームズ・バナナ」になってるのを見て驚きました。私も意味が知りたいです。誰がつけたか知りたいです。コナミで働いてた当時は本名を出すことが許されていませんでした。だからプログラマーが、適当に名前をつけていました。
OSV:
マイスペースやフェイスブックを頻繁に更新されて、世界中のファンと交流しています。こんなにたくさんのファンが世界中にいると知った時は驚きましたか?
Yamashita:
もちろん驚きました!!!。それまでもパーソナルサイトをオープンしていたので、たまに海外の方からメールを頂いたりしていました。しかしマイスペースを初めて約1年半、それからはもっと世界が身近に感じられるようになり、 いろいろな方と交流出来るようになりました。悪魔城ドラキュラ(Castlevania)、ロックマンX3(Mega Man X3)、パワーブレイザー(POWER BLADE)などのファンが多いことにも気づきました。
OSV:
それと最近ビデオ・ゲームズ・ライブのコンサートでゲストとして招待されましたよね。 トミー・タラリコ氏とお会いしてどうでしたか? 山下さんは世界中で自分の作品が演奏されるという事に興奮されていますか?
Yamashita:
Tommyとは6月に東京で1度会っていました。その時、Tommyは紳士的でよく気がまわり、VGLに熱い思いを持って、そしてアニマル好きだと言うことがわかりました。その後、TommyにVGLに来て欲しいと言われて、とてもうれしく思いました。TommyのVGL日本公演に対する思いは前から聞いて知っていました。私は役に立ちたいと思いました。VGLで演奏されるCastlevaniaロックヴァージョンはとても好きです。それが世界中で演奏されてることを知り、とても幸せに思い、もちろん興奮しています。CastlevaniaロックヴァージョンのYouTubeのビデオを観ながら、Tommyと共に「Oh, Oh, Oh」と手を振り上げています。
OSV:
同じく女性ゲーム音楽家の山根ミチルさん、下村陽子さん、佐宗綾子さんと会う機会がありましたね。数少ない女性ゲーム音楽家の一人として、やはり近いものを感じましたか?
Yamashita:
近い物というか、みなさんしっかりしているなぁと思いました。日本の女性作曲家が世界で有名になることはとても光栄に思います。
OSV:
もし可能なら、これからゲーム音楽家として関わる予定のプロジェクトを教えて下さい。 他にゲーム外でのプロジェクトもあれば教えて下さい。
Yamashita:
今ちょうどWindowsのゲームプロジェクトが終わったところです。新しいプロジェクトはありません。(理由は渡米の準備の為)私自身の予定では、 Castlevaniaの曲をピアノで弾いて、マイスペースやYouTubeにUPしようと考えています。すぐに、とはいきませんが。またVGLで今度はピアニストとして参加したいという夢があります。Martinとも約束しました。ゲーム外ではアーティストへの曲の提供を行いたいと思っています。
OSV:
自分の作品の中で、個人的に特に気に入っている作品はありますか?
Yamashita:
すべてです!。と言ってしまえば終わってしまうので、作品を日本名で書きます。悪魔城ドラキュラ、エスパードリーム、アルマナの奇跡、パロディウス、パワーブレーザー、ロックマンX3、メダロットシリーズ、モンスターズ・インク、などです。
OSV:
山下さんはモデル等もなさっていると聞きましたが、こんなに美しい方がゲーム音楽家として職場に行くと、驚かれませんか?
Yamashita:
やさしい言葉をありがとうございます。納品先の会社に行く機会などあまりありませんが(今はすべてメールでやりとりしているので)、行った時には、私の作ったゲームのファンの方が社員で居ることがあります。 その時は私も照れてしまいます。
OSV:
インタビューに時間を頂き、ありがとうございました! 最後になりますが、ファンに何か一言お願いします。
Yamashita:
私が悪魔城ドラキュラでデビューして、今までゲーム音楽を作曲し続けてこれたのは、ファンの皆様のお陰です。曲が出来なくて落ち込む時もあります。その時ファンの皆様から頂いたメールやコメントを読むと、力がわいてきます。私を支えてくれてるのは、私を応援してくれてる皆様のお陰です。ありがとうございます。心から感謝しています。私は新しい土地(ニュージャージ)で、来年から作曲活動を再開します。 私はこれからもがんばります!インタビューをどうもありがとうございました。
同じテーマの最新記事
- 西隆宏インタビュー 03月01日
- 山根ミチル インタビュー 02月22日
- 山下絹代インタビュー 02月16日




